求めるべきものを -ジャックとエクトル-
生きることはしがらみを得ること。
得たしがらみを手掛かりに、人はようやく輪郭を得る。
ジャックにとっての『しがらみ』は、「フラヴィニー」の名と、「特殊騎士団団長」というご大層な肩書だ。どうしてそんなものが手の内にあるのか、当のジャックにも理解ができない。
ジャック・フラヴィニー特殊騎士団団長は、王都近郊の農村に生まれた。ごく普通の家庭で、ごく普通に暮らした。泥まみれで働き、遊び、考えなしの喧嘩っ早い少年に育った。
贅沢に生きることはできずとも、格別不自由を託ったこともない。彼の不満を耳にした者はいないし、実際、そんな思いを抱いたことすらない。そんなジャックが、なにゆえ家を飛び出したのか。
ジャック本人はいう。「ピンとこなかったからよ!」
とにかく、彼は十四の歳に家出をした。目的も当てもなかったが、なんとなく王都に向かった。体格の良かったジャックは、年齢を多少胡麻化しつつ、力仕事で日銭を稼いだ。
時は奇しくも、先代末期。王が狂気に飲まれ、息子であるノア・バルティルスに弑されるまでの「呪いの五年」の真っただ中。その日その日を食いつないではいたが、条件は日増しに劣悪になり、そんな仕事すら消えていく。そのうち、冬が来た。完全に行き詰った。
宿には、数日分前払いをしてある。だが、それだけだ。その先どうすればいいのか、皆目見当がつかなかった。この頃のジャックは、いつも怒っていた。胸の底では怯えていたが、震える理由をごまかしていた。震えに急き立てられるまま、あるわけもない仕事を探した。文字通りの門前払いだった。
衝動的に、目の前のゴミを蹴りつけた。何か腐ったものが靴にまとわり、ぎょっとするような異臭を放つ。雪につっこみ、地面をこすり、拭おうと試みる。クソ、クソと力なく吐き捨てた。涙がとめどなくこぼれた。
その時の心境について、ジャック本人はいう。「ピンとこなかったからよ!」
視線を感じ、慌てて身構えた。すぐに、力が抜ける。貧相な幼子がいた。もちろん、子どもだからと言って気を抜いて良いわけではない。だが、たくさんの弟妹を持つジャックには、無条件に庇護すべきべき対象に見えたのだ。気が付けば、ちょいちょいっと手招いていた。
「住むとこないのか?」
子どもは警戒心が強く、じりじりと距離を測っていた。しかし問いには、素直にうなずいた。
こうしてジャックは、子どもを拾った。
拾われ子はいう。「人攫いか何かかと思ったけど、今だってどん底だし、どこでも一緒かと思ってね。悪人にしては間抜な面で、毒気を抜かれちゃったし。…ふたを開けてみれば、間抜けは顔だけで済まなくってさ。見てらんなくて助けるようになっちゃった」
蟻でもあるまいが、一度開かれた道には、なぜやら後が続くらしい。あれよあれよという間に、二人、三人と子どもが増え、ついに宿を追い出された。金も底をつきていた。行きつく先は、知れている。暗い裏道から、薄汚れた路地へ。犯罪まがいから、まごうことなき犯罪へ。転落は一瞬で、増えた数だけ弾みがつくようだった。そのはずみはまた、新しい拾い子を呼び寄せた。
子どもの機動力を活かした、一大窃盗団が形成されるまでに、たいした時間はかからなかった。
リーダーのジャックと、参謀の五歳児という妙な構成ながら、彼らは身を寄せ合って冬を越え、夏には城下一帯を席巻していた。ジャックが家出をして、一年が経とうとしていた。
そんなある日。
子どもが一人、帰って来なかった。ジャックは『仕事場』をさまよった。子どもが帰って来ないのは、珍しいことではない。だが、これが百回目だろうと、受け入れられるとは思えなかった。小さな子どもたちの方がよほど冷静だった。どんなに残酷な現実も、そう、とささやき過去にした。少なくとも、そういう振りをすることができた。
ジャックは泣いていた。もちろん今度も、ピンと来てなどいなかった。
「ジャックというのはお前か」
振り返ると、巨大な男が立っていた。身長ばかりではない。鍛え上げた体躯は、その全身を一回りも二回りも大きく見せ、見下ろす威容は、三回り目、四回り目の役割を果たした。
ジャックはぽかんと見上げ、慌てて取り繕った、
「だったら何だっていうんだよ!」
直後、何もわからぬまま吹き飛んでいた。張り倒されたのだ、と気が付くまでに、随分と時がかかった。男はジャックを見下ろしていた。座り込み茫然と見上げるジャックの目には、もはや一個の怪物のように映る。逆光になり、表情は見えない。声だけが、落ちてくる。
「ついてこい」
ついて行った先には、教会があった。あまりにも予想外で、ジャックの口は再びあんぐり開かれる。物言いたげに見下ろした男は、顎を乱暴に持ち上げた。かちんと歯の当たる音がして、二人は視線を交わす。手を離すと、再び口が開いた。ため息が落ちた。
「お前のとこの子どもを保護した」
「無事なのか!」
「掏ろうとした相手に一発蹴られた。だがうまくいなした」その様を思い返す。「面白いものを見せてもらった。まったく、感心な身体能力だな! そうでもなければ生き抜けぬのだろうが、あれはもはや一つの芸だ!」
礼拝堂に響く声は、活力に満ちていた。穏やかに目を伏せる聖人像が、度肝を抜かれて飛び起きてしまいそうだ。動顛させられた点では、ジャックも同じである。だが、ここで引くわけにはいかない。
「…それで、ガキを助けて、なんのつもりだよ」
「何って、慈悲の心を垂れたのではないか。ふん、聖職者らしかろう?」
「聖職者…?」そこでようやく、相手の装いに気が付いた。「あんたが?」
「エクトル・フラヴィニー司教だ! よろしくな少年」
「よろしくって、なにを…」
エクトルはにやりと笑った。粗く削りとったような凄みのある目鼻立ちに、不思議に甘いものが漂う。
「やり方は良くないが、心根は感心だ。世の中には阿呆しかいないが、少なくともお前は良い阿呆だ!」明るい声につられ、ジャックもぎこちなく笑みを象る。「そして少年、汝迷い子なりだよ。君はまだ知らないのだ。自らの行くべき道を! だからやるべきことがわからず、日々に鬱屈するのだ。満たされない心、其れ即ち邪心の揺り籠なりだよ! 君が悪心に囚われ堕ちるのは、さすがに見るに忍びないからね」
「…何言ってんのかわかんねえよ」
「強さだ!」
エクトルは高らかに告げた。
「君には強い心がある。その心を守れるように、体も強くなりたまえ! 大丈夫だ。君には十分な見込みがある。私が稽古をつけてやろう。筋肉は裏切らない。精霊なんぞよりよほど頼りになる。この私が保証しよう!」
幸か不幸か、頭脳派も常識派も不在だった。ジャックは目をむいたりはせず、むしろ酷く心惹かれる自分を感じた。分かっていたからだ。惨めな子どもを拾い、一緒に暮らそうとしても、ただ無事に生かしてやることさえ、今のジャックには難しい。大層な口をきき、何事を成すこともできない自分を、いつもすぐそばに感じていた。
分かっていても変えられなかったのは、なぜであろうか。それもきっと、「ピンときていなかった」からだ。
エクトルは腕を組み、説教台にもたれかかっていた。ジャックを眺めていたと思うと、突然、腕をつかんでずんずんと歩き出した。
夏の日はまだぐずぐずと居座っているが、夜も間近に迫っていた。気の早い星がちらついて、ケチな堅パンのような月がのっぺりとにじんでいる。
細い路地をくぐり、道とも思えぬ難所を行き、二度とたどれぬ複雑な道程を経て、ようやく足を止めた。煙が棚引き、まともな食べ物の匂いがしている。それを、屋根の上から見下ろしていた。無茶な道行の疲れも忘れて、ぐうと腹が鳴った。エクトルがパンを差し出す。遠慮なく貪るジャックの注意を、忙しなく立ち働き、何事か指示している人物へと向ける。
「この炊き出しの主催者だ」
飲み込み、傍らの男を凝視する。「あのガキが?」
「ノア・バルティルス様だ。確かにガキかもしれんが…いや、本当に十にもならないし、意味が分からないのだが…だがまあ、お前よりよほど、心も体も強い人間だ」
「…んだよ」
馬鹿にされたと感じて、歯をむいて睨んだ。エクトルが動じないと知ると、不満と苛立ちを込めて、眼下の情景を眺めた。喧嘩も起こっているが、比較的落ち着いていた。それが奇妙で、歪んだおとぎ話にでも迷い込んだ気分になった
実際のところ、それは、ノアが何度も炊き出しを行い、量は十分で奪わずとも取り分に与かれると理解されているからだった。…それに、騒ごうとする人間の意識は、片っ端から刈り取られる。気づいたジャックが、不思議そうに身を乗り出した。その時、ノアを狙う男を見た。刃物を振り上げ、小さな体に覆いかぶさる――とみるに。
瞬きの後。子どもは男の背に乗り、奪ったナイフの柄で首筋を打っていた。事もなく、制圧された。
ノアは何事もなかったように指示に戻り、襲撃犯は手早く片付けられた。慣れ切った手際の良さだった。唖然と見入るジャックの肩を、エクトルが気楽に叩く。それでようやく、自分が震えていることに気付いた。
「彼は随分強いだろう!」
「…いみわかんねえ」
「その通りだ。あれは目標にするには不健全な天才だからな! 彼は彼だ。君は君だ。彼との比較は、考察には適しているが、成長には枷となる!」
未だ逸らせない視界の中で、空のお椀を手にしたノアが、こちらを見た。ジャックの目を、まっすぐに射抜いた。手を差し上げ、いらないのと問いかけるように、頑是なく、首をかしげた。
「…おっさん」
「なに? 私は意外と若いんだぞ。おっさんはやめろ怒るぞ」
「…エクトル」
エクトルは微妙な顔をしたが、しばし押し黙ったあとに了承した。「それで、このエクトルに何か用か?」
「俺のこと、鍛えてくれよ」
にやりと笑った。「元よりそのつもりだ」
その後、窃盗団の噂は消え、教会やノアを手伝う子どもたちの姿が見られることになる。彼らは暇を見つけては走り込み、腕立てし、剣を振った。その中でも一等気合が漲り、無心に励むのは、ジャックだった。彼はめきめき腕を上げ、即位したノアに騎士団を預けられることになる。
その報告に行った日、エクトルはジャックに、贈り物をした。
「団長職まで務める者に、姓がないのは恰好がつかんな。今日からお前は、フラヴィニーを名乗るが良い!」
「エクトルの子どもになれってことか? 拒否だ!」
「なに、それが世話になった師への態度か。…まあいい。汝怒ることなかれ。それに、養子にするわけではない。他にやれるものがないからやるだけだ。一人前の証にな」
ジャックは居心地悪そうに身じろぎ、確かめるようにつぶやいた。「ジャック・フラヴィニー、か」
「良いだろう? これしかないとピンときたんだ!」
一寸、言葉を失い、それから、躊躇いがちに抱擁した。エクトルは絞め殺す勢いで応え、ジャックを呻かせた。二人の目線は、随分と近くなっていた。
一年後、教会がもぬけになっていることに驚いたジャックは、エクトル司教駆け落ちの報に二重に仰天することになる。そうして混乱しながら帰った城に、騎士姿のエクトルを見つけることになるのだ。