美しい夢を見て -クロエとレベッカ-
そこにあったのは、沈黙だ。それはもう、丹念に塗りこめられた、痛いほどの沈黙。だがもし、よくよく目を凝らしたのなら、それが奇妙に賑やかな沈黙だと気が付くだろう。驚き、悦び、怯え、畏れ、果ては泡吹き白目をむく顔…教会のリリーフにでもなりそうなほど、劇的な様態が並んでいる。
少女はそれをじっと見ており、抱えられた白い獣は、こめかみを押さえてため息をついている。数少ない平静を失わぬ者たちは、その呆れと疲れのにじむ呼吸に、心底共感していた。
聖サティリス王国の重鎮の集う、とある一室。
壁際には高位高官。正面壇上には国王。それに相対する少女。
これが静寂を担う舞台装置。
このままでは埒が明かない。意を決したのは、すっかり青ざめている国王だった。
「あぁ…クロエ・モーリア。大儀であった。魔術を披露せよなどという不躾な要望に、快く応えてくれた忠義に感謝する。まったく…実に見事な魔術…いや魔術…魔術、なのか?」乾いた笑みを刷く。「…まあいい。深入りはすまい。ともかく見事だったことに違いはないからな。ああ、見事な技を見せてもらった。さすがはマティアス・モーリアの孫だ。わずか十二歳で、高位魔術師に認定されるだけはある」
「納得した?」
「納得も何も、魔術師の認定は魔術師協会の仕事だ」
「でも、納得できなかったから呼び出したんじゃん。私が、魔術師協会の設立者で、初代大導師であるお爺さまの孫だから、縁故で認定されたと思ったんでしょう? 今回のことは、それが気に入らなかったから、無茶苦茶をするなって協会に警告するぇあう…」
ポーの前脚が、幼い頬を容赦なく挟み込んだ。クロエは引きはがそうと奮闘するが、どうしても敵わない。ほどなく、むっとしつつも抵抗をやめた。狐は真剣な顔で諭す。
「お前の言うことは正しいかもしれん。だがせめてオブラートに包め。それが処世術ってもんだ」
「はふぅえふ」一寸見つめ合い、ポーが折れた。「…食べ物を粗末にするなって言ったの、ポーじゃん」
「そういう意味じゃないんだよ…」
地に沈み、頭を抱えてしまうポー。立会う全員が、同様の思いだった。
クロエには不満の色しかなく、ぷいと顔を背ける。
「でもさ。保護者の目を盗んで十二歳の子どもを呼びつけて、得意な魔術を見せてみよ、なんてせせら笑う大人たちって、気遣われるほどの価値ある?」
「論点をずらすなよ。今問題にしているのは、あくまでお前自身の態度についてだ」
「理不尽」
「あの性悪どもを比較対象にするような、程度の低い人間になるんじゃねえよ」
「それはちょっと、分かるかも?」
不敬にもほどがあるが、子どもと狐を相手に、本気で腹を立てるのも大人げがない。加えて、落ち度も明白だった。そこら中から、喉を詰まらせたようなうめき声が上がる。
そんな不穏な空気の中、ふと、顔を上げるポー。訝し気な顔をして、耳を細かに震わせている。室内とは対照的な、騒々しい物音がしていた。
葛藤する大人たちも、徐々に気が付き、扉を盗み見る。互いの様子を窺い、ついには皆が顔を向けた。焦ったような響きと、ぞろぞろと大人数が移動する気配。その全てをなぎ倒す、甲高い喚き声。扉が開け放たれる。
「お父さま、今度こそ連れてきてくれたんですわね!」
ありもしない光を見た。それほどに、圧倒的な美貌。天の理を顕現させたかのような、人間味の失せた精巧な姿形。その場にいたやんごとなき人々も、思わず気圧されかけ…どっと老け込んだ。
そして今度も、先陣を切るのは国王だ。
「…私の可愛いレベッカ。お父さまは今、とても大事な話をしているんだよ。そのお話は、今日の夜に聞かせてくれないかい?」
レベッカは聞いてなどいなかった。クロエを見下ろし、目を見開いている。
「まあなんてこと。性別までちがいますわ!」
「いや、そもそもこれは――」
「ボケましたの? 嫌がらせですの?」
「だからちが――」
「言い訳までなさいますの? はじしらずですわ。お父さまなんて大嫌い!」
「そんな…」
国王は膝をつく。家臣たちは目を背けている。白皙の眉間にしわが寄る。
「それにしても、いったい誰ですの?」
「誰って、そっちこ――」ポーが据わった目をして前脚を伸ばす。不貞腐れながらも言い直す。「…プロエマゴシィ魔法伯家息女、クロエ・モーリアです、殿下」
「まあ。では、魔術師ですの?」
「はい」
「すごいですわ! ねえ、こんな年寄りくさいところより、わたくしの部屋にきなさいな」
どちらかと言えば家に帰してほしかったが、この部屋を出ることに否やはなかった。クロエはされるがままに、連れ去られていく。国王は未だ立ち直れず、家臣たちは互いの顔に諦めを見出す。
後に残されたのもまた、沈黙だった。
長い廊下を行くクロエは、手を引く王女にお構いなしに、頭上の狐と言い争っていた。きっかけは、「それにしてもあの人たち、へんな顔をしてましたわね」だった。
「やりすぎなんだよ。加減を覚えろ。そんで、いちいち腹を立てんな。安易にやり返すのもよくないぞ。自分の力を考えろよ? そのうち死人が出るぞ。そもそも、精霊の権限を逸脱してんじゃねえか。国王が困惑してただろ。勝手に人の力を使うなって、何度言えばわかるんだ」
「ポー、人のつもりだったの?」
「言葉の綾だよ!」
「言葉の…織物…」
「比喩だよ!」
ふんっとそっぽをむく。「だいたい、ポーが勝手に貸してるんじゃん」
「お前が精霊界に引きずり込まれないように、守ってやってるんだよ! それをお前が勝手に流用してるの!」
「ケチ」
「なんだと!?」
王女捕獲隊は解散し、部屋への道のりを共にするのは、クロエとポー、レベッカとそのメイドの四名だけだった。
話の内容がわからないせいか、レベッカは口を挟まずにいた。それでも、熱心に耳を傾けていた。すれ違う者たちは、しゃべる狐の驚異に釘付けであったが、レベッカの関心はクロエにも向いていた。大きな瞳を見開いて、愛らしい唇をゆるく離し、物言いたげに見つめている。
何を思ったか、くしゃりと顔をゆがめて、メイドにしがみついた。彼女はおやおやと受け入れる。瑠璃色に金の散る、美しい瞳の女性だ。興味深そうに目を眇め、自由になった腕を振り回すクロエを、じっくりと観察している。
「どんな魔術をお使いになったのです?」
「夢だよ」
「夢?」
「一番強い夢を…根っこにこびり付いた欲望を、目の前の引き出してやったの」
「それはまた…」
「こいつ、無茶苦茶だろ?」
「あなたが言いますか」
メイドと狐が牽制し合う。向き合う瞳が同じ色をしていることに、気づいた者はいるだろうか。
クロエは退屈そうにスカートの裾を蹴る。レベッカを一瞥する。
「それは何をしてるの?」
「あなた方が羨ましくて拗ねているのです」
目を丸くする。「はい?」
「ちがいますわ!」
「なにせ、レベッカ様には友人がおりません。取り巻きすらおりません。話し相手を見つけることにすら窮しております」
「…王女様、なんだよね?」
「しっけいですわ! わたくしは光栄ある聖サティリス王国が王女、レベッカ・ヴァレリー・ブランシャールさまでしてよ!」
「…と、本人はこの調子ですし、身分と権威が供給過多なものですから、言い返す者とておりません。あなた方が仲良く喧嘩をしているのを見て、わが身の孤独が胸に染みたのですよ」
「お前、容赦ないな…」
「仲良くなんてない…」
「ちがいますわ!」
騒いでいる内に、レベッカの部屋にたどりついた。すると、不機嫌などすっかり忘れ、やる気に満ちた様子で指図を始める。成果はともかく、もてなす心意気にはあふれていた。
「わたくし、人を探しているのですわ!」と前置きもなく切り出す。
「へえ」と視線すら向けずにいう。
「そういえば、乱入してきた時もそんなこと言ってたな」と真面目に応じる。
「お父さまにお願いしているのに、7年経っても見つかりませんわ」
「意外と気は長いんだね」
「見た目も変わってんだろ…会って分かるのか?」
「わかりますわ!」
テーブルをひっくり返しそうな勢いに、周囲が慌てる。クロエは眉根をよせて、腕を組んで考え込んだ。あっと声をあげる。
「これって、あれなんじゃない? ポーが情操教育にって読ませた、王女様と王子様がめでたしめでたしする話の類型」
「おう、よくわかったな。たぶんそれだ」
「ちがいますわ!」
「違うっていってるよ」
「否定から入るもんなんだよ。様式美だ」
「だから…!」
「見つけて結婚するつもりなんじゃないの?」
「け、けけけけけけっこんですって!? ありえませんわ!」
「じゃあ別の人とするの?」
「するものですか!!」
「好きなんじゃん」
「だからちがうと言っているでしょう! どうしても会いたいだけ! ずっといっしょにいたいだけですわ!」
随分と贅沢な『だけ』である。
憤怒の形相を浮かべ、肩で息をするレベッカは、相変わらず凄まじく美しいが、初めて人間らしく見えた。頬杖をつき、まともに顔を突き合わせる。
「魔術師に人探しはできないよ」
レベッカは泣きそうに顔を乱し、扇を取り出して隠れてしまった。クロエは意外そうに瞬く。睨まれるでもなく、嫌みすらない…それすらできないほどに、打ちひしがれている。とても不思議だ。珍妙な生き物である。七年もの間、ひとりの人間を探し続けるなど、理解に苦しむ。――だが、どうしてか、愛おしくも思われた。
彼女の社交能力には難があるし、高嶺の花にも程がある大国の王女だ。仮に意中の相手を見つけても、明るい未来が開けるものかは疑わしい。だがせめて、この罪のない望みを、この王女様にふさわしく、美しいままに守れますようにと、そう願わずにはいられない。
他人のために祈る。そんな自分に驚き、首をかしげる。
「この人はきっと、美しい夢を見るんだろうね」
それとも彼女は、醒めない夢に生きているのだろうか。
クロエのつぶやきに、レベッカは胸を張る。
「わたくし、かれの夢なら毎日のように見ていましてよ!」
生暖かい目をするも、肩をすくめる仕草は穏やかだ。深く、椅子に掛けなおす。
彼女の夢の話を聞くのも、悪くないかもしれない。己で夢を見ることは難しくても、美しい夢の一部であれるように。
ほどなく祖父が迎えに来たので、それほど長居をしたわけではない。
見送るのつもりなのか、二、三歩追いかけるレベッカ。立ち尽くす王女様は、唇を引き結んでいた。
「…また、遊んで差し上げても良いんですのよ」
「これはポーが言ってた、ツンしてデレるってやつなの?」
言葉に沿わない柔らかな苦笑を見て、ポーは目を丸くした。
瞬きの間に消え去る。しかしそれは、確かに在った。
わたくしを誰だと思っていますの、と叫ぶ声が追うが、クロエは振り返らない。地団太を踏むレベッカと、取り合いもしないクロエに、やれやれと首を振る。
しかつめらしい顔をしつつ、ポーのしっぽは、嬉し気に揺れていた。