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舞踏会の夜 -クロエとノア-


「あ、あの、クロエさん…怒っているんですか…?」


 答えを聞きもせずに打ちひしがれているのは、グーサノイドの若き国王ノア・バルティルスである。その様は、打ち捨てられ腹をすかせた上に泥水を被った犬のように、ぎょっとするほど惨めだった。隙なく着込んだ立派な正装と、金糸とダイヤのきらめきを、そこまで徹底的に貶めるのだから、大変な暴虐である。


 ごく一般的な人間ならば、まず何よりも憐憫に突かれるだろう。だが、相手はクロエ・モーリアだ。珍妙な生き物を見るような、興味深げな視線を向けられるのがせいぜいである、


「わざわざ聞くってことは、何か心当たりがあるんだよね?」


 慈悲などない、清々しいほどにまっすぐな声音だった。

 ここはクロエを歓迎するための場。主役は彼女であり、彼女の望みこそが至上命題。ノアは息を飲んだ。全力を尽くし、最高の結果を出さなければならなかったのに――


「…弦楽に一人、力不足の者がいます。ですが、悪くはないのです! 彼には素晴らしい才能があります! 確かに現時点の演奏には面白みがありません。お綺麗で高慢なやや鼻に付くタイプの演奏家です。ですが、まだこれからなのです! きっかけさえあれば、隣に座る師匠だって越えることができます。ええ、誓って、遠くない日に越えてみせますから…!」

「いや勝手に誓わないであげて」


 クロエは音楽に詳しくはないし、打ち明けられたところで実力の差異など分からない。だが、ノアの叫びに弦を軋らせた若者がいたので、おそらく彼が「力不足」なのだろう。隣の師匠は知らん顔をして楽器を磨いている。

 目についたリンゴをねじ込み、不毛な弁護を押しとどめる。恐ろしいほど精緻な飾り切りがされていたが、遠慮なく砕かれていく。思わずもう一つ取り、しげしげと眺めた。


「もしかしてこの細工って…」

 慌ててごくんと飲み込み「僕がやりました」

「だよね」ふと思いつく。「…ねえ。ここにあるのって、どれくらいノア君が作ってるの」

「菓子類はほとんど僕が作っていますよ。料理は一、二品だけ…残りはレシピの指示のみです」

「だからノア君、職業間違えてるって…」


 試しに放り込んでみた焼き菓子は、舌の肥えたクロエでも目を丸くするほどに美味しい。こっそり耳をそばだてていた参加者たちが、真顔で皿を見下ろしている。


「ではクロエさんは…」


 見上げると、意外なほど真面目な顔に出会った。その目は確かにクロエを見ていたが、声音には、どこか独り言ちるような調子があった。


「クロエさんは、ご自分が正しい場所にいると感じますか? なんの義務もなく、しがらみもなく、不安もないとしても、同じように、魔術師で在り続けますか?」

「やたら小難しいこと聞くね」


 やれやれと首を振る。もしかしたら、彼にとっては『難しく』などないのかもしれない。ならばなぜ迷う。馬鹿だと思った。頭が良すぎて馬鹿なのだ。


「…そんな面倒なこと、考えたくないよ。私ってなんだか魔術師っぽいじゃん。それで十分だよ。自然の秩序に従うっていうのが、大好きな精霊様の教えでしょう?」

「そうなの、でしょうか」


 珍しく不服の色をにじませて、しかしテーブルをめぐるクロエには従順に付き従う。あれこれ尋ねられ求められるものだから、ほどなく、ノアの頭もお菓子でいっぱいになった。感嘆の息をつくクロエを見て、嬉しそうに笑う。


 一通り品を確かめると、周囲に目をやる余裕が生まれた。そうして、何十もの視線が、ちらちらとこちらを窺っていることを知った。そこに悪意の色はなく、さりとて好意というのも違う。無視をするには切実すぎた。だが、いくつ集まったところで所詮知らない顔だ。言葉もなく察するのは無理がある。

 傍らの、気にした風もない国王陛下に目をやる。


「ところでノア君。近しい人たちって、どういう付き合いの人たちなの?」


 ノアは言葉に詰まった。もっとも誠実な答えは「十年ほど前の虐殺現場で、我先にと僕に跪き、その後も実に従順な人々です」だが、そのままを答えるわけにはいかない。無難な言葉を摘まみ上げ、


「…普段からお世話になっています」

「お世話?」

「僕の仕事を手伝ってくれています」


 服従という手段で…などと聞こえたわけもないが、クロエは問い詰めるのをやめた。そっか、とだけ答え、興味を失った。


「その優秀なお手伝いさんたちは、どうして物言いた気にこっちを見てるの?」

「それはもちろん、クロエさんがお綺麗だからです」

「うん。そういうのは良いから」

「事実なのですが…」少ししょんぼりして「クロエさんに興味を持っているのは確かでしょう。お話してみたいのではありませんか?」


 もはや隠す気もない視線の波が、違う、というように悲しくよどんだ。実に器用で息の合った意思表明である。クロエは感心した。口で言えとも思ったが。


「それにしても、どうして誰も踊らないの?」


 ぱっと勝利の喜びを見せ、これこそ彼らの求めていたものだと知った。

 ノアは不思議そうに首を傾げた。


「それは僕たちが踊らないからですよ」

「え…?」

「国王と、大国の魔法伯令嬢という主賓がいて、無視できるような人はいませんよ」と言いかけて「あ、いえ。アランならやれるでしょうね。ただ、相手がいませんからねえ」


 難しい顔で、アランの婚姻について悩み始めたノア…その肩を揺すり、珍しく焦りをにじませ、眉尻を下げた。


「ノア君」

「はい」

「ノア君は、舞踏会で踊ったことある?」


 ノアは瞬いた。


「ええ、まあ。人並には、ですが」


 困惑が伝播したらしい心もとない顔を見つめ、クロエは重々しく告げた。


「私はないんだ」

「え…?」と今度はノアが呆ける。「一度も?」

「一度も」

「踊れないんですか?」

「いや、一通り習いはしたけど…実践したことないから」

「えと…」一瞬口をつぐみ、ためらいがち手を差し出す。「僕でよければ」

「思いっきり踏むかもしれないよ?」

「踏みたいんですか?」

「なんでそうなるの」

 ノアは微笑んだ。「なら、踏ませません」


 きっぱりした物言いに、驚きつつも笑ってしまう。ノアははっとしたように顔を赤くし、クロエが手を重ねるのを息を止めて見守っていた。


「随分自信あるじゃん。得意なの?」

「いえ…あの、僕も、進んでは踊りませんので」

「そう? 嫌ならアラン君に頼むけど」

「いえ!」声を上ずらせて「僕が! 僕がお相手を致します!」


 わっと歓声が起こる。ノアは盛んに会釈して応える。その手を引っ張り、中央に引っ張り出す。

 力不足の弦楽青年は、鼻息を荒くして弓を構えていた。師匠の方は、横目で見やって穏やかに苦笑している。


 話を聞いていたのだろう。流れ出したのは有名なワルツで、クロエもいくらかほっとして、ぎこちなく拍子を探った。だがそれも、すぐに必要なくなった。腕を伸ばし、足を踏み出す度に、風に誘うかのようなリードをされ、ただもう、ふわふわと飛んでいるかのようだ。

 気が付けば、音楽は豊かに場を満たし、音色を彩るかのように、鮮やかな色が揺れている。


 美しい光景だった。


「ノア君」

「はい」

「やっぱりノア君は、王様で良いんじゃないかな」


 何か言おうとしたのを、人差し指で制して、


「だって、ちゃんと王様、やってるじゃん。義務とか、しがらみとか、不安とか…まあ色々あるんだろうけど…私の見立てだと、何がどうでも、ノア君は王様になるよ」

「…それが、自然の秩序、ですか?」

「うん」


 ノアは天を仰ぐ。反論は、飲み込んだ。泣き言で汚すには惜しい何かが、胸にちらついていたから。

 二曲踊って、輪を離れた。冷たいジュースが甘く、火照った体にしみわたった。聞き馴染のない音楽が始まる。地域特有のものだろうか。皆随分と楽しそうだ。こうして距離をおくと、つい先ほどまで自分があの中にいたなど、とても信じられなかった。


 くすぐったい充足と、憮然とした気恥ずかしさとをジュースで飲み下す。ほっとはいた息は、満足気だった。音楽を口ずさむ。軽い足取りで、テーブルをもう一巡りした。



このあと、うふふあははと踊る人々を眺め、過ぎるほど冷静になったクロエへと、過剰な歓迎やら、罵り合いやら、喧嘩の押し売りやら、斬新な余興が供されることになるのだが――それはまた別の話だ。


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