33.非日常を日常に
魔術師協会職員ニコ・キヴィサロは、真顔で動転していた。
予兆のごとき動揺は、ここ数か月というもの、逃れようもなく付きまとっていた。忘れようもない。クロエ・モーリアという高位魔術師が、なんの脈絡もなく現れた、あの日からだ。
ある意味では、ニコの人生そのものが、動揺の真っただ中だった。幼い日、商人になるという夢に胸を膨らませたニコ少年は、魔術師としての類まれな才能を示した為に、あれよあれよという間に、人生行路を行き惑うことになる。現実に反抗したまま時は過ぎ、グーサノイドに流れ着く。魔術への無関心の蔓延るこの地では、楽しく過ごすことができた。なにせ、自分が魔術師であることすら、忘れていられたのだ。
そこに現れたのが、クロエ・モーリアだった。
そして今、目の背けようのない、世界の転換が起ころうとしていた。手の中には協会からの通達。目の前にいるのは――。
「…私は、クロエさんとの面会を希望したのですが」
「目の前にいるじゃん」
そういうことではない――そう喚きたくなるのを堪え、持てる肺活量の全てを投じ、深呼吸をする。震える拳からぐしゃりという音がするが、構ってなんぞいられない。
「そうなんですけどね。ええ、確かに、クロエさんもいるんですけどね。なんで国王陛下とそのご親類らしき方までいるんです? せめて部屋に入る前に伝えてくれません? 私めちゃめちゃ平服ですよ? あとあの椅子に縛り付けられている、見るからに高位の文官らしきご老人は何ですか。これ目撃して大丈夫なやつですか。ここで消される感じですか」
自分の言葉に現状を再認識し、顔色を悪くするニコである。対する三人――クロエとノアとアランは、和やかにテーブルを囲んでいた。ご老体――ローレンスは、その傍らに据えられている。
「コイツを煮るのか焼くのか話し合ってタところなんだよ」とアランが言い、
「そうそう。味付けは薄めか濃いめかとかね」とクロエが応じる。
「魚の餌か獣の餌か」
「みじん切りか八つ裂きか」
混迷はどこまでも深まる。食材認定を受けているローレンスの、実に穏やかな微笑みが、ますます拍車をかけていた。怯えた青白い顔のノアに救いを求めるニコだが、すぐに心をへし折られる。
「土地や生き物に害が出ては困ります。妙なものを撒くときは、きちんと場所を考えてくださいね」
「敵対的な勢力の根拠地トか?」
「それでしたら、ほどよく形が残っている状態で放り込んで、忠告と告発のどちらにでも転がせるよう、お膳立てしておくのが良いですね。…まあ、この頃はどこもおとなしいですが」あくまで優しい調子である。「それはともかく、ニコ・キヴィサロさんですね?」
反射的に返事をするニコだが、声音は見事に裏返る。こみ上げる羞恥と、名前を憶えられている恐怖に、膝が震えた。それらしく跪き、なんとか胡麻化してみせる。
「ごごご記憶頂いているとは、恐縮です。恐悦至極です。光栄の至りです。ハイ、ニコ・キヴィサロでございます…!」
「ノア君ものすごく怖がられてるよ」
「そんな…」肩を落とし、力なくソファを示す。「とにかく立ってください。どうぞ、そちらに。…クロエさんもアランも、ローレンスは後にしましょう。取り上げたりはしませんから」
「幸せそうに笑っテいて気持ち悪いので、反対向きニしてもいいですか」
「直射日光の当たるところに置いてもいいですか」
「好きにしてください」
喜々として椅子を引きずっていくのを、困った様子で見送る。だが、振り返ったノアの目は、妙に冷めきっていた。それでいて微笑みを湛えており、ニコの恐れは限界を突破した。ノアは書状を指し示す。
「魔術師協会からの指示ですね。精霊石鉱山についてですよね? なぜ、私ではなくクロエさんに?」
ニコとしては、内容が知れていることに驚愕である。
クロエは頓着しなかったが、勢いよく振り返り、一瞬、言葉を失った。
「精霊石鉱山? ――あるの? この国に?」
魔術行使や魔道具の作成には、精霊石が不可欠だ。重要かつ貴重な資源である。同時に、精霊石の採掘される場所は、例外なく特異な環境を伴う。恩寵にしろ災厄にしろ、何かしらの神秘が眠るのである。クロエの生国である聖サティリス王国に、精霊石鉱山はない。そしてクロエは、これまで出国したことがなかった。興奮のあまり、脳が沸騰する。一方ノアは、きょとんと首をかしげている。
「お爺様…マティアスさんから、聞いてはいないのですか?」
「聞いてないよ!」
「そうなんですか!? 申し訳ありません。てっきりご存じなのかと。精霊石鉱山ですね。ええ、北方の山脈にありますよ。こっそり採掘して、山岳民族や盗賊団を使って密売をしているんです」
不穏な言葉が交じり、急速に冷静になる。
「密売…?」
「精霊石の売買は、魔術師協会が統制しているんですよね? それを避けて取引しているので、客観的に見て密売かと思うのですが…」
不安そうに確かめるが、誰も答えない。ニコは耳を塞いで聞いてないぞと叫び、クロエはふっと笑って遠くを見やる。気が付いたことがあった。どういうわけか、ノアが怯えるのは、他人の言葉ばかりなのだ。己の口では平気でとんでもないことを言うし、残酷な事態に対そうと、いとも冷淡に振舞ってみせる。
そういう人間だというのならば、仕方がない。それにしても、
「…現在進行形に聞こえるけど?」
「もちろんです。貴重な収入源ですからね。ただ、素人仕事で採掘するのは、そろそろ限界なんです。技術も資本も足りません。外部の力が必要です。そこで、後ろ盾を探そうと、情報を流したんですが…」
クロエにもようやく合点がいった。「お爺さまが食いついたんだね」
「まさかあんな大物が釣れるとは思わず、それはもう、驚きましたよ…」
「じゃあニコ君の用事って」
はっと息を吹き返したニコが、献上するように書状を差し出す。
「要約すれば、精霊石鉱山の開発に関わるあれこれと、グーサノイド支部における人員補充と拠点拡大の承認要請。…それから、第五位魔術師クロエ・モーリアのグーサノイドへの転属辞令、です」
「へ?」
間の抜けた声を出したノアが、慌てて文面を確認する。クロエも横から覗き込む。ニコの言う通りの内容だった。何を思ったか、飛び上がったノアが勢いよく頭を下げる。
「申し訳ありません! クロエさんに関しては想定外です。僕の認識の甘さ、予測の杜撰さ、周囲への配慮の欠如に由来する失策です! 言い逃れのしようもございません。精霊様も呆れ果て、私に罰を下すことかと思います。ですが、それではクロエさんの気が晴れないでしょう。どうぞ、僕のことも煮るなり焼くなり蒸すなり揚げるなり…」
「はいはい、わかったわかった」面倒そうに叩く。静かになった。
「そっか、モーリア嬢は正式にうちの仲間になっタんだね!」
「仲間って言葉がこれだけ似合わない人たちも珍しいよね」
「うわヒドイ。…ところで、キツネさんはどうしたの? モーリア嬢が残るならセットで残るよね? そもそもアレって何?」
「実に今さらだね」
そっと手を上げるニコ。
「…私も気になってました」
「うーん、何って言われても。見た目の話をするなら、白い子狐だよね。私との関係で言うならご先祖様だし、どういう存在かっていうなら精霊。なんで今日いないかというと、昨日、精霊が存在しないというか、存在できない空間に監禁されるという事案があって、その時に無理やり呼び出したせいで、くたびれて実体化できなくなっちゃったから」
「モーリア嬢っテ割と巻き込まれ体質だよね」
「せ、精霊様…? ご先祖様で、精霊様?」
「…精霊って実体化するんですか」
「するんだね。私の魔術適性が高いのって、先祖返りみたいなものなんだって。半精霊って、ポーが言ってた」
「モーリア嬢って精霊なの?」
「え、クロエさん、精霊…?」
「正真正銘の化け物じゃないですか」
「失礼な。私は半精霊としては常識の範囲内だって、ポーが言ってたよ。純粋な人間なのにぶっ飛んでるお爺さまとかノア君こそ、意味のわからん化け物だって」
無頓着に言い、やけっぱちの目をしたニコに問う。
「ところでニコ君。あそこで日向ぼっこしているおじさん…あの人、国家レベルの変質者なんだ。どうしたら良いと思う?」
「…なぜそんな人物がここに? 国家レベルの変質者ってどんなですか」
「王様が大好きで、王様にしか興味がなくて、王様にちょっかいをかける為なら誘拐や殺人も厭わず、叱られると喜んだりするけど、どれもこれも常人には基準がわかんない」
「変質者というか犯罪者じゃないですか」
「ちなみに、彼の背中には親愛なる国王陛下に殺されかけた傷跡があって、自慢げに『聖痕だ』とのたまっているとか」
「私に近づけないでくださいね!? なんでまた生かしてあるんです!?」
「なんでなのノア君」
天に向かって祈っていたノアは、曖昧な笑みで目を逸らし、何度も聞いた通りに答えた。
「ローレンスは優秀なので」
「自分でも無理があるっテ分かってる顔だね!」
アランがけらけら笑うのに項垂れ、聞き逃しそうなほどの小さな声で言った。「他に、いないからです…」
「何が?」
「…ローレンスは、僕が何をしても怖がりません。普通に接してくれます。そんな人、他にはいないので…」
三人は顔を見合わせた。「相依存?」「普通って?」「思ってたのと違う感じに怖いんですが」
燦々と降る陽光に、もはや自身が発光体と化したローレンスが、勝ち誇った声をあげる。
「陛下に必要とされているのは私のようですぞ!」
アランがやいやいと食って掛かかる。
賑やかな声を聞きながら、地べたに沈むノアを眺めた。精霊を崇め、博愛主義のような言動をしつつ、命に無頓着。無私のように見えるが、自己中心的。庇護者であり、破壊者でもある。矛盾の塊であり、今にもバラバラになりかねないほどに危うい。かろうじて均衡は保ってはいるが、取り返しがつかないほどに、壊れてしまっている。
なぜ形を保っていられるのかもわからない。四散しそうな屑を抱え込み、離そうとしないエネルギーを、美しいと思った。痛々しくて、馬鹿げていて、実に人間的。
クロエは笑った。
「思ったよりも長い付き合いになりそうだね」
それも、悪くないと思った。
「あ…これからも、よろしくお願いします」
恐る恐る差し出される手。それを取りながら、アランの言葉を思い出す。こんなものは、この国王陛下にとって、日常にすぎないのだと。
彼のことを知るのは、きっと、刺激的で、面白いだろう。
「うん。ノア君の日常、楽しみにしてるよ」
それは間違いなく、クロエにとっての非日常だ。
一部終了です。お付き合いくださった読者様に、心からのお礼を申し上げます。
二部を始める前に閑話を挟みます。