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クロエ・モーリアの非日常  作者: 千川葵
第一部:第6章(グーサノイド城内―謁見の間)
31/43

31.『十年前』


 たとえば、とても大切な友人がいたとして。

 彼が、醜悪で酸鼻を極めるような、不治の病にかかったとする。

 それでも彼は友人で、彼を愛する他に道はないとして。

 その顔が崩れ、手足が腐り落ちていくのを、毎日、毎日、眼前にし続けるのはどうだろう?

 そんな経験をした子どもは、どうなるだろう?



「ノア様、なんでここに! 昨日あんなことがあったばかりで…」


 慌てて立ち上がっただけで、がたつく椅子はひっくり返る。そんなものは顧みず、彼女はノアの肩をつかみ、フードの奥に隠れた瞳を、真剣な面持ちで覗き込んだ。


「危ないからおやめくださいと…来るならせめて迎えに行かせてくださいと、何度も何度も、お願いしてるじゃありませんか」

「大丈夫ですよ、アンナ。今日は三人しか襲ってきませんでした」

「だから!」

「どうして怒るのですか? 三人というのも、一度にではなく、一人ずつ別口でした。手間はありませんでしたよ?」


 むしろこちらを案じ、眉をゆがめるのを見て、アンナは気が遠くなった。髪をぐしゃぐしゃにして、言葉にならない呻きをこぼし…最後は、肺を空にして諦めで満たした。黙って椅子を直すと、ノアに促す。自分は壁にもたれ、窓の外に目をやった。破壊されたままの建物、打ち捨てられたままの瓦礫、怯える者と脅かす者。それから、こちらの様子を窺う気配。


「…腹が立たないんですか?」

「何に対してですか?」


 優しくからかうような声音に、なぜだかぞくりと震えて、アンナは振り返った。

 繊細で、少しばかり神経質そうな顔立ち。青年にもなり切れない、細くて長い不均衡な手足。子どもらしくまろみを帯びた頬と――青白い肌を飾る、自嘲に染まった微笑み。

 彼はまだ、十一歳なのに。


「…なんにでも、です。何かに対して、です」問いながら、唇をかむ。「ノア様はずっと、頑張ってるじゃないですか。それなのに…おかしいです。腹が立って当然です。ノア様のお父様だとか、ノア様の瞳の色だとか、そんなもの、ノア様にはどうしようもないじゃないですか。腹が立って当然なんです。…ねえ、だから、腹を立ててくださいよ」


 懇願され、ノアは戸惑う。

 テーブルの端をつかむ指先は、貴人の物とも、子どもの物とも思われぬほど、傷つき、荒れていた。


「どうでしょう。僕はどうとも思いません。お父様が愚王なのは事実です。お父様の気が狂っているのも、紫色の瞳をしているのも、やはり事実です。…僕がその色を引き継いでいるのと、同じくらいに」


 紫は狂う、と、歌うようにささやいた。


「昨日のことはどうです? 正直今でも訳が分からないのですが…あの光景を目にした時には、息が止まるかと思いました。――だって、ノア様が刺されるなんて」


 ノアは定期的に炊き出しを行っていた。昨日がそれで、彼自身が目を配り、指示を出し、時には手を貸していた。昼前から休みなく働いて、そろそろ日が暮れようとしていた。さすがにくたびれて、それで、注意がおろそかになった。


 すぐ手の届く場所で微笑む、紫色のバルティルス…ノアの姿こそが不満を煽り、怒りをかき立てていた。ノアも、黙って殺されるわけにはいかない。だからいつも、返り討ちにした。昨日が何か特別だったのではない。ただ、油断をした。


 獣のような声を聞き、振り返れば、がむしゃらに向かってくる男がいた。なんとか身をひねったが、衝撃と、熱で、頭が真っ白になり、避けきれなかったことを悟った。男は取り押さえられたそうだが、ノアの意識はなかった。

 だが、目を覚めた時。ノアはすっかり健康体で、傷は跡形もなかった。破れた服と、血のしみばかりが、不気味に現実を訴えていた。


「昨日のことは、怒っているかもしれません」


 言葉に反して、くつろぐように目を閉じ、異様なくらいに凪いだ面持ちを見せる。


「城に戻って、驚きました。使用人たちが、盛んに噂をしていました。…何があったと思います?」ノアはくすくすと笑う。「驚きました。アランが倒れたのだそうです」

「アラン様が、ですか? ご病気ですか?」


 アラン・バルティルスは、父の死後、城に引き取られて、ノアと共に暮らしていた。面識はなかったが、ノアの口ぶりや態度から、仲が良いのだろうと思っていた。それなのにどうして、彼の不調を笑うのだろう。

 ノアは、心底おかしそうにしている。


「病気ではありません。夕方、急に倒れたそうです。――腹から血を流して」


 反射的に思いついた筋立てを、馬鹿なことだと慌てて打ち消す。だが、無関係ならば、なぜこのタイミングで話すのか。アンナは、そのイメージを拭い去ることができない。――ノアの代わりに、傷を負うアラン。


「でも、そんなことは…」

「あったんです。それだけではありません。熱に浮かされたアランの目を、ぜひ、アンナにも見せてあげたかった。本当に、驚きました。こんなに驚いたことは、これまでなかった。――あの目…」

ふっと、表情が消えた。

「紫、でした」


 アンナは理解が追い付かず、分かりかけた意味もぼろぼろと零れていく錯覚に捕らわれた。

 ノアは嘘などつかない。事実しか口にしていないのだという確信に、圧倒された。


「アラン様の瞳の色は…」

「青でした。綺麗な、青空みたいに澄んだ…」俯き、両手で顔を覆う。「父です。紫の呪いを、解こうとしたのです。私の分を、アランに転嫁しようとしたのでしょう。でも、うまくいきませんでした。不完全な形で、今、成果が知れました。そう、父が、言いました。…あの人は、私の研究を盗んで、こんな形で使ったんです」


 アンナは何も言えなかったが、ノアにはそもそも、聞かせる気すらなかった。ゆったりと息を吸い込み、天を仰いだ顔は、何も求めてはいない。


「私は、怒っているのかもしれません。…そんな気がしたのですが、なんだかぐちゃぐちゃで、よくわからないんです。変な感じです。眠っているのに、酷く冴えているような…」

「ノア様」


 呼びかけはしたが、何を言えるだろうか。アンナは己の不甲斐なさに絶望した。ノアははっとして、いつも通りに、綺麗に、でも酷く曖昧に、微笑んだ。


「今さらすぎるのかも、しれません。今、確信できたのです。あの人はもう、あそこにいてはいけないのだと思います」優しいお父様だったのですが、と、吐息にまぎれて独り言ちる。「早くそうしてあげるのが、せめてもの情なのかもしれません」

「それは、つまり…」

「今日ここに来たのは、誰かに話して、少しだけ楽をしたかったから…背負わせてしまって、すいません。それから、ありがとうございます」

「あの、ノア様…」


 フードを深く引き、席を立つ。咄嗟にその腕を取ったものの、アンナには何一つ、するべきことが分からなかった。考えれば考えるほどに混乱して、混乱して…最後は哀れみに塗りつぶされて、本当に、何一つ分からなくなった。

 泣きそうな顔を見上げ、ノアは不思議そうに瞬く。アンナの手を外しながら、まるで、彼女のことなど忘れてしまったように、


 ――まあ僕も、そのうち狂うんだけど。


 自分の言葉に、気が付いていなかったのかもしれない。ノアは控えめに手を振って、いつもと同じように柔らかな調子でいった。


「ぜんぶ済んだら、また来ますね」




 なぜ、謁見の間に、王が、主要な臣下たちが、勢揃いしていたのか。

 ノアは知らなかったし、理由などどうでも良かった。随分と都合が良いなと、他人事のように考えた。

 何の前触れもなく入ってきた王子が、庭の小道でも行くように部屋を横切り、何気なく壇上に登り、当然の様子で剣を抜き、王の首を、刎ねた。


 その一連の動作を、居合わせたすべての者が、止めることなど思いもつかぬまま、呆然と見つめていた。噴き出した血を何事もないように浴び、転がり落ちていく首を眺める姿に、征服された。あれは誰だと、呟いた者がある。優秀だがあまりに繊細で、人望はあれど極端に臆病な、何かを言いかけてはいつも口をつぐんでいた王子…その人の顔で、しかし、感情の失せた顔で、凍り付く人々を見下ろす――あれは誰だ。

 ノアは震える嘆息をもらした。それが、自分たちに突きつけられた、途轍もない失望だと、人々は理解した。


「十秒だけ、あげましょう」


 聞き覚えのある、優しい声音。声変わりもしていない、少年の響き。

 同じだ。なのに、これほど変貌するとは。常の怯えがないだけではない。色も抑揚もない。取りつくところのない、取りつくことを許さない、絶対的な強者の命令。


「私に従う気のある者は、ひざまずきなさい。それ以外は、死ぬ覚悟をなさい」


 非日常に飲み込まれ、権謀に慣れた人間さえも、思考を手放し恐怖の虜となる。

 少年の声は、淡々と数を減らす。


 ――5,4,3,2…


 猛烈な風が、場を一閃し、従わなかった人間が、真っ二つになり吹き飛んだ。生きている人間も、生きていない人間も、どちらも息を止めていた。血が流れ、交じり、体を濡らすのを、不快と思う余裕もなく、恐れるほどの理性もなく、助かりたい一心で、この嵐が去るようにと願って、赤黒い色で視界を覆った。


「…何人か、いらない人がいます」


 階段を下りる、予兆の響き。血だまりを蹴る、軽やかな音。肉を踏みつける、鈍い音。そして時折、風を切る音と、叫び声。


「あなたは…役には、立つか」


 風切り音が中途半端に躊躇い、そんな声が聞こえた。足音は、扉に向かった。扉が閉じて、ようやく終わった。

 周囲は凄まじい臭気と熱で、息ある者も、己が生者の世に留まったとは、とても信じることができなかった。

 徐々に立ち上がる人々の中に、傷を負いながらも、爛々と目を光らせるローレンスがいる。



 子どもは、狂いはしなかった。

 けれど、少しばかり、壊れてしまっていた。


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