3.レベッカ様の思いつき
――そうは言っても。
常には城の奥深くに生息する王女殿下が、突如「出かけますわ!」と宣っても、話はそう簡単ではない。外出許可もなければ、先方の許可もない。そして最も深刻な問題は、王女殿下がそんなものを必要としてはいないことである。あるのは「サティリスの魔王」の異名のみ。
クロエはうんうんと頷いていた。「さすがツン子さん、お付きの人たちが可哀そう!」
「可哀そうなんかじゃありませんわ! 勝手についてきて迷惑ですの」
二人の後ろに続くのは、とっさの事案にも即座の対応を誇る生え抜きメイド三人衆と、入口の警備をしていた騎士一名だ。
「それにしても随分と遠いですわね! 馬車を出せば良かったですわ」
「ツン子さん、ここ屋内だからね。馬車は屋内を走れないから」
「まあ、外に出ますの?」
「いやお前はどこに行く気だったんだよ…」と思わずこぼすのは、クロエの腕の中の子狐だ。
「大丈夫、遠くはないから」とクロエはまともに取り合いもしない。
ぎょっと飛びのく人々を置き去りに、一行は我が道を行く。
「訓練場と言っていましたわね。いったいどこにありますの?」
「ツン子さんってさ、何か知ってることがあるの?」
「まあ…」
何が「まあ」なのかは分からないが、レベッカは頬を染めて扇を忙しくさせた。その様だけを切り抜けば、まさしく女神のごとく麗しいのだが――ちょうど門扉をくぐり抜け、澄んだ光を受けた様などは、壮観なまでの美の極致なのだが――それが極まるほどに、残念さが先鋭化するレベッカ様である。ふんっとあごを逸らして「何にも知りませんわ!」
「…訓練場というのはつまり、魔術師協会の聖サティリス王国支部に向かうんだって言って、この意味わかる?」
「意味ってなんですの?」
「…わかった。確認しよう。大陸の勢力は、大きく三つに分けることができる。国家と、魔術師協会と、精霊教会。3つは基本的に相互不可侵。ここまでは大丈夫?」
「ふん、造作もないですわ!」
「…うん、そっか。…たとえば私。大陸の正道を行く魔術師は、協会に所属しなければならない。その道を選ぶ以上、私はこの国の国民である前に、協会の魔術師ということになる。だから、書類上では、協会からサティリスに貸与されている形になる」
「…もちろんですわ!?」
「もしこの国と協会が違う命令を出すのなら、私は協会の命令に従うってこと」
「わたくしよりも協会が大事ってことですの!?」
「まあそうだね」
レベッカは床に沈んだ。クロエは隣に座る。「それで」とお構いなく話を続ける。「私が言いたいのは、ツン子さんが乗り込んで行こうとしているのって、そういう不可侵の組織なんだけど自覚ある? ってことなんだけど…」
「そいつ、聞いてねえぞ」
「そうだよね。まあいっか」
「今さらだ」
静かになったレベッカを連れて、たどり着いたのは小さな塔だ。石組みの天辺には旗が翻る。二本の杖と、アザミの花からなる紋章だ。
「魔術師協会の旗ですわね!」とレベッカは胸を張った。クロエはさっさと塔に入った。
内部はがらんどうで、大人5人が手を広げたほどの直径だ。床といい、壁といい、隙間という隙間に細かな文様が彫り込まれ、狭い空間を息苦しいほどに圧迫している。クロエは同行者を確認し、首をかしげた。
「人数が多すぎるね。連れて行くのは二人まで…ツン子さんとメイドさん一人ね」
一瞬微妙な顔をした騎士であったが、壁に張り付き息を潜める人物が「クロエ・モーリア…」と呟くのを聞き、おとなしく受け入れた。そう、彼女はクロエ・モーリアなのだ。彼女がいれば、たいていの脅威には対処できる。騎士は黙ったが、壁の人物は引き下がれない。
「モーリア嬢、そちらの物凄いドレスの超絶美人なんですが…」
「王女様だよ」
「ですよね…あの、どこかに話を通してあったりなんて…」
「しないんだよこれが。でも本人が行くっていうから」
男は虚ろな目をして宙をにらみ、ふっと無機質な笑みを浮かべた。「なるほど、私じゃ手に負えん」それから深い諦めを込めて「あなたには言うまでもないでしょうが、これってひとり用だってことなんかは…」
「うん、知ってるよ」
彼の深い頷きは、一切の疑問を葬ろうとするがごとくだった。
「で、これは何ですの?」とレベッカ。
「近道だよ。見た方が早い」
クロエが目配せをすると、彼は杖を取り出して何事かつぶやいた。箱型の装置に触れ、声の調子を強くする。空気が震え、青い光が明滅した。
「これが許可」
男は空気よりも震え、光よりも青ざめている。ちらりとクロエを見た後、思い切って床を突いた。そこから光が散り、壁中を走り、模様をなぞり、一面に浮かび上がってくる。
「これはおじさんの魔術」
初めは勢いの良かった閃光だが、途中からもたつき、浮かんだ模様がひび割れ始めた。クロエはポーを放り出し、床に手を付ける。一瞬、視界が消し飛んだ。ねっとりとした光――月の雫のような輝きが沸き立ち、場を支配する。
「これは私の補助」
ドンっと叩きつけられるような衝撃が走り、その場の全員が膝をついた。思考が消し飛び、浮遊感に包まれる。それは、ほんの瞬きの出来事。
「はい、これで移動完了」
と、軽やかに跳ねて告げるが、子狐は伸びているし、王女様はへたり込んでいる。異常事態への耐性に定評のあるメイドは、即座に復活してレベッカを助けた。そうしながら、すっかり感心した様子で言う。
「移動魔術ですか。実用化されているとは知りませんでした」
「うちでは昔から使ってたんだよ。それを知った魔術師さんが、誰でも使えるような魔道装置を作ろうとしたんだって。でも、あれだけやって、魔術師が一人決められた場所を行き来できるだけなんて残念だね」
「さすがモーリア家ですね。――レベッカ様、もう平気ですか?」
はっとしたレベッカが、メイドの腕に縋り付く。「世界の果てを見た気がしますわ!」
「いや、さすがにそこまでは行けないよ。行けたら良いとは思うけど。…え、まさか精神だけ飛ばしたとか?」
「それより俺をたすけろよ…」
日差しの元に出ると、ようやくレベッカも驚きを示した。立ち尽くし、辺りを見回している。王城は影も形もない。
「ここは、どこですの?」
「魔術師協会の支部だよ」
「いつの間に着きましたの?」
「今さっき転移魔術を経験したでしょう?」
レベッカはクロエと塔を見比べた。それから満足そうに「随分大きな馬車ですのね!」
「うん、そういうことにしておこうか」
「揺れが激しいのには驚きましたけど、早いのは結構なことですわ!」
「生身の人馬には求めないようにね」
「それでどうしますの?」
二人はじっと見つめ合った。レベッカはうっとりとし、クロエは微動だにしなかった。
「ツン子さんがどうするのかは知らないけど、訓練場はこっち」
あたりは森になっており、少し先には建物群が垣間見えている。クロエが進むのは、それらとは反対の方角だ。やがて、ざわめきが聞こえてきた。視界が開け、途方もなく広大な空間があらわになる。レベッカは息を飲んだ。辺りの人々はその倍は飲んだ。
「なんですのこれ」
「なんだあのド派手な美女は」
ド派手な美女とは、もちろんレベッカ様のことである。なんですのが指すのは、目の前の異様な空間だ。腰の高さまである塀と、屋根を備えた回廊が、縦横無尽に張り巡らされている。空から見下ろしたならば、大地がひび割れているように見えるだろう。回廊に仕切られ、大小さまざまな空間が出来ている。そこには透明に揺らぐ膜が張り、内部で魔術が使われているようだ。だが、その余波は――音や振動さえも――届いてこない。
そこは異質な場所で、彼らはみな選ばれし人間だ。だが、選ばれし人間だって、数が揃えば、所詮ただの人である。ただの人では生き残れない。だから彼らはここに集う。
ではもし、それでもなお選ばれているのだとしたら、それは、いかなる存在であろうか。
少女の瞳は茫漠として捉えがたく、小さな手はつなぎとめるにはあまりに頼りない。そして彼女は、誰の手も取らずに進んでいく。
「さあ、行こうか」