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クロエ・モーリアの非日常  作者: 千川葵
第一部:第5章(グーサノイドとある屋敷)
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27.怖い話

 ノアが不在だと、アランの仕事が増える。そしてノアは、昨日から姿がない。


 アランはひたすら署名をしていた。――判断が必要なものは分けておく。微妙なラインのものもよけておく。そうして残されるのは、ただ署名のみだ。こうなると、量産される名が、親の仇のようにさえ見えてくる。むしゃくしゃしていた。ペンを突き立てる。黒くシミが広がる。アランは真顔だった。


 そのまま時を止め…ため息をひとつ、髪をかき上げた。


 問題は、と胸の内でつぶやく。問題は、ノアに比重が偏りすぎていることだ。

 彼一人で事が足りてしまう。彼一人の判断が最善で、彼一人が最も効率的。――それは確かなのだが。


 眼裏に浮かぶのは、今朝方のノアの姿。正確には、一度ふらりとやってきていた。書類をぱらぱらとめくり、緊急性の高い案件を片付け、いくつかの指示書を残し、再び消えていった。その間、腰も下ろさなかった。もはや現実だったのかも疑わしい。だが事実、仕事はごっそり片付いていた。


 アラン・バルティルスは国王の従弟――先王の弟の子であり、ノアに子がない現状では王位継承権第一位…血の濃い者は他にない。ノアが不在の時には、せめてアランが残らなければならない。


「ホント最悪」


 ノアを助けるという意味でも、面白そうだという意味でも、アランは是非ともクロエ捜索隊に加わりたかった。しかし、ノアを助ける一番の方法は、黙って椅子に座り、辛気臭いご奏上と戯れることなのだ。


 クロエの身の安全など、心配してはいなかった。どちらかと言えば、実行犯の安否の方が気にかかる。かつて彼女が口にした『悪の組織の本部に乗り込んで、壊滅させてやろうと思ったの』という言葉が思い出される。ジャックとの模擬戦を見る限り、クロエはためらいなくやれるだろう。

 ノアに、それくらいのことが分からないはずはない。にも関わらず、捜しに行った。正直なところ、ノアの好意は度し難い。とにかく、何かがひどく興味を引き、好ましく思っているようだ。それならば良い。これからもそう在れるように、手を尽くすだけのことだ。


 ノックが聞こえる。部屋に入ってきた老宰相を見て、目に険が宿る。渡された資料も、聞かされる話も、実に簡明で、卒がなく、腹立たしい。


 また一つ名前を書く。見つめていると、不愉快が募った。丸めて投げつけ、押し殺していう。


「…あと一日だボケ老人。それ以上かかレば、ノア君が望まなくてもボクがお掃除してやる」


 ローレンスは書類を広げ、伸ばし、物のついでに微笑を浮かべた。

 

「なるほど。仰せのままに」


 そう答える瞳に、アランの姿は映っていなかった。




「お姉さまって暇なの? ずっとここで遊んでるじゃん」

「…お前の見張りで休憩すらないが?」


 クロエが自主的に誘拐されて早三日。食事も遊びも不自由しないが、いい加減に飽きてしまった。

 過激な初対面に慄いていたイーニッドも、今ではすっかり馴れ合いダレ合い、似たような顔であくびをかいている。その颯爽とした麗しさに奉った「お姉さま」の呼称も、すっかりありがたみが失せていた。


「そういう割に、トランプからお手玉、お泊り会ごっこまで、ずいぶん楽しそうだったけど」

「…否定はしない」

「お前って素直だよな」

「無駄な労力が嫌いなだけだ」

「そういうけど、ずいぶん甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるよね」

「…仕事だ」

「見張りの? 世話するためにしょっちゅう部屋空けてるじゃん」

「…お前らが出ていこうと思ったら、私がいようがいまいが関係ないだろう」

「なるほど。無駄な労力が嫌いっていうのは、雇い主さんの方針でもあるわけだね」お茶のおかわりを注ぐ。「それにしても、一人くらいメイドさん呼んだら? 頑張ってお茶を入れてくれるのは面白いけど、さすがに飲めないし」

「お前みたいな危険人物に非戦闘員を近づけるか」

「おお」じっと見つめられ、たじろぐイーニッド。「さすがお姉さま。男らしいにもほどがある」

「初対面で床に叩きつけられた上に足蹴にされれば、誰だってそう思うだろう…」 


 自分で入れたお茶も、それほどおいしくはなかった。間違いなく良い茶葉なのだが、扱う腕はいかんともしがたい。ぼんやり香りをかぎながら、すっかり馴染んだ、国王陛下の給仕姿を思い出す。彼こそがプロだ。


「ところでさ。何の目的で誘拐したの? このまま何の進展もないんなら、そろそろ帰ろうかと思うんだけど」

「…それが被害者の台詞か」

「お聞きの通り」


 イーニッドはこめかみを押さえ、これ見よがしのため息をついた。やんちゃ坊主に手を焼く母のような、突き放す気のない拒絶の表明。


「先に教えてくれ。お前はなんでここにいる」

「面白そうだから。日常に刺激を求めて?」

「…存在が劇物のくせして何を言っているんだ…」

「でもそうなんだよ」


 切れ長の目が子狐を見る。イーニッドの信頼が厚いのは、四足獣の方だった。「本当だ」という言葉に、一応の納得を示す。


「何か常人には理解できない企みはないんだな?」

「私は平和主義だよ」

「…ずいぶん暴力的な平和主義だな」

「波風は必ず立つからね。時には力も使うかもしれない。嵐に屈するのは平和主義じゃなくて自虐趣味でしょう?」

 少し間があった。「それはそうかもな」

「で、こっちの質問に答える気にはなった?」

「答えるのは構わないんだが…」


 そう言いつつ、目が泳いでいる。何事か激しく葛藤している。常のイーニッドは、思い切りも良く、決断も早い。クロエもやや姿勢を正した。


「そんなにやばい話なの?」

「どうだろうな。お前が思っているような意味でのヤバさはないんだが、違った意味で思っているよりも相当やばいのは確かで…それは話す方にもダメージがあるヤバさでだな…少なくとも、子どもに聞かせるような話じゃない」

「いや、ちょっと小柄なだけで、もう子どもって年でもないから」


 目を引く長身のイーニッドには、どうしても幼く見えるのだろうと、クロエは考える。それも事実ではあるが、問題はむしろ言動の方だとは、全く思い当たらない。改めて観察したイーニッドは、気が進まないながらも主張を認めた。


「ちょっとした変態が登場する話なのだが、ポー殿はどう思う?」

「大丈夫だ。聞かせて構わねえよ」

「なんでポーに聞くの?」


 不服の視線は無視したが、話をする気にはなったらしい。胸を押さえて呼吸を整える。よしと拳を握る。


「あるところに、とても賢い少年がいました」

「…なんで昔話風なの?」

「ダメージ軽減の為だ」と早口に言い、「少年は平民だったのですが、噂を聞きつけた王様の計らいで、貴族の家の養子になりました。王様に感謝した少年は、王様の役に立ちたい一心で、一生懸命に勉強をしました。朝から晩まで、端から端まで、それはもう貪欲に。そうして勉強しながら、王様への思慕の念を募らせていました。息するごとに、募らせ募らせ…それはもう募りに募って募りまくって募り募り募り」


「怖いよお姉さま」

「だからヤバいって言ってるじゃないか」

 その通りだった。「…続けて」


 咳払いをひとつ。「もはや王様以外の存在価値を認めない少年は、血も涙もない所業で大躍進を遂げました。敬愛する王様の望みは、手段も労力も人道も問わず、どんなことでも叶えました。元少年は、王様の近くに侍り、望みを聞き、叶えることさえできるという至高の幸福に酔いしれ、酔いに酔い、脳みそは溶け、どろどろで原型を失い…おそらくそのあたりで、なけなしの人間性を失いました。彼が思うに、世に存在の価値あるものは、王様と、王様の望みだけでした」


「ポー、寒くなってきたから抱いてもいい?」

「奇遇だな、俺もだよ」


「王様が良い王様であれば、それほど問題はありませんでした。しかし、ある時から、王様は悪い王様になってしまいました。ですが、元少年にとっては、どうでもいいことです。これまで通り、王様と、王様の望みを、崇拝するだけです」


 水をあおり、かすかに震える。唾を飲んで、無意識に声を潜めた。


「周囲は地獄と化していましたが、彼ばかりは、毎日がバラ色です。ですがある日、終わりがきました。王様が死んでしまったからです。それはそれは凄惨な出来事だったと言いますが、目撃者は、誰も口を開きません。死んだのは王様だけではありません。えらい人が、たくさん死にました。彼は生きていました。生きていましたが、背中を深く斬られ、生死の境をさまよいました。その間に、溶けた脳みそが、グロテスクな変形を遂げたのだと、そう思うしかありません。…目が覚めた彼は、背中の傷を鏡に見つけ、それはそれはうっとりと眺め、こう、のたまいました。――聖痕だ」


「お姉さま!」


 とうとうクロエが叫んだ。立ち上がった拍子にポーが飛んでいった。深く息をつき、両手をあげてみせる。


「一旦休もう。なんだか胸やけがしてきた…」

「同感だ」


 お茶はすっかり冷え切っている。お湯を要求すれば、イーニッドはほっとしたように従った。部屋に残されたクロエは、ふてくされるポーを回収し、羽交い絞めにする。


「今夜は眠れないかもしれない…」




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