2.クロエ・モーリア
――クロエ・モーリアは魔術師である
一言で魔術師といっても、世の中には多くの在り方がある。時に崇められ、時に怯えられ、時に蔑まれる。それが魔術師だ。彼女はその全てであった。
――魔術師は実力主義である
原則として、身分による選別はない。ゆえに、切実な羨望の的となる。だが、かすかな光明を見出す者、それを見失わずにいる者、ましてやそれを手にする者など、そうそう在りはしないのだ。魔術師は、人びとが仰ぐ大いなる夢の象徴だ。
――クロエ・モーリアには実力があった
それどころか、彼女は完全に異質だった。死に物狂いの者の間を、涼しい顔で通り抜け、圧倒的な力をもってその名を知らしめた。彼女は力そのものだった。誰一人、疑うことはできなかった。
それでは、そのクロエ・モーリアというのは、どのような人物なのか。
年は17。小柄で、ココアブラウンの髪に、キャロットオレンジの瞳。艶を帯びたオレンジはぼんやりとして、どこか別の場所をさまようかのようだ。時折、鋭利なほどの無関心が宿り、見る者をまごつかせる。触れてはならないものと対したような、そんな緊張を感じさせる。
だがそれは、ほんの一瞬、ほんの一部の人が語るだけのこと。遠めに眺めるだけならば、普通の少女と何ら変わりはない。
今も、城内を闊歩する彼女に、いくつもの目が向けられている。概ね、彼らの瞳は明るい。連れがいる者は、話し出さずにはいられない。――プロエマゴスィ魔法伯の令嬢ですよ! お若いのにたいしたものですね。ところであの話はお聞きになりましたか?
後に続くのは、百花繚乱の体の噂話だ。それはクロエ・モーリア本人にとどまらず、彼女の家系全般に渡っている。彼らの熱意は、現実の人間というよりは、お気に入りの小説のヒーローに向けられるもののようだ。
羨望、好奇、恐怖…そんな感情を向ける者もある。当の本人には、どれも等しくどうでも良いものだった。彼女は一度も足を止めなかったし、一瞥すらも向けなかった。そこに他人がいたことにさえ、気が付いていたのか怪しいものだ。真っすぐ目的地に向かい、慣れた様子で扉を開けた。逆光の中振り返るシルエットは、豊かな髪と華やかなドレスを跳ねさせ、絵画のように美しい。
「クロエじゃないの。遅かったわね! …って、わたくしあなたのことなんて全然待ってないんですからね! 本当ですのよ!?」
黙っていたのなら、完璧に美しいのだが。
クロエは深くうなずいた。「おはよう、ツン子さん」
「誰がツン子さんですの!? 自国の姫でしてよ! レベッカですわ、レベッカ・ヴァレリー・ブランシャール様ですわ! …ま、まさか、わたくしを忘れてしまったんですの…?」
「落ち着いて、ツン子さん。むしろどうやったら、こんな無駄にど派手は迫力美人を忘れられるのかを知りたい」
「美人さんですって! まあ…! 苦しゅうないですわ!?」
椅子から崩れ落ち、地底に向かって叫んでいる。彼女こそ、大陸随一の権勢を誇る聖サティリス王国に綻ぶ大輪の薔薇レベッカ・ヴァレリー・ブランシャール。御年18。その麗しい容貌、高貴なる名を思い出す時、人々の脳裏に浮かぶのが天使ではなく悪魔であるというのが、レベッカ様のレベッカ様たるゆえんである。レベッカ王女というよりも、サティリスの魔王などと言ったほうがよほど通りは良いだろう。
「もう吠え足りた? ところで今日はなんの用なの?」
レベッカは何事もなかったかのように席に着き、大層優雅にカップを取った。
「何って、だって、あなたが会いに来ないから…べ、別に寂しかったんじゃありませんのよ? あなたになんか全然会いたくなかったんですもの!」
「ああ、そう。デレ子さんもおはよう」
「レベッカ様ですわ!」レース張りの扇を忙しなく弄び「これ、そのあたりにあったものを偶然たまたま適当に寄せ集めただけですけれど、食べたいのなら食べればいいですわ!」
と言って示されるのは、テーブルの上の果実である。全く季節感のない品ぞろえが、偶然たまたまそのあたりにあるわけがない。
「うん、ありがとう」
クロエは深く考えなかった。くれるというのだから貰う、それだけのことだ。遠慮なく食べるクロエを、レベッカは肘とため息をつきながら眺めていた。
「俺も誘えよ」と不満を表明したのは、白い子狐。クロエの膝から現れ、前足をテーブルに乗せて不満顔だ。王女殿下が奇声を発して頭を振り乱すが、気味悪そうに眉根を寄せただけだった。メイドたちは慣れた様子で髪を整え始めた。
「誘われないと拗ねちゃうなんて、構ってちゃんだね」
「ちがうわ! 普通誘うだろう! お前には気遣いや真心ってもんがないのか」
「わかんない」
「わかんないって…」
「気遣いとか真心とか、ふわっとしすぎててわかんない」
「今日の今日とてめんどくさい奴だな!」と言いつつ、不敵に口角を上げた。「しかしだな、気遣いのあるなしなら簡単に証明できるぞ! さあ、オレの為にブドウの皮をむきやがれ」
威勢の良い声は長く余韻を残したが、クロエの返事は、それすらすっかり消え去った後だった。
「それって要求だから、私が応えたところでやらされただけじゃない? 気遣いって自主的にするものなんじゃないの?」
「あああもう! うるせえよ! なんて揚げ足取りだ。取られついでに横転するわ」
「ポーすごい、それって精神世界の話? 精神世界の戦いってこと?」
「もうお願いだから黙れよ! そんでどうか皮をむいてください…」
子狐は机に突っ伏して少しだけ泣いた。クロエはやれやれと希望を叶えたが、毛皮で手を拭いたので今度こそさめざめと泣かれた。見かねたメイドが救いの手を差し伸べた。
「それで、ツン子さんは何をしてるの?」
「デッサンですわ」
スケッチブックを抱えたレベッカは、熱心にペンを走らせている。何を書いているのかは聞かない。血走った眼で凝視されたり、やたらに着替えさせられたりすれば聞くまでもないとも言うが。
「これはわたくしがデザインしたドレスですのよ!」
「…王女様にしておくにはもったいない才能だよね」
「まあ、今日は二回も褒められましたわ! 御覧なさい、このティアラも自信作ですのよ! …決してわたくしとお揃いなんかじゃなくってよ!?」
「いやそれはまずいだろう…」
「うん。ツン子さん何考えてるの」
お付きが捧げ持っているのは、レベッカが身に着けているのと瓜二つのティアラだった。小ぶりなもので、彼女が纏うと地味に見えるのだが、むろんそんなわけがない。レベッカ様の前では、真実や常識も膝を折るのである。特に、中央で燦然と輝く精霊石は、どうしたって見過ごすことなどできない。
「…ツン子さん、それいくらするの」
「まあ、いくらですって? おかしなことを聞きますのね」
「…どの辺がおかしいの?」
「いくらか知ってところで、物は変わりませんわ!」
「まあ、そうだけどさ。王女様用とおんなじクオリティって…」ため息をつき、胡乱そうに目を細める。「一番まずいのは、この巨大な精霊石だよ。こんなのどこから見つけてきたの? 盗んだと思われて牢屋行きになりそうなんだけど」
「大丈夫ですわ。わたくし、ここにいますもの!」
「話聞いてた?」
クロエはさっさとティアラを仕舞わせ、お付きを追い払った。レベッカは唇を引き結んで、扇を弄んでいた。それから、いじけた声で「…クロエが困るようなことはしませんわ」
姫様が殊勝だとメイドたちがはしゃいでいる。クロエはすっかり匙を投げた。
「まあいいや。私はそろそろ行くね」
「もう帰るんですの?」
「帰るというか、お仕事だよ。訓練場に顔を出しに行く」
「魔術師の訓練場ですの…?」
力なく画材をおいて、すっかり肩を落としてしまう。
それから急に飛び上がり、今度は咲き乱れる牡丹のごとく微笑んだ。
「そうですわ、わたくしも行きますわ!」
「…は?」何言ってるの、という不審の間であるが、レベッカ様には通じない。
「そして凛々しいクロエの姿をこの目に焼き付け…い、いいいえ!? 別にあなたを目当てに行くのではありませんのよ! …そう、わたくしもお仕事ですわ! 民草を労いに行くという、つらく厳しいお勤めに向かうのですわ!」
「ああそう」
クロエは椅子から飛び降り、メイドの膝で寛ぐポーを回収した。軽く息をつくと、好きにしなよと肩をすくめる。
王女様は元気よく拳を突き上げ、快哉を叫んでいた。