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クロエ・モーリアの非日常  作者: 千川葵
第一部:第3章(グーサノイド城下)
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11.治癒魔術

 『精霊の木箱』は、会衆席と寝台が置き換えられた、むき出しの教会だった。その寒々しさは、えぐられた壁の暴力性――聖具や装飾を撤去した際の、乱暴で無神経な傷跡故だろう。だが、それにもましてぎくりとさせられるのは、傷ついた人々の疲弊したため息だ。聞く者を動揺させる、虚飾を失った悲嘆の声。


 それでも、少なくとも、彼らは見捨てられてはいない。一見したところ、望みうる限りの手当を受け、備品も行き届き、十分に清潔だった。


「随分と立派なところだね」クロエは素直に感嘆した。

 先導する女性が嬉しそうに応ずる。「そうでしょう? 平民の為の医療機関…それもこんなに立派なものなんて、大陸中探したって他にはありませんよ!」

「うん。私は見たことない。…ところで名前は?」

「アンナです」

「アンナ。私はクロエ」

「クロエ様ですね。ところで陛下とはどういう関係なんです?」

「クロエでいいよ。丁寧にしなくていい。今はただの居候だし」

「つまり同じ屋根の下ね」アンナは満足気にうなずいた。「それではクロエちゃん。今日はどんな用でここに?」

「私には用なんてないよ。あれに付いてきただけ」


 あれ――もとい、国王陛下は、扉の向こう側にいた。未だ座り込み、涙ながらの悔い改めに専念している。子供が枝でつついているが、気付きもせずに祝詞を連ねる。毎度のことながら、異様なほどに見事だ。クロエは聞き入った。カバンから顔を出したポーが、ぼそりと「あれはあれで効果があるのがまた…」


 アンナがぎょっとする。クロエは抗議する頭を押し込んだ。少しの間、牽制を含んだ沈黙が落ちる。


アンナはためらいがちに「…あの、ね。可哀そうだから出してあげなさいな」

「みんなびっくりしない?」

「それは、ねえ…まあでも、陛下の連れだって言えば納得するわよ」


 ポーは溺れた人のように飛び出し、クロエの頭上で乱れた毛を振った。迷惑そうに払いのけるのを見、少しは気が収まったらしい。子狐は尊大に手を突き出す。「あんたのお陰で助かった! ポーだ。本当はもっと立派な名前があるんだぞ」


「ああ、これはどうも。アンナです…?」アンナは狐につままれたような顔をしているが、今のところつかんでいるのはアンナである。


 そうこうしているうちに、子供がノアを連れてきた。小さな連れに手を取られ、今にも転がりそうにつんのめっている。

 クロエはおやと見まわした。ノアが現れると、一瞬、空気が張り詰めたように感じた。ただしそれは、真綿の奥から響くような鈍い緊張で、警戒した猫が再び目を閉ざすように、そろそろと溶けていった。クロエは視線をめぐらし、首を振った。


「まあいいや…ところで何しにきたの?」

「そうでした! お待たせしてすいません。すぐに取り掛かります! ――アンナさん、作業中はクロエさんのお相手をお願いします。退屈だと思いますので…」


 手を振る子供を後にして、三人と一匹は奥に進んだ。


「実を言うと、一度はクロエさんに来て頂こうと思っていたんです」

「というと?」

「お恥ずかしいことに、この国は魔術についての知識が本当に乏しいんです。なので、僕の処置が正しいものなのかどうか、確認して頂きたくて」


 扉の向こうはかなり広い。壁を破り、房室をつなげたらしい。中には10名ほどの病人が眠り、衰弱しているのが見て取れる。医療の心得はなかったが、クロエにも判断がついた。


「これ…魔力中毒?」

「ええ、そう聞いています。指摘してくださった方が、薬草の調合をご教示してくれました。お陰でなんとか治療ができています」

「…街中で自然発生するようなものじゃないけど」

「井戸に何か入れられたようですね。そちらの対処は終わっています。ご心配はいりません」

「死者は?」

「5名。発見は早かったのですが、体力のないご年配や子供は間に合いませんでした。ここには、特に症状の重い者を集めています。別の部屋と合わせて、現在27名が入院中です」


 クロエは問いをやめた。ねじくれた奇妙さに興味を覚えた。この事態についてではない。魔力中毒などは珍しくもない。自然であれ人為であれ、魔力が滞留すれば容易に起こり得る。だが、ノア・バルティルスという人間はそう容易くいかない。感傷的な人間も、内罰的な人間も、いくらでもいる。彼もそのうちの一人だと思っていた。しかし、感傷がこれほど淡々と死を片付け、内罰がこれほど粛々と実務を遂行するだろうか。


 クロエが黙ってしまったので、代わりにポーが疑問をあげる。「薬草はそれほど万能じゃないぞ。魔力中毒が重篤化するのはせいぜい1割だが、そうなれば完治は難しい。5人で済むわけがないだろう」

「ええ、薬草だけでは助けられません。なので僕が手を加えているのですが、素人の浅知恵ですし…専門家の意見がほしくて」


 クロエの注意を促し、一番手前の患者に近づく。腹を露出させ、直接に手を触れた。慎重に、細やかに、詠唱する。


 ――ぞっとした。まるで、世界から引きちぎられ、新月の底に放り込まれたようだ。


 おそらく、アンナには何一つ聞こえていない。薄い唇が震えるのは見ただろう。もしかしたら、艶のある微風が踊り、彼の身を覆っていく様を、ほんのかすかに知覚できたかもしれない。だが、その手の先に風が凝るのは、それが金色に輝くのは、そして滴り落ちる蜜のようなそれが、ぱちぱちと弾けるのは…断じて知れたはずがない。


 アンナは神妙な面持ちで背筋を伸ばした。が、驚いている様子はない。彼女にとって、珍しくもない出来事なのだ。


 クロエは息を止めていた。ポーを乱暴に抱き寄せたが、子狐もされるがままだった。胸の奥にくすぐったいうねりが生まれ、めぐるごとに熱を帯び、心臓を突き上げる。気が遠くなり、苦しくあえぐ。なんとか取り戻した呼吸は、戦慄きに乱れていた。踏み出す足が遠い。地面は頼りなく歪む。それでも進まなくては。眠る人と、かしずく人を、かすむ視界で見下ろした。手を伸ばし、震えた。うるさい鼓動が音を遮る。しかし、彼の詠唱は鮮やかだ。端正で、静謐だ。とうとうクロエはへたり込んだ。ノアははっと口をつぐむ。アンナが駆け寄る。


 彼らが何を言っているのかも理解できないまま、クロエは、茫然と呟く。


「治癒、魔術…?」

「ああ、完璧にな」


 応えるポーの毛は逆立ち、顔は引きつっていた。

 衝撃から回復すると、泡を吹くノアの腕にしがみつき、無理やり座らせた。にじりよって顔を覗けば、両手で覆ってしまう。その様を観察していると、徐々に現実の感覚が返った。クロエは大きく息をつく。


「…誰に教えてもらったの」

「な、なにをですか?」

「治癒魔術。そんなの誰に習ったの」

「え、と…本、とか」

「…本?」

「あ、あとは、実践…?」


 ノアは曖昧に笑った。クロエはしばらくそれを眺め――拳を床に打ち付けた。


「なめてるの!?」


 ノアは怯え、ポーまでも目を丸くした。クロエは怒っていた。苛立っていた。飢えたように、求める衝動におぼれていた。ノアの手を力づくで払いのけ、胸倉をつかむ。


「良いことを教えてあげる。私、割と顔が広い方だし、高位の使い手はだいたい把握してる。そんな私の知る限りで、治癒魔術の使い手はこの大陸に二人しかいない。そのうちひとりはおじいさま。もうひとりは精霊教会の教皇猊下。そう。そしてあなたは3人目ってわけ。で。それが。本で習った! 人間に知覚できない言語を、文字で読んだっていうの? なにそれ、馬鹿にしてる。もう少しマシな嘘をつきなよ。だいたい、わかってるの? 治癒魔術は精霊の権限じゃない! つまりあなたは――」


「あーあーあー」文字通り二人の間に割って入ったポーが、クロエの額を遠慮なくしばいた。「落ち着けお嬢ちゃん。このダ王が魔術の常識を知らんのは、たぶん本当だ」


 ノアは激しくうなずいた。首が吹っ飛びそうなくらいうなずいた。


「でも…」

「でもじゃない。無抵抗の相手に暴力を振るうなんて最低だぞ」

「…なぐってない」隠すように手を離すと、支えを失ったノアがひっくり返った。

「傷を作らなければ良いってわけじゃない。それに、クロエはこのダ王に何か酷いことをされたのか?」クロエは首を振る。「それならどうするんだ?」

「…ノア君、ごめんなさい」

「あ、いえ。本当に。お気になさらず」なぜかノアの方が申し訳なさそうだ。

「狐が人間を諭してる…」傍観していたアンナは、こらえ切れず肩を震わせた。


「よし。それからクロエ、ここが病人の施設だってことを忘れたのか? 優先されるべきは病人だ。邪魔をするな。むしろ手伝え」

「手伝っていいの!?」


 一転して両手を握りしめられ、ノアは顔を赤くする。「もちろんです…」

「わかった。さあ、じゃんじゃんやっちゃって!」


 クロエは病人に張り付き、期待に満ちた目で催促した。

 全員の治療が終わる頃には、ノアはボロ雑巾と化していた。それをしり目に、クロエはつやつやと満ち足りた顔をして、幸福の熱い吐息をはいている。


「ポー、私は当分、この国に残るよ」


 家主が床に沈んでいるうちに、誘拐されてきたはずの被害者は、意地でも居残る決意を固めていた。


 おそらくこの瞬間が、幼い日から、一人で戦うことを余儀なくされてきたノア・バルティルスにとっての、人生の転換点だった。その意味するところが、繁栄か、破滅か…もしかしたらそれは、あくびをする子狐の教育手腕にかかっているのかもしれない。


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