幕
その後。
旧ヴァドステンでの戦いに関しては、集結した叛乱軍を鎮圧したものである、という説明に終始し、それ以上のことが公にされることはなかった。
敵であれ味方であれ、戦場に居合わせた者であれば、そのような説明で納得できる訳もなかったろうが、幸いにして、深い事情に立ち入ろうとして民心の不安を煽るような者は現れずに済んだ。
ともあれ、この戦いの後、しばらくは王国を脅かすような脅威はなく、人々はようやく平穏に手を届かせることが出来たのだった。
それは、多くの犠牲の上に築かれた平和である。悲しみは決して少なくはない。それでも、故人の死を悼むだけのゆとりが与えられるのも、平和の恩恵に違いなかった。
正妃メルエーヴェは多くの戦死者、戦争被災者の為に喪を発し、彼らを弔った。喪が明けた後も彼女は残された者たちをよく保護し、そればかりでなく臣民の為に幾つもの施策を打ち出していった。
そうして時は流れ、やがて戦争も過去のこととなった。あえて旧ヴァドステンの戦いに言及する者ももはやいない。ただ、自ら最後と宣した戦いの後、一向に姿を現さないヴァスガルトの安否に関しては、巷で様々に囁きが交わされていた。
実際には、彼は死んではいない。だが、もうそれと大差もないようであった。今では彼は廃人然としてもはや人前に出せる姿ではなかったのだ。メルエーヴェは彼を王宮の奥に置き、実際には幽閉しているのと同じ扱いをしてしまっている。始めは他愛のない噂話であっても、何年も王が姿を現さなければ、それはやがて真実味を帯びていった。そうして噂は王国の外へとも流れ、そして、一人の男を動かすこととなる。アザフ=マイエ王ユルベナフ。停戦の陰でじっと機を窺っていた彼は、これを真実と見るや直ちに兵を動かし、中原侵略の為に兵を起こした。
力を蓄える時間は充分に与えられていた。ユルベナフは緒戦から大軍を動かし、怒濤の進撃によってゼファン、ウィーゼンを併合、ウィーゼン公タナヴィス=ヴィセルを捕らえて、かつて一時なり自国領としていた旧ウィーゼン大公領を回復させてしまった。
非道の王は更に大軍をウィーゼンに送り、かつてヴァスガルトがそうしたのを巻き返すように、スウォン=ジュナ王国へと短期決戦を挑もうとする。だが、帝国の版図は後にも先にも、これ以上拡げられることはなかった。
国の支柱たるヴィセル公を欠いたことで、侵略を待たず瓦解するかと思われた王国軍は、しかし二つの新星――王と竜の血を継ぐ二人の王子、ベオレフスとザルマーオという勇士によって甦った。
若き二人に指揮された軍は瞬く間にウィ―ゼンを奪回、更にはヴィセル公奪還という離れ業をもやってのけた。それに留まらず双王子は難進不越と恐れられたダファルマン山脈を踏破、この困難な道程でベオレフスという片翼を失うも、最大の難関たる港都リュッセドを背後から攻略、帝国領侵攻の橋頭堡を築き上げた。
ゼファン―リュッセドの海路を確保してしまえば、国力において帝国を遥かに凌駕する王国がこれを屈服させるのにはもうどれほどの時間も要さなかった。
帝国はその領土の北部、及びそこに内包される帝都ラダウェルスを占領されるに至り、無条件降伏を宣言。皇帝ユルベナフ=マイエは捕らえられ、一族郎党共々処刑されることとなった。
その快進撃をよそにヴァスガルトが王位を末子オスドウェルに譲る旨遺言を発したのは、ザルマーオが大陸統一の報を彼の待つ王宮にもたらしたのと機を同じくしてのことであった。
初代王はそのまま息を引き取り、またザルマーオも彼の寝室の閉ざされた扉の前で不可解な怪死を遂げたという。
この時にはすでにクレヴィオ、ヴェレスという二人の王女もこの世を去っていて、次代の王の座には、ヴァスガルトの遺言の通り、少年王オスドウェルが据えられることとなった。それは実際には、息子の後見役としてメルエーヴェが実権を保持するということである。女王の独裁に反発の声も少なからず聞かれたが、しかし彼女は巧みにこれを封殺し、臣民に対しても善き母であり続けた。
この頃には最大の政敵は、王国初期から布教権を濫用して勢力を拡大させたナバニール教団――つまりはサルディエ=ローデンウェリであったが、謀略に長けた彼であっても、メルエーヴェを権力の頂点から追い落とすことは困難であった。
しかし、そのメルエーヴェも所詮は人の子、迫り来る死に抗えるものではない。彼女が齢五十を目前に天寿を全うすると、残されたのは繰り手を失った傀儡――王の持つべき徳を悉く欠いた愚昧なオスドウェルのみであった。
彼はサルディエが手を下すまでもなく、自ら失政を繰り返して王家の声望を失墜させていった。結局、母の死後半年を待たずに彼は王座から引き摺り下ろされてしまう。
それから、一年半の空位時代が過ぎる。光輝を失い地に塗れた玉座を継いだのは、ヴァスガルトの孫にあたる善良朴訥なる若者、ラティアルト=マージュであった。
ジュナの家名を継いでいないのは、母の死に因する諸々の不幸な事情による。幼くして母ヴェレスを失い、父共々メルエーヴェによって宮廷から遠ざけられていた彼であったが、オスドウェルを除けば、彼が唯一の血族である。女王なき今、彼が王位を継ぐことは自然な流れであったといえる。
しかし政治において、自然な流れほど不自然なものはない。自身の派閥を持たず宮廷で孤立無援となる彼に手を差し伸べたのは、ナバニール教団教主サルディエであった。自身も敬虔な信者であったラティアルトにとっては、さぞ頼もしい後援であったことだろう。
彼にはメルエーヴェのような巧妙な政治技術はなかったが、しかし教団の綿密な情報網が活かされ、また自身の誠実さもあって、よく臣民に支持されていた。三代王の時代こそ黄金時代であると評する者もいた。
しかし、平和は脆く平穏は儚い。
周到な準備を以って王家を糾弾したのは、他でもない教主サルディエであった。巧妙に操作した民衆の声を追い風に彼はラティアルトとオスドウェルを処刑台に追いやり、新王家を立てて教団の傀儡とした。
旧王家派と新王家派、この対立が、再び大陸を戦火の朱に染め上げてゆく――
ダロウェに築かれた王の陵墓には、竜殺しの勇名からとって屠竜王と刻まれている。
彼がダロウェに兵を興してから大陸統一までに要した時間はおよそ二十年余り。それにより得られた大陸の安らかな平穏もまた二十年余りのことであった。
果たして、彼の為した功績の価値とはいかばかりのものであったのか――それを量れる者は、いない。




