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「……ティレイ。ティレイ?」
初めは遠く聞こえた呼びかけが、段々と近くに聞こえてくる。やがてそれはずっと近いところから聞こえるようになり――そうして、ティレイは目を覚ました。
「――なっ!?」
何をしてるの? と怒鳴りつけようとしたものだったが、しかし頭の中を掻き回すような逆凪の激痛に遮られ、それはろくに声にもならなかった。
気が付いてみれば、彼女は今、ヴァスガルトに背負われていたのだった。彼はそうして先ほどから地下都市をあちこち彷徨い歩いていたもののようである。
何をしているものかと思えば、
「おお、ようやく目ぇ覚ましたか。これでやっと出口が分かる」
……出口を探していたもののようだ。
「悪いけど……出口なんて知らないわよ、あたし」
ぴたり、と足が止まる。
「それより、……正気なのね。どうして?」
「正気? 俺はいつだって正気だが?」
「寝言はいいから」
「…………。んー、どうして、ってもな。俺ももうクルヴォレクに乗っ取られたまんまかと思ってたんだが。どうしてだろな?」
ヴァスガルトがメリーシャヤを倒した、というのは表現として正確ではないだろう。なぜならその時ヴァスガルトはクルヴォレクという強大な力に存在そのものを委ねていたのだから。正確を期すなら、魔女を倒したのは彼ではなくクルヴォレクである、というべきであろう。
この時、ヴァスガルトの魂はクルヴォレクに呑まれたといっていい。暴竜に体を譲り渡した、と言い換えることも出来よう。ともかく彼としては、人間として正気を取り戻す、ということは全くもって期待していなかったのだ。
しかし、彼は今こうして存在を取り戻している。暴竜に呑まれて後の状況など知りようもないから、彼にとってすれば不可思議という他にあるまい。
「そんなの、あたしが知る訳ないじゃない。何でも聞けば分かるって思わないでよ」
確かに知る訳はない。だが、想像することならば可能である。
暴竜とて、無尽蔵に力を蓄えている訳ではあるまい。何といっても、今は実体を持たず彼に憑依しているだけの存在であるのだから。であれば、その存在がメリーシャヤとの対決で消耗された、ということもありえなくはないだろう。魔女の仕掛けた術と何がしかの干渉を起こした、ということもあるかもしれない。
しかし。
暴竜と魔女が共倒れになって、ヴァスガルト一人が無事に生還する、などと都合のいいことが起こるものであろうか。言いようのない不安が、頭の隅を過ぎる。
「んー、ま、奇跡ってことか」
「奇跡ねぇ。……まぁ、便利な言葉だこと」
呆れて溜息をつこうとしたティレイだったが、しかしとんとんと体が揺すられて満足に息も吐けない。ヴァスガルトが再び歩き出したのだ。
「ちょっと、どこ行くの?」
「どこ……って、早いとこ出口探さないと駄目だろ?」
「いやまあそうなんだけど。――って無駄よ、待って、無駄なの。死者の都ってのは生者が立ち入らず、また死者を迷い出させず、というのがお題目だから、出口も入り口もないの。探すだけ無駄なのよ」
とうに処刑されているはずの身で、メリーシャヤと刺し違えるつもりであったからこそ、ティレイもこの場にまで同道したのである。当然、彼女もまた生き残ることなど考えもしていなかった。だから、こうして生き残ってしまうと、もうどうしたものか分からなくなってしまう。
だが、ヴァスガルトはそこまで殊勝な性格はしていないのだろう。ティレイに言い聞かされても、まるで諦めてくれる気配もない。
「っても、こんだけのもん、造る時には出入り口はあったはずだろうからな。どっか塞いだ跡くらいはあるんじゃないか? 外に何か合図が出来れば、掘り出してくれるさ。
……なあティレイ、もし――もし、お前に娘が出来たら、俺の息子に嫁がせちゃくれないか?約束だ。な、いいだろ?」
莫迦なことを言うものだ、とティレイは鼻で笑った。メリーシャヤとの繋がりこそないとはいえ、この忌まわしい魔女の血を後に残す訳にはいくまい。そのようなことをしては、こうまでしてメリーシャヤを倒した意味もなくなってしまうのだから。
「諦めるなよ? お前だって幸せにならなきゃな。そうでないと、フォルティスとの約束も破ることになっちまう」
笑ったきり何も言わないティレイの心情を推し量ったものか、呟くようにヴァスガルトが語りかける。
「約束、ね。そんなのあたしの知ったことじゃないんだけど。――ね、そういえばあたしを側室に入れるのも悪くないって言ったわよね? あれは、どこまで本気だったの?」
少し意地悪くなって、尋ねる。一拍、沈黙が流れた。
「あー、そんなこと言ったっけか? んー、……そりゃ本気で言ったんだよ。側にいて貰いたいって、今でもそう思うぞ」
そう言う彼がどのような表情を浮かべているのか、背負われたティレイに覗き見ることは出来ない。ただ、その言葉には嘘はないのだろう、とそれだけは確信が持てた。何といっても長い付き合いである。
「ふーん。なら息子の嫁だなんて回りくどいことしないで、はなからそうすりゃいいじゃないの」
僅かに浮いた声で、挑発するように言う。が、ヴァスガルトの反応は意外に冷淡であった。
「そうしたいのは山々なんだけどな。駄目なんだわ、御免な」
え?――と問い返そうとして、そうしてやっとティレイは気付いた。ヴァスガルトの背中が、異様な熱を放っているという事実に。朦朧としていたとはいえ、今まで気付かなかったのが不思議なほどだ。それは到底、常人が堪えられる体温ではない。
「ちょっと、ヴァスガルト?」
「黙ってろよ。いいから」
「そんな訳にいかないでしょ? 降ろして! 早く!!」
狼狽して背中から降りようともがくティレイを、しかしヴァスガルトはどうあっても降ろしてやるつもりはなかったようだった。それからはろくに言葉も交わさず、黙々と歩を重ねてゆく。
ティレイの呼びかけはいよいよ狂気じみてきて、ついには悲鳴へと変じていった。そうしてそのうちにヴァスガルトは倒れ、少女は逆凪の痛みなどないものかのように、一人出口を探して彷徨い歩いた。
どれほどの時間が経ってのことだっただろうか。全く見当外れのところから道が開かれて、二人はようやく救助の兵らの手によって外界へと運び出された。
外にいたのは、ただ疲れ果て、呆然とした兵士たちばかりであった。
王は勝利し、その長い戦いを終えたのだ――ティレイはただそのように彼らに告げた。
鬨の声も何もなく旧ヴァドステン城都とその周辺は静かで、誰もそこで起こったことの顛末など理解出来はしなかった。
ただひとつ印象的だったのは、戦いが終わったと聞かされた彼らが浮かべた、安堵の表情であった。




