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愛妾キャレリがザルマーオに続き二女クレヴィオを出産したこと、また正妃メルエーヴェが王子ベオレフスの次の子を宿したということは王国にとってこの上ない慶事であったが、しかし、それも平和の象徴と言わしめることは出来なかった。
アザフ=マイエ帝国との停戦は有効で、大きな戦闘はそれ以来経験されていないが、しかしそれとは原因を異にする小規模の戦いが王国各地で起こっていたのである。
その殆どは、レスレンティオ王国への回帰を唱える叛乱であった。ラズモーヴ王や王子フォルティスという正統の血族はもはやこの世にないから、恐らくは大公領単位での独立が本懐であるのだろう。マレーヴ=ターニオス、ヴロク=オーゼンのように新王国で重用されているかつての大公の領地では反発というほどのものはないが、その他ムオゼト、ウィーゼン、ヴァドステン旧大公領は完全な武力制圧を受けた土地であるから、強引な占領施策への反発は避け難いものとなっている。
戦争によって絶えず国外へと向けられていた臣民の目が、停戦によって国内に転じられたということもあるだろう。メルエーヴェがいかに政治手腕に長けているといって、神ならぬ彼女に万民を平らかに収めることが出来る訳もないから、どこかしらに不満がわだかまるのも無理からぬことではある。しかし、この叛乱の頻発はそれを鑑みた上でも不自然なことこの上なかった。
扇動者がいる――その想像は妥当である。
この頃には帝国の監視と牽制の役を兼ねる意味でウィーゼン領主に封ぜられていた重臣タナヴィス=ヴィセル公爵を除いた他の諸侯に対し、メルエーヴェはこれの鎮圧と共にこれの扇動者を見出して捕らえるようにと王命を発し、王領全土に徹底的な捜索網を敷かせてみせた。だが、そこまで手を尽くしたというのに、彼女の力では尻尾を掴むことすら叶わなかった。
この事態に際しても、王国の要たるヴァスガルトは我関せずという態を崩さずにティレイの下での修行に専念した。自身が表舞台に立たないこともまた民心の動揺を招いていることは承知していた――この間には、正妃や愛妾との不仲説から王の死亡説まで、不敬極まりない憶測の数々が無節操に囁かれた――が、それでも彼は現状打開への最短路を選択していたのである。
やがて、メルエーヴェがベオレフスの弟妹として双子のオスドウェル、ヴェレスを出産した頃には、明らかに毛色の違う新しい噂が様々な場所で囁かれるようになっていた。旧レスレンティオ王国最後の王妃メリーシャヤが、何処かの土地にて王国の再建を図っている、と。
それまでに流れた噂は幾つもあったが、しかしメルエーヴェはそれらを余さず網羅し、危険と思われるものに関しては確実にこれを封殺してきたのだ。が、この噂だけは出産と機が重なったために手を回せず、しかも尋常ならざる速さで広まっていってしまい、彼女でさえ収拾をつけることが困難であった。
単なる噂で済めば何の問題もなかったのだが、これは臣民以上に、王家への敵対者に絶大なる効果を及ぼしていた。叛乱を起こすも悉く鎮圧され、疲弊し絶望の淵に立っていた各々の叛乱軍の結集、或いは動かずとも旧王国への忠誠を捨てずにいた貴族、豪族の合流――そのようなことがまるで示し合わされたように起こったのである。
混沌としたうねりは堰を切って流れ出し、渓流がいつしか大河へと変わるように、集合また集合という風にして一点へと集められていった。そこは、表向きにはレスレンティオ王国の象徴たる大都、裏を知る者には魔女メリーシャヤの膝元である場所であった。
災厄以後、最も目覚しい復興を遂げ、人々に花の大都と言わしめた城都。旧王国の遷都によって更にその華やかさに磨きをかけながら、しかし叛臣キュクノス=アダンの失政によって見る影もなく荒廃した背徳の街。
廃都ヴァドステン。
結集した叛乱軍は数万の規模に達し、眼前に築かれようとしていた新王都を脅かそうとしていた。
しかしその頃にはヴァスガルトは集められるだけの兵を新ヴァドステンに集結させ、この示威行動に対抗していた。
遮るもののない平原を挟み、南北新旧の王都ヴァドステンに分かれて対峙した両軍は、一触即発の緊張をそれぞれに孕んで休まらなかった。
史上最大の決戦――その幕は今この瞬間にも切って落とされようとしていた。
「これは、忌まわしき過去全てとの対決である!」
進撃を前に高ぶる兵たちの前に立ち、ヴァスガルトはそのように語気荒く言い放った。
この戦いは民心の中に残る旧王国信奉を払拭する為のものであると共に、メリーシャヤ――恐らくは災厄の時代から歴史を陰で操ってきただろう魔女との決戦でもあったからだ。
後者に関しては、彼は敢えてそれを兵や臣民に告げようとはしなかった。悪戯に不安を煽りたくなかった、ということもある。だがそれ以上に、そのようなものは初めからなかったのだ、と思わせておきたいというのが彼の正直なところであったからだ。
彼はこの戦いが自らの最後の戦いであると言い、だからこそ決して敗北は許されないのだ、と断じた。
最後、という言葉に一瞬は動揺が走ったものの、歴戦を経た彼の兵たちは確かにその呼び掛けに応え、激しい号を返した。
進軍――間を置かず敵軍も侵攻を開始し、両軍は鏡写しのように陣を組んで向かい合った。数で劣る叛乱軍がこのような行動に出るのは無謀であるが、しかし荒れるに任せた旧ヴァドステンでは篭城もその意味もなさないから、選択の余地はなかったというべきであろう。
そして、衝突。交戦は二度三度と繰り返されたが、しかし趨勢は一度目の交戦ですでに決してしまっていた。軍といったところで、叛乱軍など所詮は烏合の衆。寡兵を利した奇策を用いてのゲリラ戦法であればこそ善戦していられたものの、このように正面からぶつかってしまえば、正に百戦錬磨の新王国軍の敵ではなかったのだ。
統制を欠いた叛乱軍は、しかしそれでも果敢に抵抗を繰り返したが、ついに四度目の交戦に至って敗北を認め、戦場に膝をついた。
どれほどの被害もなく勝利を得た新王国軍は投降した叛乱軍将兵を捕縛し、いまだ抵抗の意思を捨てない残党どもを狩り出そうとしている――そんな中、異変にまず気付いたのは誰であっただろうか。
身を竦ませるほどの悪寒に、いつしか敵味方もなく、彼らは一様に同じ方向を振り仰いでいた。
ざわり、と不穏な音が響いたかと思うと、旧ヴァドステンの深い闇の中から溢れ出してきたのは、常世ならざるものたちの禍々しい威容であった。
蝙蝠の翼を生やした獅子、口元を火の舌で赤々と照らした蜥蜴、醜く太った巨人――その他雑多な妖鬼魔獣の類は、黒い津波の如く城都から溢れ出すと、次には混乱する新王国軍へと怒濤の如くに襲い掛かってきた。
もはや叛乱軍も正規軍もなく、人々はただ不意の脅威に晒され逃げ惑うばかりとなったが、しかし、彼が動いたのは正にその時であった。
「隊列を乱すな! 戦闘はまだ終わっていない。油断は死を招くぞ! だが忘れるな、勝利を掴むのは我々以外の何者でもないのだということを!!」
力強く発せられた号は恐慌をきたした兵たちの腹にまで重く響き渡り、確実に正気を取り戻させた。
と同時、兵間を割って進軍を始めたのは彼、ヴァスガルト=ジュナに率いられた近衛兵の一団であった。
瞬く間に前線に踊り出た彼らは、旧ヴァドステンの城門前を埋めた魔獣どもに躍りかかり、戦端を開いた。ヴァスガルトもその後方で足を止めると、身の丈を越す強弓を引き、上空に翼を広げて旋回する黒い影を、一つ、また一つと射抜いていった。
その雄姿を見るに、兵たちも戦意を取り戻し、次第に戦列に戻り始める。まともに戦えば人間
の敵う相手ではなかったが、しかしそれでもここに数万の兵が揃っていることもまた事実である。数を頼みに反攻を開始すると、次第に彼らは先までの勢いを取り戻していった。
「よし、ここはもう大丈夫だな。近衛は俺に続け! 残りの者は俺たちが戻るまでここを死守しろ、いいな!?」
丁度矢を撃ち尽くしたところで、強弓を捨てたヴァスガルトは剣を抜いて旧ヴァドステンの城都に突入してゆく。近衛兵は彼の後に矢尻の隊列で密集し、彼の作った道を更に広げてゆく。それに護られるようにして、ティレイがただ一人後に続いていった。
形もろくに残っていない城門の跡を通り抜けると、空気が途端に暗く重苦しいものに変わる。
それは雰囲気というような穏やかなものではなく、明らかな質感をもって彼らを圧迫してきていた。
「お、静かなもんだな? 出迎えの一つもあるかと思ってたのによ」
そのようなものは感じていないというように涼しい顔で呟いたのはヴァスガルトだ。常人には耐え難い見えざる圧迫もなきが如く振る舞えるのは、一つには暴竜の血の力であり、一つにはティレイの鍛錬の成果であった。
周囲には、彼らの他に動くものはない。妖鬼魔獣は全て出払っているらしく、だからといって以前のような死霊の歓迎もないようだった。
「前座だけでも充分盛り上がったと思うんだけど。あんた、どうでも暴れないと気が済まないの?」
呆れて、ティレイが後ろから彼に蹴りをくれる。涼しい顔をしているのはヴァスガルトの他には彼女くらいのもので、兵長のダルアムを始めとする近衛の面々は、彼らもティレイの鍛練の賜物で魔都の気配に呑まれこそしなかったが、しかしこれに耐えるだけでも心身の力を削がれていっているようだった。
「そうは言ってないだろうがよ。拍子抜けだって思っただけだ」
「そう思う時点で人間じゃないわよ、あんた。……ま、そうでなきゃメリーシャヤ相手に喧嘩なんか吹っかけられないとは思うけどね」
憮然として応えるヴァスガルトに、ティレイが肩を竦める。と、そこに出てきた名前に、新王は表情を引き締めた。
「んで、そのメリーシャヤのねぐらはどこだ? そいつを見付け出さないことには何も始まらん」
しかしそれを聞いてのティレイの反応は、全くもって彼の期待したものではなかった。軽く首を左右に振ると、知らない、とだけ短く応える。
「――は?」
「知らない、って言ったの。ヴァドステンの下、という以外にはね。……自由に行き来が出来るのはメリーシャヤだけで、あたしは必要な時にメリーシャヤに連れて行かれてただけだったし」
「お前、ここまで来させておいてなぁ――」
頭から噛り付こうかという勢いで怒鳴りかかるヴァスガルトに、しかしたじろぎもせずティレイは口元で人差し指を立ててみせた。彼がそれで大人しくなったのを確かめてから、言葉を続ける。
「叛乱軍を呼び寄せたのも、魔獣を放ったのもメリーシャヤよ。あんたもアザフ=マイエの王も傀儡にし損ねて、御大自ら立つ他に手段がなくなったんでしょうね。――なら、あんたがここにいる限り、あの女は絶対に仕掛けてくる。今となっては、あんたは邪魔者以外の何者でもないんだから」
「……ほんとかよ……」
半信半疑でヴァスガルトは呟きを洩らしたが、それに応えたのはティレイではなかった。以前にも聞いた、どこからともなく響いてくる幻惑の声音。
『およそその通り、と言っておきましょう。まこと男というものは理解し難いもの、何故そうまで争いを好むのでしょう?』
メリーシャヤ。声音こそ鷹揚であったが、その存在は一同に鋭く緊張を走らせた。
「争いを好む? ああそうさ、男ってのは野蛮な生き物だ。戦うこと、勝つことってのをいつもどっかで考えてるもんだよ。だがな、それは守るものがあるからだ。家族、同胞、臣民、まぁ色々あるけどな。
俺に言わせりゃ、理解できないのはお前の方だ。お前は支配を求めている。何の為に?――お前に守るものがあるのか?」
しかし呑まれず、むしろヴァスガルトは魔女に問いを返しさえした。そこに魔女がいるかのように、視線を鋭く変えて。
『守るもの? ええ、ありますとも。妾が守るのは、大陸全土、生きとし生けるもの全ての平らかな安寧。
あなたさまは辺境の民の渇きを潤す為に国を兵を興されました。ですが、その戦いが今に至るまでにどれほどの犠牲を強いてきたか、存じておられますか? あなたさまが臣民と呼ぶ者たちの安寧の為に、そうでない者たちが強いられた辛苦に思いを巡らせたことは?
一なる王国、一なる王があらねば、争いが止むことなどはあり得ますまい。それが妾には悲しいのです。例え魔女よ独裁者よと罵られようとも、妾の願いは曲げられませぬ。その助けとならぬのなら、あろうことか妨げになると言って憚らぬのであれば、妾はあなたさまを亡き者とせねばなりませぬ。しかしそれは望まぬこと、叶うならば手に手をとって世を治めたく思うところですが――」
「――なるほどなるほど、大層なお題目じゃねえか、それがお前の建前って訳だ。だが、それでお前の胆が見えたとは思えねえな。
何にしろ俺はお前と手を組むつもりはない。殺すと言うならやってみろよ、足元すくってやるからよ」
『……そう。残念ですわ』
メリーシャヤの最後通牒をヴァスガルトが一笑に付したと同時、ざむ、と響いたのは幾人もの全身を鎧った男どもの靴音であった。
眼前の影が深い闇に変じたかと思うや、彼らは突如その中から現れ出でた。その数は近衛の兵数とほぼ同数、振る舞いようを見るに、骸骨兵とは違って容易に侮れるものではないようである。
彼らは皆頭部を完全に兜で覆っていたが、しかし最前に立つ男だけは兜を脇に抱えて悠然とそこに立っていた。
屍兵であろうから病的なのは当然かもしれなかったが、しかしくたびれた白髪も、紫変して爛れた面差しももはや正視に堪えるものではない。が、それでも視界に納めてみると、その顔立ちはどこかフォルティスのそれを想起させた。
「……ラズモーヴ……?」
うめくように呟いたのはティレイだ。動揺に打ち震える声音に、僅かに怒りの色が混じる。
「……は?」
「ラズモーヴ=レスレント――フォルティスの実の父君よ。魔女の助勢を買ったとはいえ、中原の統一を保ったのはそれだけの資質を有していたということ。フォルティスを鍛えた剣腕は当代随一、兵を用いれば百戦して負けなしと言わしめた武の巨人よ」
事情が飲み込めずに眉根を顰めたヴァスガルトに、ティレイが解説する。なるほど、その立ち姿には隙はない。だが。
「ほーお。……っても、所詮は活死体だろ?」
「そう……なんだけど」
活死体というのは、死体を魔術で甦らせ、下僕として用いるものである。その時にはもう魂は抜けてしまっているから、出来上がるのは大抵が愚鈍な木偶の坊に過ぎない。
だが、ラズモーヴは毒殺されていた。恐らくはメリーシャヤの仕込んだ毒によって。それは果たして単なる毒であったのか? 生きながらにして活死体として作られたものだとするなら――
『さて、お喋りはそこまでにして頂きましょう』
ティレイの思索を遮り、魔女が囁くと同時、ラズモーヴを筆頭とした死人の群れは再びその声を契機として行動を開始していた。抜剣し斬り込んでくる勢いは尋常のものではない。
この場この期に及んで油断する者など彼の下にいるはずもないが、しかし、それでもこの勢いを受け流すことは困難であるようだった。
敵軍の将たるラズモーヴを引き受けるのは無論ヴァスガルトの役であったが、竜血を啜った彼でさえ、膂力においては拮抗させるまでが限界となった。愚鈍な死人であれば、とその力を逸らそうと試みるも、ラズモーヴは先を取ってそれを許さず、それどころか隙を突いて彼の体勢を崩そうとさえしてくる。
その間にも周囲からは間断ない剣戟の響きに混じって、悲鳴だの肉を打つ音だのが聞こえてくる。一瞥を向ける余裕もないが、自軍が一合から劣勢に追い込まれただろうことは想像に難くなかった。
「くぉ…………おっ!」
無理矢理引き出した全力以上の力でラズモーヴを弾き飛ばし、彼は視線は敵から外さずながら、態勢を持ち直すよう自軍に向けて檄を飛ばした。
勢いを殺せず転倒したラズモーヴが、全身を覆う鎧の重さに起き上がれずにいるのを確かめると、それでようやくヴァスガルトは乱戦の中に割って入って、敵味方を引き離しにかかる。
と――
ぶぅん、と風切り音を鳴らして、倒れていたはずのラズモーヴの剣筋が彼に迫る。反射的に身を屈めた新王の髪を掠めて、剛剣は勢いよく通り過ぎていった。
「うおっ!?」
乱戦の最中で体勢を崩したところに、四方から更に幾筋もの軌道が彼を狙う。しかし、ヴァスガルトが振り上げた剣は、そのどれをも受け止めようとはしない。
ぎぃんっ!
一際大きく響いた合音は、彼がラズモーヴの剣を受け止める音であった。他の剣は鎧で、或いは振り上げた腕で受けている。
ラズモーヴほどの突出はなくとも、どの剣筋も常人の膂力は軽く凌いでいる。だが、そのいずれも新王の体に傷を作ることは適わなかった。
いつの間にか、彼の体が燐光を帯びている。まるでそれが剣撃を受け止めているかのように、ヴァスガルトは涼しい顔をしているのだ。
兵団の隙間から剣を打ち下ろしてきていたラズモーヴが、不意に体を退かせる――転瞬、顔の高さで剣を合わせていた形からそのまま袈裟懸けに振り下ろされた王の剣は、眼前の屍兵を二人まとめて一刀両断にしていた。
その彼の豹変を脅威と見てか素早く敵軍が退き、それでようやく両軍が二つに分かれる。たっぷり距離が開くと、燐光は霞のようにふいと消えてしまった。
「だらしないぞ、ダルアム」
その呼び掛けに、面目ない、と応えたのは足元に倒れた彼であった。
太腿の辺りが赤く血に染まっているから、そこを突かれて身動きを封じられていたのだろう。
倒れてからは剣を捨てて盾だけで先の猛攻を防いでいたもののようだ。幸いにして他に大きな傷はなく、意識もはっきりしているから、止血さえすれば大事には至るまい。
見回せば他にも手傷を負った者は少なからずいるようだった。致命傷を負った者も。城都の外でも戦闘は続いているはずだった。人外の者どもとの戦いは実際以上の消耗を兵に強いていることだろう。ならば、決着を長引かせる訳にはいかない。しかし――
「負傷兵は後方に運びなさい。盾持ちは前衛、後衛は今のうちに彼らの手当てを。――どうしたのヴァスガルト、勝ちを諦めた?」
差し迫った苦境を前に動揺する彼をよそに、兵の統制を取り戻したのはティレイであった。正しく指示さえ与えられれば、すぐに近衛は即応の機敏さを見せた。それを確かめてから、彼女は新王に呼びかける。
冗談だろ? とヴァスガルトは鼻で笑ってみせたが、しかし悲しいかな後の言葉が続いてこない。強がりであることなど、もはや確かめるまでもなかった。
「そう、なら安心したわ。あたしやフォルティスが見込んだ男がこの程度だなんて、そんなのお話にもならないからね」
それでも、弱腰な態度になどまるで気付かないという風に、ティレイは落ち着いた笑みで返した。
「……。ああ、魔女を倒すって言ったのは俺だからな。今さら前言撤回なんてみっともない真似、出来る訳ねえって。よっく見てろよ、驚かせてやるからな。
――メリーシャヤ、まどろっこしいことはもう終わりにしようや。決着つけようぜ、俺とお前でよ」
片手持ちにした剣を、ヴァスガルトは肩の高さに掲げてみせる。差し向ける先は、ラズモーヴでもましてやその他の屍兵どもでもなく、その背後に鎮座する巨大な闇であった。
『決着? いいでしょう、そろそろ妾も見世物に飽きてきたところ――此度を幕引きと致しましょう』
闇が、膨れ上がった。屍兵を飲み込み、ラズモーヴを飲み込み、更に勢いを増してそれはヴァ
スガルトらをも一息に取り込んでしまった。城都を覆い尽くさんまでに肥大し、唐突に弾けるか
ようにそれが掻き消えた後、彼らの戦場にはもう屍兵もラズモーヴも、またヴァスガルトとティレイの姿もなくなってしまっていた。
「……陛下?」
取り残されたのは近衛たちばかり。ダルアムの呟きの届くところには、もう王の姿はなかった。




