後編
二人を乗せたエアカーは、トランジメナー湖を見下ろす丘上の駐車場へと滑り込む。
首都圏から一時間のトランジメナー湖は、丘陵地帯に囲まれた湖。首都圏への水の供給や、灌漑用水の為に人工的に作られた湖の一つだ。
車の扉を開くと、湖の上を渡ってきた風が、僕とシェリルの間を吹き抜けていく。
「街の近くに、こんなところがあったんですね」
大きく伸びをしたシェリルが、思いのほか大きな声を上げた。
「ああ、人気も少ないから、のんびりできる。日々ストレスに苛まれている僕には、ぴったりのスポットだよ」
僕の言葉に、シェリルは不思議そうな顔をする。
「ストレス? 貴方もそんなものを感じるのですか」
「本気で聞いてるの」
「はい。だって順調に出世街道を上っているじゃありませんか。どこにストレスが」
出世すること自体がストレスなんだよ。
「偏見だ。毎日がストレスとの戦いだよ。僕は君と違って、繊細な生き物なんだ。ちょっとした事で泡を吹く」
「私と違っては余計な一言です」
「余計かな? 」
「余計です」
「だけど、神経が図太いじゃないか。いくら揉めたからと言って、ブルーリボン連隊の横っ面は引っ叩かないと思うんだ。少なくとも僕には無理だ」
「それは、忘れてください」
「明日までは無理」
耳の先まで赤くなるシェリルを見て、僕は意地悪な笑顔を浮かべた。
「性格悪いな」
シェリルが小声で毒づく。
「そういう設定のキャラですから、苦情はゲームの制作委員会までどうぞ」
「キャラのせいにしないでください。今のは本来の貴方の人格だと思います」
「バレたか」
「バレバレです。それにしても、泡を吹くというのが、比喩的表現でないところが悲しいですね」
「完全に同意する。そうならないためにも、ここの景色を見て落ち着きを取り戻すんだ」
僕は大きく深呼吸をして見せると、シェリルも同じように深呼吸した。
「確かに気持ちのいいところです」
「気に入ったかい」
「ええ」
「そいつは良かった」
些細なことだが、我がことのように嬉しくなってしまった。
僕たちは湖をめぐる遊歩道へと足を向けた。
湖畔には水鳥が戯れ、釣り人が静かに湖面に向かっている。
時の流れが、ここだけゆっくりだ。
小鳥のさえずりを聞きながら遊歩道を進むと、この湖で唯一の展望台へとたどり着く。
展望台と言っても、緩やかな傾斜を描く芝生の斜面に、いくつかのベンチが設置されただけの簡素なものだ。平日の昼下がりのせいか、僕たちの他には誰もいなかった。
「はい。どうぞ」
僕は途中で買い求めたアップルパイを一切れ、シェリルに手渡す。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
お腹がすいていたのか、それとも微妙な間が開くのを嫌ったのか、シェリルはアップルパイにかぶりついた。
「甘くて美味しい。酸味も程よいですね」
僕も続いて頬張ると、シェリルの感想が真実であると確認できた。
「本当に美味しいや」
「これは、よく買うんですか」
「いいや、今日初めて買った」
僕は二口目へと突進した。
パイを売っていたのは、近所の農家のおばあちゃんらしき人が営んでいた店だ。
工業製品の食糧であふれるこの世界では珍しいことに、手作り感満載の不格好なパイだ。
こんなの食べる前から美味いに決まっている。
「へー。よく買っているのかと思いました。美味しいですし」
「一人で食べるには大きすぎるよ」
「確かに、少し大きいですね」
シェリルも二口目へと突入した。
嘘です。
男一人でアップルパイを買うのに、心理的抵抗があっただけです。
僕は一人焼肉はできない人です。
その後、僕たちは湖面を見下ろすベンチに腰掛け、長い間話し込んだ。
前世の事、意識が目覚めてからの事、これからのゲームの進行の事。そして、その対策。思いつく限りのことを話した。
前世の彼女が、帝国側の美青年コンビのファンだと知った時は、脳裏に「B」と「L」の二文字が浮かんだけど、僕はそれを口にしなかった。
口にしたら、今日が僕の命日になる予感がしたんだ。
我ながら賢明な判断。
こんなところで死にたくない。
二人で話し合った結果、幾つかのことが決まった。
これからは緊密に連絡を取り合うこと。同じ境遇の人を探すこと。悲劇を回避するために、軍の内外で仲間を集めること。これは、有名キャラには限らず、思いつく限りの仲間を集める。
トランジメナー湖に夕日が射したころ、僕たちは帰路へと付く。
帰りの車内は行きとは違い、和やかな空気であったことを報告しておくことにするよ。
自分の執務室に戻った僕は、シェリルのために、ありもしない調書を捏造する羽目になったことだけは、頂けないけどね。
翌日、出勤すると、お偉方から呼び出しかかった。
これは、昨日の事がバレたのか。
肝を冷やして出頭すると、警備部長と見知らぬ上官が並んで座っていた。
「スープン少佐。ゆっくりできたかね」
見知らぬ上官が、ニヤリと笑う。
「はっ」
どうしてバレたのだろう。
いや、バレたのなら仕方がない。言い訳しないで謝ろう。
しかし、僕が謝罪の言葉を口にする前に、警備部長が重々しく宣った。
「少佐。貴官には、新しい任務が与えられる」
新しい任務?
口が半開きで固まる。
もしかして仕事をサボったことはバレてない感じですか? なら、黙っていよう。
「はっ。新しい警備計画でしょうか」
「違う。警備には関わりない」
警備に関わりないのか。話が見えないな。
まぁ、新しい警備計画なら、わざわざ呼び出さずに、命令書一本で終わるお話ですよね。
僕が内心で首をかしげていると、見知らぬ上官が口をはさむ。
「いえいえ警備部長、新しい任務ではなく、本来意図した任務です。彼はそのために憲兵隊へ派遣されたのですから」
「少佐は正式に、憲兵隊所属のはずだが」
「勿論、書類上はそうですが」
目の前で上官二人が、言い争いを始めそうな雰囲気。
居心地悪いな。
「ともかく、スープン少佐には、軍情報部、第11情報室の室長をやってもらう。警備部の立場はカバーだと考えてくれたまへ」
カバー。
それは情報部の用語。
偽りの身分ってことですか。なんだ、結局、情報部の所属のままだったのか。
そう結論付けようとすると、警備部長から修正が入る。
「カバーではない。警備部の隊長職は兼務したまへ。プラスαで室長職だ」
「だ、そうだ。少佐。これまでとは違い忙しくなるな」
二つの役職を兼任か。
そんなこともあるんですね。
ああ、それでゆっくりできたかと聞いてきたのか。
もしかして、ここ数か月の暇な勤務は、休暇みたいなものだったのかな。
それなら、初めから告げてほしい。溜まっている有休を消化したのに。
「質問してよろしいでしょうか」
僕は恐る恐る手を上げる。
「なんだね」
警備部長がギロリと睨んできた。
今日は殊の外ご機嫌斜めだ。
「その、第11情報室はなんなのでしょう。情報部内の部局では、第9情報室までしかなかったはずですが」
「当然の疑問だな。第11は新設の情報室となる」
「貴官には古巣の情報部と協力して、軍内部の不穏分子の調査を命ずる。摘発に関しては心配いらない。そちらは査察部の管轄だ」
「不穏分子となりますと、小官は共和国軍内の帝国スパイを調べればよろしいのでしょうか」
「そうなる」
「あの、帝国のスパイの調査は、国家情報局(FST)の管轄であったと記憶しておりますが」
「軍内部は別だ。これは憲兵隊の所管である。FSTの小役人に出る幕はない」
「はぁ」
縦割り行政万歳。
僕は天井に目を向ける。
なんとも、厄介な任務を与えられたものだ。FSTとただ被りの業務。揉め事しか起こらない予感に満ち満ちている。
やっぱり、共和国軍は馬鹿なのかもしれない。
「第11情報室の主な対象は、帝国のスパイと、それらに勧誘された共和国軍人が主たるものとなる。その為のスタッフも用意している。入れ」
見知らぬ上官がインターフォンに向かって命じると、後ろの扉が開き、足音が僕の隣で止まった。
「スープン少佐殿。此度、第11情報室付きは拝命したしました。ブリュンヒルト中尉であります」
振り向いた僕に対して、赤みがかった金髪の女性士官が、消え入るような小さな声で挨拶してきた。
僕にはその女性に見覚えがあった。
第三部。終わり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。