ステップアップ ③
レクトが魔族との実戦を提案してから2日後。レクトはS組の生徒たちを引き連れ、街から少し離れた山岳地帯へとやって来ていた。ところどころに大きな木が生えているが、見通し自体は悪くない。
生徒たちは動きやすいように運動着姿であるが、例によってレクトの方はいつも通り黒のロングコートである。
「というわけで、だ。わかってると思うが、今日は訓練じゃなくマジモンの実戦だからな。気を抜くんじゃねえぞ」
レクトの言うように、今回の授業は正真正銘の実戦だ。当然のように怪我をする危険性も孕んでいるし、場合によっては命を落とすことだって考えられる。
そんな実戦を前に、フィーネが手を挙げてある事を質問した。
「先生。その前に、まだどんな魔族と戦うか教えてもらってないんですが」
フィーネの言う通りだ。今回、レクトは酒場の討伐依頼にあった魔族を授業のターゲットとして決めたものの、結局のところどんな魔族と戦うかはまだ生徒たちに伝えてはいなかった。
「わかってるって。急かすな」
「別に急かしているわけでは…」
もちろん、レクト自身も忘れていたというわけではない。より本格的な実戦にするために、あえて当日まで情報を伏せていたというだけの話だ。
とはいえ、これ以上は引っ張る必要もないので、レクトはここで討伐対象の魔族を発表することにした。
「今日戦ってもらうのは、『トロール』だ」
「トロール?人喰い鬼ですか!?」
その名前を聞き、エレナが驚いたような声を上げる。
トロールとは、3メートル程の巨体とそれに見合った怪力を持つ獰猛な魔族である。基本的には人間を自分たちの食糧とみなしており、これまでにも多くの人間が犠牲になったことから“人喰い鬼”の通称で呼ばれている。知能はあまり高くないものの、そのパワーとタフネスで冒険者たちからも恐れられる存在だ。
しかも、レクトから生徒たちへ伝えるべき情報はそれだけではなかった。
「それも、ただのトロールじゃない。闇の力を受けてより凶暴化した『ダークトロール』と呼ばれる種類だ」
「つまり、普通のトロールよりも上位種ってことですね」
内容が理解できたのか、サラが納得したように言った。最初に質問をしたフィーネもどのような魔族と戦うのかを知ることができたので、それなりの心構えはできたようだ。
「最近、ここら一帯でダークトロールによる被害が報告されていてな。幸い、近くの村にはまだ現れてないそうだが、鹿狩りに行った村の狩人が何人か喰われたらしい」
レクトの説明を、生徒たちは緊張した様子で聞いている。授業という形式ではあるが前回のペリルラビットとは違い、既に2人の人間が犠牲になっているという事実が重くのしかかる。
「今回の授業内容はそのダークトロールを1体、お前らの力だけで討伐してもらうことだ」
改めて、レクトは本題を告げる。しかしながら今回の相手がダークトロールであると知らされて、全員が全員、納得したというわけではなかった。不安そうな顔をしたアイリスと、仏頂面で腕を組んだリリアの2人だ。
「でも先生。普通のトロールでさえ危険なのに、更に上位のダークトロールなんて、わたしたちに倒せるんですか?」
「そうよ。あたしたちの強さに合った魔族を選んでくれる筈じゃなかったの?」
2人の言うことにも一理ある。実際のところ、通常のトロールでさえも駆け出しの冒険者にとっては手に余るほどの力を持った魔族なのだ。それをすっ飛ばしていきなり上位種と戦えというのだから、不安になるのも当然であろう。
ところがそんな不安がっている2人に対し、レクトはというと。
「確かに、お前ら個々の強さでは1人でダークトロールを倒すのは無理だろうな」
「ほら!」
堂々と言い切ったレクトを見て、リリアは憤慨した様子を見せている。だがそれを見たレクトは、呆れたように小さく手を振った。
「ちゃんと聞いてたか?個々の強さでは無理だって言ったんだよ。全員で協力して戦えば、間違いなく必ず勝てる筈だ」
「本当ですか?」
自信満々に言うレクトに対し、ルーチェはやや怪訝そうな目をしながら言った。レクトが相手の力量を見誤ることはないと頭では理解しているものの、やはり通常のトロールすら相手にしたことのない自分たちが本当に勝てるかどうか不安なのだろう。
「そりゃあ…」
『グゥオオォォォ!』
レクトの返事を遮るようにして、辺り一帯に大きな唸り声が響いた。当然のように、S組メンバー全員が意識をそちらへ向ける。
「何、今の!?」
真っ先に声を上げたのはリリアであったが、他のメンバーも緊張した様子で声のした方向を見ている。
岩陰の向こうからは重い足音が段々と近付いてきており、そこから1分も経たないうちに足音の主が姿を現した。その巨体を見上げるようにして、レクトはニッと笑いながら呟く。
「早速のお出ましか。探す手間が省けたな」
『ニンゲン…!ニンゲン…コロス!』
片言のように唸りながら姿を見せたのは、黒い肌をした3メートル程の巨人であった。大柄の肉体のあちこちには、かつて戦った者達から受けたであろう傷痕が生々しく残っている。手には大きな棍棒を持っており、血のような赤黒い染みがところどころに確認できる。
紛れもなく、今回の討伐目的であるダークトロールに間違いはなかった。
「これが、ダークトロール…!」
「大きい…」
フィーネとアイリスが静かに呟いた。もちろん、手には既に武器を握りしめた臨戦態勢だ。というより、ダークトロールの姿を見て反射的に武器を手に持った、といった方が正しいかもしれない。
「全員わかってるとは思うが、今回の戦いでは俺はいっさい手を出さねえ。ピンチになっても俺に助けてもらえるとか、甘いことは考えるなよ」
さも当然といった様子で釘を刺しながら、レクトはスタスタと歩いていく。そのまま生徒たちとダークトロールから少し離れた位置に陣取ると、腕を組みながら静観を決め込んだ。
「みんな、油断しないでいくよ!」
レイピアを構えつつ、フィーネが先頭に立った。だがそんな彼女の忠告を聞かず、1人が一目散に駆け出す。
「こういうのは先手必勝だろ!」
「ちょっと!ベロニカ!?」
真っ直ぐに飛び出したベロニカを見て、思わずフィーネが叫んだ。そんなフィーネの制止には耳を貸さず、ベロニカは腰に携えた刀の柄を握りながらトロールとの間合いを詰める。
『グゥ!』
向かってくるベロニカの姿を見て、ダークトロールは逃げることなく即座に両腕を交差させ、その一撃を受け止める体制に入った。
「せいっ!」
戦闘開始からまだ10秒も経っていないが、短期決戦を狙ったベロニカは抜刀と同時に渾身の一撃を叩き込む。元は東方の島国で生まれた剣術であり、抜刀と同時に敵を切る刀の基本的な技だ。
「どうだ!?」
刀の刃が交差したダークトロールのちょうど左肘に食い込み、血飛沫が上がった。自分でもかなりの手応えを感じたのだろうか、ベロニカは思わずニッと笑う。
しかし後ろで見ていたエレナは、攻撃を喰らったトロールの様子がおかしい事にいち早く気づいた。
「待って、様子が変じゃない!?」
エレナの疑問に、他のメンバーは「えっ?」と声を漏らす。ベロニカの一太刀は誰がどう見ても直撃していたのだが、攻撃を喰らったはずのトロールは一切の叫び声を上げない。それどころか、交差させた腕の隙間からベロニカを見て不気味に笑ったのだった。
「ベロニカ、離れて!」
危険を察知したリリアは咄嗟に叫んだが、その声がベロニカの耳元に届くよりも一足早く、ダークトロールが動く。
『ニンゲン!シネ!』
「ぐはぁっ!」
トロールは棍棒を持った右腕を振り上げ、足元にいたベロニカを殴りつけた。力任せだったからか狙いがうまく定まらなかったようでクリーンヒットとまではならなかったものの、それでもその巨体から繰り出される強烈な一撃はベロニカの体を吹き飛ばすには充分な威力を持っていた。
「「ベロニカ!!」」
ベロニカの体は数メートル吹き飛ばされ、地面を転がる。その光景を見た他のメンバーは皆ショックを隠せない様子であったが、中でも衝動的に突き動かされたのはサラであった。
「よくも!」
サラはハルバードを振り上げ、トロールに正面から斬りかかる。勢いこそあったものの、その感情に任せた短絡的な攻撃に、遠くで戦いの様子を観察していたレクトは厳しい表情を浮かべていた。
「はあぁぁ!」
『グゥ!』
全身全霊で、サラはハルバードを振り下ろす。放たれた一撃はトロールの右肩部分に決して浅くはない傷を与えたものの、トロールはそれをものともせずに左腕でサラをなぎ払った。
「あうっ!」
「サラ!」
リリアの悲痛な叫びとともに、サラは地面に倒れこむ。それを見たフィーネは、即座にある指示を出した。
「エレナ!すぐ2人に回復魔法を!」
「わかってる!」
フィーネの指示を受け、エレナはまず近くに倒れていたベロニカに回復魔法をかける。
見たところ、幸いにもそこまで大きなダメージではないようであった。エレナの回復魔法を受けながら、ベロニカは悔しそうに呟く。
「くそ…最初の一撃は左腕に思いっきり入った筈なのに、まるで効いてないみたいに振り回してたぞ…!」
確かに、ベロニカが最初に与えた一撃はダークトロールの左腕に深々と食い込んでいた。ところがトロールはそんな事などものともせず、傷付いた左腕を思い切り振ってサラをなぎ払ったのだ。
そんなベロニカの言葉を聞いて、ルーチェがある事を思い出す。
「トロールは確か、強い再生力を持っているの。だから再生が完了する前に、大きなダメージを継続的に与えて倒さなきゃならないって前に本で読んだことがあるわ」
「何ですって!?」
ルーチェの話を聞いて、リリアは驚きの声を上げた。
「それ早く言いなさいよ!」
「いや…だって今、思い出したんだから」
「まったく!」
リリアは遠慮なしにルーチェに向かって不満をぶつけた。だが同時にそれが大きなヒントにもなったのか、何かを思いついたように即座に行動に移す。
「継続的なダメージ、ね!」
リリアはトロールの横に回り込み、自身の魔法の射程圏内に入ったと同時に魔法の詠唱を始めた。
「アイスアロー!」
リリアが左手をかざすと、彼女の目の前に水色の魔法陣が現れた。そこから猛烈な勢いで矢のような氷片が発射され、ダークトロールの皮膚を次々に切り裂いていく。
『グゥオォォ!』
ある程度のダメージはあったようだが、それでもトロールは倒れない。それどころかトロールは近くにあった岩を掴むと、リリア目掛けて思い切り放り投げた。
「リリアさん、危ない!」
「くっ!」
アイリスの叫び声を聞き、リリアは咄嗟に横に飛び込んで岩を避ける。リリアに当たらなかった岩はそのまま彼女の後方へと飛んでいき、近くにあった巨木をなぎ倒しながら粉々に砕けた。
とはいえ、トロールが高い再生能力を持つ以上はここでダメージを途切れさせるわけにはいかない。続けざまにルーチェが杖を構え、魔法を放つ。
「ライトニングフォース!」
『ググゥゥ…!』
杖から強力な電撃が放たれ、トロールを襲う。全身に電撃を受けたトロールは感電して体の自由を奪われたのか、膝をついて動かなくなった。
その好機を見計らって、今度はアイリスがナイフで斬りかかる。
「えいっ!」
アイリス自身は精一杯の力を込めてナイフを振ったつもりであったが、巨体を誇るダークトロールには効果が薄かったようだ。トロールの胸元に浅い切り傷を負わせた程度で、仕留めるには程遠い様子であった。
「そんな、効いてない…!」
「それなら!」
弱音を吐くアイリスのすぐ真横から、フィーネがレイピアを突き出す。しかしながらトロールの方も感電からある程度立ち直ったのか、即座に左腕でレイピアの突きをガードした。
「ダメ、アイリス!離れて!」
「は、はい!」
反射的なフィーネの言葉に、アイリスもすぐに応える。
そうして2人がトロールから離れた次の瞬間、トロールは空いていた右手で地面を思い切り叩いた。もし離れるのが少しでも遅れていたら、間違いなく今の一撃の餌食になっていたことだったろう。
『ニンゲン…コロス!』
ダークトロールは唸るように言葉を発すると、S組メンバー全員を睨むように見下ろす。その圧倒的な怪力と生命力に、一部のメンバーの顔には早くも諦めの色が出始めていた。
「か、勝てない、じゃない…!」
思わずリリアが弱音を吐く。この時点で、自分たちの実力では手に負えないほどの大きな力を、目の前のトロールが持っていることは嫌というほど実感できていた。
そうやって生徒たちの心に迷いや焦りが生じる中、それまでだんまりを決め込んでいたレクトが唐突に呟く。
「あー、こりゃダメだな」