狙われたタウロス族 ⑤
「さーて。小テストの採点でもしますかねぇ」
S組の教室から戻ってきたレクトは、軽く伸びをしながら職員室にある自分のデスクに座る。隣ではジーナが来週のスケジュール表に予定を書き込んでいる最中のようだった。
「お疲れ様です、レクトさん」
「んー」
ジーナに声をかけられ、レクトは気の抜けたような返事をする。
「ホームルームの時間はとっくに終わってるのになかなか戻ってこないから、何かあったのかと思いましたよ」
ジーナの言う通り、帰りのホームルームが終わってから既に一時間近くが経過していた。無論、ここは学園内なので、レクトも遊んでいたというわけではないのだが。
「何かあったというか、普通にフィーネの質問に付き合ってただけだ」
「あぁ、なるほど」
レクトの返答を聞いて、ジーナも納得したように頷く。
筆記試験で毎回のようにトップの成績を叩き出すフィーネは、それを体現するようにとにかく勉強量が多い。しかも学園で使われている教科書だけでなく、難しい参考書まで使用しているので、質問の量も10分や20分で終わるようなレベルではないのだ。
「いつもお疲れ様です」
「んー、まぁ向上心があるのは良いことなんじゃね?」
ねぎらいの言葉かけるジーナであったが、レクトはフィーネの向上心についてはむしろ推奨しているようだ。
「でも、あんまり遅くまで生徒を教室に残しちゃダメですよ?」
ジーナは釘を刺すように言った。とはいえレクトの方もそれについては十分に理解はしており、決して失念していたわけではない。
「フィーネの奴が終わるまで帰りたくないって言うんだよ。俺は悪くねえだろ」
レクトとしては、あくまでもフィーネの意思を汲んでの対応であった。もちろんジーナもそのことはわかっているのだが、今はそれを差し引いても心配すべき点があるのだ。
「そうなんですけど、例の事件もありますし…」
「フィーネはヒューマだから問題ないだろ」
彼女の言いたいことを察したレクトは、反射的に言葉を返す。確かにレクトの言う通り、巷を騒がせている事件の被害者は全てタウロス族の女性であるため、ヒューマであるフィーネが狙われるとは考えにくい。
それでも、やはりジーナとしては不安が拭えないようだった。
「でも、もしかしたら別の種族が狙われるってことも…」
「そんな事を言い出したらキリがないぞ」
「確かにそうですけど…」
生徒たちの心配することは決して悪いことではないのだが、あれもこれも心配していたらそれこそレクトの言うようにキリがない。
当然だが、レクトの方もそのことをまったく警戒していないというわけでもない。
「それに一応、寄り道なんかしないで暗くなる前に帰るように言ったから大丈夫だろ」
ジーナを少しでも安心させるためか、レクトは付け足すように言った。少なくとも、フィーネは言われたことをきちんと守るタイプだ。寄り道せずに真っ直ぐ帰宅するのは間違いないだろう。
「あと、聞かれる前に言っておくがサラはすぐに帰ったからな。今日はエレナと一緒に下校するみたいな事を言ってたから、問題はないだろう」
「あぁ、それなら安心ですね」
タウロス族であるサラがすぐに帰ったことに加え、更には真面目なエレナが一緒ということを聞いて、ジーナは一安心しているようだ。
「他のクラスでも、特にタウロス族の生徒には真っ直ぐ帰宅するように促していたみたいですよ」
「まぁ、そうだろうな。こんな状況だとよ」
実際、行方不明者の中には学生もいるという話だ。その上、事件が起こるのは辺りが暗くなってからとなると、学園としては生徒たちを速やかに帰宅させる以外に対応できることがないのだ。
もちろん、それは教育現場だけに限った話ではない。こんな状況なので、大抵の職場ではタウロス族の女性を暗くなる前に帰宅させることを推奨している。とはいえ、勤務時間がどうしても夜まで続いてしまう職業も少なくないというのが現実だ。
「いつまで続くんでしょうか、この事件…」
ジーナがポツリと呟く。彼女自身はタウロス族ではないが、学園にもタウロス族が多く在籍しているために他人事のようには考えられないのだ。
「さぁな。騎士団にいる知り合いも必死こいて調べてるようだが、思うように進展してないようだし」
アイザックをはじめとした騎士団が事件の解決のために奔走しているのは、レクトもよく知っている。ついこの前にアイザックに会った時も、精神的に疲弊しているのが一目でわかるほどであった。
それでも解決の糸口はまったくと言っていいほどに見つからず、まるで雲をつかむような話になっているのが現状なのだ。
「結局のところ、わたしたちにできることといえば生徒たちを暗くなる前に帰宅させるぐらいなんですかね?」
相変わらずジーナの声は沈んだままだ。気持ちはわからなくもないのだが、レクトは真顔のまま指摘する。
「そこは別に悲観するところじゃないだろ。第一、犯人に心当たりでもあるってのか?」
「そういうわけじゃありませんけど…」
「だったら今は目の前の仕事をこなすことだな。ネガティブな事ばっか考えてたって何も進展しないぞ」
そう言って、レクトは小テストの採点のために引き出しから赤ペンを取り出した。
「レクトさんって前向きなんですね」
「現実主義者ともいえるがな」
率直な感想を口にするジーナに、レクトは少しばかり自虐的に答える。とはいえ、今のジーナからすれば眩しいぐらいに見えていたかもしれないが。
「でも、確かにレクトさんの言う通りですね。今は仕事を優先しましょう!あ、コーヒーでも淹れましょうか?」
「頼む」
「わかりました!」
気持ちを切り替えるためのジーナの申し出に、レクトは即答する。一旦スケジュール表を置いて給湯室へ向かったジーナを余所に、レクトは天井を見上げた。
「ホントに頼むぜ、アイザ…」
この場にいない友人に向かって、レクトは呟く。生徒にタウロス族がいるからというのももちろんのことであるが、レクト自身も既に知人が行方不明になっている状況だ。決して他人事だとは思っていない。
しかしながら、相手がドラゴンであろうが何であろうが瞬殺してしまうレクトであっても、流石に姿の見えない相手に対してはどうすることもできない。それ以前に、この事件に関しては犯人が単独であるのか複数であるのか、そもそも人間であるのかどうかすらもわかっていないのだ。
「もう夕方か」
何気なく窓の方を見ると、外からはオレンジ色の光が差し込んでいた。事件が起こるのは暗くなってから、つまりはあと一時間もしないうちにその時刻になるというわけだ。
ここ数日、行方不明者は毎日のように出ている。どこの誰がそうなってしまうのかはわからないが、今日も事件が起こると見てまず間違いないだろう。
レクトはそんな事を考えながら、小テストに赤ペンで丸を付け始めた。
騎士団の駐在所を出たエレナは、開口一番にサラに向かって謝罪の弁を述べる。
「ごめん…まさかこんなことになるなんて…」
「あはは…。確かに、あの子があんな行動に出るとは思わなかったけどね」
申し訳なさそうにしているエレナを見て、サラは苦笑いを浮かべている。
結果的にいえば、迷子の少女は無事に祖母と再会することができた。といっても、あれからすぐに少女の祖母と会うことができたかというとそういうわけでもなく、紆余曲折あってようやく見つかったという経緯がある。
「本当は駐在所に着いたらすぐに騎士団の人たちに預けるつもりだったんだけどね…」
あの後、エレナたちは少女を連れて騎士団の駐在所に行ってみたものの、残念ながら少女の祖母はそこにはいなかった。
と、そこまでは想定内だったのだが、仕方がないので少女を騎士団に預けて立ち去ろうとしたところ、少女は握ったエレナの手を頑なに離そうとせず、最終的には探しに来た祖母が現れるまでずっと一緒に待っていた、という流れであった。
「でも、あの子もおばあちゃんに会えたことだし、結果的にはよかったんじゃない?」
「まぁ、それはそうかもしれないね」
フォローするようなサラの言葉に、エレナも少し気が軽くなったようだ。実際、悪い事どころか人助けをしてこうなったので、咎められるような話でもないだろう。
ただ、それにより家に帰る時間がかなり遅くなってしまったというのもまた事実だ。
「けど、ずいぶん遅くなっちゃったよね。早く帰ろう?」
サラが少し急かすように言った。
気づけば日はほとんど沈み、辺りは暗くなり始めている。もうあと10分ほどすれば、夜と呼んでも差し支えのない風景に変わるだろう。
「うん。ごめん、こんなに遅くなっちゃって…」
「だから、謝るのはもういいってば」
そんなやり取りを続けながら、2人は少し足早に家路を急ぐ。
どちらの家もそう遠くにあるわけではないのだが、やはり10分ほど歩いていると辺りはすっかり暗くなってしまった。
「じゃあ、わたしはこっちだから」
そう言って、サラは大通りから少し逸れた横道を指差す。この道を数分歩けば、もう自宅は目の前だ。
「うん。また明日ね」
挨拶を交わしながら、エレナは横道に入っていくサラを見送る。といっても横道はちょうど大きな建物の陰になっているので、サラの姿はすぐに見えなくなってしまうのだが。
(お母さんも心配するし、早く帰ろっと)
こんな状況なので、帰るのが遅くなったら間違いなく母親は心配するだろう。そう思い、サラは自然と早足になる。
だが、そんなサラのことをどこからか鋭い視線が捉えていた。
『ヒヒヒ…見つけたァ!』
「えっ?」
突如として背後に何かの気配を感じたサラは、反射的に振り返ろうとする。だが後ろを見ようとしたその一瞬の間に首筋に衝撃が走り、彼女の意識はそこで途切れた。
ドサッ!
そこから1秒ほど遅れてサラの鞄が地面に落ち、大きな音を立てる。
「サラ?どうしたの!?」
エレナが大きな声を上げる。つい先ほど別れたばかりであったが、物音を聞いてすぐに駆けつけてきたようだ。
時間にしてみれば、ほんの数秒の間であった…のだが。
「サラ…?」
そう呟くエレナの視線の先にはサラの姿はなく、道の真ん中に彼女の鞄が落ちているだけであった。