侵してはならぬ領域
大通りは、例の猛獣騒ぎから逃げてくる人々で溢れていた。それこそ年齢、性別などは関係なく、子供同士で見に来たという観客も少なくはなかった。
「おい!何ボーッとしてんだ!走れ!」
10歳前後と思わしき少年が、怒号にも近いトーンで友人に向かって叫んだ。というのも、それまで一緒に逃げていた友人が何を思ったのか急に立ち止まり、近くの建物の上を見上げていたのだ。
「今、何か黒い影が屋根の上をものすごいスピードで通らなかったか?」
屋根の上の方を見ながら、唐突に友人の少年が言った。もちろん、屋根の上には誰もいない。通った、ということであれば既にいなくなっているのも当たり前といえば当たり前であるが。
「はぁ?なに言ってんだ!?いいから逃げるぞ!」
とにかく、その話が事実であろうがなかろうが、今はそれどころではない。少年は友人の腕を掴むと、引っ張るようにして走り出した。
もっとも、少年の友人が見たのは幻覚ではない。常人には到底不可能であるが、重さ数十キロはあろう大剣を背負ったままの状態での高速のパルクールなど、レクトにとっては朝飯前であった。
たった1頭といえども、相手は巨大な猛獣。実力が上の先輩騎士ですら歯が立たなかったのだから、後輩である自分が止められる筈はないということは最初からわかっていた。
『ガアァ!』
「ぐっ!」
ブラックテイルタイガーの一撃をまともに喰らってしまい、騎士は為す術もなく倒れる。周囲に残っている十数人ほどの者たちも、なんとかして怪我を負った騎士を助けに行きたいところではあるが、不用意に近づくと自分たちまで怪我を負わされてしまう危険性があるために迂闊には動けない状況であった。
そんな中、もっとも近しい立場である調教師の少女が、正気を失ったブラックテイルタイガーの前に立ちふさがった。
「リアン!止まって!私がわからないの!?」
少女は両手を広げ、必死になって呼びかける。とはいえ、今の状況では自殺行為にも等しい行動であった。
「あの子っ…!」
周囲の人間と同じく様子を見ていたリリアは、思わず飛び出して少女の腕を掴む。危険極まりない行動ではあるが、考えるよりも先に身体が動いてしまった、といったところだろうか。
「やめなさい!あなたがどうにかできる状況じゃないわ!」
とにかく少女を猛獣から引き離さなければならない、今のリリアの頭の中にはそれしかなかった。だが調教師の少女は首を大きく横に振り、まっすぐにブラックテイルタイガーの方を見る。
「駄目!駄目なの!リアンは、私たち劇団の家族だから!」
「っ…!」
懇願するような少女の言葉に、リリアの動きが止まった。だが皮肉なことに正気を失った猛獣の方は動きを止めることなく、自分の主人に向かって大きな前脚を振り下ろした。
「あぁっ!」
頭を強く叩かれた少女は、そのまま地面に倒れ込む。出血はしていないようだが、意識がないのかまったく動く気配がない。
「ちょっと!?しっかりしなさい!」
リリアは倒れた少女の上体を起こすが、完全に気を失っているようで返事はない。そうこうしている内にも、ブラックテイルタイガーは目の前にまで迫ってきていた。
「くっ!」
なんとかしようと模索するリリアは、足元に落ちていたある物に気づく。王国騎士団の団員たちに支給される長剣だ。おそらくは調教師の少女をかばった騎士が腰に携えていたものが、倒れた拍子に鞘ごと腰から外れてしまったのだろう。
リリアは即座に鞘から剣を抜き、剣先をブラックテイルタイガーへ向ける。もちろん本当に斬るつもりはなく、あくまでも威嚇だ。ところが。
ガッ!
「あっ!」
構えた剣は、ブラックテイルタイガーが振り下ろした右前脚によってあっさり弾き飛ばされてしまった。とにかく、スピードが尋常ではない。それこそ、普段から模擬戦で見るような教師たちの剣戟とは雲泥の差といっても過言ではない。
(あ、足が…動かない…)
頭では少女を連れて逃げたいと思っているのだが、恐怖で足がすくんで動かない。為す術もないリリアは、逃げるどころかその場にぺたんと座り込んでしまった。
(駄目…!)
無駄なことだとわかっていながらも、リリアは目を閉じながら倒れている調教師の少女の上体を庇うようにしてぎゅっと抱きしめる。だがそんな事などはお構いなしに、猛獣は右の前脚を振り上げた。
しかし、その前脚がリリアと少女に届くことはなく、代わりに疑問に満ちた、聞き覚えのある声が響いた。
「まったく、なんでブラックテイルタイガーみたいな猛獣が街のど真ん中にいるんだ?」
「え…?」
目を開けたリリアの視界に飛び込んできたのは、巨大な大剣であった。そしてその剣を背負った黒いコートと、銀髪の後ろ姿。セリフの主であるレクトは、両手でブラックテイルタイガーの右前脚と顔面を掴みながら首をかしげている。
「どっかから逃げ出してきたのか?メシが不味くて不満だったのか?」
危険な猛獣を前にしても皮肉を言う余裕があるあたり、流石の実力とでも言うべきか。一方の猛獣は唸りながらレクトのことを前脚で踏み潰そうとするが、掴まれた脚はビクともしない。
「なん…で…?」
いるはずのないレクトの存在に、リリアは戸惑いを見せている。だが、戸惑いの中にも、どこか安心感のようなものも少なからず感じられる。
「どう考えたって格上の相手に挑むなんざ、命を捨てに行くようなもんだぞ。相手との力の差もわからないようじゃ、一人前にはほど遠い」
猛獣の動きを完全に封じながら、レクトは説教じみたように言った。いや、レクト本人にとっては本当に説教のつもりなのかもしれないが。
「だ、だって…!」
リリアも思わず弁明しようとするが、言葉が出てこない。急激な状況の変化に思考が追いついていないのだ。
「ま、その嬢ちゃんのことを守ろうとしたっていう、意気込みだけは褒めてやる…よっ!」
そう言ってレクトは掴んでいたブラックテイルタイガーの身体を軽く持ち上げ、そのまま放り投げる。どう見ても数百キログラムどころの重さではないが、余裕なのか特に腕を痛めたような素振りは見せていない。
一方、投げ飛ばされたブラックテイルタイガーはというと、瞬時に身を翻し、綺麗な着地を決めた。普段からサーカスのショーで派手なアクションをこなしているだけあり、単純な動きだけでいえば自然界に存在する個体を上回っているかもしれない。
しかしながら、それとは別にレクトにとっては腑に落ちない点が1つあった。
(妙だな。ブラックテイルタイガーは確かに凶暴だが、敵わない相手に対しては潔く身を引くぐらいの知能はある。それすらもわからないぐらいに興奮してる状態ってことか?)
今の攻防だけで、ブラックテイルタイガーにもレクトとの力の差はある程度までならば理解できたはずである。しかし猛獣は臆することなく、レクトを敵視するようにまっすぐ見ている。
と、ここで微かな甘い香りがレクトの鼻をついた。
(この匂い…違法薬物の興奮剤か!)
知らない人間であれば香水だと言われてもわからないだろうが、レクトにはその匂いに覚えがあった。人間にはあまり効果がないが、特定種のモンスターを極度の興奮状態へと誘う薬物だ。
ブラックテイルタイガーが暴れている理由を察したレクトは、匂いのする方向へと視線を向ける。そこには痩せた男が倒れており、胸元の辺りにはピンク色の液体が広がっていた。どうやら、気化した薬物を吸引してしまったことで猛獣が興奮状態になっていたようだ。
(あの男が騒ぎの原因だな。さしずめ、地下闘技場で飼われていた猛獣が逃げ出したってところか)
流石のレクトも、まさか獰猛なブラックテイルタイガーがサーカス団で飼育されているとまでは思わなかったらしい。それでも大方の状況が飲み込めたのか、今まさに自分が何を最優先にすべきかを瞬時に判断する。背負った大剣を手にすると、その切っ先をブラックテイルタイガーへ向けた。
「お前に恨みはないが、放っておくと色々と問題があるんでな。駆除させてもらうぞ」
巨大な猛獣を相手にしてもまったく怯むことなく、レクトは剣を構える。そもそも、ブラックテイルタイガーの危険度は確かに高いとはいえ、昨日のグリーンドラゴンに比べればランクは遥かに下だ。ドラゴンをも一撃で屠るレクトにとっては大したことのない相手であるのはまず間違いない。
だがレクトが両手で剣を振りかざしたのを見て、リリアの脳裏に調教師の少女の言葉がよぎる。
(リアンは、私たち劇団の家族だから!)
次の瞬間には、リリアはレクトのコートの裾をしっかりと掴んでいた。
「先生!駄目!!」
「なに!?」
まさか守る対象である筈のリリアが自分を止めるとは思っていなかったので、レクトも少なからず動揺している。だが、それでもリリアはコートを掴んだ手を離さない。
「怪我させちゃ、駄目!」
「…そうか」
事情はよくわからないが、それでもリリアの目を見ただけで、重大な事であるというのはレクトにも理解できた。攻撃の構えを一旦解き、両手で持っていた剣の柄から左手を離す。
「仕方ねえ」
危険な猛獣を、一切の怪我を負わせることなく沈静化させる。常人には極めて難しいことではあるが、英雄と呼ばれる男にはそれすらも可能にする力があった。
「“侵してはならぬ領域”」
レクトは右足を軽く上げ、地面を力強く踏み抜いた。そうしてレクトの足音が響いた途端、周囲には大きな変化が現れる。
『グゥ…!?』
突然、ブラックテイルタイガーが苦しみだした。痛みというよりは、まるで息苦しさをうったえるような仕草だ。数秒の間はその苦しみに耐えていたが、やがて力尽きたようにその場に横倒れになった。もっとも、実際にはただ失神しているだけのようであるが。
また、影響が現れたのは猛獣だけではなかった。
「うっ!?」
「が…!?」
周囲にいた人々が、ブラックテイルタイガーと同じようにして次々に倒れていく。もちろん、調教師の少女の仲間であるサーカス団員や、それこそ斧を背負った屈強そうな男性ですらも例外ではなかった。まるで毒を盛られたかのように苦しみながら、皆バタバタと倒れていく。
一帯が静かになったところで、レクトは頭を掻きながら大剣を背中に戻す。
「あちゃー。やっぱりこうなったか」
どうやら、レクトには結果的にこうなるということが予想できていたようだ。とはいえ、目的通り一切の怪我を負わせることなくブラックテイルタイガーを沈静化させることには成功した。
もっとも、レクト自身は結局のところまだこの状況がどのようにして引き起こされたかがよくわかっていない。事情を確認するために、経緯を知っていそうなリリアに向かって尋ねる。
「おいリリア、この状況は…」
「…のよ」
「なに?」
レクトの言葉を遮るようにして、リリアがぼそりと言った。その言葉がよく聞き取れなかったのでレクトは聞き返すが、ここで急にリリアの声のトーンが変わり、涙目になりながらレクトのことを見上げた。
「来るのが遅いのよ!英雄なんでしょ!?みんなを守るのが英雄なんじゃないの!?」
うわずった声になりながら、リリアはレクトのことを責めている。はっきり言って、レクトにしてみれば感謝されるならまだしも、罵倒される筋合いなどまったくないのは当然のことだ。だがリリアの気迫に圧されたのか、流石のレクトも少しばかりたじろいでいるようだった。
「な、なん…」
「怪我した人もいるのよ!?なんですぐに来ないのよ!?みんな…死んじゃってたかもしれないじゃない!うぅ…うわあぁーん!」
一通りの文句をレクトにぶつけたところで、ようやく緊張の糸が切れたのだろうか、リリアは大声で泣き出してしまった。これでは、事情を聞き出すことなど到底できはしないだろう。
どうすることもできなくなったレクトは、腕組をしながら雲1つない空を見上げる。
「これじゃあ、俺が泣かせたみたいじゃん」
誰にも届くことのないレクトの愚痴のような呟きは、リリアの鳴き声によってかき消されてしまった。