サーカス団のパレード
初老のカトゥス族の男性が、リリアに調律を終えたバイオリンを手渡す。
「では、これで調律の方は問題なさそうですね。リリア様」
「ありがとう、フィルズ先生」
調律師のフィルズに礼を言い、リリアは受け取ったバイオリンをケースにしまう。様々な楽器に囲まれた店内は、客はリリア1人だけだ。皆、大通りのパレードを見に行っているのだろう。というよりも店が大通りにあるので、パレード自体もすぐ近くで行われている真っ最中なのだが。
「しかし、学校の方も今の年度で卒業でしたな?バイオリンを弾く時間の余裕もあまりないのでは?」
フィルズが問う。おせっかいな質問のようにも思えるが、幼少期からの彼女をよく知る彼だからこそ心配して言っているのだ。リリアの方もそれを理解しており、軽く首を横に振った。
「学校が忙しくなったら無理して続けなくてもいいんだぞ、ってパパは言うけどね。でも、あたしにとってバイオリンはもう日課みたいになっちゃってるから」
「ほっほ。そうですか」
リリアの返事を聞いて、フィルズは嬉しそうにしている。リリアはバイオリンの入ったケースを担ぐと、店の出入口へと向かった。
「ではリリア様。コンクールが近くなりましたら、また…」
「うん。その時はよろしくね」
フィルズと挨拶を交わし、リリアは店を出る。数十メートル先では何十、何百といった人々が通りに沿って人だかりを作っており、ちょうどパレードの後半部分が通り過ぎて行く途中のようであった。
「ちょっと…見ていこうかな」
元々は見に来る予定ではなかったのだが、せっかくタイミングよくパレードが行われているのだから、見ておいても損はないだろう。そう思ったリリアは人だかりの中でも比較的、混雑していなさそうな部分を見つけ、パレードが見える位置まで前に出る。
(あっ、見えた)
ようやく見えたパレードでは、トランペットやホルンといった楽器を持った演奏者たちが行進している。さながら小さなマーチングバンドのようだ。その数メートル後ろでは、巨大な猛獣を引き連れた調教師の少女が手を振りながら歩いている。
(うわ…、ブラックテイルタイガーだ。先週の公演の時にも見たけど、間近で見るとこんなに大きいんだ)
巨大な猛獣の存在感に少しばかりの恐怖を感じつつも、リリアの中では興奮の方が遥かに勝っていた。もちろん、周囲の人々も同じような感想に違いない。自然界では超が付くほどに危険な猛獣であるが、このブラックテイルタイガーはきちんと飼いならされているようで、大人しく、しかしながら悠然と歩いている。
だが、そんな歓声に満ちあふれたパレードの中に突然、不釣り合いな怒号が響いた。
「待て!逃がさんぞ!」
「くそっ!群衆に紛れ込めば見つからないと思ったんだが、甘かったか!」
パレードの奏でる音によってほとんどの人には聞こえなかったようだが、リリアを含むその声に気づいた人々が振り返る。そこでは、擦り切れたコートを着た無精髭の男が、2人の騎士に追われている真っ最中であった。
「ちくしょう、捕まってたまるかよ!どけ!」
売人の男は大勢の人間をかき分け、大通りの真ん中へと躍り出る。つまり、パレードの列に突っ込む形だ。とにかく逃げることに必死なので、目の前に何があるかなどは一切気にしていられなかったのだ。
「邪魔だ!そこをどけ、小娘!」
「えっ?」
男はちょうど自分の正面を歩いていた調教師の少女に向かって怒号を飛ばす。もちろん少女はいきなり現れた男が何者であるのかなど知る由もないので、ただ困惑するばかりであった。だが男が進行の妨げになる少女を突き飛ばそうとしたその時、少女の横にいた大きな影が咄嗟に動いた。
『ガアァ!』
「げふっ!?」
少女に付き従っていたブラックテイルタイガーが、その大きな右前脚で売人の男を踏みつける。3メートルを超える巨体から繰り出された一撃に、男は為す術もなく気を失った。
「リアン!待って!」
少女はブラックテイルタイガーの名前を呼び、制止する。猛獣の方もあくまで自分の主人を守ろうとしただけであるので、主人に呼び止められたことでおとなしく男の身体から前脚を離した。
だが、猛獣が前脚をどけたと同時に、周囲にはほのかに甘い香りが漂う。踏みつけられた際に容器が割れてしまったのか、うつ伏せに倒れている男の胸元の辺りからはピンク色の液体が流れ出ている。しかし、人々の意識は匂いよりも周囲に響いた大きな声の方へと向けられた。
「みなさん!落ち着いてください!我々は王国騎士団です!」
「大丈夫ですか!?お怪我は!?」
人混みをかき分けながら、2人の騎士が調教師の少女の元へと駆けつける。倒れている売人の男を追っていた、先輩後輩の2人組の騎士だ。
「え、えぇ…。一体、何だったんでしょうか?」
何がなんだかわからない少女は、ただただ困惑するばかりだった。近くにいた他のサーカス団員たちにも、どういう状況であるのかがよくわからないようだ。
「実は、この男は…」
先輩の騎士は、とりあえずは簡単に状況を説明しようと試みる。その間、後輩の騎士は倒れている男の状態を確認していた。完全に気を失っているが、どうやら命に別状はなさそうであった。
ところがここで、調教師の少女はそれまでおとなしく待っていたブラックテイルタイガーの様子が何かおかしいことに気づく。
「リアン…?」
『ウゥ…』
猛獣は牙をむき出しにして、小さく唸っている。誰かに対して敵意を向けているというよりは、まるで野生の獣そのもののような雰囲気だ。そして。
『ウオォォォ!!!』
「わっ!」
「きゃっ!」
突然、ブラックテイルタイガーが大きな咆哮を上げた。普段はこういったことがないのだろうか、周囲の人々だけでなく、サーカス団員たちまで驚いている。
「リアン!?どうしちゃったの!?」
調教師の少女が、ブラックテイルタイガーに駆け寄る。だが猛獣の耳には少女の声など届いておらず、むしろ周囲の者たちを全て敵視するような雰囲気まで醸し出している。
だが気づいた時には既に遅く、猛獣は少女に向かって鋭い爪の生えた右前脚を振り下ろそうとしていた。
「危ない!」
先輩騎士が、咄嗟に少女をかばうようにして前に出る。しかし巨大なブラックテイルタイガーの猛攻を止めるほどの力など持っているはずもないので、少女の盾になることしかできなかった。
「ぐあっ!?」
「あっ!ミハイル先輩!」
吹き飛ばされた先輩騎士に向かって後輩の騎士が声をかけるが、完全に気を失っているのか返事はなかった。だが、こうしている間にも猛獣は待ってはくれない。そうなると、後輩騎士がやるべきことは1つだけしかなかった。
「皆さん!逃げてください!ここは僕が食い止めます!」
剣を構えながら、周囲の人々に向かって逃げるように促す。食い止める、という言葉からもわかるように、本人も自分の力だけで巨大なブラックテイルタイガーを止めることは不可能であると理解しているのだ。
「うわあぁぁ!」
「逃げて!逃げてー!」
パレードを見に来ていた観客は、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。もっとも全員が逃げたというわけではなく、サーカス団員たちや、なんとかして怪我を負った騎士を救出しようと試みる者など、一部の勇敢な者たちは残っているようであるが。
(アイザック隊長、早く来て下さい…!)
今の彼にできることは、隊長であるアイザックが来るまでなんとか持ちこたえる、ただそれだけであった。
西区の大通りの外れには、ブレンダ商店という生活雑貨の店がある。60歳になる女店主が1人で経営している小さな店だが、生活に必要な道具は一通り揃っており、昔ながらの常連客も多い。
「ここでいいか」
商店の看板を見て、レクトは呟いた。当面の間は西区で生活することになりそうだが、小さな宿屋の部屋を1年分の宿泊費を払って借りたので住む場所については問題ない。
そうなると、次に必要になるのは生活必需品であった。早めに揃えておかないと生活もままならないので、クラウディアにも許可をもらい今日は仕事を早めに切り上げて、こうして買い物にやってきたというわけだ。
「いらっしゃい」
店の扉に取り付けられたベルのカランコロンという音を聞いて、女店主がレクトに声をかける。どうやら、今の時間は客はレクト1人だけのようだ。
「最近ここに越してきたばかりでね。今、生活に必要な物を集めているところだ」
「おや、そうかい。何が必要かね?」
店主と会話を交わしながら、レクトは店内を見回す。掃除用具から入浴関連の品々、ランプなども置いてある。小さな店ではあるが、1人暮らしに必要な道具であればこの店だけで全て揃うかもしれないぐらいには充実している。
「石鹸と、それから衣類用の洗剤。あとは…歯ブラシとタオルかな。タオルは3枚欲しい」
「はいはい…少し待っておくれよ」
レクトの注文を受け、店主は必要な物をそれぞれの棚から取り出す。1人で経営しているからであろうか、どこに何を置いているかは全て把握しているようであり、レクトに言われた物は1分も経たずに台の上に並べられた。
「これで大丈夫かね?」
「あぁ、十分だ。いくらになる?」
「ええっと…。全部で75オーロになるね」
「75だな、少し待ってくれ」
レクトはコートの内ポケットから財布を取り出し、中に入っている硬貨を数える。そうやってレクトが必要な枚数の硬貨を取り出したところで、遠くから民衆の歓声らしきものが聞こえてきた。おそらくはパレードを見ている観客の声だろう。
「お兄さんはパレードを見に行かないのかい?」
代金を受け取りながら、店主がレクトに尋ねた。客がレクト1人だけなのも、皆パレードを見に行っているからだというのは容易に想像できる。
「あいにくと興味がなくてね」
「そうかい」
レクトの率直な返答を聞いて、女店主は納得したように頷いた。世界的に有名なサーカス団であっても、レクトのようにあまり興味のない人間も少なからず存在はしているに違いない。
「ご婦人こそ、せっかくのパレードだぞ。見に行かなくていいのか?」
今度はレクトが問う。実のところ、この店に来るまでに大通りの店のいくつかは臨時休業になっているのをレクトは見ていた。間違いなくパレードを見に行くためだろう。だが、店主は目を閉じながら首を横に振る。
「あいにくと、そういうイベントを一緒に見に行ってくれていた人が3年前に、ね」
「そうか」
一緒に見に行ってくれていた人というのは、おそらくは彼女の夫のことだろう。いないということは、要するに亡くなったということだ。
普通の人間であれば、余計なことを聞いてしまった、と気まずくなってしまうこともあるだろうが、傭兵としての仕事の中で“人の死”に嫌というほど触れてきたレクトはこの程度ではまったく動じることはない。
「確かに75オーロ、いただいたよ」
もう3年も前だから、ということなのか、女店主も特に気にした様子は見せずに商品を詰めた袋をレクトに差し出す。だがレクトがそれを受け取ろうとした時、急に店の扉の外側が騒がしくなった。
「逃げろ!逃げろ!」
「誰か!騎士団を呼べ!」
「ママー!?ママー!?」
窓越しに、何人もの人々が口々に叫びながら走っていくのが見える。いずれも大通りの方から走ってきたようであり、どうやら何かから逃げているようだ。
「おや、向こうで何かあったのかね?みんな慌ててるみたいだけど」
店主は首をかしげている。少なくとも何かの異常事態だということはわかるが、それにしたって随分な騒ぎようである。よっぽど大きな事件なのだろうか。
だがレクトが店主に「みたいだな」と、他人事のように答えようとしたその時。
チリン
(鈴が…?)
左耳に付けた鈴が、小さな音を立てた。もっとも、フォルトゥナの鈴の音は所有者にしか聞こえないので、店主にはわからないことではあるのだが。
「ご婦人。さっき買った物、置いておいてくれ。後で取りに戻る」
「えぇ?わざわざ厄介ごとに首を突っ込むのかい?」
レクトの発言を聞いて、店主はひどく驚いている。既に商品の代金は貰っているので、店主としては困ることはないのだが、状況を見る限りではただ事ではなさそうなので、純粋に心配なのだろう。
「問題ない。厄介ごとには慣れてるんでね」
店主の心配をよそに、レクトは余裕の表情を浮かべながら店の扉を開けた。
明確に決めているわけではありませんが、1オーロ=約20円ぐらいのイメージです。