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クランとの旅を決める少年

 母ちゃんと帰宅する。仕事をしていない父ちゃんは、家にいなかった。

 母ちゃんは無言で、床に転がっている酒瓶を片付け始めた。その顔は俯いて見えず、なにを思っているのか分からない。ただ丸まった背中が、以前より小さく見える。


 昔は、こんなじゃなかった。時々俺も怒られたり、夫婦喧嘩もあったりしたけれど、親子三人、普通に生活を送っていた。

 あの頃は朝になると父ちゃんは仕事へ行き、夜になると仕事を終えて帰って来た。今のように、昼間から酒を飲むことなんて、なかった。


「また……」


 戸棚を開けた母ちゃんが、諦めたようにため息を吐く。また戸棚に隠していたお金を父ちゃんが見つけ、持って行ったのだろう。行き先は、飲み屋か賭博場に違いない。最近父ちゃんが外出する理由は、そこか酒を飲む、買いに行くしかない。まだ未開封の酒瓶は残っているので、酒を買いに出かけてはいない。となると、飲み屋か賭博場しかない。


 酔っ払って帰宅した父ちゃんに、母ちゃんが詰め寄る。


「また生活費を、酒と賭博につぎこんだんだの?」

「あー、あれね。倍になるはずだったんだよ。それなのにさあ、あそこで運が切れて」

「いつもそればっかり! 成功したことなんて、一度もないくせに! いつまで夢を見ているのよ! いい加減にして! ちょっとは仕事を探すとか、なんとかしなさいよ!」


 責めるような母ちゃんの言い方に、すぐ父ちゃんは強い口調で反論する。


「おい、悪いのは俺かよ。違うだろう? 悪いのは、俺に罪を着せたあいつらだ!」

「それとこれは、違う話でしょう? 生活費を使わないで、と言っているの! セウルにも迷惑をかけているって、分からないの⁉ あの子、あんたの代わりに働いているのよ⁉ その金で飲む酒、そんなに美味しい⁉」


 今日も二人は言い争いを始めた。

 こうやって二人の喧嘩に自分の名前が出るのが、いつも嫌だ。俺は別に迷惑だと言ったことはない。だけど、母ちゃんを困らせるのは良くないと思うし、以前の父ちゃんに戻ってほしいとも思っている。だけど、俺の名前を出して喧嘩してほしくない。


 以前の父ちゃんは、ある会社で真面目に働いていた。ある日、その会社で売上金が盗まれた。犯人捜しが始まると社長の身内が、父ちゃんが盗んでいたのを見たと証言し、それだけで犯人は父ちゃんと決まり、会社を首になった。

 さらに社長は、盗んだ売上金の返金を求めてきた。

 父ちゃんは無実を訴えた。その身内こそ怪しいと。売上金が消えたとされる時間、その身内を金庫の近くで見かけたと。それに自分は金庫の番号を知らないと説明したが、社長は信じてくれなかった。


 何回か会社の関係者が請求に来たが、ある時から誰も来なくなった。強制的に、なにかを奪うこともなかった。きっと犯人が別人だったと、社長も知ったのだろうと父ちゃんは言う。

 だけど何回も会社の人が来ては家の前で騒いだので、近所では父ちゃんが盗人として有名となり、居づらくて、引っ越した。


 庭があった一軒家から、薄暗いアパートの一室で生活することになったが、父ちゃんは新しい仕事を探そうとしなかった。引っ越した直後はベッドで寝転がってばかり、動こうとさえしなかった。


「信じてもらえず、ショックだったのよ。しばらく好きにさせてあげよう」


 その頃の母ちゃんは見守ることを決め、父ちゃんの好きにさせた。

 母ちゃんは仕事を探し、その稼ぎで生活することになったが、以前より金を得られないと二人が話しているのを聞き、それで俺も、時々靴磨きで稼ぐことにし、家事を手伝うようになった。

 やがてベッドから出るようになった父ちゃんは、それまでと別人だった。とにかく酒を飲むようになり、二人で稼いだ金は、あっという間に消える。そして酒屋で知り合った人に連れられ、賭け事を覚えてしまった父ちゃんは、以来酒屋と賭博場にしか行かなくなった。


 いつかは以前のような真面目な父ちゃんに戻ると信じていた母ちゃんは、なにも言わないが、もう諦めているようだ。夜、一人で泣いている姿を何度か見た。その横でいびきをかき、寝ている父ちゃん。もう以前には戻れないのだろうか……。そのたびトイレに行く気も失せ、自分の部屋に帰った。


 酒を控えてほしい。賭け事をするくらいなら、仕事を探してほしい。そう繰り返していた母ちゃんなのに、ついになにも言わなくなった。黙って仕事に行き、食事を作り……。笑顔を見せることはなくなった。

 喧嘩はなくなっても、状況が良くなった訳じゃない。ますます家の中は暗い。

 それなのに、父ちゃんだけ変わらない。母ちゃんの変化に気がついていないのだろうか。なにも言われなくなったので、許されたと勘違いしているのだろうか。好きな時間に寝起きし、好きに酒を飲み……。


 母ちゃんは戸棚を開けると、動きを止めることはあっても、それ以上の反応を表に出すことはなくなった。


「母ちゃん、見てくれよ。今日、こんなに稼げたんだ。だからたまには、少しは休みなよ」


 その日、お客さんの一人がいつも以上にチップを弾んでくれた。その金を母ちゃんに渡し、休んでほしいと伝える。

 父ちゃんが働かないから、母ちゃんが毎日働いている。家の外でも内でも。俺の働きなんて、母ちゃんに比べたら安いと思う。だけどたまには、母ちゃんに休んでもらいたかった。

 ありがとうと言いながらお金を受け取ってくれた顔からは、なにも読み取れなかった。


 数日後、母ちゃんが今日は仕事を休むと言ったので、俺は少しでもその分を補おうと、張り切って靴を磨いていた。


「そう言えば聞いたか? この町にも、宣教師クラン様が来られたって」


 客が自分を待ってくれている友人に、そう話しかける。

 宣教師クラン、その名前は聞いたことがある。確か全国を回り、悪魔を頼らないようにという教えを説いている、教会関係者のはず。


「ああ、あの悪魔の書を燃やしているって噂の。人々に、悪魔の力を頼らないよう、訴えてもいるそうだな」

「悪魔の書ねえ。噂はよく聞くが、実在するのかね」

「さあな。俺も昔から話だけは聞くが、実物を見たという奴は周りにいない」


 悪魔の書、それも聞いたことがある。その書を使い、呼び出した悪魔に願いごとをすれば、なんでも叶えてもらえるそうだ。ただし願いが叶う代償に、魂を取られるとも聞いている。

 もしその書があれば、前の生活に戻ることが可能なのだろうか。ふと、そんなことを考えるが、すぐにかぶりを振る。馬鹿らしい。そもそもそんな書、実在しているのか怪しい眉唾物(まゆつばもの)だ。


 磨き終えると客は満足してくれたのか、チップを弾んでくれた。それを握りしめ、少しでも母ちゃんの助けになると、喜ぶ。


「なあ、古物商が来て市場が開かれているから、行ってみないか」

「いいな、なにか掘り出し物があるかもしれない」


 離れていく客と友人の会話を聞き、朝、母ちゃんも市場を覗いてみようかなと言っていたと思い出す。

 古着とか買うつもりかもしれない。中にはもう入手できない品だから、高額となる品もあるが、大半は中古だから安く買える。そういった安物が、今では我が家にとってありがたい。

 なにか良いものが見つかり、ちょっとでも母ちゃんの心が晴れたらいいな。そう思いながら、次にやって来た客の靴を磨く。


 市場が開き、人の往来が多かったせいか、今日の仕事は上々(じょうじょう)。いつもより重たいポケット。それなのに、足が地に着かない。父ちゃんに見つかる前に、ポケットの中身を母ちゃんに渡したら、久しぶりに笑顔で褒めてくれるかな。

 帰宅すると、母ちゃんが台所に立っていた。鍋をかき混ぜながら、鼻歌が聞こえる。


「ただいま。母ちゃん、これ」

「おかえり。あら、まあ、こんなに? 今日はえらく儲かったのね」


 手を止めると金を受け取り、すぐに戸棚に入れる。


「古物商の市場があったからか、客が多かったんだ。母ちゃんも市場に行ったんだろう? なんか、いいものあった?」

「面白そうな本を見つけたわ」


 戸棚を閉め、振り向いた母ちゃんは久しぶりに笑顔だった。

 でも、なんだろう。久しぶりに笑顔を見られたのだから喜ぶべきなのに、違和感があった。素直に喜べない、そんな笑顔。なにか不安を呼ぶ、そんな笑顔。上手く説明できない不安を抱えたまま、会話を続ける。


「それって、どんな本?」

「あなたには、まだ難しい本ね。さあ、ご飯の用意をするわ」


 その晩、先日のチップで買えたと、久しぶりに具材たっぷりのスープが食卓に出てきた。

 美味しいけれど、母ちゃんも明るいけれど、やっぱりなにか胸がざわつく。こんな贅沢、母ちゃんらしくない。いざという時のためにと、父ちゃんに見つからないよう、お金は貯めておくべきだと言いそうなのに。母ちゃん、どうしたの? 母ちゃんらしくないよ?

 だけど怖くて、そんなことは言えない。だからなんの関係もないことを、口にする。


「そう言えば、宣教師クランが来ているらしいよ。悪魔の書を見つけては、燃やしているらしいけれど、この町に、そんなのないと思うんだよな」


 ピクリ。母ちゃんの体が反応したことに気がついた者は、誰もいなかった。


「悪魔の書なんて、ある訳ねえだろ」


 そう言って酒瓶を、直にあおる父ちゃん。


「そんなのが本当にあるなら、俺なら今すぐ、金持ちにしてくれって願うな」

「魂を差し出してまで、金持ちになりたいの?」


 スプーンを置き、真っ直ぐに父ちゃんを見つめながら母ちゃんは尋ねる。なにか期待しているような、どこか緊張しているようにも感じがする。それに俺は気がつかない振りをして、熱いスープの具を噛むと飲みこむ。

 母ちゃんの様子に気がついていないのか、父ちゃんは何事もないように答える。


「真面目に生きていたって、こうなるだけじゃねえか。だったら、楽に金持ちになることを選んで、なにが悪い」

「以前のように、働いて稼ごうと思わないの? 息子に働かせ、その金で酒を買って、申し訳ないと思わないの?」


 その言葉は、父ちゃんのしゃくに障ったらしい。


「お前らは今まで、俺が稼いだ金で生きていただろうが! 少しの間、立場が逆になってもいいだろうが!」


 空になった酒瓶を壁に向かって投げれば、大きな音をたて割れる。

 いつもならそれを黙って母ちゃんは片付けるが、この日はそうしなかった。自分で片付けるよう冷たく告げると、寝室へ向かう。

 閉じられたドアはまるで、ここと寝室という世界を隔てる、大きな壁に思えた。


「なんだ、感じが悪いな。これじゃあ酒が不味くなる」

「父ちゃん、どこに行くんだよ」

「散歩だ、散歩!」


 父ちゃんは散歩だと言うが、きっとどこかの店で飲んでくるに違いない。今日稼いだ金は見つかっていないが、きっとこれまでに盗んだ金の残りがあるのだろう。


 まだ湯気の消えぬスープが三人分、皿に残ったまま。それなのに食卓に座るのは、俺だけ。食欲をなくし、スプーンでぐるぐる、無意味に皿の中をかき混ぜる。母ちゃんは寝室、父ちゃんは外出。食べる気も失せたので、割れた酒瓶を片付けることにする。

 瓶が散らばったのは、両親の寝室の近くだった。


「そう、そうです。もう耐えられません」


 カチャカチャ。割れた酒瓶を片付ける音の中、母ちゃんの声が寝室から漏れてきた。まるで誰かと会話をしているよう。でも寝室には、母ちゃんしかいないはず。どういうことだ? 大きい独り言か?

 寝室のドアに耳を当て、中の様子を聞こうと、耳を澄ます。


「夫はすっかり変わりました、もうついていけません。こんな生活も、もう嫌です。止めてと言うのに、酒も賭け事も止めてくれない。息子に働かせ、自分はいつまでも情けない姿を続け……。時間が解決してくれると思ったのが、そもそも間違いでした」


 誰かに懺悔(ざんげ)しているようにも聞こえる。会話だと思ったのは、気のせいだったのかもしれない。きっと母ちゃんも疲れているのだろう。様子が変だったし、そういう日があってもおかしくない。

 だけど、父ちゃんに続いて母ちゃんまでおかしくなったら、どうなるんだろう。そんな不安がよぎる。


「もちろんあの人は、売上金を盗んでいないでしょう。それは信じています。え? やっぱり社長の身内が、犯人? うちの人を犯人呼ばわりして、今さら違うと言えないから、そのまま放置?」


 ……違う、やっぱり誰かと話している。だけど相手の声が聞こえない。時々間が開いているので相手がいると思わせるが、声が聞こえないことが、どうにも不気味だ。


「疲れました……。あの子はもう、一人でも生きていけるでしょうし……」


 毛が逆立つ。あの子が一人? 俺が一人で生きていけるって、そう言っているのか?

 なにか大変なことが起きようとしている。寝室に飛びこもうとするが、なぜかドアノブを回しても開かない。


「母ちゃん、母ちゃん!」


 片手でドアノブを回し続け、もう片方の手でドアを叩き叫ぶ。


「開けてくれよ、母ちゃん! 中に誰がいるんだよ! 誰と話しているんだよ! なにをする気だよ! なあ、母ちゃん!」

「おいおい、うるさいな。どうした」


 母ちゃんからの返事がない中、父ちゃんが帰ってきた。やはりどこかで飲んできたのか、顔が赤く、酒臭い。だが今はそんなこと、どうでも良かった。


「母ちゃんの様子が変なんだ。中に母ちゃん以外、誰かがいるようだし」

「はあ? そんな訳、ないだろう。食事前、寝室には俺だけしかいなかった。その後に他の誰が、寝室に入れるっていうんだ。入るには、絶対ここを通らなきゃならない。お前に見られず、寝室には行けねえ。誰か通ったのか?」

「ずっとここにいたけれど、誰も通っていない、母ちゃんだけのはず。だけど、中から誰かと会話しているような声が聞こえるし、呼んでも返事がないし、ドアも開かないんだ」


 この家の各部屋に、鍵は取り付けられていない。そんな馬鹿な、と笑いながらドアノブを回す父ちゃんの顔に焦りが帯びる。


「なんだ、これは? なぜ開かない? ノブが壊れたのか?」

「父ちゃん、ドアを打ち破ってくれよ!」

「あ、ああ」


 酔った体を何度も体当たりさせるが、びくともしない。


「揃ったようだな」


 寝室の中から、初めてしゃがれた女性の声が聞こえてくる。母ちゃんの声とは、全然違う。誰だ? 一体誰が、母ちゃんと寝室にいるんだ?


 バン!


 父ちゃんが体当たりしようとする直前、大きな音をたて、ドアが開いた。勢いをつけていた父ちゃんは、床にこける。


「なんだ、これ……」


 寝室の床に、光る円形のなにかが描かれており、その真上の空中に老婆が浮かんでいた。まるで椅子に座っているよう、あり得ない光景だった。老婆の長い前髪は顔にかかっており、口元くらいしか見えない。そんな老婆と向かい合っている母ちゃんは、一冊の本を抱え、悠然(ゆうぜん)と俺たちを見る。


「……この本、市場で買ったの。いいえ、出会ったの」


 本の縁を愛おしそうに撫でながら、そう言う母ちゃん。

 人が宙に浮かぶなんて、あり得ない。その光景に、なんと声をあげればいいのか分からなかった。


「悪魔の書って、本当にあったのねえ」


 笑う母ちゃんの持っている本が、悪魔の書だというのか? ということは、この老婆が悪魔? 悪魔だから、宙に浮かべているのか? 考えることが多すぎて、なにから答えを見つければいいのか、分からない。


「市場の一画に古書を扱う店があり、そこで見つけたの。悪魔さん、さっきも言ったけれど、私の願いは一つ。こんな生活はもう嫌、楽になりたいわ」


 悪魔に恍惚(こうこつ)とした眼差しを向け、本を持ちながら両手を広げる母ちゃん。


「その願い、叶えよう」


 老婆が人差し指を母ちゃんに向けただけで、母ちゃんが倒れた。

 なにもかも突然すぎて、ついていけない。どうして母ちゃんは、倒れたんだ?

 こけたままだった父ちゃんが這いつくばりながら、母ちゃんに近寄り、顔を青ざめる。


「……息を、していない……?」

「ひひひひひ、願い通り、楽にしてやったんだよ。この女は、生きていることが辛かったからねえ。落ちぶれた亭主の世話に、疲れたんだってよ」

「お、俺のせい、なのか?」

「他になにがあるってんだい。あたしには見えたよ。あんたは確かに、社長の身内のせいで疑いをかけられた、ただの被害者だ」


 長い前髪を除け、自身で片目を手で大きく開かせる悪魔。瞳孔が縦に長く、まるで猫のような目だった。


「だけど、それで腐って酒と賭けに溺れ、稼ぎは妻と息子に任せる。家事もしない。ちっとも前を向こうとしないあんたに、愛想がつきたんだよ。知らなかったとはいえ、最期の晩餐だってのに、放って家を出ちまう。当然だろう?」


 老婆の視線の先には、すっかり冷めたスープが並んだ食卓。


 ごくりとノドを鳴らす。具が多かったのは、今日を最期にするつもりだった? 最初から母ちゃんは、悪魔に自分を殺してもらおうと……? いや、楽になりたいと言っただけ。本当に死ぬつもりなら、安らかに死にたいとか言うはず。

 母ちゃんの言葉を逆手(さかて)に取り、悪魔が殺した可能性は……?


「ひひひ、しっかり味わってくれず、悲しかっただろうねえ」


 老婆の姿がぐにゃり、変形していく。背中から羽を生やし、顔は若返るが首から下は見える限り、腐っているようだ。そのせいか悪臭が強く、咳きこむ。


「この女の心残りは、息子のあんただけだったけれど、あんたは一人で稼ぐ術を持っている。だから心配していなかったね。それに比べて、あんたの方は……。どうでもいいみたいだね」


 顔だけは美しい悪魔が父ちゃんを指さし、ぐるりと腐ったような色をした指を回す。


「お前の妻は楽になりたいと願った。だからこれ以上苦しみを味わうことがないよう、殺してやった」


 母ちゃんの口から青白く光るなにかが飛び出ると、それは悪魔のもとへ向かい、悪魔は愛しそうに見つめ手元に引き寄せる。ひとしきりそれを見つめると、やがてそれを飲みこんだ。


「お前の妻の魂は、今見た通り、このあたしが食らった。もう二度と、この女の魂が甦ることはない」


 言われて、あれが魂だったのだと気がつく。悪魔が代償として魂を食らう話は、本当だったんだ!


「な、なんてことを……!」

「怒る相手を間違えるんじゃないよ。あんたがしっかりしていたら、この女はこんなこと、願わなかった。自分の蒔いた種なのに、あたしのせいにするんじゃないよ。まあこの女も、死ぬとは思わなかっただろうねえ。厄介者と離れたかっただけなのに、頼み方が悪かったんだよ。言葉は選ばないとねえ」

「それを分かっていながら、母ちゃんを殺したのかよ!」


 ひひひひひ。悪魔は笑うだけで答えず、姿を消した。


 母ちゃんは父ちゃんの世話に疲れ、父ちゃんと離れたいという意味で、楽になりたいと言ったんだ。それをあの悪魔、分かっていながら、理由をつけて母ちゃんを殺したんだ。

 嘘だろう? 本当にたったこれだけで、母ちゃんが死んだなんて……。

 まるで目眩を起こしたように、体が揺れる。


「俺が……。俺の責任なのか……?」


 ふらふらと立ち上がる父ちゃんだったが、またすぐに膝をつく。


「そんなつもりは……。これは夢だ、夢に違いない。あいつが、こうやって死ぬはずが、ない……。酒のせいで、夢を見ているんだ、ははは、そうに違いない」

「夢……」


 そうだったら、どんなにいいだろう。でもこれは、現実だ。次に自分がどう動けばいいのか、なにを言えばいいのか、皆目(かいもく)分からない。


 とんとん。


 そんな中、夜分だというのに、玄関の戸が叩かれる。

 それでもまだ、俺も現実が受け入れられていなかった。こんな矢継ぎ早(やつぎばや)に、こんなことが起きて……。父ちゃんの言う通りかもしれない。実はこれは夢で、現実ではないのかもしれない。

 そんなことを考えながら、音に導かれるように戸を開けると、そこには教会の服を着た男性が立っていた。

 誰だろう。よく通う教会で、この男性を見たことがない。


「夜分遅く失礼します。私の名前は、クランといいます」

「……クラン?」


 どこかで聞いたことがある名前。頭の動きが鈍く、すぐに思い出せない。


「実は、こちらに住んでいる女性が購入された本について、至急確認したいことがあり……」


 そこまで言うと、クランと名乗った男性の目が大きく開かれ、押しのけるように家に入ると腕を伸ばす。


「止めなさい!」


 振り返ると、まだ全部片付けていなかった酒瓶の破片を首に当てる父ちゃんの姿があった。


「父ちゃん!」

「夢だ、これは夢だ! 夢なんだ!」

「早まるな!」


 三人の声がそれぞれ重なり、直後、父ちゃんは首に破片を刺し、父ちゃんの体が崩れた。



◇◇◇◇◇



 両親の葬儀はクラン様の紹介もあり、通っていた教会が行ってくれた。家は子どもだけになった俺に貸してくれる訳がなく、出て行かなくてはならなくなった。仮に借りられたとしても、両親が亡くなったこの家で生活する気はない。

 荷物を片付けていると、クラン様が訪ねてきて説明してくれた。


 母ちゃんが買ったあの本は、書物を取り扱う古物商の商品だった。いつから店にあるか分からないが、どうせ偽物だろうと、適当な値段で母ちゃんに売ったそうだ。

 クラン様は、そうやってたまに古物の中に、本物の悪魔の書が紛れていることを知っているので、古書店等は特に調べているそうだ。店主からその話を聞き、書の真偽を確認する必要があると考え、調べることに決めた。

 店主はもともとこの町に店を持っており、母ちゃんの顔は知っていた。ただ住所や名前を知らない。そこで母ちゃんと話していた人をクラン様に教え、そうやって人を頼り、母ちゃんの家を探しあてた頃には、あんな遅くになったと。


 クラン様と悪魔の書について話すのは、この時が初めてだった。

 どうしたら良いのか分からず、あの書をとりあえず鞄に入れていたので、クラン様に差し出す。


「間違いなく、この書は本物だよ。母ちゃん呼び出した悪魔を、この目で見た。父ちゃんとも会話をしていた。呼び出された悪魔が、母ちゃんを殺して……。それから、母ちゃんの魂を、食らって……」


 ぽたり。俯くと、手の甲に大きな粒の涙が落ちた。


「それで、悪魔がいろいろ言って……。追いつめられて……」


 父ちゃんも、死んだ。


「……この本は、私が処分してもいいだろうか」

「いいよ」


 腕で涙を拭い、クラン様を正面から見る。


「ただ、処分の方法を教えてくれるのが条件だ。俺も悪魔の書を、この世から無くしたいから」


 教会が経営する孤児院に入る予定だったが、俺はクラン様と行動を共にすることに決めた。


 二人で悪魔の書を見つけては燃やし、処分する。


 悪魔の書が無ければ、父ちゃんまで死ななかった。悪魔の書が無ければ、母ちゃんは別の形で、父ちゃんから逃げただろう。

 もちろん悪魔だけが悪い訳じゃない。父ちゃんを雇っていた社長、その身内。許せない奴らは大勢いる。父ちゃん自身にも問題はあった。


 だけど俺の家族を奪ったのは、悪魔だ。あいつらを俺は許さない。


「いいかい、セウル。悪魔の書により、君のように家族の仲を狂わされた者たちを、私は知っている。悪魔は狡猾に何年もかけ、我々に勝った。そして、私はその悪魔に惑わされた一人。罪人なのだよ」


 クラン様が教えてくれる。ある領主が天災により悪魔と契約し、孫娘が花嫁として選ばれたと。ただ単純に花嫁としてさらうのではなく、悪魔は狡猾に残忍に人間を欺いて、花嫁を手に入れたのだと。

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― 新着の感想 ―
元々の元凶、父親の元会社にお咎め無しなのがぐぬぬってなる。
[一言] >>お、俺のせい、なのか? 救いようがねぇな糞親父 そこで激昂して悪魔に殴りかかるぐらいの気概見せろってんだ
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