14ー1 少年は彼
ザインフォートの書庫から借りてきた魔術書の解析をするため、ライラヴィラはスペランザ城の自室に篭った。
──これは難しい……最近、色々ありすぎて術式解析の勉強をさぼってたから、きちんとやらないと。
三冊の魔導書を並べつつ、別のノートにメモを書き出した。
それぞれの術式の共通部分は統合し、違う部分を重ねて発動させるための組み合わせ方を模索した。
ふと、壁にかけてある少年の絵に目が行った。
黒髪にターバンを巻いた、黄色い瞳。
いつも思うが、レグルスによく似てる。
「私、頑張るから」
そう独り言を彼に言うかのように、無意識に呟いた時。
ペンを握る手のツメの紅さが自らの視界を覆った。
目の前が真紅に染まり、何かを思い出す——。
万華鏡のように心の奥底から溢れる記憶が彼女の想いを呼び起こしていく。
──私、頑張るから……そう宣言して彼を助けるためにサンダリット近くの湖のほとりで光球を放った。
この絵を描いた時、彼は自分が魔族だと打ち明けてくれた。
私を助けようと忌々しい僧侶の前に立ってくれた。
画材を買う時、人界の雑貨屋に一緒にいた。
その前は、一緒に魔物と戦って、風の精霊からの祝福を受けた。
間違えて苦い薬用茶を出してしまった時、何も言わず飲んでくれた。
最初に会った時、彼の亡くなった母さまの絵を描いた。
その時、彼は絵を見て号泣した。
私も、彼を泣かしてしまった申し訳なさで一緒に泣いた。
この絵を描いたあと、私のことを可愛いと言ってくれた。
この少年は、私の初恋の人。
──そう、この少年の名は、レグルス。
彼は突然、魔界へ帰ってしまった。
そのあと再び来て、魔王を継ぐと言っていた。
もう会えないと言うから、私から会いに行くよと告げた。
でもそこで、彼の記憶は途切れて。
あなたの父さまに勧められて剣術を始めたことも、風魔力を得た理由も。
この絵を描いたことすらも、全て忘れ去ってしまった。
──あれから八年が過ぎた。
二人で風の精霊からの祝福を受けた、あの湖のほとりで再会した。
魔族だエルフだと言い争った。
次は隣町のトステルで会った。
あなたは私が八歳の時に描いた絵を、大事そうに見せてくれた。
悪鬼となったあなたの親友ザインフォートの討伐に立ち会った。
あなたの苦しみを少しでも受け止めたかった。
トラヴィスタ城下町で一緒にお買い物をした。
あなたは私の魔眼を、宝石みたいだと言ってくれた。
魔界を一緒に旅した。
たくさんの出来事や出会いがあった。
私が大魔王になってスペランザで目覚めたあと、傍についていてくれたのは
心配そうに見つめていたあなただった。
人界で私の正体が暴かれた時。
あなたは空の上から助けに来てくれた。
私の戴冠式の時。
私が一番欲しいものをくれた。
私は再び、あなたから貰った色鉛筆で今のあなたの姿を描いた。
眩しいあなたの絵を……。
ライラヴィラは椅子から立ち上がって収納棚からスケッチブックを取り出した。
広げると最近描いていたレグルスの絵が完成している。
戴冠式の時に見せた、紅と黒の正装を着た凛々しい姿。
ライラヴィラはスケッチブックを抱きしめて、ただ静かに涙した。
「陛下、失礼します」
ノック音がして侍女長ミリィが入ってきた。
「術式解析のお手伝いを……陛下?」
ミリィがスケッチブックを出してうずくまる主の側に駆け寄った。
「どうなさったのですか」
ライラヴィラは蘇った記憶に飲み込まれて嗚咽していた。
「せっかくお描きになった絵が崩れますから……」
ミリィの言葉に気付いて、そっとスケッチブックを閉じて置いた。
「ちょっと、いろいろ、たくさん思い出してしまって」
ライラヴィラは涙を手で拭った。何度も何度も。流れる雫が止まらない。
「ごめんなさい、もう大丈夫」
もう一度、ハンカチで綺麗に顔を拭いた。ようやく涙が収まった。
ハンカチを持つ手のツメが、ウルカドンでソフィーに指摘されて見た時よりも紅さが強くなっていた。
「落ち着かれましたか?」
ミリィがそっと温かい紅茶を淹れて差し出した。
ライラヴィラは無言で受け取り、それを口にする。
ひと息ついたあと彼女に声をかけた。
「ありがとう。驚かせたよね」
ミリィは首を振り笑顔を返して応えた。
「女という生き物は、切なくて泣きたくなる時もあるのです」
思いがけない言葉が彼女の口から聞こえて、彼女の方を向く。泣きはらした瞼が熱い。
「ミリィも、そんなことがあったの?」
「ええ、彼は本当に無口な人でしたから。今でこそ、少しは喋るようになりましたけどね」
彼女の夫、侍従長ベルントは確かに普段は無口だ。
夫婦の間には、きっとびっくりするようなロマンスがあったんだろうと思った。ベルントは若い頃はきっとモテただろうし。
「無口だと何考えてるんだか、分からなくて困るよね」
ライラヴィラはレグルスもそういう無口な面もあると思った。いつも態度は偉そうだけど、意外と饒舌ではない。
「でもそこが彼の、私が好きなところです」
微笑んで応える侍女長を見て、ミリィとベルントは本当にお似合いだなと思った。素敵なふたりの関係には憧れる。
「ごちそうさまです」
ライラヴィラが笑うと彼女は笑顔で会釈した。
思い切ってミリィに話してみようと、ライラヴィラはレグルスの少年時代の絵の前に立った。
「ミリィ、聞いてくれる?」
「何でございましょう」
侍女長が大魔王の傍らに控える。
「びっくりするかもしれないけど、これ、少年の時のレグルスなの」
「左様でございますか。いつも愛おしげに眺められてるので、もしかしたらとは思ってました」
この絵を描いたときのことはすっかり忘れてたのに、私はそんな目でこの絵を見ていたのかと、ライラヴィラは少し気恥ずかしくなった。
「彼と初めて会ったのは私が八歳のときなの。ずっと忘れてたけどね。私を育ててくれた爺さまのところに、彼が魔王の父さまに連れられて来たの」
「そんなことが。陛下は人界にいらしたのに、奇跡のようですね」
「うん。今考えると、奇跡ね。この絵は私が十二歳の時に描いたのよ。彼にモデルになってもらって、一生懸命描いたわ」
ライラヴィラは彼とほんの少しの間一緒に生活したことや、暴力を振るう男から助けてもらったことなど、心に秘めていた思い出話をした。
「素敵な思い出を聞かせてくださり、私とても幸せな気持ちになりました。陛下も、どうか幸せにおなりください」
ミリィは困ったことがあればいつでも呼んでくださいと、丁寧に礼をし、主君の部屋を出ていった。
──幸せに、か。
ライラヴィラはそんなものが自分に許されるのだろうかと思った。
なにせ魔界を背負う人柱、たったひとりの大魔王だ。しかもリリスとかいうヒトではないものに為ってしまった。
彼には前に、好きだと勢いで告白してしまったけど。
その彼は……私のファーストキスを土壇場で奪っておいて、それが気持ちだとしか言ってこない。久しぶりに会った時も頬にキスをしてきたけど、あれはきっとご機嫌取りのまやかし。
レグルスは超大国ソレイルヴァの魔王だし、容姿端麗で頭脳明晰。好いて群がる女性は大勢いるに違いない。
私みたいな深淵の守護者リリスという面倒な立場の人より、きっと本命は別にいるんじゃないかと思う。
私に対する彼の態度は、彼の優しさからくる憐れみ。
彼を好きな気持ちは本当だけど、彼に期待してはいけない……。
紅い艶を帯びたツメを眺めながら、ライラヴィラは気持ちを切り替えようと、再び三冊の魔導書に向き合った。




