1-3 戻された力
精霊の森での収穫物の入ったリュックを背負い、ライラヴィラは集落のはずれの高台にある自宅に帰ってきた。日が暮れて辺りは薄暗くなっており、平屋の窓から柔らかい明かりが漏れている。
家の中に入ると、ライラヴィラの育ての親である賢者フォルゲルは先に戻っていた。何やらブツブツ言いつつ、何冊もの古い書物を広げて椅子に座っている。いつもの翁だ。
「ただいま、戻りました」
「うむ」
「レグルスは行ってしまいました」
「そうか。あやつにはもう近づくな。関わるのは危険だ」
翁からハッキリ忠告されたが、そんなにも彼は危うい存在なのだろうか。
「彼はそんな悪い人ではないと思います。昼間に森で魔物に襲われましたが、彼に助けられました」
「精霊の森に魔物じゃと……あやつが引き寄せたか、或いは」
そのまま賢者は黙り込んでしまった。こうなると翁はうんともすんとも言わない。教えを乞うても無視されるだけだ。それに彼が魔物を引き寄せたとは考えにくい。一緒に討伐したのだから。
ライラヴィラは気を取り直して、採取物の整理をするために奥の部屋へ移動した。容量拡張と耐久強化の錬金術が施された、『魔導カバン』であるリュックを小さな台に下ろす。
床に布を広げて収めてあった薬草薬石を一面に取り出すと、慎重に分類していく。そのあと使いやすい量にまとめて束ねたり、大きいものは使いやすく小分けにして袋詰めにする。素材の半分ほどを別の魔導カバンに詰め直した。
「爺さま、今日はムルットの実がたくさん採れたから、いつものジャムを作るね」
ライラヴィラは翁から返事がないのは了承だと判断して、リュックを手に台所に入った。
収穫した大量の赤い果実は精霊の湖で清めてあったので、彼女はリュックの口を大きく広げると「出ておいで、森の恵みたち」と囁いた。
途端にリュックからムルットの実が次々と飛び出す。房になっているものはひとりでにひと粒ずつ外れ、子どもが入れるくらいの巨大な鍋へ向かって飛び込んだ。
すべての実が鍋の中へ収まったのを確認すると、ライラヴィラは保存期間を延ばすための白砂糖を加えて煮込み始める。途中で酸っぱいレモネーの果汁を少し加えて、ジャムのとろみをつけた。
「そうだ爺さま、今日は毒草もかなりたくさん採れて……」
「ドリスゴルはあったか?」
賢者が尋ねてきた。大変珍しいが猛毒の野草である。
「それもありました、二束ほどです」
ライラヴィラの返事を聞いてフォルゲルは席を立ち、整理された収穫物の中からその毒草を手にすると、別室へ籠ってしまった。
甘い香りが部屋中を満たす。ライラヴィラは熱く重たいジャムの鍋を風魔法で浮かせて木製の台の上に乗せ、清浄な空のガラス瓶を百本ほど並べた。先の細くなったスプーンを数本同時に魔法で操作してすくい取り、熱いうちに丁寧に詰める。紅いジャムが満ちたものから順に魔法でふたを締めていった。
しばらくジャムの瓶詰作業をしていると、フォルゲルが紫の液体の入った小瓶を持って部屋から出てきた。
「ライラヴィラ、精霊契約の儀式を行う。支度を」
フォルゲルの突然の言葉に彼女は耳を疑った。精霊に関する術を行うときは、勇者村の村人を大勢集めて昼間に行うのが通例だからだ。
「契約って、爺さま?」
「時が来た」
翁は紺色の重厚なローブを纏い、大きな珠の入った杖を手にして家の裏手に出ていった。
ライラヴィラは作業を中断し、自分の部屋で儀式用ローブに着替えた。普段は使わない木製の杖を部屋から持ち出して家を出た。
◇ ◇ ◇
すっかり暗くなった賢者の家の裏手には、木々に囲まれた円形の広場があった。翁が灯した魔法の明かりが幾つか空中に浮いている。
フォルゲルは手にしていた瓶のふたを開けて、黒に程近い濃紫の液体で円環の紋様、すなわち魔法陣を描いていた。
「魔法薬で陣を設置するって、爺さまらしくない……」
ライラヴィラはいつもの賢者の術とは何か本質的に違うものを感じていた。普通は魔力で生み出す光線を用いて魔法陣は描かれる。薬剤で描く時は魔力が足りない時と、自らの魔力を侵食する可能性のある危険な術式の時だ。
「うむ、わしは闇魔力は無いからの」
翁はライラヴィラに重い声を発して頷いた。
「闇魔力? まさか禁忌の力を起こすのですか?」
猛毒の薬草を使って描かれた魔法陣は今まで感じたことのない波動を放っている。何もかも捉えてしまいそうな静寂の引力。光も音もそこだけ無に帰される。
「否、そなたが元々持っていたものを、返すだけだ」
「それは……?」
フォルゲルはライラヴィラの問いには答えない。
「そなたの杖は要らぬ。そこに立ち、瞳を閉じて祈るがいい」
賢者はライラヴィラから杖を取り上げ、魔法陣の中央で立つよう促した。ライラヴィラは無言で待つ賢者を見て、明確な返事を得るのは諦める。風の力でふわりと浮いて、薬液で描かれた円環を飛び越え、中央に立った。
「始める」
育ての親である翁の指示に今は従うしかなかった。しかし何が起こるのか分からない。万が一の魔法事故を覚悟するしかない。
フォルゲルが身の丈を越える大きな杖を高く掲げて、魔法術式を開始した。
「闇の底より生まれし精霊よ。ここに在りしダークエルフの子──ライラヴィラが生まれし時の契約を──今、我との盟約により、戻せし」
ライラヴィラはフォルゲルが何をしようとしてるのか、未だ分からないまま魔法陣の中で瞳を閉じて両手を組み、精霊への祈りを捧げた。
〈受諾──時は来れり〉
どこからともなく低めの不思議な声が響く。長らく精霊のもたらす魔力による魔法術式を学んだが、これまで一度も見えざる存在の声など聞こえてこなかった。思わず紅い瞳を見開く。
魔法陣の周りから青紫に光る玉が無数に大気中に湧き出て、周囲を回り始めた。
〈預かりし絆を再び結ぼう、愛しき子よ〉
先ほどと同じ声が語りかけてきた。
魔法陣の中央で立ち尽くすライラヴィラを目掛けて青紫の光球が次々と注ぎ込まれた。やがて光がひとまとまりになって彼女を包み込む。
「爺さま! これはっ!」
「問題ない、そのまま居れっ」
地に響くような唸り声で賢者は詠唱を始め、魔法術式の仕上げにかかる。目の前が青紫に広がると翁の姿も声も消えてしまい、ただひとり虚空の中に残された。自分の存在を確かめようと、瞳を閉じて手を開閉したり首を振ってみた。何かの圧を感じて立っていられなくなり膝をつく。
「ライラヴィラ、もうよいぞ」
フォルゲルが声をかけてきたのでそっと目を開けると、足元の魔法陣は消え去ったあと。そこはただの裏庭の広場に戻っていた。
「そなたが持っていた、闇の精霊とのつながりを、今再び結んだ」
フォルゲルは膝をついたまま呆然としていたライラヴィラの手を取った。翁の手を借りて立ち上がる。
「そなたは生まれし時から光と闇、両方の精霊がついておった。しかし同時にふたつの力を持つには、赤子のそなたには無理があった」
ライラヴィラはようやく何が起こったのかを理解しつつあった。翁は最初「精霊契約」と言っていた。これは心身と奥深くの魂に馴染んでいる光魔力や風魔力ではない。新たな未知の力、闇魔力。ただ元々持っていたという、それには違和感が無い。自然にあったかのようだ。少女時代に風魔力をいつの間にか身につけたように。
「まずは光の扱いをこの人界で身につけさせ、時が来れば、そなたが本来持っていた闇を返そうと決めていた。今までよく耐えた。どうかわしを許してくれ」
「爺さま、なぜ謝るのですか?」
ライラヴィラはフォルゲルの傍らに寄った。魔法の修行は大変ではあったが、やりがいも感じていた。魔法を使うことは純粋に楽しい。それなのに耐えたと言われ、うなだれて目を伏せる翁。
「爺さまは身寄りのないわたしを育ててくれて、世界中のありとあらゆる魔法学、歴史文学などの学問を与えてくれました。それにこの村では歴戦の騎士に劣らぬ一流の武芸を稽古できました。わたしがここに在るのは、爺さまのおかげです」
彼女の感謝の言葉には応えず、フォルゲルは俯いたまま静かに告げた。
「世界が変わる、その転換点にそなたは含まれておる。そのうち分かる」
また訳のわからないことを言われた。世界の転換点とはいったいどういうことだろう。
この光溢れる世界『人界』は、忌々しき厄災の『大魔王』が闇の世界『魔界』から攻めてこない限り平和だ。その大魔王を討伐するのに必要な光の力を行使できる『勇者』を育てるため、この村サンダリットは古から存在している。
転換点とは『勇者』とはまた別のことだろうか。あるいはこれまでの大魔王と勇者の戦いの歴史が変わるような、大きな異変が起きるというのか。
ライラヴィラが黙ったままいると、賢者は突然、彼女の両手を取った。
「右手に光球を、左手には闇球。同時に出して見せよ」
急に出された難題にライラヴィラは困惑した。複数属性の同時起動は、ただでさえ上級魔術技法とされる難易度だからだ。それを未知の闇魔力でせよと、目の前の賢者が要求している。
「爺さま、わたしは光魔力と風魔力は持ってるけど、闇魔力は!」
「今、戻したとわしは言ったぞ? それと杖や短剣などの魔力媒体は無し。素のままで、何も持たずにこの場でやってみせよ」
「そんなことしたら魔法が制御不能になって暴走するかもしれません! たとえ修行だとしても、村に被害が及ぶかもっ」
更なる条件を突きつけられて、ライラヴィラは驚いて大声を上げた。しかしフォルゲルは動じることなく、強い目で彼女を見据える。
「今のそなたなら、できる」
翁はその場で杖をついたまま真っ直ぐ立ち、鋭い視線を向けたまま促してきた。
ライラヴィラにとっては未知のちから、闇魔力。そこから発される闇魔法をどう発現すれば良いのか、そもそも闇魔力の感覚がよく分からない。ただ賢者の爺さまから「できる」と言われてしまった以上、可能なのだろう。万が一にも魔法が暴走したら、きっと爺さまがなんとかしてくれる。
ライラヴィラはゆっくりした深呼吸を数回して心を落ち着けた。全身が据わると魔力を捉えるために集中力を高めていく。
まずは扱いの慣れている光魔法、ライトフレアを右手の上に乗せる。
杖をはじめとする、魔力媒体がない状態での魔力コントロールは難しいと覚悟していたが、苦労せず安定して発現させられた。今までにない光の精霊との強いつながりを感じ、喜びすら覚えるほどである。
次に光球を維持したままでのダークフレア発現である。
ライラヴィラは右手から感じられる光の放射状の波動とは違う何か……霧のような気体のような、少し重さがあって静かな収縮感があるのを感じられた。これが闇の精霊がもたらす闇魔力だろうか。感じるままにライラヴィラは左手に意識を集めた。紫に光る黒煙の球が左手に乗る。
両手にある光と闇の量は同一であり、それが魔力の制御を容易くするのだと直感で理解できた。
「よろしい、よく出来た」
フォルゲルが二つの術の同時発現を確認したあと、ライラヴィラは集中力の限界になり、ふたつの球が同時に消えた。全身から力が抜けてその場に座り込み、肩を揺らして深く息を吐いた。
「闇の力とは『終焉』。光の力とは『創造』。これだけは覚えておきなさい」
「終焉……恐怖や破壊とは違うのですか?」
ライラヴィラは人界で一般的に言われてる、闇の力の話との違和感を覚えた。闇の力とは、本来は魔界に住まう魔族だけが行使できる。人界では忌々しき邪悪の力として禁忌とされ、これを使う魔導師や闘士は見たことがなかった。
「ここまでできれば、もうわしが教えることは何もない」
フォルゲルは明かりの光魔法をすべて消して、自宅に戻ってしまった。ライラヴィラは翁に突き放されたような不安感に駆られて、しばらくその場にひとり立ち尽くした。
賢者の家の開けられた窓から甘い匂いが漂ってくると、ジャムの瓶詰め作業が途中だったことを思い出す。慌てて暗闇の中で明かりが漏れる建屋に入った。
◇ ◇ ◇
ライラヴィラは出来上がっていたジャムの残りすべてを瓶詰めして、片付け終えた。
軽く食事を済ませたあと、入浴して身体の周りに纏わりつく余分な魔力を清め落とし、自室に戻る。
ベットに腰掛け、壁にかけてある絵をぼんやり見つめて物思いに耽った。
──今日はいろんなことがあった。
闇魔法、闇の精霊とのつながりがないと使えない力。
この光あふれる世界、人界でそれを扱えるのは賢者ですら難しい。そもそも闇魔法は禁忌の術とされている。
わたしがダークエルフなのは、生まれつき闇の力を扱えるから?
この魔眼も、闇に関わりがあるから?
でもわたしは頭にツノは無いから魔族じゃない。ツメの色も普通のエルフと同じ桃色だ。
あの、人界をたびたび襲ってくる、恐ろしき大魔王の住う魔界の魔族ではないはず。
爺さまはわたしが生まれた時のこと、両親のことは知らないって言うけど……。なぜ、わたしが生まれつき光と闇の両方を持ってたって、知ってるんだろう。
湖で会った、黒髪で褐色の肌の剣士レグルス。探してる友だちが無事見つかると良いんけど。
金色の瞳の人は、初めて見たかも……綺麗だった。彼の種族がよく分からない、巨人族タキラに似てそうだけど、そこまで体は大きくなかったし。
あの壁掛けの絵、少年だけど、レグルスに似てる。
いつ、誰を描いたものか、覚えていない。でも懐かしい。
ライラヴィラは心の底から湧き上がった震える感情を持て余した。