半島と九州の土器の共通性
以前から縄文時代に半島と日本の大きな海洋文化圏が無いと見解だけど、そういった分かりやすいものじゃないとある程度のつながりはあるようだ。どういうことか言うと、全体じゃないが一部土器のつながりがある。その点は文化圏的なものに近い。ただし分かりやすい形での文化圏のような考えは反対だ。土器石器漁具、これらをすべて含めて共通性のある文化圏ってのはないんだ。
後は南部全体が九州と繋がった文化圏ってのも苦しい。あくまで散発的に土器が発見されるか?または、一部の遺跡に集中して発見されるか?の程度。分かりやすく言えば南部全体でそうとは言えない例外が多すぎる。まずその原因から考えてみたいが、弥生との連続性の無さが最大の問題だと思われる。
その原因が縄文後期から土器のつながりがぱたっと消える。皆無に近くなってしまう。そのためいきなり弥生が北方から広がって日本と繋がるようにしか見えない。何故そうなったのか?でおそらく寒冷化。これによって農業社会への移行があったと見ている。そのため海洋圏のつながりを失ってしまったのじゃないか?と見ている。
寒冷化によって人口が減ったことが一番の原因だと思うが、そこからどう対応したか?は正直良く分からない。とにかく弥生の前の重要な時期にこれらのつながりは消えてしまいいきなり弥生からになってしまう。
何度も書くが、遺跡の中ではごくごく一部の散発的な事でしかない。それをもって文化圏などと言うのはどうかしてるとしか言いようがない。言ってみれば日本の中の中華街をさして中国文化圏と日本を語るようなものだ。ただ発見されないからそこまでだってわけじゃない。残ってないだけで、実際はもっと大きな規模だった可能性はとても高い。
それは半島の別の文化も同じだろう?となるが、そうとも言えないんだ、日本のそれらのものは南部の海岸部にかなり偏ってる。そのためそこだけで見ればひょっとしたら大きな割合である可能性が有る。半島全体ではごくごく一部の遺跡にすぎなくてもだ。
単純な範囲で分ける文化圏には今でも否定的だが、一部まだら模様になるぐらいの散発的なものなら半島南部の一部にそういった文化圏があったかもしれない。そうやって思い直す話を見た。
土器の研究で、対馬までは北九州のスタイルを踏襲したものがきちんと見つかる。それらは意図的に合わせてあるように様々な点が一致している。これは島独自に独立して発展したならありえない。しかも時代時代で北九州の影響の変遷が重なるようになっている。これは対馬に移住したでは解明できない。
時代時代にその都度交流があった証となる。ここまで強固なものじゃないが、半島の一部でもこういった共通性が見つかる。対馬まで一致してる。ならその先もどうなのか?でただ移住ではない交流の可能性が出てくる。
曾畑式と言う半島の影響を受けたであろう有名な土器があるのだが、これらには半島で主に使われいた縄文土器にはない素材が使われていて、常にこの素材を入れるように心がけてる形跡がある。滑石と言う土を使用するのだが、このためほぼ半島から影響を受けたと決定づけられている。この滑石が出土しない対馬でもかなりの割合で混ぜてある。
これらの事から対馬に移住した住人が製法を伝統的に守ってるレベルの話じゃないのが分かる。間違いなく九州からこれらの素材を輸入している。あとちょっとで半島につく。ごく一部の地域で曾畑式がそれなりに長い年月出土する。これはそれらを作る住人が長期間住んでいた証でもある。決してちょっと来ただけのものじゃない。
他にも理由があり、まとまった石器土器漁具といったものはないが、散発的に人骨や縄文土器、日本産の黒曜石の石器などが半島の南部の海岸で見つかる。それらは重なって見つかるわけじゃない。海岸に散発的に見つかるのだが、私はこうやってバラバラの場所から見つけるのを見て南部の海岸沿いにもっといただろうと見てるんだ。
対馬までは間違いなく縄文文化圏がある。それらとつながりがある縄文系の遺物が半島南部海岸沿いで散発的に見つかる。すべてではないが、それなりに広く海岸沿いに縄文文化圏があったものと思われる。
次に逆に対馬に縄文時代から半島の土器が見つかっている。ごくごく一部だがそれなりに長い年月違う時代で見つかっている。おそらく人骨の上では同化してしまったため分からないが、DNAとしては北九州にはごくごく一部混血した住民がいたと想像できる。日本から半島への一方通行ではない。
徳島の神話に忌部氏が来る前にすでに農業があったと思わせるようなものがあり、それが稲作ではない。徳島では古いウラル系の父系Nが見つかるため、縄文時代からすでにウラル系の民族が来ていたのじゃないか?と思わせる部分がある。そもそも日本全国にミトコンドリアでは、大陸系遺伝子がしこたま出ている。
中国南部からの移住が多かったためそれが原因だが、それだけなのか?と言うと、北方系もいたのじゃないか?と思わせるものがある。もちろん北海道から来た可能性もあるが、遼河辺りとの共通性が言われていて、父系Nが日本全国に縄文時代から来ていた可能性はかなり高い。人骨の変化が全くないので、あくまでごく一部だと思われる。
対馬が縄文文化圏なのは分かっていたことじゃないか?なら今回のポイントは時代時代で北九州の土器のトレンドに合わせているのと、北九州の材料を常に輸入してる点。頻繁な海を通じたやり取りがあった点。これは文化の拡散ではない。双方向のやり取りが同一文化圏で頻繁になされていた証拠でもある。
その一部が半島南部にもつながってるなら。そういった船での頻繁なやりとりが半島南部海岸沿いの地域まで及んでいた可能性はとても高い。
最後にもう一度書くが、私の見解は良くある半島南部と九州をぐるっと円で囲んだ文化圏があったという見解ではない。これは様々な当時の遺物から否定されている。特に半島全体では数%程度の割合でしかない。所々散発的に見つかっている遺跡があるが、そういった半島南部において歯抜け状態の部分的な文化圏はあった可能性が十分にある。