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終幕:鬼のいる間に

挿絵(By みてみん)

●『陰陽術師、時氏の手記 二』


 これが、あの怪異の顛末。私の知る全てだ。


 鏡を封じたことで境目は閉じ、施されていた目くらましも消えた。現世に現れたのは、あの異界と同じ形の廃屋だけ。中には我々が鬼と争った痕まで残っていたが、異界の中に引き込まれた人々は、消えたままだった。遺骸も、衣服も、血の跡も。


 千歳を捜索していた野分の巫女たちも協力してくれて、橘安子の手記や呪術師どもの書付を探し出した。それを証拠に、私と千歳で全てを報告した。遷都以来の怪異を鎮めたなどという功績で私は召し抱えられることとなり、都の鬼祓いの総監督などを命じられる身となったが、実際のところあの怪異を鎮めたのは私などではない。

 私は多少の助力をしたのみで、全てを暴いたのは萌木と千歳だ。私は結局、二人の情けで生かされただけ。


 あの事件の記録をつけることとなった折、私は千歳に頼み、助言を乞うことにした。

 萌木のことは私の妻として書かせてもらった。彼女が鬼へ堕ちたことは伏せ、身を犠牲にしてあの異界を閉じたことにした。まあ、少々強引だが半ばは事実だ。喜んで話を合わせてくれた千歳には感謝しかない。せめてもの情けにしかならないが、萌木が少しでも後世に評価されると良いと思う。


 記録を聞いた朝廷の連中は、女が手柄を持って行くことにあまりいい顔をしなかった。若いうちに鬼祓いを引退することが多い巫女たちに、高い地位や手柄を与えたくないのだろう。

 かまうものか。そもそも連中は肝心の千歳に一度恩賞を与えたのみで、私のついでのような扱いをした。私が召し抱えられるのならば、千歳にはもっと上の地位をくれてやって然るべきだというのに。


 結局、共に長く記録をつけている内に親しくなり、あの事件より四年を経て後、千歳が私の妻となった。

 己の気持ちを押し殺した結果あんなことが起きたならば、例え後悔はしても思い切った行動をすべきだろう。萌木に悪いという想いはもちろんある。死んだ後に彼女が望むならば、地獄へ堕ちよう。だがこれで千歳に私の財を譲ることが出来る。鬼祓いの総監督の妻として、権限も権威も渡してやれる。萌木に並ぶ立派な巫女にこそ、その権利があって然るべきなのだ。


 しかし千歳以外には誰にも言っていないことだが、あの異界はまだ微かに気配を感じさせる。あれで完全に綻びるはずであったのに。

 毎年、供養の儀式を行いつつ、何を見落としたのか探り続けてきた。あの世界に沈んだ怨みを解くことを人生の目標に、最近は仕事のほとんどを千歳に任せ、あの異界を調べてきた。

 異界とは、現世の影。刻み込まれた記憶。取り込まれた人々の無念をかき消すのは、並々ならぬ力がいるのかもしれない。


 きっと今でも、あの廃屋は現世と重なり、迷い込む者を待っている。萌木も、恐らく。

 あの時、私を生かすために、彼女は想いを振り切った。その無念が焼き付いて、まだ残っているのだ。

 彼女をあの闇から解き放つには、どうすればよいのか。まだわからない。


 だがもう私も七十を過ぎた。病を得て、恐らく長くはない。

 私の見識と寿命では、この課題には届かなかったようだ。

 どうするべきかはもう、わかっている。後の全てを千歳に頼み、私は初志を貫徹することとした。

 これで何かが、変わることを祈ろう。


 妻よ。長らく待たせたね。




●旧橘邸~寝殿


 梅雨の直前。

 黒々とした雲のうろつく中に、見事なまでに丸い月の輝く夜だった。

 月光と灯り桃が、床に横たわる時氏の身を、青白く照らしている。

 髪はすでに真っ白に染まり、それなりに引き締まっていた身は、病を得てからげっそりとやつれた。

 それでもなお、穏やかな顔である。

 前にはすでに大きな祭壇が用意されている。葬送の式のようであるが、彼自身の意向であった。

 すぐ隣から、女がその顔を覗き込む。藤の織り込まれた袿を着て、鈴の付いた扇を持って。


「時氏さま」


 千歳である。今年で、四〇になった。

 時氏から、返事はない。

 千歳はそっと時氏の目を開いて、瞳が開いたままなのを確認すると、一つ息を吐いてとんとんと床を叩いた。

 女房や家人たちがやって来て、神妙に頭を下げる。


「……時氏さまは、たったいま身罷られました」


「では」


「生前の意向に従います。全ての家人たちにことを報せ、皆、西の対へ下がりなさい。今夜はわたしがよいと言うまで、東の対から寝殿に掛けて、誰一人として近寄らぬように。如何なる事情があれど、命を破った者はどうなるかわからぬと伝えなさい」


「はい」


 彼らは頭を下げて、そのまま引き上げる。残ったのは、千歳と時氏の遺体だけ。

 千歳はそろりと立ち上がり、葛籠から鏡を取り出すと祭壇に置いた。

 そして、月を見上げて目を閉じる。


「さあ……始めましょうか。時氏さま」


 ぶつぶつと祈り続けると、やがて何処かから湧いて出た黒雲が、月を覆った。

 灯り桃が、ちかり、ちかりと明滅し、やがて灯りをふっと落とす。

 はらはらと、降り始める雨。置いてあった炬火がひとりでに炎を灯して、霧雨を焼き始めた。

 そして瘴気の臭いが、立ち込める。最初は、ほんのわずかに。やがて香を焚いた時のように、それはゆるゆる強くなって、屋敷の周囲が色を失い、暗く染まって、はがれていく。

 暗くて蒼い、あの廃屋が、形を取り戻していく。


『お師、さま……?』


 やがて渡殿を、ぺたり、ぺたりと引きずる足音が響き始めた。

 几帳の向こうを、女の影が歩いてくる。

 それは姿を現した。あの時に見た、そのままの姿で。


「お久しゅうございます、萌木の君……」


 歳を経てふくよかになった身なりで、千歳は深々と頭を下げた。

 冷たく冴えた鬼の目が、立ったままそれを見下げて。


『あなたはこの方を、わたしから隠すものと思っておりました……千歳の君』


「あなたさまを救うためにこの方は色々と手を尽くし、考えたのですよ。朝廷に召し抱えられた折、橘の屋敷をそのまま拝領することを望んだのも、あなたさまの囚われた異界への入り口を残すため。この二十年、この人はあなたさまの隣に重なり合い、寄り添っておられました」


『二十年……? 何の話です。わたくしにはあなたは、あの時に別れたままの姿に見えますが』


「あなたさまは鬼。肉の形でなく本質を……闇を見る目を持っていらっしゃいますからね。そして異界は現世の影。曖昧で、朦朧とした場所。時を図るなど、意味はない。そんな、すでに落ちた影の形を変えるには、影を重ねてしまえばよい。この方はあなたの未練を断つために、死後に自分をここへ送るよう、わたしに頼んだのです。そうすれば、あなたは満たされるかも、と」


『それで……? あなたの方は何をしに? まさかその遺言を、あなたがすんなり受け入れたと? あなたがわざわざ道を開いたのは時氏さまの……いいえ。わたくしの夫の遺言など関係なく、わたくしと争うおつもりだからでは? 夫の遺骸や遺言などただの囮と口実で、あなたが討ち損じた鬼を今度こそ打ち倒すために用意をしていらしたのではないのですか?』


 萌木の指が千歳を指す。安易に、近寄ってこない。やはり、この鬼は手強い。素晴らしい。

 千歳は頭を上げた。柔く膨らんだ頬に、えくぼが出来る。歳を重ねてもその溌溂さは幾分も失われず、むしろ生気を増して。


「ああ、落ち着いていればなんとも明晰な。あなたさまが時氏さまを殺さず見逃したとき、あなたは真に強き鬼だと気付きました。嬉しゅうございます……ああ、仰られたことは、とうの昔に思案しつくしました。方法も十分、吟味いたしましたが、やめにしたのでございます。だって、ねえ」


 くつくつと、声を押し殺して千歳は嗤う。


「それでは……つまらないですもの」


 目を細めて、萌木は千歳をねめつける。


「わたくしが参ったのは、あなたさまと二人きりでお話をするためでございます。あなたさまにしか打ち明けられぬことがたくさんございますから。ようやっとお喋り出来て、本当に嬉しい」


『千歳……あなたは、何を企んでいらっしゃった……二十年もの間……』


「あ、お先にお尋ねしたいのですが……安子さまはご息災にございますか?」


『安子? 鬼は皆、恨みに一途です……あの方もそう。今もまだ、わたくしやあなたのことをお恨みなさって泣いてくださっておりますよ。時折ですが、声が聞こえることがあります』


「では、あの赤子は? 反魂によって鬼の子として生まれ直した、あの子は? あなたを始め、贄と捧げられた全てを喰らい続けた、あの子はどうです? あの時わたくしが西の対に隠しておいたあの子は……お元気ですか? 随分と腹が減っているのではございませんか?」


 初めて、萌木の目がわずかに見開かれた。


『千歳……お前はやはり、そうだったか……お前は……』


「萌木の君はご存じないことですが、わたくしはあの赤子が生きていたことを、時氏さまには伏せました。時氏さまはずっと、安子と鏡が異界の楔であると思っており、安子の死後はあなたさまにその力が移ったのではないかと思っておられた。最後まで、あの異界の真の主があの赤子であったことを知らぬままでした」


 萌木の額に、しわが寄る。汚らしいものを見たかのように。


『わたしが目覚める前から、何か企んでおったな……朦朧としていたが、覚えている。お師さまを追いかけ、お前と出会ったあの時……お前とお師さまが出会ったあの時……小刀を振り上げていたお前は、やはり本気でお師さまを殺そうとしていたのだ。わたしの目が曇っていたのではなかった。お前はあの時すでに……生成りの鬼であったのだ』


「企むなんて、そんな。わたくしはただ、状況を愉しんでいただけにございます。何も出来ぬ赤子の生成りをただ殺すなんてつまらない、と、今と同じようなことをね。それで、そう。時氏さまが人であることはもちろん気付いておりました。でもほら、不意を突いて殺してしまえると思いましたら、つい、ねえ」


 やってしまうじゃない? と、言った感じで、千歳は扇を刀に見立てて、しゅっと突く真似事をした。


「あ、そうそう、これこれ。お母さまの鈴であるとか。長らくお借りしておりましたがお返しいたしまする。祓いの力は……ま、今の萌木の君なら塗りつぶせましょう。この袿も、お古をいただいております。あなたさまが身近に感じられて……うふ、できれば頂きたいのですが、お返ししましょうか?」


 萌木は足元に出された扇と、それに付いた鈴を拾い上げると『服はくれてやる』と吐き捨てる。


『お前は元々、己を食い物にしようとした男たちを、まつりごとに食い込んで地位を独占する陰陽術師を、憎んでいた。野心家のお前のことだ。心が鬼と成れば、それを殺そうとするのは道理……だがなぜ、諦めた。時氏さまを救い、屋敷を脱する道を、何故選んだ』


 「ま、あの場であなたが時氏さまをお守りしたとき、気が変わりました」と、千歳はまるで水菓子の味を語り合うようにころころ嗤う。


「だーって、やっぱり萌木の君の方がお強くて鮮烈で、ふふ、鬼と闘う方が、あはは、愉しかったのですもの……! わたくし、元からそうだったではございませんか。純粋で真っ直ぐ、とは、萌木の君がわたくしに仰ってくださったお言葉ですよ?」


 首のもげた鬼の前で、千歳はけらけらと心底楽しそうである。

 それは良い茶飲み友達と語り合う、元気で可愛らしい中年の女そのもの。

 いや、むしろ……。


「あー……あの夜は本当に愉しかったあ……! あ、そうそう。忘れてしまうところでした。あの子ですよ、あの子。お元気にございますか?」


『……お前の言う通り、あの子こそが異界の主。わたくしたちは、いうなればゆりかごを揺らす乳母に過ぎぬ。わたしがこうしてまだ在るということが、あの子が健在である証拠であろうよ』


「そーですかあ! 嬉しゅうございます……! いやだって、一人や二人の術師では相手にもならぬあなたさまですら、お独りをこちらの世界に引き込んで罠にはめることが出来るならば、どうとでもなるじゃありませんか。それでは、つまらない。終わってしまう。だから、待っていたのです。あの子が十分に育ち、飢えて、外に出たがる、この時を」


 目の前の中年の鬼が、ぴょんぴょこ嬉しそうに跳ねているのを見て、うんざりしたように。

 萌木は長く長くため息を落とした。


『ああ。確かにお前は、わたしよりもずっと純粋で真っ直ぐであったな……わたしと争う時のお前の顔を、お前の目の色を、覚えている。引き攣った薄笑いを浮かべて、わたしに優越せんと満面で闘いの愉悦を味わうお前の表情は……鬼そのものであったからな。あの時は、時氏さまが助かるならどうでもよいと思った。今もお前は、あの時と変わらぬ面よ』


「あなたさまは己が死んですぐに時氏さまが来たと思っておいでかもしれませぬが、あれはあなたさまが死んでから二、三日経ってのことにございます。わたくしはその前からあの蔵でたっぷり瘴気漬けにされておりましたし、とうに鬼に堕ちるのが当たり前。わたくしどもは同じ異界生まれの、鬼の姉妹にございます」


『……であるから抜け穴の鍵を手にしながら、出ようとしていなかった。お前は自分の命を遊び道具に、鬼祓いを楽しんでおったのだな……わたしが目覚めた時に、安子がすでに躯を失っていたのも、お前の仕業か。わたしは奴を祓おうとはしたが、殺してはいなかったのに。お前がとどめを刺したのだな』


「ええ、ええ。あなたさまが死んで、すぐかな? あなたに痛めつけられてよろめきながら鏡を蔵からいそいそ移している安子さまを見付けて、柱の影から残った目をざくー、っとね。曲がりなりにも今のわたしと同じ生成り。いい感触にございました。だから再会した時には、すでにただの影となっていた次第で。両目が潰れて、己を殺した当人が目の前にいるのに、どこじゃ、あの小娘めぇえ、なぁんて、今思い出してもおかしゅうておかしゅうて……いやまあ、殺されかけましたが」


 千歳はくつくつ喉を鳴らして心から嗤う。

 底抜けに愉しそうでおしゃべりな鬼である。

 話におちまでつける。


『それで。あの日あの時、鬼を祓い命のやり取りをする愉悦にとり憑かれたお前は、次はもっと大きな惨劇を見たくなったと。血と恨みに塗れた景色の中で、命を弄ぶために』


「だって。この二十年、時氏さまに取り入って祓いの仕事を片っ端から奪い、色々な現場に参りましたが、あの時とこの異界に勝る愉しみは見つからずじまいなんですもの」


『だからとっておきのあの鬼子を解き放ち、洛中を再び瘴気で満たすために、この異界を繋いだのか。すでに解き放ってあるのだろう。あの日、わたしが抜けだす事の出来なかったあの洞穴を』


「左様です。新たに手にした鏡を使ってね。安子さまや術師の書付も、事件記録をつけるために時氏さまが全て保管されておられた。その妻に収まれば、見るのも容易い。術師でなくとも再現出来る術なのは、安子さまが証明してくださってますし」


 にこにこしている千歳の前まで、萌木はひょいと足を進めた。首を傾げる彼女の首に、血の気の引いた指を掛けて。


『今、わたしがお前を殺そうとするとは、考えなかったのか?』


「え? なんと、それはもう大歓迎にございます! ああ、なんて素晴らしい! わたくしが生き残れば、あなたに勝った味を。死んだら死んだで、鬼となってあなたさまの隣に並ぶ幸せを味わいます! 永遠に挑み続けますとも! ね? ね? やりますか? ああ、共に愉しく殺し合えるなら、嬉しゅうございます、姉さま! ほら、絞めて絞めて……!」


 座った姿勢のまま、千歳はうっとりとすり寄るように首を晒した。舌なめずりをするように、満面に喜色を湛えて。

 その姿は四十を過ぎた女ではなく、まるで恋するうら若い乙女……いや、幼く残忍な童女のように見える。


 萌木は、鬼だ。

 その目は、魂の暗い側面を見る。

 そしてこれは、果てもなく純粋で、無垢で、残忍で、澱みのない怪物に見える。

 目の前にいる女は、今や萌木を超える、鬼だ。


 萌木はため息を落として、指を放した。


『流石とだけ言っておくわ、わたしの可愛い妹。でもわたしは術師との闘いには、興味がない……万一お前に勝って、鬱陶しく付け回されるのもまっぴら』


「ああん、いけずですなあ。あなたさまがわたくしのことを恨んでくれて、殺しに来てくれるかもと、僅かに期待しておりましたのに。きちんと、罠も用意してありますのよ? ああ、やっぱり根っからの鬼となると、わたくしのような生成りと違って一途ですなあ。ずっとずっと嘆いてすすり泣き続けられる……幸せですなあ」


『わたしはこの方がいれば、それでよい……現世など、お前の好きになさい』


 そう言われて、千歳は思い出したように掌で時氏の遺骸を指した。膳を振舞うように。


「おっと、忘れるところでございました。さあさ! これはどうぞ、お持ち帰りくださいませ。一途な鬼は、存在の理由に逆らうことは出来ませぬものね? もう肉も心も、あなたさまのもの。時氏さまには、わたくしの考えはなんにも話しておりませぬ。あなたに自分を送り届けたら異界の門を閉じよとか仰ってましたが、まあ、この初心なお人は世の理は紐解けても、人の悪意を見抜ける方ではございませぬし」


 千歳はこれまた楽し気に嗤って袖を振った。屈託のない、家族に向けるような嗤いだった。

 もう萌木は、千歳の方を向かなかった。時氏の遺骸の前にしゃがみ込み、愛しい赤子のようにやせ細った時氏の遺骸を抱き抱えて、ゆっくりと室を去る。


『怖い怖い……時氏さま、よかったですねえ……あなたに連れ添う女は皆、恐ろしい鬼ばかり……そんな顔を見ずに死ねて本当によかった……わたくしと一緒に、静かに暗いこの屋敷で過ごしましょう……あの赤子も、やがて出ていきますからねえ……』


「そうなればこの異界もいずれ綻びて、お二人とも根の国で眠ることも叶いましょう。あの時のお約束の通り、わたくしはあなたさまの手に余る鬼から、あなたさまをお救いいたしましたからね。それでは、ごゆっくりお愉しみくださいませ……わたしの姉さま」


 にこにこしながら手を振る千歳に対し、萌木は何も語らぬまま遺骸を持って立ち去った。




●時氏邸~寝殿


「ふむ……終わっちゃった」


 姉の背を見送って、しばらく。

 千歳は息を整え、見目を取り繕うと、ぱちんと指を鳴らした。

 しとしととした雨がやみ、黒雲がゆっくりと晴れて、桃がちかちかと灯りを燈し始める。

 やがて、重なり合っていた両界が解けていく。血まみれの部屋は剥げて整えられた室へ戻り、屋敷の傷は塞がり、引き裂かれた几帳や御簾が元に戻っていく。

 だが、千歳の目の前にある褥は、空のままだった。

 家の主の遺骸は、これでもう、永遠に見つかることはない。

 いいや。今日からわたしが、名実ともにこの家の主だ。

 そしていずれ、時氏の地位も正式にわたしのものとなる。


 ふーっと、大きく息を吐いて、千歳は伸びをした。


「さーあ! 鬼の溢るるあの愉しい時がもう一度訪れるぞお……! 安子さまが産み、わたくしが守り、萌木の君が育て上げたあの子が、都の相手よ。うふふふ、前よりよほど荒ぶる鬼どもが洛中を跋扈しようぞ……! あの異界を生き延びた者は、もはやわたしだけ。皆がわたしに泣きつくのだ。貴族どもも、同業も、朝廷さえも。上手くいけばわたくしは、都を支配も出来よう。いやーあ、それもそれ、面白おっかしいでしょうなあ……!」


 独り嗤いながら、千歳は月を見つめる。

 全ては己の望みの通り。

 さあ、宴の始まりだ。

 己の生きる愉しみは、麗しく恐ろしい鬼のいる間にこそあるのだから。




 そう。

 これは、鬼へと堕ちて彷徨い続ける、二人の女の物語。

 堕ちた異界で想い人と静かに揺蕩う鬼と、愉悦に囚われ嗤いながら人の世を喰らう鬼の。

 時氏の妻と呼ばれた二人の女の、語られることなき、物語だ……。




~おわり

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