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第七幕:異界と現世

挿絵(By みてみん)

●『巫女、萌木の手紙』


 千歳の君、わざわざ文をありがとうございます。


 あの小さな巫女が誰だったのか、わたくしの方はわからずじまいでしたから、気遣ってあげられなくて申し訳ないと思っておりました。少納言さまはあの気質ですので、ああするしかないと思ったのですが、本心でないとはいえ失礼を言ったことをご容赦くださいませ。


 わたくしのことを気にかけてくださり嬉しく思います。ですが必ず恩を返すなどと、構えないでください。そもそもあの方とは何度もあったことです。もう飽きの来るころですし、この縁もこれまでにしようと考えています。


 わたくしの居場所を調べられたということはお気づきかと思うのですが、わたくしはしばらく前に母を亡くし、今は陰陽術師の時氏さまを師と仰いでお屋敷にお世話になっております。この生業は続けるつもりですが、師の下に腰を落ち着けたいような、揺れる気持ちもあるのです。


 実を言うと、わたくしはあなたには疎まれるかと思っておりました。同業には客の間を渡り歩く女狐と、揶揄されたこともあります。それを望まぬならば、あなたのように寄り合いに与して身を守ればよいものを、わたくしはそうしませんでした。師に弟子入りしたことも、男の庇護の下に入ったと見る向きもあるでしょうから。


 結局、わたくしは器用に見えるだけの半端者なのです。正直に言うと、あなたに羨望を覚えました。真っ直ぐで、純粋で、わたくしの出来なかったことをしようとしていらっしゃる。いつか、あなたのような人があなたらしく生きていけるようになってほしいと、願わずにいられません。


 千歳の君は真直ぐなお人。移り気なわたくしなどより、すぐに立派な巫女になられるでしょう。

 その時に、わたくしの手に余るような鬼が現れたなら、助けてくださいませ。

 それまで、さかしい女狐からの、貸しにしておきます。




●橘邸~寝殿


『ねえ』


 時氏が、振り返った時。聞きなれた声が響いて、几帳が裂かれた。


『どうして』


 炯々(けいけい)と目を沈ませてこちらを睨む、血に塗れた姿。二度と見たくないと思っていた、愛弟子の成れの果て。

 虚ろに濁った目の裏に、どんな感情が渦巻いているのかを察して、時氏は思わず息を止めた。


「萌木……」


「止まらないで!」


 咄嗟に前に出た千歳が必死に鈴を鳴らすが、まるで効果はない。慣れぬ道具では、今やこの異界の主となった萌木には通用しないのだ。

 千歳は苛立たし気に、時氏の胸を肘でつついた。


「符を、お願いいたします!」


「……すまぬ。鏡を封じた分で尽きた。印だけでは、そなたと同じ程度のことしか出来ぬ」


 千歳は、露骨に舌を打った。物怖じしない娘だった。

 こんな時に面白みが過ぎるだろう。せめて、何か言え。

 時氏は自嘲し、ほんの僅かだけ心に余裕が湧いた。自分は千歳を、導かねばならない。


「ともかく、これで異界は閉じる。蔵まで走れ……!」


 萌木が動き始めるのに合わせて、二人は横へ走る。

 瞬間、萌木の口から、耳を打つ衝撃が迸った。今までの鬼どもとは比べ物にならぬ、頭の奥をつんざくような絶叫だった。耳鳴りが音を奪い、一瞬、目の前に星が散ってくらむほどの。


「……っ!」


 音の飛んだ世界で、千歳が両耳を押さえて倒れ込む。辛うじて意識を繋ぎとめた時氏は、走りながらその身体を抱き留めた。


(「萌木。鬼と成り果ててもなお……やはりお前は一流の術師だな。この力は、もはや私など相手にならぬ……!」)


 くらくらしている千歳を無理やり引き起こしながら、時氏はその腕をつかんで動かし、鈴を鳴らした。


「鳴らせ! 聞こえずとも! 周り中から来るぞ!」


 今の叫びに呼び起こされ、この屋敷で死んだ者の影がゆらり、ゆらりと立ち上る。首や顔から血を流し、それぞれ小刀や鎌を握りしめた者どもが、呻きながら寄って来る。異界に沈み瘴気に憑かれて、互いを鬼と見て殺し合ったのだろう。恐怖に染まった目でこちらを睨みながら、虚ろに刃物を振り下ろしてくる。

 時氏はその一体を、手刀てがたなで斬って散らし、千歳の背を押した。


「蔵へ走れ!」


「野分の、神霊よ……畏み畏み、申します……」


 祝詞を呟きながら、千歳は鈴を鳴らしてふらふらと走った。その口元は、笑みにも似た形で引き攣っている。無理もない。こんな鬼の群れと対峙するのは、時氏も生まれて初めてのこと。都の術師とて、誰が経験したことがあろう。

 その背を護りながら、時氏は追いかけてくる愛弟子の影を振り返る。


 薄紫の袴を引きずり、ゆらゆらと首を揺らしながら、こちらに手を伸ばす虚ろな姿。乱れた髪の向こうで、切れ長の目が、嘆きに満ちてこちらを睨んでいる。

 その周囲に、同じく鬼に堕ちた者たちを引き連れて。


 時氏は、九字の印を切って渾身で打ち放った。鬼たちが数体、切り裂かれたように散るが、萌木は風にぶつかった程度で、擦り寄る足を止めはしない。


「本当に強くなったな……萌木」


 こんな形でそれを知ることになった自分の不甲斐なさを呪い、時氏はその姿を振り切った。

 自分には、最後の仕事がある。




●抜け穴~入り口


 屋敷中の鬼が、殺到してくる。躍起に祓いながら蔵まで走り抜けると、千歳が曲がった金具で床板を引き上げていた。その下にぽっかりと開いた穴が顔を出す。丁寧に石を埋め込み、階段まで作ってある。


(「暗すぎる……! 抜け切れるか……」)


 時氏が舌を打つと同時に、千歳が胸元から小さな枝を引き抜く。


「いと高き天原にまします、月山神つきやまのかみの御名において、花桃の枝に常闇とこやみを祓いたまう、月の光を照らしましたることを、畏み、畏み、申します……」


 祝詞に応じて、枯れかけた枝の先端に、ぽつぽつと桃の花が開いていく。都の夜を照らす魔除けの灯りがわずかに燈る。


「灯り桃か。用意がよいな」


「わたくしが燈したひと房など、ここの鬼どもには効きは致しませぬ。萌木の君は……」


 振り返れば、庭の菖蒲や燕子花かきつばたの下から、黒い影が這い出て来るところだった。屋敷に入って来たばかりのころよりも、はるかにはっきりと形を成している。

 時氏は急いで戸を閉める。そこが閉まり切る寸前の隙間、渡殿から歩んでくる女の姿を見た。無数の怨霊たちを引き連れて歩んでくる、鬼巫女の影を。


「すぐそこまで来ておる。行くのだ……!」


 すでに唸り声は蔵を覆いつつあり、壁を引っ掻く音までする。稼げる時間は気休め程度。

 二人は、滑り込むように闇へと降りた。

 身をよじって二人で並び、細い暗闇を突き進む。薄明りに映るのは、濡れた土壁とほんの数歩分の地面だけ。

 足早に進み、進み……しかしいくら進んでも、曲がりくねった細道に終わりは見えない。


「本当に、ここが境目なのでしょうか……異界の縁をぐるぐる巡っているだけでは。どこに出るのでございましょう」


何処いずこかの川辺まで続いているか、または別な屋敷の井戸かどこかか……祈るしかあるまい」


「もし……行き止まったら?」


 千歳がそう聞いた時、先ほどの絶叫が風を伴って突き抜けていった。逃れようとする生者を怨み、鬼を呼ぶ萌木の絶叫が。

 熱風が突き抜けたような衝撃が洞穴を揺らし、耳に痛みが走る。

 千歳と向き合った顔が青ざめて見えるのは、灯り桃の色によるものではない。


「……一巻の終わりよ。だが、安子が辻へ抜け出た道はここ以外に考えられぬ。さあ、走るぞ……!」


 洞穴の中に反響する、哀し気な囁き声。

 追いかけてきている。すぐ後ろまで、迫っている。

 やがて、一つの急な角を曲がった先で、時氏は顔面を固いものにぶつけた。


「時氏殿! いかがしました!」


「っ……なんということ。格子か……おのれ!」


 行く手を遮ったのは、埋め込まれた格子戸だった。分厚い木でできていて、腕が通る程度の隙間しかない。蹴りつけても、びくともしなかった。


『お師さま……』


 虚ろな声が、響いてくる。もう、近い。

 畜生。屋敷の側が塞いであるなら、辻への出口側も塞いであると考えるべきだった。

 ご丁寧に鎖が巻いてあり、じょうまで掛かっている。これまでか。


「時氏殿! これを!」


 千歳が何か投げる。胸元に当たって跳ね返るのを、慌てて受け止めた。先端の曲がった金属棒と、灯り桃の枝だった。


「多分、それが錠の鍵にございます! 抜け穴を塞ぐ戸があるのではないかと思って、探しておりました! 開けてくださいませ!」


 ああ……そう。

 自分が入って来たとき、抜け穴がどこにあるか知っているはずの千歳と鉢合わせた理由は、それか。予め、鍵を探していたところだったわけか。


「私は本当に何の役も立てんな……!」


「言っている場合ですか! お早く! 来ます!」


 絶叫が、再び響き渡った。反響してわかりづらいが、今度はすぐ近くからだ。

 その証拠に、周囲の土壁に暗い穴が開いて、縋りつく手が這い出てきた。千歳が鈴を鳴らすと焼けるように煙を吹いて闇の中へと引っ込むものの、すぐにまた新しい腕が伸びてくる。


「散れ!」


 叫ぶ千歳を背後に、時氏は灯り桃の小さな光を頼りに錠の鍵穴を探し、金属棒を突っ込んだ。

 ちらりと、格子戸の向こうを見る。やはり、この向こうには手が出て来ていない。両界を繋ぐ楔が健在だった時は、瘴気がここから漏れていたのだろうが、それが砕けた今、異界のものはこの向こうには行けない。ここが異界と人界の区切りなのだ。


『お師さま……行かないで……』


 暗闇から、寂しい声が響いてくる。心の中に、流れ込んでくる。


「すまぬ、萌木。すまぬ……!」


 何度もそう呟きながら、時氏は大きな錠前の鍵穴を必死にかき回した。この国に錠など、一部の貴族の屋敷か、御所くらいにしか存在しない。原理の察しはつくが、開け方は見様見真似だ。


「お急ぎください! ああ、もう! 早く!」


 千歳の声はすでに悲鳴に近い。這い出して来る腕の数が増え、鈴の音に小刀を抜き放つ音が重なった。

 躍起になっていじくりまわしていると、ばちんっ、と音を立ててばねの跳ね、鍵が開いた。


「よし、開いたぞ!」


 振り返った瞬間、千歳の悲鳴が響いた。

 壁から伸びた腕の一本が、彼女の髪を掴んで引き倒していた。

 時氏が指先で印を組むより早く、千歳は叫び声をあげて己の髪を小刀で裂き千切った。地面にしたたか身を打ちながらも再び鈴を鳴らして、縋りついてくる腕を追い払う。

 肩までになった髪を振り乱して、千歳は格子戸に飛びついた。


「巫女だっていうのに! これで出家にございます!」


「萌木と気が合うわけだ……」


「いいから鎖を外しますぞ!」


 今度は千歳が鎖につかみかかり、時氏が印を組んで縋りついてくる手を祓う。

 だがその時、掴みかかってこようとする腕が、一斉に暗い闇へと引っ込んだ。

 まるで、怯えるように。


「退い、た……?」


 怪訝に思う間もなく、土穴の向こうからぺたり、ぺたりと、引きずるような足音が響いてくる。

 時氏は、唇を噛んだ。


 ……萌木が、追ってきたのだ。




●抜け穴~内部


 暗い洞穴の中を、一歩、また一歩。素足を引きずりながら。

 萌木は懐かしい桃の灯りを目指して進む。


『待って……』


 待たせて、どうする。

 自分は、死んだのだ。

 この異界の内で恨みと未練に塗れて死んで、そして今、這いずりながら生きている者を追っている。

 愛しい師と、後輩を。

 思わず俯くと首が落ちそうになって、萌木は頭を抱えるようにそれを押さえた。


 まるで、棺桶に閉じ込められたまま、ゆっくりと水に沈められていくかのよう。死とは、抜けだす事の叶わぬ水底。生者と分かたれ、二度と元には戻れない。彼らが行ってしまえば、異界は閉じる。自分はここに、ただ独り。


『誰もいない……何もない……』


 他の鬼の気配もおぼろ。何かがいる、というのは辛うじてわかる。己の後ろに、無数に感じる。

 だが人が光そのものを見ることが出来ぬように、闇は闇を見ることは出来ない。わたしたちは、同じところをぐるぐる巡りながら、死んだその時を繰り返し続ける影。己が囚われたことだけはわかる。抜け出すことが叶わぬのも。それが自分たちの堕ちた地獄。


『おいてかないで……』


 自分が追いかけているあの二人さえ、本物なのかどうか。

 己の地獄が見せる、幻なのかもしれない。

 わからない。

 ただ、寂しい。

 つらい。

 怖い。


 曲がり角の向こうで、千歳が咆哮を上げて、鬼を祓っている。師が何か、叫んでいる。がちゃがちゃと鳴る、金属音。目に痛い、桃の灯り。


『なんで……わたしが……』


 全ての理不尽に対する、怒りと嘆きが湧いてくる。

 何故、自分がこのような目にあわねばならないのか。

 死んで地獄に囚われて、それでもなお愛した人の幸せを願って、身を退けとでも?

 彼らは今、二人で力を合わせて生き延びようとしている。

 あの二人と自分の間に何の違いがあったというのか。

 ああ、千歳と立場が逆だったら。

 そうすれば、逃げられたのはわたしだった。

 師と一緒にここを脱して、それで、それで……。


 萌木は唸りながら頭を押さえた。

 愛した男であるからこそ、足を止めることはできない。

 その幸せを願うなんて、できやしない。


(『許さない……そんなことは……許せない……だって、わたし、ずっと……』)


 涙は、落ちない。瞳から筋を落としたのは、怨みと妬みの混じった血の雫。

 彼らは、眩い。生きているから。

 暖かくて、眩くて、そして確かなものだ。

 自分がもう持ちえない、全て。

 いのち。

 それを、この向こうに確かに感じる。

 彼らはまだ生きていて、闇に抗い、足掻いている。


(『……あたしは、鬼だ。もう、許さなくていい。思うさまに、吼えていい』)


 血の流れる目を持ち上げて、萌木は拳を握りしめた。


 行かせるものか。逃すものか……。

 時氏。そして千歳。

 お前たちを許さない。

 生きているから。

 あたしを置いて、生きているから、許さない……!

 皆等しく、あたしと同じ地獄に堕ちればいい!


 その身から激怒が迸る。あまりの力に怯えるように、周囲の気配が遠ざかる。

 角を曲がると、目に痛い灯り桃の光の中に、師が立っていた。

 後ろでは、必死に千歳が格子戸に絡まった鎖を外そうとしている。

 師の声は、震えていた。指は印を組み、力を込めつつある。

 萌木は、腕を伸ばした。血の通わぬ、悍ましい白さの腕を。


「萌木……」


 打ってくればいい。あたしにはもう、通じやしない。

 口元が、引き攣る。

 血の涙を流せ。

 渾身で呪いを紡ぎあげろ。

 今のあたしが放つことのできる、最後の一撃を。

 叩きつけてやる。

 この男に。


 そして萌木は、口を開く。


『時氏さま……あなたのことが……好きなの』


 時氏の瞳が、矢に貫かれたかのように見開かれた……。




●抜け穴~出口


 野分の千歳は、遂に絡んだ鎖を外した。


「時氏殿! 開きました!」


 格子戸をこじ開け、振り返る。

 萌木……いや、その形をした鬼は、すぐそこにいた。時氏の、目の前に。

 時氏は、力を放つ気配もないまま、印を解いて手を下げていた。


「こちらです! お早く!」


 千歳は舌を打って時氏の首根っこを掴んだ。だが渾身で引っ張っても、時氏の体はびくともしない。


『時氏、さま……』


 白い女の手が、伸びてくる。呆然としたままの時氏の首筋を、くっと掴んだ。時氏は、膝を折る。観念したように。


「駄目!」


 千歳はすぐさま、鈴と小刀を構えて……。


「待て……待ってくれ」


 ……時氏が、腕を開いて制しているのに、気付いた。

 彼は血の気のない腕に首を掴まれながら、そのまま喋った。


「千歳。私は……ここまででいい。ここに、残る」


「何……何を、仰います。印を組んでください。生き延びてください!」


「これでそなたを外に出せる。それでよい。萌木を、独りに出来ぬ。私は、もういい。萌木と、共に逝こう」


 歯の間から震える息を吐きながら、時氏は涙を落とした。虚ろな目をした白い女の顔を、そっと撫でる。


『わたしと……共に……』


「ああ、ああ。お前の気持ちを、置き去りにしてすまなかった。もう、置いていかぬ……」


 白い手が、時氏の首に力を込め始める。蛇のように絡みつき、きり、きり、と、ゆっくり締め上げていく。止めようがないかのように。それでも時氏は、逃れようとはしなかった。


「萌木……私は、年甲斐もなく……弟子に熱を上げながら……血の繋がりなどないはずなのに、物腰から母上に似てくるお前を……あの人の代わりにしているだけではないのかと……怯えていた。お前の想いに気付いていたのに、身の振り方も決められず……お前の気持ちにも自分の気持ちにも、目を背けてきた。だがやはり私も、お前のことを、好いていた」


 震えながら、流れ落ちる汗も涙を拭わずに、時氏は首を晒して目を閉じる。


「だが、全て手遅れになってしまった。私がもう少し……早く心を決めていれば、全て防げたことであったかもしれぬ。許せなどとは、とても言えぬ」


「いけません、時氏殿……萌木の君はすでに……!」


 咄嗟に千歳は鈴を鳴らすが、時氏はすでに印を組んで結界を張っていた。祓いの力から、鬼の身を護るように。


「こんな……私でよければ、夫婦めおとに……なってくれ。冴え冴え暗い……地獄でも、二人なら。少しは明るいかもしれぬ。その魂と異界の綻びるまで、な……」


『時、氏、さま……』


 首を絞める女の唇が、小さくそう呟く。

 爪を立てたその手がきゅっと締まり、時氏の喉が詰まる音がした。


「……っ――」


 永劫とも思えるような、沈黙があった。

 そして千歳の見ている前で、艶めかしく絡みついた女の手が、そっと喉首を離れる。

 時氏が倒れて……。

 げほっと大きく咽こんだ。

 首に赤黒い痣こそついていたが、死んではいなかった。


「萌、木……?」


 顔を上げた時氏の頬に白い腕が這い、震えながら離れて、女は背を向ける。

 獲物を前にしつつ、飢えた蛇が焦がれながらも身を退くような……そんな、動きだった。

 解放された時氏は、息を吐いて立ち上がる。


「独りでは、逝かせぬ。私も……っ!」


 こちらに背を向けたまま俯いている女に、時氏が走る。

 瞬間、その後ろ頭へ、千歳は渾身で小刀の柄を叩き込んだ。

 鈍い呻きを上げて倒れ込む男の身体をどうにか受け止め、格子戸から引きずり出す。


「萌木の君……」


 女は未練に染まった色の目で恨みがましく振り返った。格子の外……もはや手の届かぬところにいる千歳と時氏を。

 やがて深く項垂れて歩き始めた時、その首がぐらりとよろけて落ちた。

 鬼は、胸の前に首を抱えて、闇の中へと溶けていった。


「……」


 千歳は、ふと思い出して、時氏の持っていた灯り桃の枝を見る。

 萌木の持つ恐るべき力に散り飛ばされ、花はすでに色を失い枯れ枝へと戻っていた。

 それなのに、自分の目にはそれが見えている。

 ということは……。


 千歳は、後ろを振り返った。

 ほの明るい朝の光が、穴の向こうにうっすらと差し込んでいる。

 日の光だった。

 異界を、脱したのだ。




~つづく

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