第六幕:二人で共に
●『橘邸の女房の日記 一』
なんてこと。橘大納言さまの家にお仕えし、入内する安子さまと共に御所に上がって、これでようやく今までの苦労も報われたと思っていたのに。呪術にのめり込んでいたあのお方では無罪放免とはいかぬのでは。
とにかく、日記をつけておいてよかった。わたしの無実の証拠となって、連座せずに済んだのだから。
大納言さまが遠流となって、安子さまと共に屋敷に戻ってきた。栄華から一転、放逐とは。安子さまも口惜しいことだろう。接収とならずに済んだ分のお父上の財と安子さまの財を合わせれば、この家も今しばらくはもつ。まだ家人たちも安子さまを支えていこうと考えている者がほとんどだ。
だが、世の中そう甘くはない。恐らくこの家はもう傾いていくばかり。いずれ機会を見て、お暇させていただかねばなるまいと思う。
突然、兄がやってきて、わたしのためにと薬を持ってきてくれた。聞いたところ、女の身を麗しく保つ秘薬だそうだ。粥などに入れて食べれば良いらしい。ただし、赤子には毒になるので乳飲み子がいる際には決して飲んではならぬとのこと。
この薬を用い、しばらくして身綺麗になったら、少々の支度金をお優しいお方が用意してくださると伝えてきた。
ふむ。なるほど。なるほど。ではもう少しだけ、この家にお勤めさせていただきましょう。
新しいお家にお仕えするにせよ、自分の屋敷を持つにせよ、出来るだけ身辺は麗しく整えなければなりませんものね。
ありがとう、兄上。
薬をどう使えばよいかは、聞かずともわかります。
わたくしめに、お任せあれ。
●橘邸~西の対
ぜいぜいと息を荒げて時氏は走る。その前を行く千歳は、さすがに若い娘だけあって、彼より素早い。追いつくだけで精いっぱいだ。
その時、時氏は前方の揺らぎに、ぞくりとする気配を見た。熱くなる肺に鞭を打って、声を絞り出す。
「千歳、右奥にいるぞ!」
瞬間、それに反応した千歳が、ぴょんと跳ぶように渡殿を転がった。
ずるりと響く衣擦れの音と共に、一瞬前まで千歳のいたところに、艶やかな蘇芳の色の袿の女が倒れ込んでくる。
『殺して、やる……あの小娘ぇえ……! わたしの目を……よくも!』
ひいひいと息を荒げながら、顔の半面を爛れさせた小柄な女がゆらりと立ち上がった。
千歳が這いずって後退り、叫びを上げる。
「橘安子!」
(「あれがか……! 透けて見える。躯は、すでに失ったか」)
ぐるりと安子が振り返ると、無事に見えた片目も潰れ、血が流れていた。
時氏は慌てて足を止めたものの、安子は金切り声を上げながらこちらに向かってきた。
何も見えていない様子ながらその周囲の空間が歪んで、安子に引きずり込まれるように身を引かれる。
呪術の首謀者は、もはや完全に鬼に堕ちていた。
『どこじゃ、一体……どこにおる……!』
「時氏殿は印を!」
千歳が叫ぶなり、懐から小刀を抜いて飛び掛かった。腰だめに構えた刃が安子の影に突き刺さり、甲高い悲鳴が上がる。
だが、散らない。
『そこ、かぁあ!』
ハッと千歳が顔を上げた時には、その首に透ける腕がまとわりついていた。
まずい。この鬼は強い。印だけでは無理だ。
『よくも、よくも……わたしの……!』
「千歳!」
舌を打ち、時氏は符を引き抜いた。真言を唱えるには、間がいる。
千歳は霊体に掴まれた首を振りながら小刀を振り回した。だがすぐにその腕も、安子の手が掴む。千歳の身が震え、首が実際にぎりぎりと締め上げられるように赤く染まり始める。
「っ……ぇぐ……!」
『殺、して、やる……小娘ぇ……』
じたばたする千歳の動きが、どんどん弱まっていく。安子は袿の中に千歳を呑み込むように伸し掛かる。千歳の小柄な体からどんどん力が抜けて、小刀が滑り落ちた。膝をついて、目が裏返って、そして……。
「……悪鬼調伏、急急如律令!」
間に合うことだけを祈りながら呪文を唱え、時氏は印を切って符を放った。萌木の時と同じように気が弾け飛び、安子の絶叫が轟く。煙が散るようにその姿が掻き消えて、千歳の体がごろんと床に転がった。
千歳はすぐに身を丸めて盛大に咽込み、時氏が駆け寄って背を撫でるとおえっと唾液を吐いた。
「あ、あり、がとうございました……助かりました」
「いや、助けられたのはこちらじゃ。そなたが足止めしてくれねば、符を打つ間はなかった。あれが安子か。すでに躯を失っておった。萌木と、相討ったか……」
「祓え、ましたか」
「現世ならば今ので祓えたろう。だがここは異界。この中では、奴らは消えぬ。時を置けば、また蘇る」
「そう、ですか。でも、この辺りまでくれば……とりあえずは……」
時氏と千歳は、いつの間にか西の対まで走り抜けていた。肩を上下させながら、二人で周囲を見渡す。
うめき声やすすり泣きの声は、東の対の方から響いてくる。萌木のいた方角だ。
「……萌木が周囲から腕を呼び寄せたのを見ただろう。あの子は元々、そなたと同じ巫術師。神霊を呼ぶのと同じように、鬼や怨念を呼び起こしておる。自覚はないのだろうがな。橘安子は術師としては半端者だったが……」
「萌木の君は、一流の巫術師です……あの方が歩き回るだけで、屋敷中の鬼が呼び起こされて行きましょう……」
「時間を置けば、不利になるばかり。疾く、ここを脱さねばならぬ。出口は、東の庭の蔵かもしれぬと萌木は書き残していたな」
「ええ。あの、しかし……庭の蔵下に抜け穴があるとして、そこを抜けてわたくしたちが逃げ出せば、わたくしたちを追って萌木の君もそのまま洛中へ……」
「わかっている……」
そう言いながら、時氏は舌を打った。
「安子の狙いは、それです……! 最初から萌木の君のような方を鬼にするつもりだったんです! 呼び起こした鬼を、全て洛中へ放つ気です!」
「そうであろうな。そなたも候補の一人であったということだろう。結果として、萌木を鬼としたところで奴は力尽きたようだが」
子の反魂を望んで異界を開いたあの女は、瘴気に呑まれて破滅的な行動へひた走った。
瘴気に満ちた洛中に、鬼を呼び起こす鬼を解き放つ……萌木の遺骸を抜け道の前に置いていたのは、その計画の総仕上げだ。
そこに偶然、自分が辿り着き、蘇った萌木の狙いがこちらへ逸れた……。
「いや……」
違う。
自分がここに来たのは、偶然ではない。
誘うように自分をここまで導いた萌木の影は、つまり……。
「……そなたは逃げよ。ここは私がやる。萌木の狙いは私だ」
「何を仰います。ここに居るのは我ら二人だけ。二人で、どうにかせねば」
「そなたは、勇敢な子だな。萌木も、そうであった。真っ直ぐで優しく、勇気があった。あの子が仕事でなく文をやり取りして同輩と扱っていたのはそなたくらいだったが、なるほど。気が合うはずだな」
「文のやり取りが主でございましたが、あの方のことは姉のように思っておりました。今それを聞くと、胸が苦しゅうなります」
「だが私に手伝いは必要ない。私が萌木を引き付ける。そなたは逃げるのだ」
千歳は俯いて黙り込み、首を振った。暗い考えを、振り払うように。
「時氏殿。死ぬ気ではありませんでしょうね。萌木の君はそのようなことを望みはしないはずです。あの方のためにも、生き延びてください。わたくしは逃げませんからね。止めても、ついていきます」
その目は、強い意志に満ちている。今しがた、鬼に殺されかけたばかりだというのに。
「そなたは帰」
「いやです。帰りませぬ。どうすればよいか教えてくださいませ。でなくば」
千歳の手が、小刀に掛かった。
時氏はため息をついた。しなやかながら強情だった萌木より、更に暴力的な意地っ張りだった。
これは、気が合うはずだ。
「……この異界はやがて綻びて閉じる。それを早めるしかあるまい」
「どのようにして?」
「ここは異界と化しているが、正確には現世と異界の双方に重なり合った境界にあたる。境界を維持するには、現世と異界を跨ぐ、楔が要る。一つは現世の側から境を跨ぐ楔。現世の肉体を持つ術者本人が、場を維持するために結果としてそうなる場合が多い」
「この場合は、安子でしょうか。それとも、彼女に利用された術師たちか」
「どちらであったにせよ、術師も安子もすでに全員が死に、完全に鬼と堕ちた。楔となるには『両界を跨ぐ』必要がある。だがあの者たちはすでに異界の者。現世とは繋がり得ぬ。故に、この呪術はやがて綻び、この異界は現世との出入り口を閉じるはず」
「その崩壊を更に早めるためには、もう一方の楔をどうにかすればよいと。すなわち、異界の深淵からこの境界に繋がっている楔ですね」
「ああ。それには人がなることは出来ぬ。現世の肉体を持つ時点で、人は現世の側だからだ。すなわち、何らかの強力な呪物ということになる。ここに瘴気を溢れさせている出入り口……萌木が、書いておったな」
「それならここに誘い込まれた際にわたくしも目にしました。黄金色の鏡です。東の蔵にしまわれておりました。わたくしがかどわかされた時、屋敷には丸ごと目くらましが掛かっておりましたが、あの鏡の入った蔵の戸を開けた時に、その術が破れてここに引き込まれたのです」
「だが私がここを訪れた時、蔵にあったのは萌木の……萌木の、首だけだった。鏡はなかった。動転していたが、さすがに見落としてはいない」
「……安子はあれを蔵にしまってある家宝だと言っておりましたが、あの時は洛中に瘴気を送るために蔵の中に戻していただけだったのでは……? こんな凄まじい呪術を打つのですから、本来、あの鏡を配置すべき祭壇が別にあるはずです」
「なるほど。よい洞察だな。蔵で見たものは、小さすぎる。術を維持するためだけのものだろう」
「目くらましされていた時と間取りが変わっていないとすれば、寝殿で祭壇を目にいたしました。あの時は祖霊を祀ったものかと思っておりましたが、恐らく……」
「そこであろうな。屋敷を呑み込むにも、中心で呪術を打つ方が良いはずだ」
「そこで鏡を叩き壊せばよろしいのですね」
「破壊でも封でも、繋がりを断てばよい。この中の鬼も瘴気も異界側に引きずられて、現世には出られなくなろう。だが我らは現世の体を持っておるから、膜を抜けるように外に出られるはずだ。無論、境目からのみだが」
「もし、逃げ遅れたりなどすれば」
「完全に閉じれば、この中で果てることになろう。異界に魂ごと引きずられてな。現世から誰かがこの異界の出口を開いてくれる希望はなく、内から境を開く術を調べる間はないだろう」
「でしょうね……構いません」
「いや、そこは構え。そなたの命ぞ」
「ああ、はい。そういうことでなく……とにかく、やりましょう。東の対から寝殿までは恐らく、萌木の君が呼び起こした鬼がいるはず。わたくしが血路を開きますゆえ、時氏殿は呪物を確実に封じてくださいませ」
「わかった。頼むぞ。ことを終わらせよう。……共に、な」
時氏は最後の言葉を言って、身を震わせた。
共に。ことを終わらせよう……か。
「時氏殿?」
「いや……いや、よい。そうだ、千歳。これを持て」
霞んだ目を拭い、時氏は千歳の手に小さな鈴を落とした。
「萌木の母から、あの子が譲り受けた祓い鈴だ。倒れていたあの子の傍で見付けた。強い力が籠っておる。弓を失った今のそなたには必要だろう。小刀だけでは、先ほどのようなときに危ない。できる限り鬼には近寄らず、これで祓え」
「……はい。大事にいたします」
萌木の祓い具を萌木自身に向けることになるかもしれない。
その後ろめたさには、互いに目を瞑る。この状況では、使える全てを使うしかない。
後悔が、波のように押し寄せる。
自分が、萌木と行動を共にしていたら。そうしていたら。
二人でいたなら。
きっと。
だが、それは起きなかったのだ。
今はただ、この二人で前へ進む以外にない。
●橘邸~寝殿
ゆらり、ゆらりと、暗い景色が揺れる。感覚の遠い足を一歩引きずるごとに、視界がぐらぐらする。
ゆっくりと、思い出す。あの人を、慕っていた気持ち。あの娘を、想っていた気持ち。
だが、それだけではない。
煮え切らぬあの人へのいら立ちと、純粋さを失わぬあの娘への妬みも、胸の底にある。
(『お師さま……千歳……』)
瘴気の満ちる闇は、蒼く澄むほど暗い。
だが水底にあってぼんやりとした光が見えるように、二人の姿は浮かび上がる。
先ほど遠ざかった二人の気配が、再び近づいて来るのも、手に取るようにわかる。
あまりにも、眩いから。
だが二人の方は、萌木に気付かない。
水面で遊ぶ煌めいた魚たちが、暗い水底へ沈んでいく透き通った海月に気付かぬように。
(『なんで、二人が……一緒に、いるの……』)
寝殿へと続く渡殿を、二人は走っていく。
手を取り合うように寄り添って、互いを守る。
東の対から寝殿へ続く坪庭を、萌木は歩む。
泥濘が素足に絡みつき、妖しく咲き誇る燕子花が、足元で身を捩る。
自分は独り、こんなに惨めに這いまわっているのに、何故二人は無視するのだろう。
(『待って……ねえ、二人とも』)
掠れる喉を振り絞って、萌木は呼び掛けようとした。
すぐに喉が詰まり、熱いものが口から溢れ出た。
喉に残っていた血はすでに腐り掛け、萌木の足元の泥濘に黒い染みを作る。
(『……』)
しばらくそれを呆然と眺めながら、萌木は息を吸って、吐いて、吸って、吐いて……唇を震わせて暗い空に向けて泣いた。
狼の遠吠えにも似た、どろついた感情が溢れ出る、声の出ぬ叫びだった。
萌木は知らない。自身が叫んだその時、異界の中に溶けていた怨念が寄り集まって輪郭を成していくことを。
時氏と千歳の走る先の暗闇に、蓬色の袿が形を成して、女房が金切り声を上げた。
振り乱れた髪、透けた躯、爛々と光る瞳で迫り、身を避けた千歳に飛び掛かる。
『兄上ぇ……ここ、から……出してよお!』
「千歳! 鈴を!」
「はい!」
縋りつく怨霊を、千歳が鈴を鳴らして退ける。怨霊は音に打たれて泣き崩れるように膝を折り、印を組んだ時氏の真言に切り裂かれて、うめき声を上げながら再び異界へ溶けた。
その音が、声もなく泣いていた萌木を、現実へと引き戻した。
(『あれは……わたしの、鈴……』)
好きだった母の鈴の音が、今は何故か耳障りに響く。まだ音は遠いのに、ひどく神経を掻きむしる。耳の裏側を、ぞわぞわと引っかかれるように。
誘われるように歩き出して、萌木は渡殿までたどり着いた。
二人はすでに寝殿の奥へと去っていたが、そこにはまだ微かに女房の怨霊の気配がした。
『申し訳ございませぬ……わたくしが……わたくしが……申し訳……』
異界に溶けたまま、すすり泣く女の声。
祓われたことで存在が異界の側にずれたのだ。だが、浄化はされない。彼女はすでに、ここに焼き付けられた幻影だから。
そう。あれは鬼だ。ここは異界。彼女はいつまでもああしてすすり泣きながら、通りがかる生者を見るたび、灯りに縋ろうとし続けるだけ。
虚ろな影を睨むのをやめて、萌木は二人の去った先を見た。
心に、周囲の暗い蒼と同じような、どこまでも深い色が満ちていく。
(『わたしは……ああなるのは、いやだ……』)
足を動かせ。二人を追いかけろ。置いていかれてしまう。
ひい、ひい、と一歩ごとに息が漏れる。歩みながら、萌木は何度も助けを求めようとして、咽て血を吐いた。そのたびに、離れていく二人の気配が足を止める。母の鈴の音と、二人が叫ぶ声がする。気付いてくれたのかと思うけれど、二人はまたすぐに走り出す。
(『ねえ、お師さま。こっちを向いて……? ねえ、千歳。何かあったら助けてくれるって、約束したでしょ……? ねえ。どうして、一緒にいるの? どうして一緒に置いていくの?』)
萌木が二人に呼び掛けるごとに、呼び寄せられた鬼たちが二人に襲い掛かっている。
ぐるぐると渦巻く心が、やがて暗い熱を帯びていくほどに、その数は増していく。
萌木には、そんなことはわからない。
「時氏殿! あれです! お願い申し上げます!」
「まずいな……これほど強力な呪物だと、壊すのは難しい。鏡を封ずる。背を頼むぞ」
「はい!」
二人は一室にある祭壇の前まで進んで、何やら叫び散らしていた。
どこまでも深い、虚ろのような気配の前に立って、時氏が呪文を唱え始める。
そして千歳は鈴を鳴らして、這い寄る鬼を追い払う。
まだ距離があっても、手に取るようにわかる。
背を預け合って闇に抗う、二人の動き……。
(『やめて……やめてよ。お師さまの傍には、ずっとわたしがいたのに……二人で、共に、って。お師さま、わたしに、そう、言ったのに』)
黒く、しかし熱く、心が沈む。冴え冴えとした蒼だった景色の輪郭を、血を思わせる紅が彩っていく。暗くて肌寒いのに、胸の奥は熱くて苦しい。
ゆらり、ゆらりと進む一歩が、少しずつ速くなる。
萌木に、己の力の自覚はない。彼女の怒りや哀しみが、鬼の群れを呼び起こすことはわからない。
(『そう。わからない。止められないの。わたしのせいじゃない』)
……本当にそうか?
意識しないようにしているだけで、本当は気付いているんじゃないか?
時氏は一身に深い虚ろに向けて印を切り、千歳は彼の背中を守って鬼と争っている。
何をしているのか、自分なら察しがつくはずだ。
(『違う……違う。二人は、わたしを置いて行ったりしない……』)
いいや。二人は、この異界を閉じる気でいる。
自分がまだここにいるのに。
師は結局、自分を抱いてくれなかった。
愛していたくせに。体裁にこだわって。母の影ばかりを見て。
それなのに今、自分を置いて、出ていこうとしている。
自分より可愛げがあって純粋で、穢れのない若い娘と、二人で。
(『違う……わたしは……』)
わたしはいつも、誰かのために擦り切れる、誰かのための橋渡し。それで報われることもない、端切れのような女。
綺麗なのは傍目だけ。布巾のように使われて、ぼろになったら捨てられる。
そしてもう、それを変えることは誰にもできない。
わかっているはずだ。
何故なら、わたしは……。
(『いや……!』)
息を止めて、萌木は顔を上げた。
一枚の几帳の前だった。この向こうに、師と千歳がいる。
「……よし、封じたぞ!」
時氏が印を切り終え、闇を漏れ出させる虚ろに符を張り付けた。
空間にひびが走り、異界の深淵とここを繋いでいた穴が砕け散る。鏡の形骸だけを残して。
「逃れましょう!」
萌木は、血の気の失せた手で、室を仕切る几帳を掴んだ。
ようやく、思い出した。何が起こったのかを。
そして、もうわかる。残酷なほど、はっきりと。
『ねえ』
囁くように呼びかけながら、萌木は几帳を引き千切る。
千歳と時氏が、ハッと振り返る。恐怖に見開かれた瞳で、自分を見る。
鬼を、見るように。
……そう。
自分は、死んだのだ。
もう、何も戻らない。
それなのに。
『どうして』
……あなたたちは、生きているの?
~つづく