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第五幕:鬼巫女

挿絵(By みてみん)

●『遺されていた書付』


 囚われてしまった。まさか現世を呑み込むほどの異界が開いていたとは。油断はしておらぬつもりであったが、愚かなわたしは五感をくらまされ、気付かなかった。母の鈴は危険を報せてくれていたというのに。

 この屋敷は地獄に等しい。同じく囚われていた千歳という巫女を助け、一室に寝かして結界を張ったが、守り通してやることは難しい。わたし自身、生きては出られぬかもしれない。

 千歳か誰かがこの書付を読むことを祈って、ここに記しておく。


 屋敷に残された手記や女房の日記を調べた。此度の変事の黒幕は、橘安子。父が謀反の咎で流された後、入内じゅだいしていた安子は御所を放逐され、この屋敷に戻って子を産んだようだ。しかし赤子はすぐに死に、奴は我が子の反魂を願った。父の遺した呪具と財、幾人もの術師を用いて異界を開いたようだが、その際に術師たち諸共、瘴気に呑まれたようだ。


 辻でわたしに声を掛け、この屋敷に誘い込んだのは安子だ。生きてはいたが、恐らくもう目的を見失い、人ではなくなっているのだと思う。赤子も死んでいるだろう。企てた者が屋敷ごと異界に呑まれてしまったから、露見しなかったのだ。


 調べた限り、屋敷から逃れられた者はいなかった。だが、出口がなければ瘴気が都に漏れ出ることはない。つまりどこかに抜け道がある。そう。安子が行き来している道が。

 きっと庭の蔵だ。異界と繋がっている鏡をあそこに置いていたのは、真下に抜け道があってそこから瘴気を都に送り込んでいるからではないか。

 わたしはこれより、そこから脱することが出来ぬか試してみる。


 わたしの名は、時氏の弟子、萌木。

 時氏さま。共にことに当たりたいと仰ってくださったのに、未熟な弟子をお許しください。

 独りでも、出来る限りのことを行います。

 でも、あなたさまに逢いたい。

 もし、二人でいたなら、きっと。




●橘邸~塗籠の蔵


 野分の千歳。

 時氏の弟子、萌木。


 宵闇に溶けて帰らなかった者の名に、二人の女が加わってから、しばらく。


『……お師さま』


 音にならぬ声が、都の闇にこだまする。


『……お師さま』


 霧雨の降り続く、冴え冴えとした暗闇で、心繋がる誰かに呼び掛ける。


 ここは暗くて、肌寒い。

 何が何だか、よくわからない。

 梅雨時に上掛けをはだけて寝てしまった時のよう。

 憂鬱な眠りから覚めないから、寒さを遮る術もない。

 夢を渡って、この声があの人のところに届けばいい。


 遠くに、戸を破る音が響く。水底から、外界の音を聞くように。

 暖かい、気配がする。永遠の暗闇に、ほの灯りが燈ったように。

 すすり泣き続ける声たちが、一斉にその囁きを潜めて、それを見つめる。

 自分も、また。


「萌木……どこにいる」


 遠い声に呼ばれて、くらりくらりとする意識を手繰る。

 まず底冷えした寒さがあって……はらはらと落ちる霧雨の匂いがして……。


「萌木……萌木……」


 呼ばれている。そう。わたしは……萌木。そして、あの声は……。


 熱い手が、自分の肩に触れた。誰かが自分を抱き抱えて、泣いている。涙の熱が、冷えた霧雨を焼くほどに熱くて。

 でも、躯には全く力が入らない。声にならない。何も見えない。


『お師、さま……』


 その時、視界に光が走った。別に明るいわけではないのに、目に痛いほど眩い。

 柔らかな男の影が近づいてきて、頬に触れた。

 暖かくて、とても眩くて、はっきりとした力を感じた。空っぽの自分とは違う、満ち溢れる何かを、感じた。

 そして目の前に跪くように、男は泣き崩れる。

 慟哭とも咆哮とも言ってよい叫びが、虚ろな魂の中に響き渡る。

 闇に引かれた糸のような呼び声を手繰り寄せて、彼はここまでたどり着いたのだった。


『お師さま……』


 萌木は、目を覚ました。

 久遠の夢の中で、彼女は身を起こそうと力を込める。

 首のない躯が、泣き崩れる師の向こうで、ゆらりと起き上がった。

 首がふわりと浮かび、戸の外で待つ躯に乗って。

 萌木は一つ、息を吐いて、吸う。肺腑に満ちるのは、冷え切った死の味だけ。


『ようやく……いらっしゃった』


 そっと、塗籠の戸を閉める。蹲っていた師が、ハッとこちらを振り返る。

 ほんの一瞬、視線が絡み合った。

 底知れない喪失の嘆きを宿した瞳が、驚愕に満ちて見開いた。


(『ああ……そのめで、もっと、わたしを、みて……』)


 戸を閉めて、萌木はかたんと閂を落とす。戸を叩く音がして、男の声が何かを言って、必死に自分を呼び縋る。


(『そう。よんで、わたしを……もっと、よんで』)


 萌木は、歩き出す。素足のまま、ぺたりぺたりと庭の泥濘を抜けて、東の脇門に貼ってあった護符を引き裂き、異界に開いた穴を塞いで。


(『……ここに、しまって、おかないと。わたしの、だいじな、お師さま』)


 首が、揺れる。躯と心の間に、分厚い膜があるかのように、動きが遅れる。足が、重い。

 だが、いかないと。何か、やることがあった気がする。


『ち……と、せ……』


 口が、無意識にそう呟いた。その言葉で、思い出す。


(『そう、だ……あのこを……たすけ、ないと。ああ、もう……くびが、ゆれる……あるきづら、い……』)


 そして萌木は、歩き出す。抜け道のない、暗闇へ向けて。

 彼女は、気付かない。萌木という女の物語が、すでに閉じられてしまっていることに。


 だが、紡がれていく出来事は終わらない。

 そう。ここから始まるのは、首をなくした鬼の話。

 記録に残されることのない、物語……。




●橘邸~寝殿


 時氏は、突き出された刃に思わず身を退いて、尻もちをついた。

 それで辛うじて、喉元を突き刺されるのを免れた。


「そなたは……」


 対の角で、突き出した小刀を構えていたのは、一人の娘。深緑の袴に、女郎花おみなえし色の小袖。行方不明の巫女の一人か。

 振り上げられた刃に慌てて手を翳し、時氏は叫んだ。


「……待て! 落ち着け! 鬼ではない! 私の名は時氏。陰陽術師の時氏と申す者だ」


 娘はへたり込んだ時氏に対して大上段に構えたまま、息を震わせる。彼女が事実を呑み込むまで数秒。二人はそのまま固まっていた。


「時、氏……殿? 萌木の君……の、先生……ですか?」


「私を……いや、萌木を、知っているのか?」


 娘は、震えながら小刀を下ろす。息を荒げ、顔は真っ青だったが、どうやら無事であるらしい。

 時氏は、どうにか立ち上がった。


「し、失礼しました……わたくし、野分の千歳と申します。萌木の君には以前、危ういところを救っていただいてから、文のやり取りなどで親しくさせていただいておりました」


「千歳の君……そなたがか。萌木から何度か話は聞いていた。行方が知れなくなってから、野分の巫女たちが必死に探していたが、生きていたとは……良かった」


「危うく鬼どもの生贄にされるところを萌木の君が助けてくださいました……いえ、まだ救われたと言える状況ではありませぬが」


 千歳は、胸元から書付を引き抜いた。萌木が、千歳かもしくは同じく迷い込んだ者に宛てて書いたもので、抜け道の場所と事件の顛末が記してあった。

 黒幕は前大納言の娘、安子。千歳を匿い、結界を張って、出口を確かめに向かい……ああ。そして、恐らくそこで、彼女は……。


「……我が弟子は、私にはもったいないほど良く出来たおなごであったようだ。全てを掴んでいたか」


「わたくしも辻で女に声を掛けられ、祓ってほしいものがあるとこの屋敷に引き込まれたのです。気付けばこの有様。抵抗いたしましたがわたくしの力では及ばず、金縛りにあったようになって、蔵に放り込まれたのです」


「萌木に、会ったのか?」


「はい。萌木の君が蔵を開いてくださり、結界で匿ってくださいました。ですがわたくしはそのまま気が遠くなって……目が覚めてからその書置きを見付けたのです。萌木の君は無事に脱して、時氏どのをお呼び出来たのですね。よかった……」


「いや……そうではない。そなたを悲しませることになってしまうが、私も一人、萌木の影を追ってこの屋敷に迷い込んだだけじゃ。そなたと同じく、囚われておる。萌木は……私はあの子を、救えなかった。間に合わなかったのだ……」


 千歳は、絞り出したその答えに、眉を寄せた。怪訝な顔で。


「は……え……? どういうことでございます、か……?」


「蔵の前であの子を見つけた。すでに遺骸であった。屋敷に向いておったから、出口を見つけてそなたの元に戻ろうとしたのだろう。そこで、何らかの鬼にやられたようだ。私が、側にいることが出来たなら……」


「え? え……? あの、では……時氏殿の後ろにおられるの、は……」


 千歳の顔が引きつっているのを目にして、時氏は息を止めた。

 初めて、背にぞくりとする気配が張り付いているのに気付いた。

 ゆっくりと、振り返る。

 佇む女の影が、目に入った。

 解けた黒髪の間から、じっとりとした目でこちらを睨む顔は……。


『お師さま……どうして……』


 白い手が、するりと伸びてくる。


「萌木……よせ……」


 動けなかった。誰よりも見知った顔が、恨みと未練に満ちて取りすがって来るのを、どうしてやったらよいのか。時氏には、わからない。

 首筋に、白い指が触れる、その瞬間。


「野分の神霊よ! 畏み畏み、申します!」


 びぃん、という弦の弾ける音が響き、時氏の脇を矢が飛んだような風が駆け抜けた。目に見えぬ衝撃が走って、萌木の躯が悲鳴と共に弾かれる。

 我に返った時氏が振り返ると、千歳が梓弓を構えていた。


「ここに澱む穢れ、祓い給い、清め給うことを、まおすことをきこしめ給え……!」


 矢は番えていない。弓祓いか。二度、三度と、千歳は弦を鳴らして、萌木の躯に見えぬ力を打ち込んでいく。萌木は射られたように一歩下がり、二歩下がり、そしてその首がごろりと落ちて、ばったりと倒れ込んだ。


「……!」


 時氏も千歳も、しばし息を切らして黙り込んだままだった。


「萌木の、君……そんな……異界とは、人を喰らうのですか。時氏殿」


「異界は、鬼の領域。重なり合った現世の影だ。人界に大気が満ちるように、その内は瘴気で満ち、穢れが揺蕩う。その中で人が死すれば、穢れに侵された魂は鬼となろう……萌木もな。ありがとう……あの瞬間、私は固まってしまった。この子の魂を、救ったのはそなただ」


「いつか、萌木の君に恩をお返しすると……いつか、何か困ったことがあった時にはわたくしの方があなたさまを救うと、誓いを立てておりました……まさかこんな形に、」


 瞬間、跳ね上がるように、首のない上体が起き上がった。千歳が構えるより速く、白い手がぎゅっと握られると、弾け飛ぶように梓弓が四散する。悲鳴を上げて、千歳がへたり込む。


『ち、とせ……お師、さま……どうし、て……どうして……』


「萌木! もうよせ! 眠るのだ! お前は……死んだのだ。萌木!」


 時氏の言葉など届いていないかのように、萌木はその手で己の首を拾い上げる。


『いじ、わる……しない、で……』


 萌木が首を乗せて長く息を吐くと、周囲の壁や床に小さな黒い染みのような闇が開いた。その中から無数の手が這いずり出し、縋りつくように身を掴んで引っ張って来る。

 腕や足を掴まれた千歳が、喚きながら身をばたつかせていた。


「やめて、離して……!」


 呆然としていた時氏は、首を振って胸元から符を引き抜いた。もはや、やるしかない。幸い、千歳の弓祓いで、萌木の動きは鈍っている。呪文を唱える間はあった。


「青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女! 眠ってくれ、萌木……!」


 こちらに向かってくる萌木に対して印を切り、符を放つ。泡のように弾けた気が周囲を打ち据え、床や壁から千歳にしがみ付いていた手が砕けて消えた。

 萌木の躯も悲鳴を上げて吹き飛び、再び胴と首が別れて人形のように転がった。


「すごい……流石です。あの、萌木の君は、これで……」


 ぜいぜいと身をかき寄せて、千歳が起き上がる。


「いいや、まだじゃ。この異界は、一介の術師で清められるような場所ではない。元より巫術師であったあの子は、その身に凄まじい瘴気を宿しておるようだ……」


 倒れたまま、転がった首を求めて萌木の手が床を這いまわる。横になった首は、乱れた髪の向こうでぎらついた視線を動かしながら、こちらの影を探していた。


『お、師……さまあ……』


 首だけが、恨めしく呟く。再び周囲に黒い影が渦を巻き始め、しがみつこうとして来る手が這い出そうとしている。

 その光景に声も出なくなっている千歳の背を叩いて、時氏は首を振った。


「ここは逃げるぞ。私の力では、あの子を救ってやれぬ……」


 そして、縋り付く腕を呼び寄せながら、巫女の鬼が起き上がる。


『おい……て、か……いで……』




●橘邸~寝殿


 二人の足音が並びあって遠ざかっていく。

 萌木は必死に手を床に這わせ、視界を動かした。


(『く、び……わたしの、首。どこに、おちた……』)


 やがて、手が何かに触れる。べっとりとした感触。血に濡れた己の髪だと気付いて、萌木は首を拾い上げた。

 頬に触れられる感覚と、それを掴む指の感触がずいぶん遠い。

 おかしい。今までこんなことは……躯から首が外れたことは、なかった気がする。

 いや、首だけでなく、思い返せば全ておかしい。

 ここは、暗い。

 目覚めてから、ずっと。

 重い灰色と、全てを呑み込むような黒と、艶のある深い蒼が、陰影だけで景色を作り上げている。

 目印のように燃える炬火も、この瞳には灯りを投げかけない。暗闇の中に浮かぶ星のように、瞬くばかりで照らしてくれない。


(『わたしに……なにが、起こったの……おもい、出せない』)


 だが冴え冴えとした闇の中にも、薄く暖かく光って浮かぶものが、二つがある。

 時氏と、千歳。愛する師と、唯一文を交わした友。

 混濁した記憶が、少しずつ形を成しつつある。

 何故か二人の姿は、狂おしいほど切なく、胸に迫る。


 どうして二人して、ひどいことをするの。

 二人には、一緒にいてほしくない。

 でも、わたしの傍にいて欲しい。


 呼びかけながら、萌木は逃げる二人を輪郭を追う。

 追って何をしたらよいのかは、まだわからない。

 だが、置いていかないでほしいということだけは、わかっている。




〜つづく

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