第四幕:一つの終焉
●『橘安子の手記』
父の馬鹿げた遠謀は、ことを始める前に露見した。のめり込んでいた呪術以外に頭の回らぬ莫迦が、自分の孫を即位させたいなどと下らぬ大望を抱くからだ。
何も知らされなかったおかげでわたしは生き延びたが、腹の子はどうだ。生まれながらに降下が決まった哀れな子だが、それで終わるはずもない。確実に殺される。どうすればよい。
結局、我が子は生まれて一年ともたず、衰弱して死んだ。いいや、殺されたのだ。わかっている。わたしの手元に残ったのは、父の遺した呪術の粋といくばくかの財だけ。後ろ盾もなく、守り切れるはずもない。だがそれがわからぬほど、莫迦でもないぞ。準備はすでに、整えてある。
父が使おうとしていたあの鏡……異界を封じたあの鏡を使えば、現世と死者の世界を橋渡しできる。我が子の遺骸と共に葛籠に入れて、蔵に保管した。漏れ出る瘴気が、あの子の魂をこの世に繋ぎとめるだろう。だが急がねば。蓄えはすぐに尽きる。家人どもも、やがて散ってしまう。あの子の魂も、いつまでもつか。異界を開き、反魂を成すのだ。全てをわたし一人でやり遂げてみせる。
父の集めていた強欲なお抱え術師どもが、父を裏切った者どもを呪う計画を持ち込んできた。父を冤罪で遠流としたことが原因と考えて、恩赦を与えてくれるだろうなどという莫迦げた企みを。狙い通りだ。思うさま呪術を打つがいい。奴らそれぞれに呪術を打たせ、やがて一つの大呪術を紡がせることが、父の元々の計画。わたしはそれを利用するだけでよい。
馬鹿な術師どもめ。自分たちが何を組み上げたのか今頃気付いたところでもう遅い。全て上手くいった。鏡の封は破れ、異界は開いた。溢れ出た瘴気に中てられ、異界に堕ちた者どもの悲鳴が聞こえる。互いを鬼と見て、殺し合うがいい。これで何者も、この屋敷から出ることは叶わぬ。我が子を殺した裏切り者が、家人の中にいることはわかっている。諸共、地獄に堕ちるのよ。蘇る我が子に、未来永劫仕えるがいい。
あの鏡を見てことを思いついた時は、子の守護のみを想っていた。だがどうしてだろう。今は、全てが憎らしい。父も、朝廷も、家人も、都人も、何もかも。そう。いつまでも憎んでよい。胸が焼けるほど憎い。憎くて、憎くて、心地がよいなあ。
今やこの屋敷で正気を保っているのは私だけ。ああ、憎くて楽しくて仕方ない。我が子は皆の楽しそうな悲鳴を聞くたびに、笑ってくれる。皆、もっと泣け。喚け。嘆いておくれ。我が子が楽しもうぞ。
やがて抜け穴から染み出した瘴気は、都中に行き渡る。そろそろ動き始めるか。術師どもの死体に武士の恰好でもさせて、供をさせれば不自然でもあるまい。恐るべき鬼を解き放とう。怨み憎しみとは、なんとも一途で麗しい。みんなで一緒に朽ち果てようなあ。
●橘邸~東の対
萌木は暴れる心臓を押さえながら、暗い渡殿を息を潜めて走る。
あれから、どれだけ時間が経ったのかわからない。
この屋敷は、まるで時間が進まない。しとしとと、いつまでも続く霧雨の夜。夜を照らす灯り桃は朽ち果てて、しかし、誰が点けるのか、炬火は消えることなく燃え続けている。
時に、悲鳴が遠くに響く。すすり泣く影が、簾の向こうにちらつく。屋敷の中に、かつて鬼に追われて朽ちた誰かの影だけが残って、世界から切り離された時を繰り返し続けている。
千歳は、あのまま昏倒した。
どうにか鬼の気配のない室まで引きずり、まだ使えそうな御簾や几帳をかき集めて可能な限りの力で結界を張った。だが、それが精いっぱいだ。いつまでもつかは、わからない。瘴気を祓いもしたが、彼女は結局目覚めなかった。
「……母巫女さま。萌木をお守りください」
ぜいぜいと息を切らして角を曲がった時、蓬色の袿を着た影が目の前に立っていた。
一瞬、安子かと思ったが、違う。向こうが薄く透けて見える。おどろになった黒髪の向こうから、窪んで隈の出来た目がこちらを睨む。
『鬼がいるわ……鬼が。沢山いるの……』
瞬間、萌木は扇を抜いていた。突如として甲高い叫びを上げて、女房であったらしき鬼は手を伸ばす。祓い鈴を鳴らして、切り付けるように扇を振るった。
『ここ……から……出し、て……』
女房は絶望に眉をゆがめた顔のまま、悲鳴を遺してその姿を散らした。
(「この鬼と遭うのは、これで三度目……ここが異界だからか、私ではこの屋敷の鬼を祓い切れぬのだ。いくら祓っても、何度でも現れる」)
息を整えながら、萌木は柱に背をつけて周囲を見回す。今の叫び声に誘われてか、塵を纏って歪む影が二体ほど、渡殿の向こうから歩み来るのが見えた。萌木は廊を走って、追い縋って来る影を振り払う。
やがて、庭の塗籠の前までたどり着いた。
(「閂が閉まっている……千歳を運び出したときには、開け放っていたはず。鬼どもではない。奴らのほとんどは肉体を持たないし、怨念の命じるまま動くばかりで、知恵はない。つまり、あの女だ」)
安子。
辻で会った時、奴は確かに生きていた。肉体があった。だが、もうあれは人ではない。生きたまま瘴気に憑かれた、鬼だ。
雨の中、萌木は震える手で戸に掛かっていた閂を外した。取っ手に指を掛け、周囲を見回す。何もいない。だが奴は、絶対にこの近くにいるはずだ。中で待ち構えているかもしれない。
萌木は身構えながら、一気に戸を開け放った。
塗籠の中は、暗い。誰もいない。あの蝋燭は、全て消えている。あの鏡もない。
代わりに、床板が引き上げられていた。地面に穴が開き、木を埋め込んだ階段がその下に続いている。
微かに、風の流れを感じた。
これが、手記にあった抜け穴だ。ここを見付けるために、どれだけの時間この屋敷を這いずり回ったか。
この向こうに、現世がある。師がいる。人の世界がある。戻れる。
ああ……母巫女さま、感謝します。
(「でも……どうして抜け穴が開いている? 安子がまた外に出て、わたしのような獲物を探しているのか? それに、千歳はどうする……?」)
部屋に寝かせた千歳をなんとかここまで引きずって来て、彼女を救わなければ。
心の柔いところが、必死に自分にそう言い聞かせている。
だが同時に、世故に長けた方の己が、必死に警鐘を鳴らしている。
彼女を引きずっていては、鬼と争うことは出来ない。すぐさま奴らに憑かれて、この異界の仲間入りだ。戻るな。ここから逃げろ。師の元に帰って、助けを呼べ。
萌木は塗籠の中にじりじりと入り、ぽっかりと口を開く抜け道を見つめる。
唇を噛む。涙が、零れ落ちた。
(「千歳……ごめんなさい……約束したのに」)
息を吐いて、涙を拭う。
そして萌木は抜け穴に背を向け、振り返った。屋敷に向けて。
その瞬間だった。
背後から萌木の首筋にそっと手を伸ばしていた安子と、目が合ったのは。
「……ッ!」
母の鈴が音を立て、掴みかかってこようとした女を、反射的に扇で払う。鬼にとって爆炎に等しい風が安子の顔を打った。凄まじい悲鳴が上がり、女は赤子を護るように抱えてしゃがみ込む。
(「……安、子! いつの間に!」)
もし、振り返っていなかったら。いや、考えている暇はない。
『こやつを捕らえよ! 絡め取れぇえ!』
安子が叫んだ瞬間、その背後に控えていた四人の老武者が踊りかかって来た。
萌木は狭い塗籠を転がり出ると、無我夢中で扇を振るう。振り返った老武者が祓いの風で打たれ、突如として燃え上がった。そのまま、二歩ほどたたらを踏んで、炭となって崩れ落ちる。
回り込んでくる二体目に向けて扇を振るった時、背後に太刀が翻る気配がした。燃え上がる二体目を押し倒すように飛び込んだ時、太刀が千早の背を引き裂く感触がした。
身を床にしたたか打ち付けながら、仰向けに振り返る。錆びかけた太刀を持ち上げる武者と、目が合った。いや、白く濁った瞳は、どこを見ているのかもわからない。太刀が振り下ろされる瞬間、萌木もへたり込んだ姿勢のまま扇を振るった。
鬼が燃え上がる寸前、太刀が扇に食い込んで、親骨をへし折った。軌道の逸れた刃が腕を裂き、引き千切れた扇から母の鈴が転げ落ちる。
(「扇が! 鈴を! 早く……!」)
鈴に向けて伸ばした手を、最後の武者の草鞋が踏んだ。骨がみしりと鳴る音が体の内に響き、跳ね除けようとした肩に、錆びた刃が突き刺さった。激痛に膝をついた瞬間、甲高い奇声と共に安子が萌木の背を蹴り倒した。
『よくも、よくも、やってくれた、なぁあ……!』
床に押さえつけられ、肺が潰れる。安子は信じられぬ力で背に乗り上げて、萌木の髪をひっつかむと、いきなり首筋に喰らい付いた。肩に刺さった太刀がねじられ、噛まれている首から血と灼熱が噴き出した。痺れるような痛みが、走る。
「――! ――ッ!」
みちみちと肉の裂ける音がして、甲高い悲鳴が聞こえた。耳を劈くような声が大気を震わせ、手先まで痺れて、身が痙攣する。叫んでいるのが自分だと気付くまでに、酷く時間がかかった。
どろ付いた血液が、熱く首筋を伝って、血だまりを作る。暴れようとしても、押さえつけられて身動きが取れない。身をよじりながら、萌木は力の限り泣き叫んだ。やがて激痛が鈍い痺れに代わり、精魂尽き果てて力が抜けるまで。
「……っ……」
気を失いかけた時、安子がゆっくりと肉から歯を引き抜いた。その感触が痺れとなって身に走る。糸を引く唇が放れ、髪を掴んでいた手が解ける。音を立てて頭が血だまりに落ち、紐の千切れた髪が紅に濡れた。
「ひっ……い……っ……」
ひくつく身には、もう、争う力も、声を上げる力も残っていない。息を吸う度、身が痺れる。首筋が熱くてたまらないのに、ひどく寒い。目が滲み、熱い涙が流れ落ちる。
『あなたさまはそこそこ手強いゆえ、屋敷の者どもで疲れさせてから不意を討つつもりでございましたが……手間を掛けさせてくれましたなあ……!』
安子がぜいぜいと息を荒げて、萌木の頭を床に押し付けた。覗き込んでくる顔の右半分が焼けたように爛れて、皮膚が剥けている。安子は顎に筋を引く紅を拭い、それを忌々しげに舐めとった。
「安……子……」
体が動かない。腱が引き攣り、痺れは指先まで覆っている。萌木は震える歯の隙間からかろうじて息を吸った。心の臓が脈打つ度に痛みが走り、その度に、肺の空気が出たり入ったりした。
『逃げ出すと思うたのに。あの娘を救おうとでも? 健気なことよなあ。それに比べて、せっかく鬼に堕ちたというに我が家人どもは、なんと頼りない。萌木の君お一人、絡めとることも出来ぬとは……役立たずめ』
安子が言うと同時に、最後に残った老武者の姿がしぼんでいった。狩衣の中身が急に重みを失って、人形が崩れるようにはたりと倒れる。瞬く間に肌はしぼんで黒い色に変わり、烏帽子も髪も落ちて肉が削げ、骨ばった腕と皮膚の乾いた死体と化した。
……そして蛇が脱皮をするように、落ちた服からやせ細った躯体が這い出てくる。その下半身は既に存在せず、乾ききったはらわたを引きずっていた。
『異界を開いた術師といえど、成れの果てはこんなものか。三人も蹴散らされて。いやはや駄目でございますな。異界に呑まれて狂乱した死肉なんぞでは、鬼となっても使い物にならぬ』
「……なぜ、このような」
まずい。舌まで痺れてきた。不自由な唇は、すでに色を失いつつある。
安子は萌木の髪を掴み直し、ぐっと体を持ち上げる。首から膿のように血が溢れて、傷の開く痛みに気が遠くなった。
首を反らさせている女の方へかろうじて視線を向けると、爛れていない方の半面に蛇のような笑みを張り付けた女の顔が真横にあった。頬と頬を、ぺたりと張り付けてきて。
『この子のためにございますよ。世の理を捻じ曲げてでも、鬼と堕ちても我が子と暮らそうと、ただそれだけを願って反魂を行いましたら、なんだか愉しくなったのです。ただ、それだけです』
安子が布にくるんだ赤子をそっと顔の横に持ってきた。
ああ……畜生。
萌木は、目を細めた。
赤子の躯は、頬がこけて黒ずみ、乾ききって、大きく虚空に口をあけている。明らかに木乃伊にしか見えぬ干からびた遺骸は、しかし蠢きながら得体の知れぬ鳴き声を上げていた。
『この通りこの子も蘇ってくれましたし。ふふ、ふふ』
生きている。死にかけているのではなく。
この赤子は……すでに。
「この為……に……」
女は蠢く赤子に頬ずりしながら、焼け残った目を見開いてにんまりしている。
何か言わなければ、そのまま意識を失いそうだ。萌木は必死に声を絞り出した。
「異界を、封じていた鏡……を、開いて……家の者まで……呑み込んだの……」
女は冷たい手でゆっくり萌木の頬を撫でる。ようやく手に入れた宝を慈しむような手つきだった。
『ええ。ええ。皆、この子に捧げる贄。恨みも嘆きも苦しみも、よく食べる子でございます……都から人をさらっても、まだまだ足りない。次は萌木の君や、あの千歳の君のような、身も心も清らかなおなごでも喰わせてやろうと、思ったのです』
「何……莫迦な、ことを……」
萌木は引き攣った笑いを漏らした。圧し潰されて完全に絡め取られていながら、それでも笑うしかなかった。
「わたしのどこが……清らかな、ものか。おなごの、なにが……! 皆、異界に呑まれて鬼になるだけ……お前もその赤子も、結局、魂を侵されて……恨みを残して、この中を彷徨う、だけ……」
霞む目の端。血にまみれた屋敷には、うずくまった陰が這いまわっている。
軒下から、もがくような呻きと床を掻く虚しい音が響く。
ここにあるのは、鬼の贄にされて異界に呑まれた者どもが、この世の境に刻み込んだ陰影ばかり。
気が遠くなる、久遠の暗闇だけだ。
「正気に、もどれ……その子は、黄泉で静かに、眠っていた……はず……いや、そもそも……その肉に宿っているのは……本当に、お前の子なのか。それは、怨念を詰め込んだだけの……ただの、」
『おだまりなさい、萌木』
そういって女は立ち上がり、髪を引いて萌木を引きずった。
先ほどの扇の一撃で瘴気が燃え上がり、深手を負っているにも関わらず、凄まじい腕力だった。
『みんな、死ぬのよ……でもこの子は、蘇る。暗い嘆きを悦ぶ子。喰わせてやる。お前らをな。そしてお前らが次は……』
火傷から滴る血を気にも留めず、安子は、ひっひ、と、喉を引き攣らせる。萌木はずるずると引きずられていく自分の足を眺める以外に、何もできなかった。首を引かれるたび、足がひくひくと震えるのを。
『お前も、わたくしも。みんな殺して、みんな死んで、この子の贄になって、鬼になって、ずっと暗い世界で泣き続ける。それでみんな、幸せよ。誰も、逃がしはしない』
仰向けに放り出された時、萌木はすでに朦朧としていた。手の感覚がない。目の前がぐらぐらして、気色悪い焼き付きが視界の端に滲んでいる。
時氏の言葉を思い出す。
……人の手による呪術。だが、狙いがわからない。
そう。何か目的があって呪いを打ったのだと思っていた。いや、最初は子どもを蘇らせたいという目的があったのかもしれない。
だが、これは違う。
この女は呪術師と異界を封じた鏡を持っていたが、本人は術師ではない。だから自分を瘴気から守る術など知らぬままに術を組み上げ、あっという間に闇に呑まれて、鬼と化した。今、此処にいるのは、目的を見失い、暗い嘆きを啜る心に従うまま、人の知恵を振るう生成りの鬼。
『可愛い可愛い、萌木の君。この傷の礼をせねばなあ。ああ、痛い、痛い……お前も首が痛かろうなあ。すぐに、心地よくしてやるからなあ』
ああ。母の鈴は、報せてくれていたのに。母なら、こうはならなかった。わたしにも、今少し考える時間があれば……今少し、強く賢ければ……だが結局、わたしは愚かにもこの女の手の上で踊っただけだった。
「や、め……て……こんな……」
手を伸ばして、命乞いをするのが精いっぱい。
目の前を、先ほどの干からびた黒い鬼が、重い物を引きずって這っていく。鬼が安子へ向けて差し出したのは、血脂や血錆びがまとわりついた太刀だった。
『ああ、そうよ……その顔が欲しかった。泣き濡れて怯えて、諦めるしかないけれど、諦めたくはない、そんなお顔が……可愛い、可愛い。焼けつくような痛みを、負ったかいもありました。うふ、ふふ』
安子は息を荒げて痛みに脂汗を滲ませているのに、嗤っている。ずるりと太刀を引き抜くその目は、完全に瘴気に曇っている。
それも、もう涙で滲んで見えない。母と師の顔を思い浮かべて、二人から学んだことの全てを思い出しても、どうにもならない。
今や流れ出る血さえ緩やかで、背の血だまりさえ冷えていく。殺されなかったとしても、多分、もう助からない。
「母、さま……お師、さま……」
『鬼にかどわかされながら、若武者に救われる姫君など、物語の中にしかおらぬ。そしてそれは、お前の物語ではないのよ、萌木の君……だが、お前は運がよい』
安子が、ほほほと嗤いながら太刀を持ちあげる。
『お前が鬼となって永遠に物語に綴られるのだからな。さあ、救われぬ久遠を共に嘆こうなあ。幸せなことよなあ……さあ、ほら。死を、味わっておくれ。さようなら……萌木の君』
刃が大きく、振り被られた。
萌木は、必死に手を伸ばした。祈るように、縋るように。抗おうとしているのか、助けを求めているのか。自分でも、わからない。
「お師さま……お師さま、いや……!」
より道はするな、持ち場を離れるな。次は共に……。
ああ、そうでございました。申し訳ございません、お師さま。私は、ただ。ああ、やだ!
空気を切る鈍い音が響いた。
首元に鈍器を打ちつけられたような衝撃が走り、稲妻が落ちたように躯が震えた。
胸を圧迫されたような感じがして、視界がぐるりと横になった。血を吐くかと思ったが、吐かなかった。
息が、出来ない。腕は。足は。躯は……動かない。何もない。どこ。耳鳴り、が……。
目を開くと、首のもげた躯が、腕を伸ばしたまま横たわっていた。薄紫の袴と、解け掛けた紐。力の抜けた腕が、床に落ちて地を掻いている。倒れた瓢箪から水が溢れるように、とくん、とくんと、首のない躯から血が漏れていく。上半身だけの鬼がけたけたと笑いながら、床に広がる血を舐めていた。
あれは……。
冷たい手が、頬を掴んだ。そのまま柔らかい乳房のふくらみに、押し付けられる。隣には干からびた赤子。ゆらゆらと漂う暗い何かが、赤子の口に吸い込まれるのを感じる。赤子の口が、小さな胸が、上下する。乳を飲むときのように。
「たんとお食べ……ふふ、これで。これで。ふふ、ふふふ、ああ、痛い……よくも……」
女のくすくす笑う声。それが、遠く、彼方に遠ざかる。
お師さま。わたし……あなたに、抱かれたかった。 お師さま、こんなの……わたし。
視界を、紅のちらつきが覆っていく。暗く、暗く。
わたしは、いや……。
どこか遠くに落ちていた母の鈴の音が、ちりんと一つ、虚しく響いた。
そして、全てを覆う、紅の闇の幕が下りた。
●時氏邸~母屋
そこは遠く、陰陽術師の時氏の屋敷。
『お師さま』
文机を照らしていた灯り桃が、ふっと明滅した。
時氏は、顔を上げる。何かを感じて。
今、薄紫の袴の裾が、するりと背後を横切ったような。
「萌木……?」
返事は、ない。
だが何故か、帰りの遅い弟子の囁き声が、聞こえた気がした。
~つづく