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第三幕:暗転

挿絵(By みてみん)

●『橘邸の女房の日記 二』


 おいたわしい。ついに安子さまは立場だけでなく、ご自分のお子まで喪ってしまわれた。お父上がご謀反の咎で遠流となってから、あの方はこの家でただ平穏に暮らしたいと心から望んでいらしただけなのに。

 安子さまの嘆きは深く、己を喪失したように、お亡くなりになったお子の傍に寄り添い続けて、祈祷を続けていらっしゃる。


 兄にこのことを話すと、安子さまの様子をみてあげてほしいと連絡が来た。わたしの生活の面倒は見るからと。なるほど。確かにお暇を頂くとしても、もうしばらく安子さまを見守って差し上げてからの方が良いかもしれない。立つ鳥は跡を濁さぬというもの。


 遠流となっていた惟光さまが、お亡くなりになったと報せがあった。安子さまは静かに肩を落としていらした。

 お父上さまは最期まで、自分は無罪であると訴えて欲しいと文を送ってきていた。安子さまはお父上が懇意になさっていた術師たちを集め、その願いが通じるようご祈祷をされていたがご加護はなかったようだ。

 お二人とも、本当にお可哀そうに。


 安子さまは心安んじるためご祈祷ばかりなさるようになり、わたしたちを遠ざけていらっしゃる。兄からも、もう切り上げようと文が届いた。わたしに出来ることも、ここまでだ。

 不幸続きであったためか、この家で妙なものを見るようにもなった。数日前に暇をもらって出ていったはずの者がいたように見えて、何度か声を掛けてしまった。実際には見間違いで、誰もいなかったのだが。


 嘆きに沈む安子さまにこんなことを切り出すのは心苦しいが、お暇を願ったところご快諾くださった。長く仕えてくれてありがとう、と、お礼の言葉までいただいて。流石に凛としておいでだわ。安子さまにお仕えできたことは、本当に幸運だった。あの方に仕えたおかげで、随分と財を頂きましたし、暮らしにはもう困りませぬもの。




●時氏邸~母屋


 日が過ぎた。

 早い紫陽花はすでに開き始め、藤が麗しい紫を都に吊り下げる。

 だが都の空にはうねるような暗雲が立ち込め、呻くような風が吹き、夜になれば雨がしとつく……。

 そのような日が、続くようになった。


「散れ」


 灯り桃が、ちらちらと花を開いてぼんやりと輝き始める夕暮れ。

 萌木は扇を躍らせて、三つ鈴を鳴らした。ただびとにはそよ風にしか感じないが、神霊の気を宿した扇風は鬼にとっては灼熱の暴風そのもの。怨みの籠った人の顔に蜘蛛の足を這やした鬼が、砂のように吹き飛んでその姿を散らした。


「……母屋まで入り込んでくるとは。結界を繕わねば」


 洛中はすでに昼間でも人を見かけることが少なくなった。

 夜になればどこかの家から悲鳴が上がる。聞きつけた術師が駆け込むと、血に塗れた人の上に顕現した鬼が伸し掛かっていたというような事件が、ちらほらと報告されるようになった。


「周辺の人々に、当家の灯り桃の枝を切って配りなさい。寝る場所に活けて、灯りが弱まりましたら持ってくるように。わたくしが力を吹き込みます」


 萌木はそう言って、家人たちに灯り桃の枝を渡し、周辺の家々に配らせた。

 時氏は毎夜、寝る間も惜しんで地図の上に線を走らせたり各地を調べに赴いている。あの師が自分で牛車の手配をするようになっただけでも、大した進歩である。実際には、そうせねばならないほど、事態が逼迫しているだけだが。


「お師さま。夜にはすでに形を成した鬼が跋扈するまでになっております。このままでは」


 ある夜、紅と白の柔らかな灯りを燈す桃の下で萌木は言った。時氏は苦し気に「わかっている」と一言唸った。


「……その上、気脈が乱され季節外れの冷気が都に流れ込んで来ている。ひどい冷夏が訪れるぞ。どうにかしなければ本当に大変なことになる」


「これだけの術師が関わっていながら、怪異の原因はまだつかめぬのですか」


 萌木を始め、集められた術者は鬼を祓い続けているが、その数が減る気配は無い。それどころか先日、灯り桃の影に巣食っていた鬼のように、駆け出しの者では手に余るような物の怪も出始めている。鬼祓いをする側にさえ、数人ほど行方が知れなくなる者が出始めた。


「……私はこの事態の元凶を呪術と思っていた。つまり、誰かが誰かを呪おうとしているのだと。しかし、どうにもおかしい。まるで異界の門を開いただけで放置しているかのようだ。この呪術を打った者は何がしたいのだ? ただいたずらに混沌と恐怖を招いているだけで、何がしたいのか皆目わからぬ」


「確かに、呪うならば対象があるはずですが……今は魑魅魍魎を溢れかえらせているようにしか思えませぬ」


 萌木としても、見通しの甘さを恥じるしかない。

 都は恐怖に満ち、すでに戦時の如き有様である。


「皆が疑心暗鬼になり、誰も彼もが手柄を争っておる。力を合わせず、一人一人が知り得たことを胸の内にしまい込んでは解決できるものも解決できぬ。俗人どもめ、目の前に迫る禍より己の手柄が恋しいのだ。せめてあの方がいてくださればな……」


 師が何気なく漏らした一言が、さくり、と聞こえぬ音を立てて萌木の胸に刺さった。


「……わたくしでは、母の代わりにはなれませぬか」


「いや……いや、ちがう。そういう意味ではない」


「確かに母は強く、賢い人でした。わたくしでは到底及びませぬ。それに……」


 それに……なんだ?

 思い出として刻まれた母には、女としても及ばぬ、とでも言いたいのか。こんな時に。

 唇を噛んで、萌木は頭を振った。


「失礼いたしました……わたくしは、わたくしの出来ることにて、お師さまのお力添えをいたします。何なりとお申し付けくださいませ」


「……萌木よ。すまなかった。お前たちのように辻で鬼祓いを行っている者たちに感謝こそすれ、指揮を取るべき者が泣き言を漏らすなど失礼であった。お前は立派にやっている。前に言ったように、今後のことはこの件を終えたら話そう」


「お師さま……」


「だがこれが落ち着かねば、今後どころではない。今、都は瘴気の澱みと化しておる。どこかに異界の穴が開き、そこから湧き水のように瘴気が溢れておることは間違いない。それを見付けねばならぬ」


「はい。心得ております。外から流れ込んでいるのか、内に穴が開いているのかは、わかりませぬが」


「私も牛車で洛中を巡り、その流れを探してきた。しかしこういうことを言うのは何だが、各地で我ら術者が鬼祓いや瘴気を清めるのに奔走するせいで、却って気の流れが乱れてわかりづらかった。しかし祓いの術者がいながら瘴気の濃さがさして変わらぬ辻をいくつか割り出した。気の澱みやすい地なのか、もしくは」


「付近に穴が空いているやも知れぬ、ということですか」


「そういうことだ。蟻を潰すような地道な作業になるが、私如きにはこんな手法しかない。日中の見回りが済んだら、その帰路に一つずつ巡って欲しい。お前は東都とうと側から。私が西都せいと側から巡ろう。妖しいという場所を見付けたら、信用に足る同業を集めて徹底的にその付近を洗うのだ」


「かしこまりました。千歳の君などは、歳若いですが信用に足るかと。姉巫女たちからの信用も厚い子です。野分の巫女の伝手も頼れるかもしれません」


「そうだな……。あそこは排他的ではあるが、人のために尽くすという志はしっかりしている。こちらが下手に出るなら断りはするまい。もちろん、手柄は分け合うことになる。こちらは二人ゆえ、大半を向こうに渡さねばな」


「それでよいのですよ。わたくしが千歳の君に、互いに助け合いましょうと文を出しておきます」


 時氏はしばらく押し黙り、やがて額にしわを寄せて萌木の目を覗き込んだ。


「私は凡庸な術師だ。出世して政に関わることなど出来ぬ……ついてくれば、苦労を掛けることになるぞ。それでもよいか」


「……お師さまのような方こそ、今の都には必要でしょう。お師さまの抜けていらっしゃるところには、脇を支える者が居ればよいだけのこと。それにお師さまの稼ぎだけで、母と暮らしていたころよりはよほど良い暮らしができておりますよ」


 枝垂れた灯り桃の花がぼんやりと輝いて軒を照らす、良い月夜のこと。

 二人は、互いに眉を寄せながら、苦笑を噛み潰して見つめ合った。


 その日を最後に都では、日も月も雲の向こうに隠れ、薄暗い曇天としとつく雨が続くことになる。

 暗い梅雨が訪れたのだ。

 冷夏は、すぐそこまで、迫っている……。




●洛中~外れ


 千歳からは、すぐに返事が来た。字面だけで、喜んでいることがわかるような書き出しであった。


『萌木の君。都のことを第一に考えてくださる方がいらっしゃって、嬉しく思っております。野分の巫女には財はありませんが、人手はあります。姉巫女さまにお伝えしたら、何かわかったなら皆、喜んで協力すると仰っておりました。ただ……』


 と、そこから筆が迷うように乱れ、見習いが一人、行方知れずになったことと、その娘を探していてすぐには人を割けないことが綴られていた。


(「……向こうにはすでに被害が出たか」)


 こちらとしても、成果が出るかわからぬ調査に人手を借りることはできない。無事に見つかることを祈り、何かわかり次第報せるとして、文を返した。


 地道に都を歩き回る日々が続くが、成果は上がらない。

 瘴気の濃いという辻をいくつか巡ったが、盆地であったりして気の流れが澱むだけで、調べるほどの価値は見いだせない。

 焦るのは、気持ちばかり。

 萌木はこの日も、白の小袖に薄紫の袴をはいて蝶紋の千早を羽織ると、辻へ出た。


「散れ」


 そう言って扇を振るい、顔蜘蛛や小鬼を吹き飛ばすのはこれで何度目だろう。

 時々、不安に駆られて出てくる人々の話を聞いてお祓いを施し、また再び辻を巡るのを繰り返す。彼方の黒雲の縁が山吹色に色づくまで。


(「さて。次の場所へ。他の辻と比べて回るだけだが、何か違いがあるやもしれぬ」)


 その日の鬼祓いを終え師の指示があった辻へと歩む、その最中のことだった。

 ふと、脇より声が掛かったのは。


「もし」


 振り返れば、女である。声の感じと雰囲気からして、年の頃は同じくらいか。小柄な体躯で、弱々しくしなだれるような細さがある。慌てて家から抜け出してきたらしい。

 後ろには護衛らしき男が四人ほど。狩衣姿に太刀を挿していた。


「いくら殿方がいらっしゃるとは言え、女人が外に出るには、今の都は危のうございますぞ。もう逢魔が時にございます」


 蘇芳の色の袿をかづいた壺姿。顔を塗る白粉の透き通るような色、唇に引いた艶のある紅、とんと置いた眉、大きく尖った目……白黒の猫にも似た、愛くるしくも気品ある顔立ちの女だった。

 こんな場所に出てくるような身分には見えない。


「その……命を受けて鬼祓いをなさっている巫女の方と見受けまするが、よろしいでしょうか」


「いかにも、その通りにございます。名のあるお家の方と見受けられますが、牛車もなしにいかがいたしました。なにかお困り事でも?」


 萌木はちらりと女の後ろを見る。名ばかりの家なのか、護衛の武者たちは皆老い衰え、萎びた肌の老人ばかり。若武者を雇うほどの財はない没落貴族だろうか。


「はい。我が家に、鬼が出るのでございます。蔵に小鬼がたかっておりますのを、わたくしが目にいたしました。しかし、家人たちには見えぬと言うのです」


 萌木は佇まいを直した。こういう相談を受けるのも業の内だ。ほとんどの場合は術師を雇う財のない庶民からだが、求められれば拒む理由はない。


「勘が鋭いのですね。そういった方が鬼を見ることはございます。しかし蔵、ですか? 家人のどなたかにではなく?」


「はい。当家には宝物ほうもつとして代々こがねの鏡が伝わってございまして。厳重に封印をして保管して参りました。しかし我が家の封も古くなったのか、小鬼めらが蔵に入ろうとたかるのが見えるのでございます。この者たちの弓祓いなどでおさめて参りましたが……あの。これをご覧くださいまし」


 そう言って、女は手の内に包んでいた布を差し出した。


「あら、お可愛らしい」


 見れば、赤子である。生まれてからまだ一年も経っていない。果実のように赤い頬が呼吸に合わせて上下している。

 萌木は思わず口元をほころばせて、ちゃいちゃいと手を振った。


「わたくしにはこの子もおります。小鬼ごときと巫女さまは思うかもしれませぬが、無力な赤子となれば命も危ういかもしれませぬ。小鬼どもを祓い、封印を確認して頂けませぬか」


「なるほど。それは不安にございましょう」


 赤子は心地よさそうに眠っているが、感覚を研ぎ澄まして集中すると、微かに瘴気の気配を感じた。

 瘴気の気配をどう感じるかは術師それぞれだ。蒼い煙に見える者もいれば、苦い味として感じる者もいる。萌木の場合は降り始めの雨に近い臭いと、微かな歪みを伴って舞う塵のように映る。


「……幸いお子様に鬼は憑いてはおりませんが、ほんの微かに瘴気の臭いがいたしますな。抵抗力のない赤子には毒になるやもしれませぬ」


 女は蒼ざめた様子で口を押さえ、息を漏らした。よろめいてしまいそうで、萌木は思わず手を伸ばして細い体を支えた。


「まさか……どうしたらよろしいのでしょう? あの、この子を助けていただけますか」


「大丈夫ですよ。薄い瘴気ですので、わたくしがすぐに祓います」


 かわいそうに。赤子のいる家ともなれば、小鬼であっても恐ろしかろう。

 取り乱す女に頷きを返し、扇を抜こうとした時、女の細指がその手を掴んだ。細く柔い指であるが、きゅっと力を込められた時、なにかぞくりとする妙な感触が肌に走った。


「弓祓いをする程度のことは心得ております。しかし蔵にたかる鬼のことは、家人たちに見えぬのであればどうしたらよいかわかりませぬ。我が子に瘴気がまとわりつくのも、それが原因にございましょう? お願い申し上げます、先にそちらを見て下さいませ……」


 何故か粟立った手を戻しながら、萌木は首をひねる。原因を先に取り除いてほしいというのはわからないではないが。


「それはよろしいですが……しかし通常、鏡には魔を祓う力があるものです。この度の騒ぎは尋常ではありませぬが、鬼が鏡にたかろうとするとは不可思議なこと。俄かには信、じ……」


 言いながら、時氏が言っていたことを思い出した。

 ……この騒ぎは何らかの呪術。だが、狙いがわからない。と。


(「待て。それはつまり……かつて封じられた呪術の封が意図せず破れた結果では……?」)


 それは、脳裏に弾けた閃きだった。

 それならば目的を感じないのもわかる。そして人の成した呪術でもある。

 いや、現場を確認せねば何とも言えぬ。まさか……。


「……かしこまりました。こちらといたしましても、そちらのお屋敷の宝物庫を拝見させていただきたく思います。お子様の瘴気も、その後に祓わせていただきましょう。わたくしの名は萌木。時氏という者の弟子にございます」


「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます……! わたくしは安子と申します。我が屋敷は、こちらに……」


 女は何度も礼を言い、護衛の老武者たちを引き連れて辻を曲がった。いくつか角を曲がると、古いが立派な門の屋敷の前へ立っていた。奥まったところだが、塀はどこまでも続いている。これほどの邸宅とは思っていなかった。相当な高位の官職についていた者でなければ、手に入らぬ屋敷と思える。


 老武者が観音開きの門を開く。

 開いた瞬間、風が吹き込んだ。


(「今、門に吸い込まれるように……?」)


 微かに覚える、違和感。止めかかった足を、安子の手が引いた。老武者が二人、頭を下げて門を閉め始める。


「さ、こちらへ。お前たちは門を閉じて、お客人へ何か持ってまいれ」


「ああ、いえ。お気遣いなく……しかし、ご立派なお屋敷でございますね」


 気を取り直して顔を上げれば、絵に描いたように立派な邸宅である。

 表門を潜ると小川の流れる庭。灯り桃の木が、紅白それぞれの色で左右に配され、橋向こうには立派な破風はふの寝殿がある。その左右に、東西のたい。恐らく、北の対もあるだろう。

 川の石橋を渡る最中、小川の周りには一足早く花菖蒲はなしょうぶが咲いているのが見えた。それは、満面の緑紫の水面に浮かぶ、壮麗な屋敷だった。


「父の屋敷をわたくしが引き継いだものにございます」


「失礼ながら、お父上はどなた様でございましょう? これほどのお屋敷、わたくしも存じ上げている貴族の方と思いますが」


「それは……」


 紅い石楠花しゃくなげが咲き誇る庭道を歩みながら、安子は口ごもった。言いたくないことであると気付いて、萌木はすぐに「仰りたくないことならば……」と口にし始めたが、それに被せるように安子は言う。


「……前大納言、たちばなの惟光これみつにございます」


 今度は、萌木が口ごもった。その名はしばらく前、政争の果てに謀反の嫌疑で失脚した実力者の名前であった。つまり安子は連座を免れた謀反人の娘ということだ。


「橘の……失礼をいたしました」


「いえ……良いのです。わたくしは何も知らずにおりましたゆえ御所を追放されるだけで済み、ここにてひっそりと暮らしておりました。ただ……この子のために術師を雇おうにも、謀反人の娘に助力してくれる者など誰もおりませぬ」


「それでわたくしに声を掛けたのですね」


「今となっては、この子だけがわたくしの希望です。どうにか助けてやりたいのでございます。萌木の君。誠にご迷惑かとは思いますが、見捨てないでくださいませ」


「ご安心くださいませ。わたくし、ことの次第は存じ上げませぬが、お父上のことはお父上のこと。頼まれたことは、やり遂げますよ」


「ありがとうございます……ありがとう」


 先を歩きながら、安子は袿の裾を目に這わせた。

 萌木は、何も言えない。これほどの屋敷があるのならば親子二代は財が尽きることもなかろうとは思う。


(「だが……政に振り回され、栄華から堕ちていくだけの姫君か」)


 風もないのに、はらり、はらりと庭木から紅が落ちる。さらさらと、菖蒲あやめの茎が擦れる音がする。

 屋敷の中は静謐で、都に満ちていた瘴気を感じない。まるでこの屋敷の中だけ都から……いや、世界から切り離されているかのようだった。

 しかし、何か……。


「蔵は、あそこにございます。こちらへどうぞ。お上がりになってくださいまし」


 安子の言葉で、萌木は顔を上げた。

 東のたいの端。渡殿の先に、塗籠られた蔵がある。

 草履を脱いできざはしに足を掛けると、なにか胸元がぞわぞわした。


(「……なんだ? 何か変だ。何か引っかかる」)


 感覚を研ぎ澄まして、周囲に意識を張り巡らせる。だが、何も感じない。妖しい気配はない。

 静まり返った庭にはもちろん、屋敷の中にも、鬼は見えない。燕子花かきつばたの織り込まれた几帳が、時間が止まったように室を仕切っている。その裏側にも、気配は全く感じなかった。鬼だけでなく、人の気配も。

 麗しいが、描かれたもののような空虚さを感じる。耳鳴りさえしてきた。


(「……音が消えたような静けさだ。家人はどこだ。曲がりなりにも貴族の家であろうに」)


「閂は外しておきました。開けてかまいませぬ。見てくださいませ」


 怯えたように安子は几帳の影に隠れて、蔵を指す。


「はい……しかし、あの……」


 何を言おうと思ったのか、ふと、庭を振り返った時。萌木は脳裏に引っかかっていた一番の違和に気付いた。

 庭を歩いてくる時、目の端に映った、あり得ぬ違和。

 庭木からはらはらと舞い落ちる紅の葉に。


「……なぜ、紅葉もみじが色づいている。今は、梅雨時だ」


 庭に咲き誇る色とりどりの花に紛れて気付かなかった。紅葉した葉が、散るように舞い落ちていることに。

 何か恐ろしい予感を覚えて、萌木はハッと几帳の方を振り返った。

 その隙間から己の背に向けて伸びてきていた細腕が、見付かった蛇のように奥へ引っ込むのを、萌木は確かに見た。

 思わず飛び退いて、几帳から距離を取っていた。


『ああ、失礼しました……わたくし、張り付けておく幕を間違えました』


「幕、とは、なんです……季節に逆らって色づき続けることが出来るのは、気脈を吸って輝く灯り桃を除いて他にありませぬ。あれは、狂い咲きなどではない……」


『あなたは前のより、勘の鋭い女にございますな。その身のこなし、流石に手強い。いや、それでよいのですけれどもね……』


「何者です、あなたは……!」


 几帳を、跳ね除ける。そこには、何もいなかった。

 左右を見回しても、麗しい几帳が並ぶばかり。あの女も赤子も、気配もない。そういえば、いつの間にか老武者たちの気配もない。

 だが、ほんのわずかに、臭いが鼻をついた。


(「雨の香り……」)


 萌木の手は扇を抜き放っていた。

 耳が痛い静謐の中に、ようやく捉えた気配。目を走らせて、臭いの元を探る。日に照らされた塵のような影が渡殿を横切り、先ほど安子が指していた蔵から伸びてきている。


 何だ。何だ、この感覚は。

 首の後ろがぞわぞわする。耳鳴りが続いている。

 萌木は安子の消えた部屋の方へ向けて身構えたまま、渡殿を下がった。


(「思い返せばあの女は、この蔵へとわたしを誘導しようとしていた。家宝の鏡だの、小鬼がたかるだの……よく考えれば、赤子を祓おうとしたことも断って」)


 萌木の背が、蔵の戸に触れた。ちらりと見れば、ここを封じていたらしき札が裂けているのが目に入った。

 何がある? 何を隠している?

 戸に手を掛けた時、扇が強く震えるのを感じ取って、萌木は声を潰して跳び退った。

 扇が? いや、違う。扇ではない。震えているのは、母の形見の鈴だ。だが、音がしていない。確かにびりびりと揺れているのに。それなのに……。


(「まさか……鳴っていたのか? この屋敷に入ってから、ずっと……? まさかわたしの方が、耳をふさがれていたのか? あの、掴まれた時に、何かを……」)


 へたり込んだ萌木の前で、蔵の戸が内から押し開かれるようにゆっくりと開いていく。塵が混じる歪んだ空気が、どろりと漏れ出てきた。豪雨の日にどぶの隣を通った時のような濁った臭いが鼻に入り、思わず萌木は口を覆った。


「これは……一体……どういう……」


 戸の隙間からは、見覚えのある袴の裾が見えた。色は深緑である。

 触れられるほど濃い瘴気の渦が蔵の中から屋敷へ広がっていく向こうで、誰かが横たわっている。


「も……ぎ……さ、ま……」


 もがく人影が、瘴気の海の中で苦しそうな声をあげた。まだ生きている。

 その周囲に赤黒く濁った蝋燭が無数に立てられ、その肢体を照らしていた。


「た……す、け」


 倒れていたのは、見知った娘だった。小刀がその傍らに抜き身で転がり、娘は仰向けで目を剥いていた。涙と唾液を垂れ流したまま、息を詰まらせたようにひくり、ひくりと痙攣する。その呼吸は弱々しく、顔は死人のように白く染まって、床を掻きむしるようにしながらこちらに手を伸ばしていた。


「千、歳の君……」


 野分の千歳だった。

 腿までむき出しにめくれ上がった袴、はだけかかった小袖、血の気の失せた胸元……瘴気にてられて、すでに窒息しかかっている。

 蔵の奥に飾られている黄金こがね色の鏡が、彼女の身を舐めるように妖しく煌めいた。

 それはほとんど凌辱に近い光景だった。


「……なんだというのだ、これは! 千歳に何をした! 安子、全てあなたがやったことか!」


 振り返って叫んでも、何もいない。

 だが、何も変わっていないわけではなかった。

 蔵から漏れ出た瘴気が広がって、屋敷を包み込んでいた目くらましの幕が溶け落ちていく。


 整っていた庭はいつの間にか草が腰ほどにまで伸び、小川の水は溢れかえって泥濘ぬかるみとなり、屋敷の屋根はひび割れていた。調度品は割れて崩れ、引き裂かれた几帳が倒れている。柱や床にへばりついた血の跡は、引きずられたように線を描き、すでに黒んで腐っていた。

 そこにあるのは、悍ましい廃屋だった。

 猫の鳴き声のような声……あの女の嗤い声が、遠くに響いた気がした。


「おい、て……か……い、で……」


 呆然としたまま剥げていく世界を見つめていた萌木は、その一言で我に返った。息を止めて扇を振るい、濃密な瘴気に囚われた千歳を蔵から引きずり出す。

 震えながら痙攣する彼女を抱きしめ、その頭をぎゅっとかき寄せる。


「大丈夫……置いていかない。大丈夫」


 それ以外、言葉は思いつかなかった。

 いつの間にか日は沈み、薄暗闇の廃屋にしがみ付いてくる千歳と二人きり。

 萌木は髪を振って静かに息を吸い込み、身に神霊が宿るよう祈った。

 音が、戻る。はら、はら、と、雨が滴り始める音が。

 その中で、母の鈴が張り裂けるような勢いで鳴り響いていた……。



~つづく

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