第一幕:鬼祓いの巫女
●『橘邸の女房の日記 三』
こんな時に心痛むが、安子さまにお暇を認めて頂いたからには急いでこの屋敷を去ろうと思う。
というのも最近、この屋敷では妙なものばかり見る。
雷が光った折、廊に誰かの影が見えたり。先日は灯り桃が明滅を繰り返しているから見に行ったところ、数日前にこの屋敷から去った庭師が血まみれで立っているように見えて、声を上げて灯り桃の枝を落としてしまった。
見間違い、だったはずだ。それでも、恐ろしい。
明日には兄が迎えに来てくれる。遅れるようなことがあれば、もうこちらから出向こうと思う。
兄が来ない。それどころか、屋敷から出られない。辻へ出て、どこを曲がってもこの屋敷に戻ってきてしまう。
恐ろしくなり安子さまにことの次第を訴えたが、お前も疲れたのだろうと仰るばかりで取り合ってくださらない。一晩休んでから行きなさい、と。
家人たちに尋ねたところ、確かに最近、妙なものは見るが、屋敷から出られないなどということはないと言う。
そんな莫迦な。これは何かおかしい。それとも、わたくしがおかしいのか。
兄上、どこにいるのです。早く、迎えに来てくださいませ。
一晩眠ったはずなのに、夜が明けない。安子さまがいない。誰も見付からない。門から外に出ても、またこの屋敷に戻ってきてしまう。この屋敷は一体どこ。
兄上、この日記を見つけたら応えてください。誰でもよいから、返事をください。
申し訳ございません お許しください 安子さま兄が 鬼に 兄が悪いのです追いかけてくるのです 止めてください。ここから出してくださいお許しください。出して
鬼が 鬼が 見える 見えて わたしも
●洛中~大路
辻の脇に、紫陽花の葉が青々と茂り始めた。日の光を受けて、水の雫が宝玉のように輝いている。
からりと晴れた春の日に、一台の牛車が大路をゆるゆる進んでいた。
「……嘗ては貴族のみの乗り物であった牛車が、下々の人々にも解禁されたのはいつのころであったかな?」
「桃花京への遷都の後にございますから……四十年ほど前のことにございますか。今や我ら中流の者も、寄り合って乗ることが出来るようになりました」
物腰柔らかな中年の男声に、凛と冴えた若い女声が応える。
「では、桃花京への遷都の理由は答えられるかな」
「旧都にて我ら術師が見出しました灯り桃は、気を宿して夜に輝く魔除けの木。嘗ては我ら巫女が神霊の気を呼び込んで照らしておりましたが、気脈の流れを整えれば夜に自然と花開きます。予め気脈を整えた新都を築けば、旧都にて悩まされた鬼の跳梁を防げると、朝廷の陰陽術師の方々がご進言なさったのを帝が受けたと聞いております」
「よし。少々くどいが、そのようなところだ。闇を祓い、桃花京は不夜の都と呼ばれるようにまでなった。今や庶民でもそこそこの財を成せば艶やかな単や袿を纏い、牛車に乗って洛中を巡ることが出来る。私の幼いころとはまるで異なるな」
男の方は明快な答えに満足したのか、うんと一つ頷いた。
大路には等間隔に灯り桃が植わっている。普段であればここには出店が並び、枝垂れた桃花が紅白に輝いて、夜まで人々で賑わう。ここは都の繁栄を象徴する場所。
「まあ……それが今や、真昼間だというのに大路を走る牛車はこの一台のみにございますが」
萌木は、そう漏らして物見窓をちらりと睨んだ。見えるのは、空の屋台がぽつぽつ残るわびしい光景だけである。
そうなるのも、無理もない。
この日も、目を凝らせば野鼠のような小鬼たちがうろついているのが見える。どぶや屋台の落とす影に潜み、隙あらば生きる者の生気をわずかでも貪ろうと、きいきい鳴き声を上げている。やせ細った手足に膨れ上がった腹をした、赤子を思わせるおどろおどろしい影だ。
見る力を鍛えていない者たちにも鬼の姿がちらつく程に、都の瘴気は濃くなっている。
術師にとっては、見えるどころではない。日の当たらぬ方の簾にたかり、爪を引っ掛ける音さえ聞こえてくる。
「これでは、煩わしゅうてなりませぬな」
萌木はからげた袿の袂から、扇を引き抜いた。武士たちが小太刀を抜く時のごとく、音を立てて開けば、要に下がった祓い鈴と、親骨に付いた二つの鈴が凛と鳴る。
簾に張り付いた小鬼たちは猫の悲鳴に似た声を上げて消え去った。
「萌木。あまり派手に祓うな。御者が不安に思う。それにせっかく仕立てた着物が乱れるぞ」
「失礼いたしました」
萌木は目を細めて、袂に扇を戻して乱れを直す。
今日は師が縁のある貴族の屋敷に出かけたが、祓いの仕事ではないとのことで、巫女装束は着ていない。単の上に藤を織り込んだ薄紫の袿での外出である。
師と共に食事に招かれ書状を受け取るというだけのことであったが、少々堅苦しい。小袖袴に千早の方が動きやすいのは当然だが。
「あの程度の小鬼ごときでは何もできぬ。だが何かがいると思うだけで人は不安になるものだ」
そう言うのは師、時氏である。額に薄く刻まれたしわを寄せ、しかし優しさを感じさせるように首を振った。彼は仕事着を正装にしているので、浅葱の狩衣のままである。
師と言ってもこの男は陰陽術師。萌木は巫女である。瑞穂国にはいくつか術の体系があり、陰陽術を学ぶのはほとんどが男で、巫術を学ぶのは女が主だ。なので師と言っても、感覚としては主人に近い。共に鬼祓いの仕事に携わる術師である故、この国ではこういう取り合わせの師弟関係が稀にある。
萌木は今年で二十五を数える。細面に切れ長の、睨むような目をした女である。冷たい印象を与えるが、醜女ではない。柔らかく愛くるしい流行りの顔ではないが、はっきり整った面立ちである。
美人の証拠というわけではないが、客の貴族に言い寄られることは多かった。
「今、祓ったことも含めて伝えればよいではありませんか。事実なのですから。御者もそれで安心いたしましょう」
萌木の声は、見目に違わず冷ややかに響く。器用な性質ではないし、可愛げは薄い。生真面目と言えば聞こえはいいが、人からは高慢な女と見られがちだ。
「力も術も、ひけらかすものではない。何度も言っているだろう。お前は賢いおなごだ。だがそれは、賢しいにも通じるぞ」
師は、子供をたしなめるように語る。その言葉には、情が滲んでいる。そういう態度は自分を害するぞ、と。
そんなことは、わかっている。
自分が若い貴族の男に受けるのは、まさに指摘された賢しさゆえ。お高くとまっている美人を口説き落とすという、愉快な遊戯の駒として、だ。
二、三度、複数の男からほぼ同時に言い寄られたことがある。妙だと思い探りを入れると、彼らは『誰が萌木を一番に口説き落とすか』を賭けて遊んでいた、という話だった。
彼らは本気の遊びのつもりだったろう。それを、遊ばれていると見るか、愉悦を覚えるかはそれぞれだが。
「……お師さまが人に尊敬される機会を自らお見逃しになるのを何度見て来たか。不詳の弟子ながら、不満は覚えます」
「我らは役に立つ駒として人に使われてはならぬ。世の理を探求し、学ぶ者なのだ。それを常に肝に銘じておくことだ」
正論である。萌木は、ぎこちなく微笑んで頭を下げた。同時に、鼻先から僅かにため息が漏れることも、抑えられない。
「とはいえ今は、役立たねばなりますまい。先日、野分の千歳の君からまた文が届きましたが、あちらなどは大忙しのようです」
「野分か。あそこは巫女たちの寄り合いゆえ、忙殺されていような。しかし、此度のことは恐らく、瘴気の出元を塞がねば意味がない」
「その出元を見破れぬとなれば、陰陽術師の方々こそ、役に立たぬ駒として断ぜられてしまいかねませぬ」
「私のような端くれには関係ない……とは、さすがに言えぬな。いやはや、耳が痛い。博士どもにも、政の猿真似をやめて、本腰を入れてもらいたいものよ」
萌木は物事をはっきり分けて見る。人々が求めるのは『役に立つ駒』だ。人に対する守りが武士、鬼に対する守りが術者。あとのことは、他者からすればおまけでしかない。
対して時氏は『世の理を学ぶ』という言葉が好きだった。術師とは探究者であり、力を振るう者ではない。時に朧な世の理を、己も柔らかく受け止めるべきだと。
崇高であり、正しい。そういうところを尊敬もしている。
しかし現実問題として、鬼や呪いに困らされた貴族の頼みを引き受けて回る術師などという立場で、どれだけ世の理を掘り下げられるのか。その技を世間が認めなければ、すぐさま食い詰めてしまうというのに。
(「師は学もあり、聡いお方だ。召し抱えられても何ら不思議でない。術の使い手としても、朝廷の博士どもに見劣りなどせぬはず。しかしなんというか、世事に甘いお方なのよなあ」)
と、萌木は幾度も嘆息してきた。
自分は女の身、歳は二十五である。男たちと違い、己の術を買われなくなれば奉公先などほとんどない。どこかの下人と家庭を持って慎ましく暮らすなど出来れば良い方だ。元より巫女と遊び女は表裏一体。まじないとまぐわいとを繰り返し、都落ちした女たちは何人もいる。
萌木とて、時氏につくまで暮らしのためと割り切って貴族に抱かれたことは何度もある。
だが自分を消費する道具と見る者と、尊敬し信頼し合う関係は築けない。遊ばれてやる代わりに出すものを出させる、というのが、萌木のせめてもの落としどころだった。
(「女は嫁げるゆえ術師の道から足を洗いやすいなどと言う者もいるが、実際のところ単に不利なだけよ。己の技を自ら売り込まねば、得られる機会を逃してしまう。この方はそういったところ、能天気に過ぎる」)
生来、学者肌である時氏とは、その辺りの意見が合わない。
仕方のないことだとは思っている。どちらかと言えば、すれているのは自分の方だと、わかってもいる。
牛車が、止まった。
「着いたか」
師は溜息を落として、胸に抱いた書状に触れた。何か嫌な用事のある時の彼の癖である。手近なものに何度も触れて、目を泳がせるのは。
「御者、着いたのならば早う牛をのけよ」
萌木はぴしゃりと言った。こういったところが、他者には高飛車な女と見られる所以である。
「これ、萌木。あまり急かすものではない」
「はい。お師さまの前で、申し訳ございませぬ」
頭を垂れながらも、萌木は実のところ欠片も気にしていない。というより、叱られることをわかってて言っている。
のんびりとした性質である時氏は、嫌な仕事から逃避する悪癖がある。
つまり萌木は御者に対して怒っているわけではなく、時氏が現実逃避のための無駄な時間つぶしを考えつかぬ内に、さっさと時間を前に進ませるためにこうしているのだった。
自分をたしなめさせている間に御者に急がせておいて、すぐに仕事と向き合わせる。住み込みで蟄居を共にし、台所事情を預かっている萌木としては、主人の逃避を許すわけにはいかないのだ。
というわけで、萌木はさっさと市女笠を被って外に出て、続く時氏に頭を下げた。
「わたくしは屋敷の周囲の鬼祓いをしてまいります。お師さまはお先にお入りになってくださいませ。くれぐれも他事などなさらず、その書状の件より片付けてくださいますよう、心よりお願い申し上げます」
皮肉を込めて念を押す。
師が何か言おうとした気配があったが、萌木はそれを無視して背を向けた。
角を曲がる時、溜息が聞こえた気がした。
五十を越えるおっとりした師と、二十五にして小手先のことに気を回す女の弟子。
それが、二人の関係であった。
●時氏の屋敷~外周
萌木は、幼いころ秋口に吹く嵐……野分の神を祀る神社に捨てられた子である。
そこで、一人の巫女に拾われた。
この国では、子とは神からの授かりもの。己に宿った子は当然として、導きがあれば捨て子も同じこと。
そういう考えで、子のなかった巫女はその子を萌木と名付けて育てることとした。
しかしその時、巫女は齢にして五十過ぎ。歳の行った弟子を取って引退し、己の跡取りにすることは出来ただろうが、辛うじて歩ける程度の幼子を育てきるにはいささか歳が行き過ぎていた。
彼女は神霊の力を借りることにかけて確かな腕を持っていたが、さすがに六十を超えると体に無理が出始めた。萌木が彼女の代わりに祓いや予言の仕事を代行するようになったのは、十六歳のころだ。まだ子供とも言える歳ながら、巫女がもともと築いていた人脈を頼りに仕事をした。
その時に三十路や四十路で、力ある巫女としての風格を備えていれば、客を引き継ぐ形で独り立ちも出来たろう。
だが流石に若すぎた。顧客を維持するので精一杯。足元を見られることも少なくなかった。
身売り仕事をするということが、すなわち相手に侮られているということであり、やがて仕事を切られることになると学んだのもこのころだ。
そういう仕事は萌木にとって嫌ではあったが、深く傷つきはしなかった。恐らく、萌木自身が言い寄る男たちを見下げる性質があって、それを手玉に取ることが嫌いではなかったのだろう。
ただ顧客とそういうことがあったと話をしたら巫女は烈火の如く怒った。最初、萌木は自分が怒られているのだと思った。女としての彼女を自分の無神経な言動が傷つけてしまったか、でなければ神聖な仕事を穢したと取られたのだろう、と。
そうではなかった。
「わたしの巫術を頼って世話になっておきながら、娘になんという真似を……!」
巫女はそこそこ大口の顧客であった貴族に対し、恩を仇で返した輩めと怒鳴りつけて、縁を切ってしまったのだった。
彼女が、ただ技術の伝承者としてでなく、娘として自分を愛しているのだと知ったのは、その時だ。
それまでずっと自分は拾われ子であるという負い目があって、彼女の技術を継承して臨終までの世話をするための道具なのだと勝手に思い込んでいた。
萌木は幼いころから、そういう賢しさのある子であった。
「良いか、萌木。世の理と通じる力は、常に他者のためにあるものと心得よ。嘆きや苦しみを解き、僅かでも共に背負うための力だ。その為に、お前は自身を大事にせねばならぬ。利を示してお前を貶める者に、力を貸す必要はない」
母はそう語り、辛い想いをさせたことを詫びて、自分を抱きしめたのだった。
それまで萌木は、世界にある情愛とは損得勘定や情欲の絡むものでしかないと頭から信じていた。尊厳を踏みにじられた自覚すらない己に代わって怒りを示してくれたことで、萌木は初めて愛情というものを知ったのだった。
(「こんなことってあるのね……」)
萌木はその日、母の愛を疑っていたことを恥じ、抱き返して涙を落とした。彼女は酷い仕打ちを受けたことによる涙と思って優しく撫でてくれたが、萌木としてはそっちは別にどうでもよかった。愛されているという事実が、嬉しかった。
その日から、萌木はその巫女のことを心から母と思うようになった。
ただ、まあ。
(「……母巫女さまのやり方では、二人で食ってはいけぬのよな」)
というのも、本音である。
で、結局、そういうことのあったときは母には黙っている、という道を選んだ。
あれからそういうことはないかと心配してくれる母に対して、萌木は母の為に微笑んで嘘を吐く。
母の純粋な愛に対し、その世話を焼くために世故に長けた蓮葉女になっていく矛盾に、萌木は自分で驚いた。
(「はあ……なんとも俗に塗れた女だこと。母巫女さまのように巫術を極めるなど夢のまた夢だわ」)
賢しさというのは時に裏目に出る。萌木は早々に自分の才能に見切りをつけた。早熟だが伸び悩み、大成しないだろうと。
が、悲観する性質でもなかったので、ならば小手先の術師になって日銭を儲けるのみだと思った。世に受けるのは、むしろそちらの方であるとも気付いていた。
やがて、母が病に倒れた。萌木が二十歳の時である。
彼女は己の命の尽きることを悟ると、萌木を一人の男に頼んだ。
「この子に術の才がないと思うなら、一介の女として。どうか」
母がそこまで言ったかどうかは、定かでない。
萌木が手を握る中、彼女は息を引き取った。多分、幸せな生涯であったのだろうと思う。
萌木を引き取ったのが、母と懇意にしていた陰陽術士、時氏である。
「賢く、愛情深い方であった。私ではあの方の代わりにはなれぬが、そうあれるよう努力する。萌木、そなたはあの方の娘だ。決して無下にはせぬ」
時氏はそう言って自分を迎え、以来、彼を師と仰いで五年。
師はよい教授であり、萌木は良い生徒であった。酒を呑むように師の知識を学び、暇さえあれば彼に付いて現場を回った。
同時に、修行の妨げになるのもまた師であった。
勉学ばかりで身の回りのことや日々の膳も忘れがちな時氏を世話するのは、萌木の仕事である。
(「これでは、すでにこの方の妻と同じであろうに」)
何度そう思って自嘲したかわからない。
とはいえ、女の二人暮らしであったころに比べたら、生活自体は圧倒的に楽になった。時氏の腕は確かであるが、それにしても陰陽術師とは巫女よりよほど儲かるらしい。
数人だが人も雇うことが出来て、まず何より先に萌木は屋敷の切り盛りの仕方を学ばねばならなかった。
「これでは修行どころではありませぬ。お師さまは、どのようにお思いですか。わたくしの立場について」
そう問うたことがある。暗に、答えをよこせと言ったつもりである。
自分がここにいるのは、あなたの妻としてか、それとも弟子としてか、と。
萌木は、前者でもよいと思っている。
時氏は困ったように眉を寄せて、丸い顔に微笑を浮かべた。
仕事なり家事なり采配なり、萌木に何かしら迫られた時には、大体いつもそんな顔をする。
「世の理は、焦って学ぶものではないよ」
そんな顔で、彼は言った。
……思い返すと、少しばかり腹が立つ。
(「そうでしょうとも。わたくしが焦って学ばねばならなかったのは、牛車の手配の仕方やら、厨の切り盛りの仕方やらでございました」)
そう返してやればよかったか。
今も、その時を思い出すとため息が出る。
やがて互いの立場を明らかにせねばならない。だが今はその時ではない、と、言ったつもりなのだろう。
(「全く甲斐性なしの師だこと。そんなだから女もほとんど寄りつかぬのよ」)
と、そんなことを考えていた時だった。
りーんと間延びした鈴の音を耳にして、萌木は足を止めた。
屋敷の塀の角だ。檜扇の要に下げた鈴が、震えるように鳴っている。
(「反応した、だと……? 母様の祓い鈴が鳴るということは……小鬼如きではない」)
萌木は目を、次に息を細め、己の中に気を呼び込んでいく。
そして、ゆっくりと一歩を踏み出した。角の向こうへ。
灯り桃がひょろりと生えた辻。普段から見慣れた、何の変哲もない道である。
何もいない。鬼を恐れて、今は人通りもない。隠れることも出来ぬ、視界の開けた場所。
だが桃の木の細い影がまるで地割れでもあるかのように手が這い出す。細い闇からずるりと身を乗り出したのは、狼のような影。禿げ掛けた毛並みに、獣と人を掛け合わせたような顔を持つ鬼だった。
萌木の気配に気付き、この世のものでない唾液を撒き散らしながら振り返る。
「まさか……魔を祓う桃の真下から、こんなものが出てこようとは……」
血走った目が、憤怒に歪んでこちらを睨む。
仕方がない。袴ならまだしも、壺姿では逃げるにも遅すぎる。
「神霊よ、畏み畏み、申します。この穢れ、祓い給い、清め給うことを……」
祈り、身構え、一瞬の間。
同時に、両者は動いた。
鬼が喉笛目がけて跳躍し、萌木が扇を引き抜く。
要についた母の形見が音を立て、狼鬼は音に殴られたように中空で身をよじった。
続けざまに三つ鈴の扇が、音を立てて開く。鬼が腕を伸ばし、爪を振るう。
扇は手の内で風車のように回転し、鈴の音が重なった。
「……ちっ」
舌打ちが、一つ。切り裂かれた笠の垂れ衣が、はらりと落ちる。
「笠を新調せねばならぬ……全く、日のあるうちからこのような化け物が現れるとは……一体、どうなっているのやら」
萌木が身を翻した後ろで、首の落ちた黒い影が、日に溶けるように消えていった。
~つづく