開幕
●『陰陽術師、時氏の手記 一』
桃花京への遷都から三十余年。
紫陽花や花菖蒲の咲き乱れる、肌寒い雨とじっとりとした暑さを繰り返す時期のこと。
しばらく前からゆるゆると始まった怪異は留まるところを知らず、都を覆いつくした。
洛中は全ての術師が総出で張り巡らせた灯り桃の光で夜も守られていたはずであるのに、どこからともなく瘴気が漂い始め、日中でさえも彷徨う影がちらつき、暗がりを見つめれば鬼が見えるようになった。
我ら世の理を学ぶ者のみならず、修練を積んでおらぬ商人や農民までもが見てしまうほどに。
都は元より瑞穂国において、最も人の多きところ。
全ての気の流れが集まるが故に、異界を行き交う百鬼夜行が見えることも少なくはない。
しかしその時の怪異は、現世に侵蝕してくるかの如き尋常ならざる規模であった。
乱れた髪で佇む女や、刃を抱いてしゃがみ込む男の陰影。下腹の突き出た餓鬼。人の顔に蜘蛛の足の生えた異形――。
辻には、夜な夜な魑魅魍魎が跋扈し、いつの間にか人が消える。
遺骸が見つかるのはまだよい方で、血だまりや遺品のみを遺し、時には痕跡も遺さず消えてしまう者もいた。
都は平安を失い、やがて貴族の家にさえ被害が出始め、夜は匪賊や衛士たちでさえも出歩くことを恐れた。
もはや朝廷もなりふり構ってはいられなくなり、身分や流派に拘らず鬼祓いの術を持つ者がかき集められ、怪異を鎮めることを命じられた。
私の名は時氏。弟子の名は萌木。
陰陽術師たる私は、巫女をしていた萌木と共に命を受け、怪異の根源に触れることとなった。
私は、愛する弟子を喪うことになったこの夜の出来事を、生涯忘れられぬだろう――。
●橘邸~東の庭
温い風が這うように吹き、はたはたと菖蒲の花が揺れている。
はらり、はらりと、音もなく霧雨が降る。
艶のある、暗い夜のこと。
都の外れの屋敷の脇門が、蹴るように破られた。
飛び込んだのは、男。品の良い浅葱の狩衣を着て、小柄ながらそこそこに引き締まった体躯を感じさせる。烏帽子から覗く髪には黒がまだ多いものの、白髪の筋が目立つ。知的なしわを寄せた丸顔に整えたひげを蓄えた、五十ほどの男である。
だが、穏やかそうに見える風貌とは裏腹に、この時の彼は蒼ざめて鬼気迫っていた。
「なん、と……ここはもはや。なんという……」
屋敷の庭に飛び込むなり足を止めて、陰陽術師の時氏は口元を押さえた。
肺に入る空気に、不吉に湿った味がする。
庭には草が生い茂り、その中に覆い隠されるように人影がいくつも転がっている。泥濘に半ば沈んだ躯の周囲には、その死を喰らって育ったかのように、紫の花菖蒲が咲き乱れていた。
振り返れば、邸宅を囲む広大な塀には、べっとりと黒い跡がついている。よじ登ろうと足掻いた者の手の跡が。
(「この瘴気の濃さ……ここはすでに異界に呑まれておる。現世へ出るには、出入り口となる境目をくぐる以外にない。それが内から塞がれていたのだとすれば、この屋敷から逃れられた者は、恐らく一人も……」)
初夏だというのに、凄まじい寒気と腐乱した血の臭いが屋敷の内に凝っている。外からは、全くわからなかった。
瘴気を閉じ込めるよう、屋敷の塀に様々な手法で呪が掛けられていたからだ。一見すれば、貴族が己の屋敷を悪しき者から守るように施したようにしか見えなかった。
(「まさか、内を瘴気で満たすために呪を張り巡らせたのか……? 誰も気付かぬわけよ」)
ここはまるで、洛中へ向けて瘴気を汲み上げている井戸の如き場所。ひしめき合う鬼の気配がする。
間違いなく、ここが洛中で起こっている怪異の元凶だ。何が狙いかわからないが、凄まじく邪悪な呪術を、何者かがここで用いた。この屋敷を丸ごと瘴気が包み込み、現世と重なる暗い異界を顕現させて、世界から切り離したのだ。
(「外からは入れるが、内から出るのは容易ではない。今、開いたこの門が一度でも閉じれば、抜け穴を見付けない限り、洛中へ戻ることは出来まい」)
理性も感情も、戻るべきだ、と、全力で警鐘を鳴らしている。
この屋敷に漂う濃い瘴気は、抵抗力のない者ならここにしばらくいるだけで、中てられて狂い死ぬだろう。
鬼や瘴気を祓う術を心得ている己でも、この中でどれだけ生き延びられるか。どのような馬鹿げた物の怪が巣食っているか、わからない。ここはすでに、鬼の住む場所なのだ。
息を一つ吐き、時氏はきいきいと音を立てて揺れる門を振り返った。
袖を翻して門に符を張り、鬼門を開いたまま固定するよう、印を切る。
自分は独りである。このまま中で倒れたとしても、それを誰かに報せてくれるものはいない。
だが。
(「ここが開いていれば、屋敷の目くらましも破れ、いずれ誰かが気付くだろう……例え、自分がしくじっても」)
拭った額の水滴が、冷や汗なのか雨なのかわからない。烏帽子を直し、彼は闇に浮かぶ廃屋敷へ向き直った。
退くに退けぬ。一刻を争う理由があった。
「萌木……ここにいるのか」
誘うように自分をここに導いたのは、しばらく前から行方不明の弟子の影。辻に差し掛かるたび、薄紫の袴の裾が、するりと己を呼ぶように角を曲がる。
そんな不思議を繰り返し、時氏はこの屋敷へとたどり着いた。
けもの道のごとき庭を抜ける間にも茂った草の間から血脂に濡れた腕が伸びてくる。
ここで死した者たちの怨霊が、己を泥濘に縫い留める花菖蒲から脱しようと、狩衣の裾や袴に縋りついてくるのだ。
「オン、トナトナ、マタマタ、カタカタ、カヤキリバ……」
時氏は指で印を組み、真言を唱えた。草の間から伸びてきた腕は、人に気付いた蛇のように奥へと引っ込んでいく。そのまま泥濘を走り抜け、彼は対の軒下へと入り込んだ。
都の夜を照らす魔除けの灯り桃は枯れ果て、乾いた枝を折られて炬火にくべられていた。ぱちり、ぱちりと、揺らめく灯りに照らされて、屋敷の中に柱や調度の影が踊る。
(「雨夜だというのに炬火……人がいるのか? いや、いたと考えるべきなのか。何の目的か知らぬが、異界を開く呪術を打った者が。だが……」)
その人物がここにまだいるなら、すでに生きてはいまい。否、生きているとしても、すでに鬼と化していると見るべきだ。
霧雨だというのに、遠くにちかりと雷が瞬いた。遅れて音が響くまでの一瞬の明滅に、血みどろの影が床にうずくまっているのがちらついた。異界に呑まれ、鬼に喰われた者たち。肉も骨もこの世に残さず消えてしまい、その恨みや未練だけが焼きついた陰影。目に見える虚無だった。
「萌木。萌木、どこにいるのだ……」
渡殿を進みながら、時氏は女の名を呼び続ける。それに夢中になって、ぞっとする気配が上から滴って来るのを危うく捉えそこなうところだった。
冷えた唾液が垂れてきたような悪寒を首筋に感じ、時氏は咄嗟に身を逸らした。
瞬間、時氏の体があったところに、人が落ちてきた。真っ黒に干からびた姿で、はらわたを尾のように引きずりながら、高笑いをあげる上半身が。
「っ、護身形代、急急如律令……!」
咄嗟に形代を放り投げると、鬼はくるりと向きを変えてその形代に向けて走り出す。囮に引っかかり、笑いながら形代を叩き続ける鬼へ向けて、時氏はすぐさま印を組んで呪文を唱えた。鬼は突然、心の臓を掴まれたようにもがき苦しんで溶けていき、骨まで塵となって消えていった。
(「霊魂や影ではない……干からびていたとはいえ、躯をもって動く鬼まで出るとは」)
歯の間から、震える息が漏れる。気付くのが一瞬遅れれば、恐らくあの化け物に殺されていた。どう殺されるのかはわからないが、とにかくあのような化け物がこの屋敷にはまだいるはずだ。
だとすれば……。
「萌木……頼む。無事でいてくれ。逃れていてくれ……」
祈りながら、男は進む。何度祝詞を唱えたかもわからぬほどに祈ってきたのに、何に祈ればいいかも忘れるほど。
『お師、さま……』
男の足が、止まった。声にならぬ女の囁きを、聞いた気がして。
「萌木……?」
『お師さま……ようやく』
それは、深く漏れる吐息のような囁き。
男は、ゆっくりと振り返る。
東の対の庭の端。渡殿の向こうに、塗籠がある。宝物をしまう蔵か。なぜ、あんなところに。
だがそんなことはどうでもいい。
その手前の廊に、見覚えのある薄紫の袴が見えた。ほどけかかった帯紐が、だらしなく地を這っているのが。
「莫迦な……」
鬼どもがどこから襲ってくるかもわからぬ場所であることも忘れて、男は走った。
仰向けで転がっていたのは、血みどろになっているが、見間違えようのない躯だった。
「萌木、起きよ。わたしだ、萌木」
引き起こす。黒く乾いた血の跡が千早の背にこびりつき、薄絹が破けた。
まさかこのまま起き上がってくれると信じるほど、時氏は愚かではない。
でも、それを願ってしまうほどには、人は愚かだ。
そして悲劇はいつも、残酷という言葉を超えたところにある。
力なく垂れ落ちて、その命が尽きたことを知らせてくれるはずの首さえ、その躯にはついていなかった。
はだけた小袖から覗く肌は血の気のない白に染まり、黒いあざがうっすらと浮かんでいる。
「そんな……そんな」
首は。首はどこだ。萌木の、首は。
ぎい、ぎい、と戸が軋む不吉な音がして、時氏は顔を上げた。
開きかかった塗籠の奥に、何か見える。溶け切って火の消えた無数の蝋燭。簡易な祭壇のように組み上げられた棚の中ほどに……若い女の顔が虚ろな目でどこかを見詰めていた。
探している女の、首だった。
「萌木……」
よたよたと足を振るわせて、時氏は蔵へと足を踏み入れる。
尖った目に小さな唇をつんとさせつつ、たまに少し俯き気味に睨むような顔で笑う……そんな女だった。
うら若いうちに世の酸いも甘いも味わったはずだが、目の奥にはどこか少女めいた輝きがあって、それが自分に向いていることを、時氏も彼女も知っていた。
そんな仲であった。
だがその首は今、本当に冷たく、この世ではない久遠の闇を見つめながら、一種、芸術めいた禍々しさを湛えて飾られている。
「萌木……お願いだ」
何を願ってか、蔵の奥におかれた首にすり寄り、その頬を撫でる。
伝わってくるのは、死の感触。硬くも柔らかくもなく、ただ冷たくて力のない弾力。
時氏は膝をつき、床を叩いて蹲る。
(「何故だ。何故、こんなことに……ああ、こんなことになるなら……なるのだったら……」)
すすり泣きは、慟哭となり、彼は幾度も床を叩く。
後悔も、叫びも、祈りも、もう全てが遅すぎる。
全ては彼方へ去り、二度と戻っては来ない。
それでも、時氏は嘆き続けた。
その後ろで、首のない女の躯がゆらりと起き上がっていくことには、気付けていない……。
●塗籠の蔵
『お師さま。ようやく……いらっしゃった』
今度は、はっきりと囁く声が聞こえた。
男はハッと顔を上げる。
「萌木?」
壇の上にあったはずの首が、ない。
なんだ。どこにいった。あの子の首は……。
背後から、扉の軋む音がした。差し込む光が細くなるのに気付いて、振り返る。
観音開きの隙間に見えた、土気色の影。暗く沈んだ女の瞳と、目が合った。
「……!」
息が詰まった一瞬の間に、戸が閉まる。飛びつくより早く、ごとりと閂が落ちる音。時氏は、体ごと戸にぶち当たって、弾かれた。
「やめろ……お前なのか、萌木……!」
悲鳴のような声を上げる男の声に、くす、くす、と漏れる女の含み笑いが重なった。ゆっくりと塗籠を離れて、遠ざかっていく。
『お師さま……お師さま……』
「駄目だ! そちらに行くんじゃない!」
時氏は幾度も扉に体当たりを続けた。どれだけ経ったか、やがてさび付いた蝶番の方が外れて、廊下へと身が転がる。
周囲を見回す。
何もない。
萌木の躯がない。
首も、どこにもない。
血だまりと、それに張り付いた千早だけを残して。
遠くに、入ってきた脇門が閉じられているのが目に入った。
「まさか……」
走り寄れば、確かに張っておいたはずの符が引き裂かれて、外れていたはずの閂まで落ちている。
開けておいた異界との繋ぎ目は、閉じられた。ここから出る術を断たれたのだ。異界と現世を行き来するには、両界の繋ぎ目を潜る以外にないというのに。
(「囚われた……萌木も、都で行方知れずになった者たちも、皆、このように誘い込まれたのか? 一体、誰に? 何のために……」)
『お師……ま……』
虚しく笑う囁き声が、屋敷の奥にこだまする。渡殿の向こうに、するりと消える袴の裾が見えた気がした。
霧雨の中に草を揺らす風の音が重なって、囁き声が掻き消える。
時氏は息を切らしながら、魍魎の巣と化した屋敷を見上げた。
蒼い闇の中に浮かぶ緋の柱が、滴る血の如く己を誘っている。
(「このままここにいれば遅かれ早かれ、自分も萌木と同じことになる。生き延びるには、どこか異界からの抜け穴を見つける以外にない。前者の方が、よほど在り得ることだろうが……」)
目を閉じて息を整える。
ただ死ぬわけには、いかない。
時氏は、走り出す。
愛した女の影を追って、彼は屋敷に飛び込んだ。
その時、視界の端で、渡殿の角をさっと白絹が曲がったように見えた。
「萌木、待て!」
そう呼びかけて角を曲がった瞬間だった。
白刃が目の前に翻り、己の首元を狙って、突き出された――。
●
……時氏は、この恐るべき怪異を生き延び、記録を綴ることとなる。
彼はやがて、誰も生き延びることの出来なかった閉ざされた異界を脱し、高名な陰陽術師として歴史に刻まれた。
だがここより語られるは、彼の物語ではない。
鬼へと堕ちて、彷徨い続けることとなった、とある女の物語。
時氏の妻と呼ばれた女の、記録されることのなかった物語だ……。
~つづく