7話 精霊は実在するようです
日が暮れ始める頃、私はやっと地獄のスケート教室から解放された。あれをやれ、これを教えろ、一緒に滑ってくれ、のエンドレスリピート。興味を持ってくれるのは嬉しいけど、ちょっと私のキャパを超えていた。保育士だったら、安全基準がなんたら、とお叱りを受けるだろう。
靴と衣装は再び職人達に預けたので身軽だ。身に付けたばかりのものを他人に渡すのは気がひけたが、本人達がそれでもいいと言うのだから仕方がない。
てくてくと歩き、カーチャの家の前まで戻ってきた。他の家より立派なのですぐにわかる。煙突から煙が立ち上っている。
分厚いドアに手をかける。鍵は空いているので、恐る恐る室内に入る。
「た、ただいま〜……」
台所へ向かうと、笑顔のカーチャが出迎えてくれた。その表情に、自分はここに帰ってきてよかったのだとほっとする。
「おかえり。ずいぶん大盛況だったみたいだね」
「うん」
「今日は疲れたろう。もう少しで肉が煮えるから、暖炉で温まっておいで」
「何か手伝うことはある?」
「大丈夫さ。お茶があるから、それでも飲みながらのんびりしてな」
本当にやる事がなさそうだったので、暖炉のそばで炎を見つめながらぼーっとする。テーブルの上にはマグカップと、さっき受け取ったであろうお金が置いてある。これで、生活費、足りるのかなあ……。急に、現実が肩にのしかかってくる。
「ほれ。出来たよ。皿を運んどくれ」
「あ、はい」
今日の夕食は、肉と野菜のシチューと、パン、茹で卵、ジャムだった。昨日より豪勢な夕食だ。
「あんた、細っこいと思っていたけど、しっかり筋肉がついているよね。胃腸も大丈夫そうだから、これからはしっかりお食べよ」
どうやら、私が寝たきりだったので気を使って、消化の良さそうなものを作っていてくれたらしい。
「ありがとう」
ひとさじ口に含むと、肉はほろりとほぐれた。完全に気持ちの問題なんだけれど、噛み締めるごとに、肉の脂が体に染み渡り、隅々まで活力を運んでくれるような気さえする。
無心でかきこみ、思わずおかわりまでしてしまう。
「たくさんお食べ。踊り子は体が資本だからね」
「お腹いっぱい……」
食後のデザート代わりに、ジャムをペロペロ舐めていると、カーチャがテーブルの端に追いやられたお金を指差した。
「これがあんたの今日の稼ぎさ。今日見ていて、もしかしてこっちの貨幣がわからないんじゃないかと思ってさ」
実はそうなのだ。オリガの店でも、お金を受け取った時も、よくわからなかったのだ。
「うん。実は、字も読めなくて……」
「そうかい。ま、物々交換が多いから、すぐに覚えられなくても大丈夫さ。息子が使っていた教本があるから、それで憶えるといい」
「息子さんがいるの?」
本よりそっちに興味が行ってしまった。出稼ぎに行った旦那さんがいるなら、子供がいても全然おかしくないんだけど。
「ああ。ひとりだけね。ちょっとばかし腕が立つからって、帝都の方に行っちまってそのまんまさ。たまに、思い出したように手紙と仕送りが来るけどね。そんなもんだから、うちの亭主が心配して毎年冬になると帝都に行くのさ。出稼ぎって言っても大義名分だよ。蓄えは腹の肉と同じぐらいたっぷりあるからね」
カーチャは暖炉にちらりと目を向け、その後がははと笑った。
「そうなんだ……」
「だから、モニカの稼ぎをうちに入れなくたって大丈夫さ」
考えていた事を当てられて、ぎくりとしてしまう。
「でも……」
「さっき言っただろ?うちは結構余裕があるんだよ。そりゃ、金持ちって言い張るほどじゃないけどさ。ま、またあの踊りを見せてくれればそれでいいのさ」
頭をポンポンと撫でられて、思わず泣いてしまう。
「う、うえ〜〜」
「うんうん。どこから来たのか知らないけどさ。あたしをお母さんだと思って甘えていいんだよ」
私は泣いた。赤ちゃんだってこんなに泣かないだろうと思うぐらい、わんわんと。
「落ち着いたかい?」
ひとしきり泣いた後、カーチャが入れてくれた薬草茶を飲みながら鼻水をすする。
「うん、ありがとう」
「話変わるけどさ。あんたには驚いたよ。普通の娘っ子かと思ってたけど、やっぱり氷娘なのかい?」
「そのことなんだけど……カーチャは、異世界人、って聞いたことある?というか、本当に妖精とか精霊とかいると思って……る?」
皆は氷娘氷娘言うけれど、結局それってなんなんだろう。
「イセカイジンは知らないけど、精霊はいるだろう?山の上にさ」
カーチャは暖炉に薪を放り込み、こともなげに答えた。
「そういう宗教的な概念じゃなくてね……」
「あんたはそのイセカイジンなのかい?妖精とは違うのかい」
「そう。私は別の国にいて、気がついたらここにいたの。実際、私の着ているものとかこのスケート靴とか、全然違うでしょう?親が心配しているから、帰らなきゃ。でも、私の国はこの世界にはないの」
「うーん。じゃあ、本当に人買いから逃げてきたわけじゃないんだね?なら、妖精の国から来たとしか思えないけど。明日、教会に行ってお伺いを立ててみるといい。精霊様のお力で帰してもらえるかもしれないしね」
「精霊って、人間の頼みを聞いてくれるの?」
「気に入られればね。司祭がいるから、詳しい話はそいつに聞いてごらん」
御信託を受ける、とか そういった感じだろうか?何にせよ、他の人にも話を聞いてみなければ。夢だと思いたいのはやまやまだけど、感触がリアルすぎて本当に異世界転移しちゃったのが現実だと受け止めるしかない。