6話 旅芸人ニコロ
「それは、ありがたいんですけど。その、寒くないですか?」
突然の申し出に、私はまじまじと男性を見る。30歳ぐらい……かな?すっごい若くもないけど、おじさんでもない。眉毛は濃くて、たれ目。見る人が見ればイケメン判定が出るかも。うん、スケート選手だったらファンがつくな。間違いない。
「なに、慣れてるし、今は観客の空気が暖まっているからな。このぐらい平気さ」
そう言って、男性はケースからヴァイオリンを取り出した。
「踊りやすい曲の方がいいよな?」
そう言って、始まった曲には聞き覚えがあった。「チャルダーシュ」だ。ちょうど、去年のショートプログラムに使っていた。ちょうどいい。
「あ、この曲、知ってます。これでやります。3分ぐらいに短縮してお願いできますか?」
「わかった。話が早くて助かるよ。一度演奏するから聞いてくれ」
「ありがとうございます。お願いします」
私がぺこりと頭を下げると、男性は「?」という顔をした。あ、お辞儀って日本の文化なんだっけ?
ちょっと気まずい。
「御丁寧にどうも。俺はニコロ。旅芸人だ。よろしくな」
ニコロは軽くウィンクして、演奏を始めた。村人の興味が、今度はニコロに集中する。
「お、たしかにこの曲知ってるな」
誰かの感想が聞こえた。音楽は国境を飛び越えて、世界まで越えてしまうのか。どこかの誰か、私と同じような人が伝えた曲なのか、はたまた人間の魂に刻まれたリズムなんだろうか。
曲を聴きながら、頭の中で演技を組み立てる。細かい採点の事を気にする必要がないので、見栄え重視の方がいいだろう。周りの人たちも、みんなリズムをとりながら耳を傾けている。そのうちの何人かは、私がこの音楽で何をするのか考えているように思える。
「こんな感じでどうかね?」
「はい。バッチリです」
軽い打ち合わせをして、リンクの中心に戻る。深呼吸をして、スタート位置でポーズを決める。何もかもを自分で決めなくてはいけない。普段なら絶対にテンパって体がガチガチになるけど、今日はそうじゃない。
ヴァイオリンの音色が響くと同時に、ピボットターンから演技を開始する。方足のトウを氷に突き立て、それを軸にしてクルッと回る。腕を広げて、優雅に、かつスピーディーにリンクを滑走する。
この曲は、「酒場風」の踊るための音楽だ。お酒を飲みながらショーをするような所に私は行ったことがないけれど。
3回転トウループからの、2回転トウループのコンビネーション。単独の三回転ループ。
フライングシットスピン。
長めのスパイラル・シークエンス。今では試合の要素としてカウントされないけれど、私はプログラムのつなぎによく入れている。ここぞとばかりに、ビシッ!とポジションを決めて、優雅に滑走する。私はスケオタ達から「モニカちゃん、ノーブルな雰囲気が素敵!」とか「大人っぽい」「手足が長いから見栄えがする」等のお褒めの言葉を頂いている。たとえそれが、親戚のおばさん的な保護者視点からのお世辞だったとしても、だ。とにかく中江萌仁香は優雅でノーブルでエレガントなスケーターなのだ、多分。ここでそれを証明するのだ。
曲が転調する。トウステップを盛り込んで、ここから盛り上がるところだよ!と、観客にアピールする。
ダブルアクセル。これでジャンプは全て成功だ!歓声が大きくなる。
リンクの端から、ステップを踏む。
ジャッジアピールも忘れない。ジャッジいないけど。
最後はスピンで締める。レイバックスピンから、ブレードを手で掴むキャッチフット。最後はそのまま足を頭の上まで持ち上げる、テレビでお馴染みのビールマンスピン。
「よっしゃー!!!」
この演技が去年できていたら、あんな悲惨な結果にはならなかっただろうに。ちらりと苦い思い出が頭をかすめる。
大・大・大歓声。スタンディング・オベーション。さっきとは比べものにならないぐらいの歓声だ。
「モニカ〜!!すごいじゃないか!!こんなの見たことないよ!」
カーチャが柵の向こうから身を乗り出して、こちらに手を差し伸べている。ギュッと抱きつき、胸に顔をうずめる。
「へへ〜、ちょっとはお世話してもらったお礼になったかな?」
「何水臭いこと言ってんだい」
「えへへへ」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、苦しくなったので息継ぎのために顔をずらす。視界のはじに、おひねりをもらっているニコロの姿が目に入る。わ、私にもおひねりちょうだい……!生活費…!!
私の恨みがましい視線に気がついたのか、ニコロが近寄って来て握手を求めてくる。
「大したもんだね。ヌヌガフ村の氷娘、か。舞踏としちゃ荒削りもいいとこだが、この爽快感はくせになる。一山当てるのも夢じゃないぜ」
ニコロは軽くウィンクをして、稼いだおひねりの半分くらいを渡してくれた。
「こっちは氷娘の分な」
「あ、ありがと」
ちょっとしたプレゼントをもらうことはあるが、スケートしていてお金をもらったのは生まれて初めてだ。財布を持っていないので、カーチャに持っていてもらう。
「ねー、滑っていい?すべりたい!!!」
子供達が出入り口の板をバンバンと叩く。
「あ、ごめんね、いいよ」
声をかけると、押し合いへし合いしながら、奇声を上げて雪崩れ込んでくる。
「うきゃー!!!」
リンクになだれ込んできた子供たちで、銀盤は一転猿山になった。
「おっと、っと。その靴じゃないと、同じ技できないかな?」
ドミトリはすいすいと滑るが、道具の性能そのものが違うのでジャンプはできないだろう。
「うーん、多分ね」
むしろ、その靴でジャンプができたら才能がありすぎて怖い。今でさえ結構な運動神経を見せている。
「あたし、ジェーニャ。ねえ、あたしも練習したらできるようになる?」
小さな女の子が、指を引っ張ってくる。金髪に青い目の、可愛い女の子だ。
「練習したら、できるようになるかもよ」
ほとんどの選手は、3回転の前にダブルアクセルが習得できなくてやめていく。練習したからと言って、すべての人ができるようになるわけではない。そのプライドが、私をちょっと意地悪にさせる。
「うーん。できるまで、一緒に練習してくれる?」
うるうると見つめられては、嫌とは言えない。
「いいよ。まず、新しい靴が出来なきゃ、なんだけど」
ジェーニャを後ろから抱え、ゆっくりと滑り出す。他の子供達も、抱っこして滑ってくれとペンギンの雛みたいに集まってくる。
フィギュアスケートを普及させるためには、二人のイワンが協力してスケート靴を作ってくれないと……と思ったら、すでに二人はいなかった。
「親父、なんも言わねえで帰ったけど、あれめちゃくちゃやる気だぜ」
私と併走したドミトリが、ニカっと笑いながら靴屋の看板を指差す。
「早くやりたーい!」
「あたしも!」
「僕も!」
夢なのか現実なのかまだいまいちわからないけれど、とりあえずスケートができて、私はほっと胸を撫で下ろした。