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42話 帰還

「萌仁香!大丈夫!?」


「へっ?」


 私は気がつくと、氷の上で大の字になって倒れていた。田中コーチが私の顔を覗き込んでいる。


「ジャンプで転んだと思ったら、急に寝転んじゃうから。頭は打ってないわよね?もう高校生なんだから、そんな恥ずかしい振る舞いはやめなさい」


「あ……はい。すみません。ちょっと大変で」

「そうね。コンビネーションのセカンドに三回転を付けられないと全日本ジュニアは厳しいわ。まあダブルのままでも去年みたいな有様じゃなければ……」


「それじゃなくてですね……」

 この人はどう見ても私が小さい頃から師事している田中コーチそのものだ。あたりを見回す。10年通ったホームリンク。どう見ても黄色人種の人々。


「今日って何年の何月何日ですか?」

「やだ、あなた本当に大丈夫?早退する?」


「いやしませんけど……」

 そう。そうだった。全日本ジュニアに向けて、わざわざ学校を休んで昼間っから練習していたのだ。平日の昼間は奥様とご老人しかいないので、選手がいると優先的にスペースを開けてくれる。プログラムの滑り込みをするために私はここにいるのだ。


「……夢?」

 白昼夢?いわゆる幻覚?私は日に焼けていないし、縄で縛られてもいない。ものすごくリアルな夢だった……のかもしれない。


「そう?じゃあ、振り付けの最初からね」


 ぼんやりと、リンクを周回し、予定のスタート位置に立つ。

 音楽が流れる。無機質な、スピーカーの音だ。このヴァイオリンを演奏している人の心を、私は知らない。


 最初のジャンプ。三回転サルコウからのコンビネーション。予定構成はダブルジャンプだけれど、セカンドを三回転トゥループに変更する。


 コーチが、息を呑みこちらを見ているのを感じる。そりゃそうだ。さっきまでろくに単発のジャンプですら安定していなかったのだ。


 三回転ループ。これも綺麗に跳べた。スピン。ステップ。最後のダブルアクセル。


 ああ……違う。体は軽いけれど、これは私の曲じゃない。私が見せたいのは、これじゃない。



「ちょっと、一体どうしたの!?すごく良くなったじゃない!?」


「なんかぁ、悟りを開いた?的な」

 精神世界で野生のフィギュアスケーターをしていました、とはとても言えない雰囲気だ。


「コツを掴んだのね。たまにそういう子がいるの。その感覚を忘れずにね。もう一度、ジャンプの確認をしましょう。ジャンプが決まれば、おのずと演技構成点も上がるものよ」


 私は田中コーチに言われるまま、ジャンプの練習を続けた。動画を撮られている。おそらく、お母さんに送るのだろう。


「えっ!?萌仁香ちゃん、いつの間にルッツまで跳べるようになったの!?」

「やばいめっちゃ神ってる」


 学校が終わった小学生たちが、どんどんリンクに集まってくる。私はここでは先生ではないので、教えを請う人は誰もいない。


 そのまま、練習は夕方まで続いた。お母さんが迎えに来る時間だ。


「モニカー!! 先生から送られてきた動画、見たよー!!」

「お母さん……」


 体感時間にして、半年ぶり以上のお母さんだ。お母さんの名前は中江麻里恵と言う。なんかもう、麻里恵さんって感じだ。


「すっごくいい感じじゃない! お母さん、仕事中にトイレで何度も何度も見返しちゃった。私のSNSにアップしていいかな?」


 お母さんは、SNSで「中江萌仁香を応援するアカウント」を持っている。フォロワーは身内と地元の人と、あとごく少数のフィギュアスケートオタクの人。


「別にいいけど……」

 身内しか見てないしね。両親は、私にフィギュアスケートをさせるために共働きをしている。スケートのために、リンクの近くの私立高校に進学して、何万もするスケート靴を頻繁に履き潰し、コーチに月謝、リンクの貸切代、衣装、振り付け、バレエのレッスン、送迎。遠方の試合に出るときはプラス交通費と宿泊代。もちろんコーチの分も。あまり考えないようにしているけど、そのへんの子供の三人分ぐらいは軽く私一人にかかっているだろう。


「今日の晩ご飯、何にしよっか?」

「お寿司が食べたい……」


 我ながら、ここはお母さんの手料理だろ、ってところだけれど。口をついて出たのはその言葉だった。


「お寿司! そうだね、もうすぐ大会だもんね、今日は頑張ってえらいから、回転寿司にしよっか!」

 お母さんはご機嫌だ。


 車に乗り込み、お父さんを迎えに行く。普段は電車で帰ってくるけれど、今日は三人揃ったらそのまま回転寿司に行くのだ。侮るなかれ、北海道の回るお寿司は美味しいのだ。って話を聞く。本州の店に入った事がないから知らないけれど。


「じゃーん。パパ、見て見てこれ。今日のもにもにでーす」

「なんか、大人っぽくなったなぁ。今朝とは違う人に見えるよ」

「そうでしょ〜?少女三日会わずば刮目して見よ!ってね」

「12時間も経ってないが」


 お父さんは時計を見ておどけてみせる。常にテンションの高いお母さんと、おっとりしたお父さん。完全に「普段の日常」に戻ってきたのだ。


 はしゃぐ両親を尻目に、湯呑みにお湯を入れ、メニュー表代わりのタブレットをつつく。サーモン、マグロ、サバ。思いつく限りのネタを注文していく。


「今日はすごい食べるね。去年はダイエット中でヒステリー起こしてたのに」


 お母さん、私の黒歴史を引っ張り出すのはやめてほしい。今まで、大会前は体重管理にナーバスになって無理な食事制限をしたりしていた。毎食プロテインとかサラダチキンを食べてしのいだ結果、ストレスが溜まって演技に集中できなかったり、関係ない時にやけ食いをして体重が増えて、の悪循環だった。


「やっぱ、筋肉だなって」

 そう、なんだかんだ最後は筋肉が解決してくれる。あとはメンタル。


「そうだな、他の子は細過ぎて心配になるもんな。遠慮せずどんどん食べなさい」

 お父さんがウニでもカニでもなんでもいいと言うので、お言葉に甘えてお腹いっぱい食べた。


 家に戻る。私の部屋だ。フカフカのベッド、漫画、高校の制服。全てがここにある。


 小学校入学の時からずっと使っている学習机。その上に、スノードームが置いてある。誰から貰ったんだったかな……手に取り、逆さまにすると中のラメがキラキラと舞う。雪の積もった街で、民族衣装姿の女の子がホログラムの雪を見上げている。


「夢……だった、ん、だよね?」

 全ては私の幻覚だった。溶けて消えた妖精も、裏切り者の音楽家も、おもしろ令嬢も、全てが夢だった。不幸になった人はいない。そうに違いない。


 ベッドに、服も脱がないまま飛び込む。急に強烈な眠気が襲ってきた。



 夢を見ている。



 火の消えた暖炉。暖炉の灰をセルゲイがかき集めている。真白の灰の中には、ジェーニャの身につけていたボタンの金具だったり、ヴァイオリンのケースだったものの燃えかすが混じっている。セルゲイの目尻にはうっすらと涙が溜まっている。ああ、ごめんなさい。言いつけを破ってしまった。あんなに親切にしてくれたのに。


『かわいそうにな。溶けちまったんだ。夏まで生き延びてここまでついて来たってのに』

『わたくしが、あのまま引き止めておけば……』


 ヴァシリーサはドレスの裾をギュッと掴み、声を震わせた。


『こいつはずっと村の近くに居て、俺の親父が遭難した時に助けてくれたんだ。せめて村の方に戻してやらなきゃな』



 ある晴れた風の強い日、二人は宮殿で一番高い塔に登り、村の方角へ吹いている風に向けて、ジェーニャだったものの灰をまいた。風に乗って、灰は遠く、ヌヌガフ村まで飛んでいく。


 二人はしばらくそれを眺めていた。


『セルゲイ様……あの娘は、元の世界に戻れたのでしょうか?』

『せめてそれぐらいは叶っていないと、やり切れん』


『そうですよね……せめて、それだけでも……』


 ヴァシリーサは俯き、革の手袋をはめた手をこすり合わせた。


『セルゲイ様、お体は大丈夫なのですか?帝都がこのありさまで、あなた様に多大な負担がかかっていると……』


 セルゲイの白い吐息が宙に溶けていく。


『生まれも育ちも肉体労働者だ、このぐらい訳ないさ』

『わたくし、できる事が何も無くて……』


『あんたが気に病む事はない。全てはヴィニャフスキ公爵の責任だ。この状況に、皇帝陛下も頭を悩ませておられるが……』


『大精霊様のお怒りは、どうしたらおさまるのでしょう』


 ヴァシリーサは窓から身を乗り出す。真夏のはずの帝都は、雪と氷に覆われていた。



「はっ!」



 急に目が覚める。時刻は夜中の3時だ。


「今の、夢……だよね」


 氷の大精霊が現れた後、どうなったのかはわからない。状況的に考えて、帝都は真夏から真冬になってしまった、と言う事なんだろうか。アリョーシャはどうしているんだろう。小さい子供になっていた。もし、あのままどんどん小さくなっていくのだとしたら。


『魔力を消耗しすぎて命を落とした』……そう言ったのは、誰だったか。考えているうち、再び強烈な眠気が襲ってきた。




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