悪役令嬢に成り変わったらしいので生きるために逃亡します
Q.異世界転生話は最初に主人公が現世にさよーならするものが多くていっぱい読むと、うえぇんってなっちゃう、どうしたらいい?
A.最初に現世とさようならしない話にすればいんじゃね?
とある異世界転生ものの投稿作品を選考していた方が、Twitterで上記のように異世界転生物を連続して読んでいると若干病む的呟きをされていて、最初に現世からさよーならしない異世界転生を書くとどうなるかな、そこに悪役令嬢をミックスするとどうするアイ●ルがこの話を書こうと思ったきっかけです。
尚、現世と最初にさよならしていないから異世界転移を選択させていただいております。
そんなこんなで、見た目は美少女中身は熟女(?)ゾフィー嬢のモブキャラチャレンジなんちゃって西洋風ファンタジー開幕です。
現在年度末でゆっくりのんびり更新となりますが、5回~多くても7回で完結しますので、よろしければ最後までお付き合いください。
その時、記憶が戻った。
どこぞのテレビ番組の改変フレーズを脳内で呟くぐらい、ゾフィー・ドロテア・ローズウッドは衝撃を受けた。
時刻は午後。ティータイムの最中。窓から広がるバラ園を眺めながらスコーンを食み、クロテッドクリームの濃厚さに頬が緩み、優雅な気分のまま紅茶を手にした途端のことである。
簡潔に言おう。【自分】は【ゾフィー・ドロテア・ローズウッド】ではない。
生まれも育ちも日本国で、大学時代に短期留学の経験はあっても、海外移住をしたことはない。国籍を日本から変えたこともない。
というか、そもそも、【ゾフィー・ドロテア・ローズウッド】は、地球上に存在しない。
より正確に言うと、三次元に存在しない。
彼女は、大人気ゲーム【ローズカラード・オンライン】のゲームキャラクターなのだ。
「あの、お嬢様?」
伺うように呼ばれ、はっと意識が現に戻る。見ればお付の侍女が、恐る恐るといった様子で自分に何か非があったかと問うている。
「あ、ああ、大丈夫。なんでもないわ。それより少し考えたいことがあるから、貴女は下がっててもらえるかしら?」
慌てて表情を取り繕い微笑みかけると、侍女は寸の間迷ったようだが、失礼いたしますと下がってくれた。
侍女が部屋から出て、気配が完全に遠ざかる。
そのことにほっと一息つくと、ゾフィーはカップをテーブルに置き、イスの背もたれに深く背中を預けた。
参った。というのが正直な感想だ。当たり前だ。彼女はゾフィーではないし、ゾフィーの人生を味わう理由がない。なのにゾフィーになっている。普通に考えたらありえないことだらけだ。
何より問題なのは、自分が【ゾフィー・ドロテア・ローズウッド】じゃないことはわかるのに、本名が思い出せないことである。
どこで生まれどんな生き方をしているかはわかる。家族がいることも、友人がいることもわかる。それと同時進行で【ゾフィー】がどんな【人生】を歩んでいるかの【記憶】もあるのだ。これはたまらない。
幸い、記憶が戻ったことへの負荷はない。自分がゲームキャラになったというショック、むしろ疲労感はあるが、倒れ込んで動けないものじゃない。何よりここでぐったりしていても何の解決にもならないので、ゾフィーは体を起こした。
現在、自室となっている部屋の間取りはわかる。わかることに若干の気持ち悪さを感じつつ十数歩あるき、たどり着いたのは鏡の前である。
美しい少女が一人、鏡の中にいる。
腰までの黒髪ロングストレートに緑色の瞳、背は高くボンキュッボンなプロポーション、プライドの高そうなキツめの美人。
まんまゲームキャラの【ゾフィー・ドロテア・ローズウッド】である。何より。
「すげえ、マジ10代じゃん」
ゾフィーは鏡に映る自身の姿にストレートな感想をもらした。
実際の自分は38の会社員である。4年半連れ沿った亭主もいる化粧慣れした普通の女であり、どれだけ見積もっても15歳の少女、それも好みはあれど間違いなく美少女といえる外見とは縁遠いのだが、どうしてこうなった。頭痛を覚えて額を押さえれば、鏡の中の美少女も同じ動作をする。マジか、マジでこれ私か15歳でボンキュッボンとか二次元パねえと、ゾフィーは呻く。本当に何でこうなった。
ひとつ。
思いつくことはある。
この状況になる心当たりはある。
だが、あれは今のゾフィーに必要がないもので、この先も健康であれば不要なものだ。しかし、他にこんな奇天烈な状況になる原因も考え付かない。でも。と。
「お嬢様。皇太子殿下がお見えになりました」
控えめなノックの後、外からどこか焦った様子の侍女の声がかかる。
「皇太子殿下?」
瞬間、ゾフィーの脳裏に浮かんだのは自身の国籍がある日本の皇太子殿下の御姿である。新年の歌会始以外で一般人が気軽にやんごとなき御方に見えることなどあるはずがと困惑しかけ、違う、ここ【ローズカラード・オンライン】やとエアツッコミを入れる。リアルとゲームがこんがらがるのは中々きつい。
ここでいう皇太子殿下とはゾフィーが住むこの国【ロザリオ】の次代皇帝陛下であり、同時にいずれ大陸【ロードン】のトップに立つ男性……現在は少年であるロードナイト公爵コール皇子、即ちロザリオ皇太子殿下のことである。
金髪碧眼、文武両道、幼少の頃は美の天使とも謳われた美しさで、少年期の現在は中性的で誰もが見惚れる美少年である。はずだ。ゾフィーの記憶では。年齢はゾフィーと同じく15歳で、現時点だと。
「あ」
思い出した。
「ゾフィーの婚約者」
そう。ゾフィー・ドロテア・ローズウッドの婚約者である。
きっかけは、生まれた時にさかのぼる。ロザリオ国において、皇太子殿下の妻、つまり後の皇妃になる女は代々【聖五氏族】と称されるロザリオの大貴族たる五つの家から選ばれており、たまたま今回はコール殿下と近い年の娘がローズウッド家にしか生まれなかった。それ故、ゾフィーはコール殿下の婚約者となっているのだ。棚ボタラッキーみたいなものであるが、ゾフィーが妃候補なのは間違いない。そして現時点、即ちゲーム開始前に彼らの間に恋愛感情はなく。
「ゾフィー? 入っても構わないかな?」
「は、はい! どうぞお入りになってくださいませ!」
知識と記憶の擦り合わせに四苦八苦していたため、若干上ずった声になったがゾフィーはコールを招き入れる。ギィと少しの軋みをあげ、扉は開かれそして。
やべ、顔がいい。
素で口走りかけ、ゾフィーは咄嗟に頬の裏側を噛み押さえた。危ない、蘇った本性がダダ漏れるところだった、蘇ったというのはちょっと表現間違っているかもしれないけれど。
扉から現れたコール皇子は、文句なしの美少年だった。金の髪にサファイアの瞳、おまけに白い衣装とくれば、天使が人の姿を取り地上に舞い降りたと形容されても頷くしかない。後光もさしている気がする、室内だけど。
「……殿下におきましてはご機嫌麗しく」
美少年へ美少女が完璧な礼で来訪を歓迎する。第三者目線から見れば実に絵になる光景だろう。外から見られないことが実に残念だ。
外見はさておきゾフィーの中身は15年以上社会人をやっている。ビジネスマナーはそこそこ身に着けているが、流石に完璧な礼法と縁遠い。まして相手はゲームといえど王族。正式な場ではないが、いずれ国を背負って立つ相手なので、大貴族の娘といえど礼を持って接せねばならない相手だ。ここ最近は名刺交換する機会もなかったし、マナーから距離を置いて生きているので、より一層自信がない。相手から無礼打ちされない程度の対応はできるだろうかと内心冷や汗をかいていたが、体に染みついているらしい所作は、ゾフィーにスマートな行動を取らせた。対し、機嫌を損ねることなく微笑むコール殿下の様子に対応が間違ってないことを察し、ほっとする。流石、二次元。一度キャラ付けされれば、中身がどうだろうとそのように言動できるのだからゲームのキャラ設定万歳である。
「そう堅苦しくなくて構わないよ。今日は突然だったからね。驚かせてしまったのなら申し訳なかったよ」
「いいえ、殿下。私へのお気遣い、ありがとうございます。勿体ないお言葉ですわ」
にっこり笑ってゾフィーはコールを肯定する。腹の中では、突然だと? 驚く驚かん以前に人ん家来るなら連絡せえや、アポ取るのはビジネスでも人間関係でも基本だボケナスがと思っていたが、これはゲーム内のことだし、彼は皇太子殿下である。下々のことを気にしないのが普通だろうと飲みこんだ。この程度の対応をこなせず大人は務まらないのだし。15歳だけど。
「うん。君ならそう言ってくれると思っていたよ。それに僕たちは婚約者同士だからね。偶にはデートする姿を公けにしておかないと、周りが不審に思うだろう。どこかへ出かけることもいいが、より親密さを出すには互いの屋敷を行き来する方が周囲の好感度も高い。僕の屋敷へ来るとなると、君のようなリトルレディでは父君に連れられない限り敷居が高いだろうし、僕から動いてみたんだ。それにこういった男性からのサプライズを女性は好むものだろう」
麗しい顔で告げる殿下に、ゾフィーは寸の間黙り、だがパーフェクトスマイルでお心遣い感謝いたしますと返した。それに鷹揚に頷いてみせるコール殿下は重ねて告げる。
「婚約者を持つ身として、やがてこの国を統治する男して、この程度の気配りは容易いことだよ。君はボクの婚約者として選ばれた存在だ。やがては皇帝の妻となるのだから、立場をわきまえた働きを見せてくれれば見合った対価を渡そう。今より一層華やかな世界で僕の近くに侍ることができるなど光栄なことだ。君もこの立場に就く自分を望んで婚約者で有り続けるのだろう? 僕は君が僕を損ねない見目を保つ限り、婚約中も結婚後も君に自由を許そう」
美しい容姿も合わさり一見、慈悲深く聞こえるが、ゾフィーの耳には上から目線のセリフに聞こえた。むしろわからないだろうと決めつけを嘲る、随分とこちらを見下した物言いでしかないだろう、これは。
というかこいつ、やけに女は自分の婚約者であることや妻になれることを天上の喜びとすると決めつけているが、何いってんの、自分とお付き合いしたきゃ代償にでエブリディ美女でいることを当然とせよ、でなきゃダメプーとか頭湧いてんのかと首を傾げかけ、ここはゲーム、オーケー落ち着け減価償却される見た目を重んじろ、美形に釣り合う外面つくれとかそれ何て不出来な関白宣言と思いはしたが、あえてスルーする。ここはゲームここはゲーム、二次元の大筋にツッコミ入れた方がアホだと脳内で呪文を唱える……が、残念なことにゾフィーは内面が38歳だった。
日本という国は1000年単位で男尊女卑の概念がトイレの黒ずみよろしくびっしりこびりついた国である。より正確にいうと野郎どもが女は男を立てるべき存在であるという儚いプライドに噛り付かばならぬ国であった。今でもその風潮はそこそこ残っており、ビジネス社会で一線を張るゾフィーはその都度、セクハラと立ち向かう羽目になっていた。
この程度の嫌味は、嫌味の内に入らないだろう。だが、ゾフィーはイラっときた。後になって思えばこれはもう外見に中身が引きずられたのだろう。しかし、その時のゾフィーは気付けず上から目線のクソガキにむかっ腹が立つだけだった。
「……恐れながら殿下。殿下が伴侶となる女性に必要と考えているものは、女性の外面的美しさだけと聞こえますが、私の読解力に難がございますでしょうか?」
恐る恐ると伺うような言い方をしたのは【コールが知るこれまでのゾフィー】は、気位は高いがコールには逆らわない少女だったからだ。中身38歳の本性なら「あ? 権力っていう立場使って脳みそ捨てる寸前スポンジなセクハラか? 全裸亀甲縛りで休日のスクランブル交差点に放り出してネットで動画拡散させて社会的に抹殺すんぞ?」ぐらいは言う、笑顔で親指を下に向ける。
ゲーム設定を守って演技をしてみせたのだから、褒めてしかるべきだろう誰かが。
珍しいゾフィーの反論に、コールは軽く目を見開く。それはそうだろう。彼がゾフィーに持つイメージは自分の美しさに絶対の自信を持ち、そこをくすぐってやればコールがいいように動かせる扱いやすい貴族の小娘だったはずだ。だというのにこの度、初めて反論らしい反論をしたのだ。驚くのも当然だろう。
だがそれだけだ。彼にとってゾフィーの言葉は、美しく可愛い愛玩動物の気まぐれ程度としか捉えられない。故に、面白い反応だと楽しんでいても、あくまでも今までどおりのゾフィーに対する態度で微笑む。が、しかし。
「おや、気付いたのかい? ふふ、察しのいい女性になったようで嬉しいよ。君はやがてロードンを統べるロザリオ帝の相手として更に申し分なくなった。皇太子の婚約者として、皇帝の妻として置くことに足りる素晴らしい女性に近づいてきた。君の見た目なら、僕の隣に置くものとして、まずまず周りも納得するだろうからね。ボクが皇帝になった時、諸外国と相手としても僕に然程見劣りせず、恥とならないのは大切なことだ」
カチンと。コール皇子の物の言い方は、今度こそ完全にゾフィーの気に障った。
今までのゾフィーだったら、勿体ないお言葉ですと卒なく且つ誇らしげに……皇子の望む態度をとっていただろう。以前のゾフィーにとって己の美は、強さや万人に愛されるための絶対的指標だった。
しかし【今のゾフィー】は違う。世間の荒波に揉まれ、4年半兼業主婦をやってきた38歳の女だ。女をアクセサリーか何かと勘違いし、従順であることを当然という皇子の姿ははっきりいって癪に障る。
というかコールの物の言い方に、何故だか、今年の新入社員予定だったアホ男を思い出す。
新人歓迎会の意味も込めた飲み会で、その男は「女は150cmに40kgがアタリマエっしょ! それ以外は、女って名乗っちゃダメだよね!」と酔いの陽気で機嫌よくのたまった。
は? と、ぽかんとなる一同を置き去りに、尚も自論をかますアホ男に、こちらも酔っていたゾフィーは、
「150cmで40kgが女の基本? あんた童貞?」
女を知らないにも程があるだろうがよと、鼻で笑った。
ゾフィーのような見た目も普通で、年上の女に反論されると思ってもいなかったのだろう。調子にのっていたアホ男は、何を言われたかわからないという顔をしたが、やがて酔った脳みそでも理解できるほど、バカにされたことに気付き喚きだした。が、ゾフィーも周りの同僚女性たちも尻に殻のついたおチビちゃんがワガママいってまちゅねーと笑って聞き流し、ゾフィーらの態度に怒り狂ったアホ男は「こんな会社に勤めてられっか! 辞めてやるよ!」と捨て台詞とともに次の日から来なくなったので、会社は本人の意思どおりアホ男を退職させた。
ら、後日、不当解雇だ、お局からパワハラを受けただと筋違いのことを訴えてきたが会社顧問弁護士は慌てず騒がず「セクシャルハラスメントを当然と思う社員はコンプライアンスの観点から見ましても、企業に不必要な人材です」と切り捨てたという。以降、どうなったか知らないが、あれだけ立派な性差別意識を持った人間が、このご時世でいきいきと生きられることはないだろう。二度と会うことはない他人の人生などどうでもいいが。
話が反れた。
要するにゾフィーは目の前の花も恥じらう美少年から、ゾフィーを、むしろ女全体を軽んじる態度をまざまざと感じ取り、四半世紀も生きてない小僧ごときが寝言ぬかしてくれるのうと38歳スイッチが入った。よって。
「話は変わりますが殿下。殿下はご自分の妻となるものには天上天下に並ぶのもの無しカリスマの頂点、文武両道美しさ文句なしの自分の隣にあって難がない、他者から流石あの殿下が選ぶ相手だとご自身の選択の腕を称賛されるに値する相手であるべきとお考えであるのだと、常々私は思っておりましたし、私も殿下の傍に侍る女性はそうでなければならないと感じておりました。
ですがそうなりますと、私ではとてもとても殿下ご自身が、私を伴侶とすることにご満足できるとは思えないのです。
なんといっても殿下はこのロザリオ国にとって始祖再来と称される素晴らしい皇子。なれば殿下の伴侶として最もふさわしいのはこの国に古くから伝わる始祖を支え妻となった【聖なる薔薇の女神】の娘たる【薔薇の乙女】の生まれ変わり以外はおりませんわ。
殿下程の御方がこのことに気付いていないとも思えません。私に構っている時間がおありなら、乙女を捜す時間の方が金にも勝ります。
斯様に素晴らしい殿下のお相手ですわ、その方が伴侶でなければ国民も、何より殿下自身が納得できませんでしょう。彼女こそ、殿下に最適な妻でございます、ええ、私のようなたかだか聖五氏族の娘程度では殿下の隣に立つことは殿下の、ひいてはこの国の威信を失墜させることとなりますもの。
何より殿下がご自身の手腕を疑われてしまいます。殿下にとってこれほど許せないことはございませんでしょう?」
ゾフィーは笑顔で反撃に出た。
この国に伝わる【薔薇の乙女】。ぶっちゃけ、それがヒロインだったりするが、彼と彼女の出会いは2年後である。
いきなり始まる立て板に水なゾフィーの口上にコールはぽかんと口を開ける。
「は、え? いや、確かに【薔薇の乙女】は皇帝の妻として最良だろうが」
「そうでしょう、流石は殿下! ご自身の妻にする女性のことは以前から固く決めておりましたのね! それでこそこの国を誰よりも愛するコール殿下ですわ!」
だが、ゾフィーは一切頓着しない。どころか。
「まぁあ殿下! ここにはお忍びでいらしたんですの?! いけませんわ、そのような無茶をとおしたことが皇帝陛下のお耳に入っては、私だけでなく父や親族までお叱りを受けてしまいます皇太子殿下の教育を阻むなど国のことを考えもしない私利私欲で動くとんだ恥知らずの一族だと! 疾くお屋敷にお戻りくださいませ、ええ、ええ、私は殿下の、ひいては国のためになるとわかったならば、婚約の解消も厭いませんわ!」
若干芝居がかってはいたが、それはそれは大きな声でコールの無断行動を捏造し、このままでは自分達に被害が及ぶのだと屋敷のものに知らせる。
「え、は?」
「殿下が城にお戻りになりますわ、皆、送迎の準備を!」
バン! と自らが部屋の扉を開けて姿を見せれば、普段の行動から考えてありえないお嬢様の様子に屋敷の者たちもただごとではないと動き出す。あれよあれよという間にコールは馬車に乗せられ。
「ええ、殿下。殿下に相応しいのは【薔薇の乙女】で間違いございません。貴方様が乙女と出会えることを私は祈っております、それではごきげんよう!」
朗らかな笑顔を見せるゾフィーと、黙って頭を垂れるローズウッド家使用人に見送られ、コールは流されるように城へ戻っていく。
何が起こったかわからない。コールの表情はそう告げている。だがしかし、コールの呆然とする姿など見慣れない使用人たちは、いささか説明臭いゾフィーが口にした【薔薇の乙女】という名称に一瞬で「アッ……(察し)」となった。見た目はキツめだが彼らの仕える家のお嬢様は文句なしの美少女だ。そんな彼女の背中が震え、普段より誇張気味な笑顔と明るい声を出しているとなれば、どんな人間でもわかってしまう。
ゾフィーはコールの理想に違わず、別れを切り出されたのだと。少女はそれを受け入れざるをえなかったのだと。
コールが本日突然来訪した理由もこれなら納得できる。殿下は以前から【薔薇の乙女】を唯一の女性としたかったが周りが許さなかった。しかし、これ以上自分を偽ることはできず、何より彼女を騙すことを苦しく思い、自身の思いを伝えるためにやってきたのだと。
彼と彼女の間にはどう頑張っても恋愛感情は見当たらなかった。確かに二人は皇太子殿下と大貴族の娘だ。二人が生れた時点で家同士が決めた婚約者だし、世間一般が想像するロマンスはないだろう。だが、それにしたって少しぐらい距離が近くなりそうなものだが、二人の間にそんなものは一度たりとも見られなかった。コール殿下に一途に思い続ける女性がおり、ゾフィーがそんなコールの心の奥底に気付いていれば仕方がないことだったのだ。
とうとう別れを言いだされたのに、明るく送り出すなんて、お嬢様はなんと懐の広いお方だったのだと使用人たちはゾフィーの姿に感銘を受けた。
……最も。これはあくまでも彼らの妄想である。ただ、人間は推理する生き物だ。個人にとっての真実であれば、事実なんぞはどうでもいいのである、特にそれが他者の、有名人のゴシップだとすればなお一層。
健気に見えるお嬢様が腹の中で『計画通り』と極悪な顔をしていても、勝手に想像して納得したのは彼らである。事実に気付かなければ、真実は人の数だけあるのだ。
● ● ●
【ローズカラード・オンライン】は、ブラウザゲームから始まった大人気ゲームである。
多数の有名イラストレーターによるイケメンキャラクター、ストーリーの鍵となるのが【薔薇の乙女】とあり企画が公表された当初はよくある乙女ゲームと思われていた。だがしかし、ゲーム内容が徐々に明らかになるにつれて、サブカルチャー好きを中心に反応が変わって来た。
確かにこのゲームに恋愛要素はあった。だが、それはほんの一角、ストーリーの中で発生するifルートの一つでしかなかった。このゲームはロールプレイングゲームなのだ。
通常、ブラウザゲームやスマホアプリゲームは、いつでも誰でも参加して問題がないように明確なストーリーが用意されていない。しかし、このゲームは確固たるストーリーがある。主人公となるプレイヤーは【特務教師】として舞台である【ロザリオ・ボーディング・スクール】に赴任する。この世界は【聖なる薔薇の女神】が誕生した時に女神が零した涙や女神を産んだ薔薇から作られた。中でも大国【ロザリオ】は女神の娘たる【薔薇の乙女】が大陸平定のため力を貸し、国の始祖たる皇帝の妻となり発展させた国である。
【特務教師】は教師として学園で働きつつ、女神と乙女の力を更なる人類の発展、輝かしい未来に継承する研究任務のため、この国で長年研究されている古文書【蒼き水の星】の研究も行う。この古文書はこの世界と似ているようで似ていない別世界の存在が記されたもので、以前はおとぎ話とみなされていたが近年、大陸以前の歴史書ではないかと考えられるようになった。そんな中、ロードンの未来が失われる預言が突如ロザリオ神殿より届けられる。原因を解明し、この危機を乗りこえ未来を取り戻すため【特務教師】は【蒼き水の星】を手掛かりに、預言を打破するため鍵となるヒロイン【薔薇の乙女】を相棒とし任務にあたる……というストーリーだ。
古文書【蒼き水の星】に書かれた内容が地球の歴史であることは、すぐに判明する。地球の歴史がロードン滅亡を回避する鍵と結論した【聖五氏族】により、プレイヤーは地球の、人類の歴史を紐解きロードンを救う道を探していく。地球史から手がかりを探し解決の力を得るためには、古文書より地球史に介入せねばならない。それは【聖五氏族】に連なるものにしか不可能だ。古文書を読み解くのは【特務教師】でなければできず、【薔薇の乙女】の力を借りねば【聖五氏族】は古文書に入ることができない。更に彼らが古文書内で得た力は人の形を取ってロザリオに留まり、プレイヤーたちの力となってくれる。様々な謎解き要素あり、人間ドラマありとゲームはプレイヤーを飽きさせない。
ストーリーを進める内、滅びるのは大陸だったり、国だったり、またプレイヤー自身が黒幕となったり【薔薇の乙女】が黒幕となったりといったif話――通称【ifライン】も出てくる。ラストは迎えていないが通常3年で飽きられるといわれるブラウザゲームが5年以上続いているのだから、その人気は確かなものだろう。ブラウザゲームから遅れること半年スマホアプリゲームにもなり【ローズカラード・オンライン】は今や社会現象ともなっている。
とはいってもゾフィーは、このゲームをプレイしたことも、パソコンで遊んだことも、スマホにアプリをインストールしたこともない。ただ内容は知っている。
この人気ゲームの2.5次元舞台を観たことがあるからだ。
西暦2000年代から市場を急成長させた2.5次元舞台は、趣味の中でも、少々高尚に感じる観劇初心者の入門書としてもってこいだとも言われ、また時代を反映した独創的な作品が次々現れることから、演劇界からも演劇ファンからも人気が高いのだ。
元々舞台観劇が趣味のひとつであるゾフィーはお気に入りの脚本家がシナリオを書くというので【舞台ローズカラード・オンライン】を観劇した。
ゲーム未修者にも一見で世界観がわかる導入、引き込まれるストーリー、主役を演じる若手役者の技量、脇役たるベテランの重厚感、舞台装置の細やかさ、音響とどれをとっても満足のいくものだった。以前、一度だけ見たことのある2.5次元舞台ががっかり度の高いものだったのでこのジャンルは少々嫌煙していたのだが、これなら別の話も見たいと素直に思わせた。
彼女が観劇したのは【ゾフィー・ドロテア・ローズウッド】が黒幕というifルートストーリーだった。
そして、今ここにいる彼女の【世界】はどう考えてもこの【ゾフィーがラスボスルート】なのである。
ゾフィーがラスボスルートのストーリーにおいて、彼女の性格はかなり意地悪いものとなる。ぶっちゃけヒロインに対し腹黒い暗躍をする。このルートをプレイした誰もが、ゾフィーの性格改悪っぷりに驚くらしいが、同時にプレイしたファンの間でファンアート……ぶっちゃけ二次創作が滾るブームにもなったそうだ。そこいらの事情に詳しい出版社勤務の友人によると、こういうキャラクターの改変をキャラ厳しめというそうで、特定キャラクターへの原作の設定や展開に対して不満があり、それを解消するために作られた創作物のことをいうらしい。賛否両論あれど昔から一定数の人気を誇るジャンルなのだとか。尚、このルートで、恋のさや当て(?)となる大多数はヒロインの【薔薇の乙女】だという。ああ、言っちゃなんだが女ってこーゆー意地の悪い美人ライバル凹ませて、けなげな主人公がハッピーエンドになる話って好きだよねと思ったものだ。王道展開は、いつだって人々の心を高揚させる。
さて、何故ゾフィーがここをゾフィーがラスボスの【ifライン】と確信したかというと、彼女付侍女の態度である。
記憶を取り戻した(という言い方が正しいとは思えないが便宜上)ゾフィーが、自分を落ち着かせる時間を作るため侍女を部屋から下がらせたとき、侍女はゾフィーを恐れる様を見せた。
これは【ifライン】だけに起きる態度なのだ。
ゾフィーがラスボスとなる【ifライン】以外だと、ゾフィーは少々高飛車なところがあれど、家の使用人や友人等から貴族の娘として、ノブレス・オブリージュを体現する美しい少女として尊敬の念や憧憬を抱かれる。貴族らしさ、優雅さは公式の顔たるコールより上だと一部で熱弁されるほどだ。
反して、ラスボスルートのゾフィーは見た目からは想像できないぐらい悪辣な性格をしており、特に見えないところでヒロインへの態度が酷い。また、恋愛要素が色濃く表現されるのも恋愛ルートと公式が公示する【ifライン】以外ではこのルートのみとなり、女性を中心に大人気ルートなのだ。
ゾフィーラスボス【ifライン】のストーリーは濃厚で、バッドエンド寄りにも拘わらず観劇後に鬱感も覚えず、ゾフィーとなった自分も好みの内容だった。
ただ。
ただ、問題が一つある。
この【ifライン】。ゾフィーはエンディングにおいて、どんな選択をとろうとも、最期は御命頂戴されてしまうのだ。
ゾフィーはゲーム内容に明るくない。観劇と舞台パンフレットを読んだ程度だ。それによるとゾフィーラスボス【ifライン】は、恋愛モードが入るために4パターンほどエンディングが存在する。まず、このルートでゾフィーは所謂【美人で意地悪な恋のライバルキャラ】の立ち位置なので、恋心を向ける相手からは必ず振られる。恋愛は主要3名の誰かとヒロイン間で発生、ヒロインが誰とも恋人関係にならないルートを含めて計4ルート。どのルートでもゾフィーは悲惨な最期を迎える。
舞台は誰ともくっつかないルート話だったが、ゾフィーの死因が一番穏やかなルートと知り、正直引いた。
そして、この世界がこのルートをなぞっていると判った瞬間、ゾフィーは決意した。
そうだ。モブキャラになろう、と。
モブキャラになるために、もっとも手っ取り早いのは主役サイドのコールと婚約解消することである。コールは自分第一の性格で妻にする女に求めるのが至高のアクセサリー価値につき、ゾフィー以外に妻の選択肢が、それも最上のアクセサリーがあるとわかれば、ゾフィーに目を向けることはなくなる。そしてゾフィーはメインキャラから無事に外れるのでWin−Winだ。あの短時間でよく判断し行動したと、ゾフィーは自分で自分を褒めたくなる。
しかし、これだけではまだ足りない。この国にいる限り、何かのきっかけでコールや他のキャラクターと関わる可能性が捨てきれない。安全安心快適惨殺断固拒否ライフを送るにはどうするか。
国外脱出である。
● ● ●
「この家の将来は私が面倒をみます。即刻、跡取りの隠し子たる男児を連れて来てくださいませ、お父様」
「うん? 文脈が繋がらないね??」
娘たるゾフィーから隠し子を連れて来いと、正面切って言われた父親、アルバート・ヘンリー・ローズウッド侯爵は笑顔のまま固まった。
ゾフィーの家は聖五氏族のひとつローズウッド家だ。ロザリオを建国したものは皇帝陛下と【薔薇の乙女】だけでなく、彼の忠実なる臣下たちもである。その者らを始祖に持つローズクラウン家、ローズリーフ家、ローズリバー家、ローズベルト家、ローズウッド家をこの国では聖五氏族と呼ぶ。
そのうちのひとつであるローズウッド家は、聖五氏族の中でも皇帝の妻を輩出する率が最も低く、今回は他にコールと釣り合う年齢のものがいないため、ゾフィーが婚約者になった件を棚ボタだと揶揄されている。
陰口が本人たちの耳に届くぐらい、つまりローズウッド家は大貴族の中で地位が低い。
最もあくまでも聖五氏族の中で最下位なだけで、一般的にみてローズウッド家は権力もあり、代々の当主の評判も高い。現当主たるアルバート卿ももれなく高潔な人格と自治領のみならず数多の領民に慕われている。先代皇帝陛下は長く世継ぎに恵まれず、アルバート卿に次期皇帝をと話がでたこともあった。
(こういう背景が、ゾフィーのラスボスルートを作る下地なんだろうなあ)
父たるアルバート卿の見た目は黒髪碧眼、娘より柔和な印象を与える美形である。ゲームキャラということもあろうが若々しく、10代の娘がいるようには見えない。社交界では今でも父に粉をかける貴婦人がいると聞くし、若いころはさぞやモテただろう。表に出ていないだけで派手な遊びもしていたのではと今のゾフィーは勘ぐっている。
父に火遊びを持ちかける女性がいなくならないのは、父と母の仲が、傍目にも良好とみえないからだ。娘から見ても、夫婦の関係は冷えている。冷え切っているわけではないが、儀礼的……というか演技っぽい。
しかし、ゾフィーにとって、父のこの見た目と噂、母との不仲は味方だ。何故ならこれから実行することに正当性をねじ込める。
「文脈は繋がっております。この家の直系は現在、私のみ。その私がコール殿下の婚約者となれば家は絶えます。尚且つ、私は女の身。爵位を継ぐことはできません。そこでお父様の隠し子の出番です。活きの良い男児を後継ぎとして即刻連れてくるのです。その子の当主教育は私がいたします」
「うん、うん? 待ちなさい、文脈は繋がったがどうして私に隠し子がいることが大前提なのだね? そもそも我が家の後継ぎは、おまえと殿下の間に生まれる子供のうち次男をと話がまとまっていたはずだが」
すらすらと澱みなく告げられ戸惑いつつも、アルバート卿は娘に応える。
言いたいことはわかる。確かにこの家の直系はゾフィー唯一人だ。だが、娘がコール殿下と結婚した後うまれる子供の一人を当家の跡取りとする方針は、ゾフィーが婚約した時に決まったし、彼女もそれで納得していたはずである。
確かに昔から家名とその重みを重々知る娘ではあったが、はてここまで行動的だっただろうかとアルバート卿は内心首を傾げると同時に、父親に隠し子がいると決めつけられる現状に混乱中だ。
だが、追撃はここでとまらず更なる追い込みがやってくる。
「それは無しとなりました。つい先ほど、殿下より婚約を破棄する意向をうけましたので」
「は?!」
アルバート卿は叫んだ。
大貴族と呼ばれるようになって、こんなに大声をだしたことがあっただろうか、いや、ないというぐらいに大声が出た。
「ま、まち、まちまち、まちなさいそれはいったい」
「どもってますわよ、お父様。殿下が本日当家を訪れた理由はこれです。殿下は常々ご自分と共に国を守るための皇妃には【薔薇の乙女】が相応しいとお考えだったのです。その為、本日私にその胸の内をお明かしくださいました。使用人たちもこのことは知っておりますの」
正確には、コールからそういう考えもないではないという、あやふやなものしか聞いていない。というかあの時のコールは、ゾフィーの怒涛さに呆けて、ゾフィーの言い分に釣られただけだったともいえるし、現代社会ならゾフィーのあの勢いで押しまくった姿勢は、一種の脅迫罪か恐喝罪にあたるのではなかろうか。犯罪すれすれだろうがなかろうが、コールが言葉にしたのは事実なので問題ない。こういうのを言質取ったと世間では言う。
現世の法が厳密に通用しないでよかったと思いながら父に本日のことを報告すれば、父は素直に驚きを顔にした。
「あの殿下が? いや、【薔薇の乙女】を妻に夢見るなんて、年相応らしいところもないとはいえないが、基本、合理的なものを好み非効率さを嫌う殿下がそんなことを? 【薔薇の乙女】は確かに皇妃としても殿下の理想としても最良の伴侶になるだろうが、あれは、半ば伝説の存在じゃないか」
そう。アルバート卿のいうとおり【薔薇の乙女】は伝説上の存在と人々に認識されている。
女神の娘たる【薔薇の乙女】は初代皇帝の妻となり子をもうけ、国の平和を見届けた後、女神の御許に還ったとされる。国に危機が訪れた時再び生まれるという言い伝えがあり、確かに国の歴史書に【薔薇の乙女】の出現は何度か記録されている。【薔薇の乙女】を皇妃とした皇帝の全てが賢帝と評されるのも事実だ。
なるほど始祖再来と褒め声高いコールなら、妻に【薔薇の乙女】を望むのも自然な流れといえるだろう。思春期の少年らしい憧れともいえるが、殿下は御年15だ。あと5歳下ならともかく15歳の少年がそこまで伴侶に夢を見るものだろうか。加えて、コールはアルバート卿の目から見ても現実的な少年だ。何より【薔薇の乙女】の出現を望むことは、即ち乱世を望むことに他ならない。あの少年がそんな浮ついた理由で娘を振るとは思えないのだが。
アルバート卿の娘は、親の欲目抜きにしても美しく聡明な少女だ。他者に厳しいきらいはあるが、何よりも自分に厳しい子供だ。今、この時点でゾフィー以上の皇妃候補などいないはずなのに、何故そんな理由で? だが今日、いきなり我が家に予告なく訪ねて来たのは事実だ、使用人たちが騒いでいたのも間違いない、いや、でもとぐるぐる回っていると。
「なんですの、大貴族なら大貴族らしく外に愛人の一人や二人、隠し子の十人や二十人作る甲斐性を持つものでしょう。お母様との間に私を作ったのですから種なしではないのですよ、さっさととっとと後継ぎを連れていらっしゃったらいかがです、それでも大貴族の当主ですか!」
黙り込んだ父に焦れたのか、びしっとした娘の声が父を叱責する。
「ゾフィー、ゾフィー? おまえは父をどんな目で見ているのだね、何より女性が種……などはしたないことを」
「たかだか医学用語(?)ごときで怯むなど、それでよく聖五氏族が務まりますわね、大貴族なら大貴族らしく、おまえも大人の世界がわかるようになったのだね、今度の誕生日プレゼントは避妊具にしようぐらいの下ネタ返しができるようになさいませ、口にだした途端、憲兵を呼んで女性侮辱罪で市中引き回しの上さらし首にして差し上げましてよ。お父様が今なお社交界で浮気、不倫のお誘いを受けている事実を娘が知らぬとでもお思いですか、お若いころのお父様のお話も聞いておりましてよ、お母様だけに操を立てているわけでもあるまいし、ありあまる性欲で出来ているだろう隠し子の男子を早く連れてくるのです」
「軽口への報復がえげつないんじゃないか?! いやいやその前にお前は何か誤解をしているよ?! 父はおまえの母と出会って以来、おまえの母以外の女性に目移りしたことはないのだが?!」
「つまりお母様と出会う前は結構な頻度で遊んでいたという裏返しですわね、聞いていた話の裏付けがお父様の口から語られたのは良い事です、さあ、お父様、後継ぎをここへ! 私が立派な次期領主に育ててご覧に入れますわ!」
「待ちなさい、本当に待ちなさい、おまえは父のどんな噂を聞いているのだね、いいかいゾフィー? 私はお前の母以外と子を成したことはない、何故なら私はおまえの母だけを愛しているからだ。忘れもしない20年前、社交界でお前の母を目にした時、私は彼女に一目惚れをしたんだ。私の伴侶とするのは生涯、この人しかいないと、当時彼女に数多あった見合い話を蹴散らして彼女の家に乗り込むのは途方もない苦労だったんだぞ、何せローズクラウン家の当主も彼女を狙っていたからな! 結果彼女は私を選んでくれたがそれだって信じられないぐらいの幸運だったんだ、私は今でもこれほどに美しく気高い彼女がどうしてローズクラウンより私を選んでくれたのかわからなくて、あの人に嫌われるのが怖くていつだって素っ気ない態度しかとれなくて」
なんだか惚気めいてきたなあとゾフィーがどこで口を挟むか悩んでいると。
「それは……それは本当ですか旦那様」
細く、震える声が割って入った。
父と娘は思わず声の方を振り向く。気付けば開けられた扉の外から現れたのは。
「お母様」
ゾフィーの母、ザラ・ローレン・ローズウッド侯爵夫人だ。
銀色の髪に緑の瞳をした、社交界の月との二つ名を持つ嫋やかな女性は、涙目になりながら頬を紅潮させ、アルバート卿を一心に見つめている。
「わ、私は、旦那様に嫌われているのだと、ずっと、ずっと思って、私だって、初めてお会いした日から、旦那様のことをお慕いしておりました、結婚を申し込まれて、私がどれだけ嬉しかったことか! ですのに、結婚した後も旦那様は私への態度をまったく変えることがありませんでした。ですから、私を、あ、愛してくださるように見えなくて。きっと私が、私が男児を産めないからだと! 私は、だから、私はいつ旦那様から離縁を言い渡されてもいいように旦那様に」
「ザラ! バカなことをいうな、私の妻は生涯あなただけだ、貴女以外の女性にどれほどの価値があるというのか!」
「旦那様、アルバート様……! 私で、私で本当に良いのですか……?」
「当たり前だろう!」
熱烈に抱き合う両親を見て、ゾフィーはひとつ頷いた。
そして。
「盛り上がり結構、後は熟れた二人で鍵のかかるお部屋での存分な肉体言語を行使してくださいませ。ついでに、新たな子種を仕込むとよろしいですわ。お父様、お母様、貴方がたの娘は年の離れた弟の一人や百人受け止める立派な姉となれましてよ。その為に必要なスキルを磨くため留学して参ります、しばしの間お暇しますわ、ごきげんよう!」
優雅に挨拶をすると、くるりとUターン。素早く部屋から撤退する。
「は、留学?! ま、待ちなさい、繰り返すけど本当に待ちなさいゾフィー!」
「そ、そうですよ、ゾフィー! 殿下が貴女を振ったとはどういうことです!」
両親の叫びなど右から左に聞き流し、ゾフィーは前もって侍女に伝え纏めてもらっていた荷物を預かり、さくっと屋敷を出てこれまた使用人に準備させていた馬車に乗り込む。
とはいっても大貴族の令嬢たる自分が即日決めて、はい留学とはいかない。駅前留学だって入学手続きがいる、どれだけ急ごうとカップラーメンにも3分間の時間がいる。
ではどうして家を出るかというと、自身の本気を両親と周りに知らしめるため、コールが突撃するのを避ける為である。
まあ、コールに関しては本音だとそこまで心配していない。SNSがあろうとなかろうと人の口に戸は立てられない。まして皇太子殿下と聖五氏族令嬢などという大貴族のスキャンダルだ。殿下が聖五氏族の令嬢を振り、令嬢はひどく傷心したという演出はばっちりで、その為に使用人らに送迎させたのだ。後は、勝手に使用人らから噂が流れていくだろう。
噂が広がれば、潔癖な少年らしい気位が高く、自分が折れるを良しとしないコール殿下が、自分を振った(形になる)女の元へ未練がましく姿を見せることはない。来るとしても日を置くだろうし、殿下が臣下を問いただす場合でも、婚姻関係でもないゾフィーが表に出ることはない。対応すべきは未成年たるゾフィーではなく、両親、それもローズウッド家当主たる父アルバート卿である。万が一、いや億が一コールとカチ会う可能性が出た場合でも、その前に国外へ高飛びしておけば彼と会う確率は更に下がる。あとは、殿下とのことで傷ついた心を癒すためにも、ここからしばらく離れたいのだと言えば、副産物で距離が縮まり新婚を取り戻す勢いとなった両親は、自分の望みを叶えるだろう。
後は留学先の選定だと気合を入れ、ゾフィーはメモ帳を取り出し、思いつく留学先のメリットデメリットを書き込んでいく。尚、一時家出先はロザリオ神殿である。国教たるロザリオ教の教えを広める教会は常に迷えるものの味方だ。ここでは救いを求めてきた者に対し、皇帝陛下からの要請であろうと気安い面会を許さないので、駈け込むにはぴったりである。
さて、これから先忙しくなるなとゾフィーは未来を思い描いて口元に弧を描く。ゲームでのこのルートにおいて、ヒロインと皇太子が恋を芽生えさせるのは出会った17歳の春だ。つまりゾフィーは二人が出会うまで逃げ切れば物語に関わることがない。即ち、王道ルートが解放され生き延びる確率がぐんと上がる。生き延びるために全力で逃げよう。どこかの誰かも言っていた。逃げちゃダメだが隠れるのはいいのだと。違ったかもしれないけれど。
兎にも角にもここは逃げるが一番電話は二番惨事のおやつは文●堂。このネタが通じるのは果たしていくつまでだろう。
こうして、ゾフィーは国外に留学という形でこのルートにおけるゲームの主筋からドロップアウトした。
戻って来るのは二年後の初夏。その頃には、皇太子殿下は【薔薇の乙女】と出会い、薔薇色の人生を歩んでいる真っ最中なのでゾフィーはモブAになる。立場上、サブキャラないし【薔薇の乙女】の友人ポジションに配置されるかもしれないが、いずれにせよラスボスルートとは無縁となる。ああ、これで一安心、人生設計を練り直そうと留学を楽しんだ。
はずだったのだが。
「お帰り、未来の我が妻よ。君に会える日を心から待ち望んでいたよ」
バカな。
どさりと、手持ちの鞄を床に落とし、ゾフィーは硬直した。
自国に再び足を踏み入れたゾフィーを出迎えたのは、美の女神さえも魅了する笑顔を浮かべるコール殿下だった。