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多少のアクシデント、いや、アクシデントというよりは、自爆という名のピンチがあったが、それ以外は実にのどかな午後の時間だった。茶話矢が気づかなかったのが、残念だったのか、不幸中の幸いだったのか、樫木には判断がつかなかったが、どちらにしても、口は災いの元という諺を、今後座右の銘にしていこうと、彼はそう思った。
ふと、樫木は周りの景色を見渡した。もう、町並みは、オレンジ色のセロハンを張ったかの様に、夕日で染められていた。あの、自爆事件(少なくとも樫木にとっては事件だった)から、一時間程経っていたのだが、その間客は二組来ただけだった。大体、いつも、こんな案配なのだそうだ。あれから、客からもらったというクッキーを、二人は食べながら話していた。中にチョコが入っている掌サイズの円盤系のもので、美味しかった。
と、樫木から見て左方向から、赤紫色の股引を履き、白地に渦巻き模様の長袖、右手には、紫色の膨らんだ紫色の風呂敷、頭にはほっかむりと、まるで絵に描いたかの様なご近所のおばちゃんらしき女性がこちらにやってきた。
「あらー、まやちゃんじゃない。こんにちは」
「白石さん、こんにちは」
「隣の子は、あれかい? 弟さんかえ?」
「いえいえ、私の大事なお友達です」
「樫木と言います。よろしくお願いします」樫木はベンチから立ちぺこりと、一礼をした。
「ありゃありゃ、礼儀正しい子だねえ、こりゃあ」白石は皺を更に増やす様に、顔全体で微笑んだ。
樫木は、少し横にずれながら、ベンチに座り直す。
茶話矢も横にずれる。「白石さんも、良かったら、おかけになって」
「いやいや、いいんじゃよ。若者の邪魔はしたくないからね」白石は、また微笑んだ。「それよりも、まやちゃんは聞いたかい? 最近、この辺で、物騒な事件が起こったんだって?」
「ああ、聞きました聞きました。あれですよね? 近くの川に、ゴミ袋が流れていて、そこからなにか飛び出ていて、で、その中を見たら、えーと」
「バラバラの人間が、入っておったのじゃろう? はあー、怖い怖い」白石は、右手と左手を交差させ、それぞれの両肩を押さえ、ツタンカーメンの様なポーズをとった。
樫木も、この近所なので、その事件の話は聞いた事がある。いや、全国ネットのニュースでやっていたから、 近所じゃなくても、知っていたかもしれない。
この近くには、川がある。川といっても、中は濁っているし、流れていないので、ほぼ川ではない。どちらかというと用水路。名前は蓮根川。下水道を横半分に切り、地上に持ってきた様な見た目だった。深緑色の水を、灰色と黒色の中間色をしたコンクリートが挟む。コンクリートには、苔が生えている箇所も、ちらほらと。その川の上に、なんメートル感覚かで、緑色に塗装された橋。この辺りで、川といえば、この蓮根川しかなかった。だから、樫木は、ニュースで川と聞いた時、多分あそこだろうな、と思った。
第一発見者は、近所に住む六十歳の男性。朝の散歩中だった。時間は、午前六時。川にゴミが浮かんでいる事は、そう珍しくなかったから、一瞬見ただけでは、分からなかったそうだ。だが、ゴミ袋から、人間の手が出ていた。そこで、驚いて警察に連絡し、事件は発覚した。中の死体は、バラバラになっていた。袋は全部で五つあり、腕、足、胴体上半分、胴体下半分、頭、の五つに分かれていた。その全てのゴミ袋は、近い位置にあり、腕が入っていた袋だけは、空気が多く入っていて浮いたままだった。つまり、他の四つのゴミ袋は、川の下に埋まっていた事になる。被害者の名前は、草川南枝。この近所に住む、女子高生だった。三日前から、行方不明で、捜索願が出されていた。警察が調べたところによると(というかテレビで見たところによると)被害者は、周りからの評判もよく、特にトラブルに巻き込まれた事もなく、また、そういった諍いも、全くなかったとの事。
樫木は、以上の情報を、主にテレビ、雑誌、そして口コミで聞いた。だから、情報の正確性は、全く分からない。例えば、その死体は、どうやって切られたか、等。模倣犯や、証拠の関係上、当然ながら秘密にされているのだろう。世間では、現代に襲いかかる猟奇殺人、として、少し取り上げられていた。ただ、これは三日前の出来事だった。よって、マスコミは、現在、あまり大きく取り上げていない。全国的に見れば、今までバラバラ殺人は、数多くあったからだ。ただ、樫木は、現場周辺に住んでいるし、勿論茶話矢も、白石もそうだ。おそらく、こんなショッキングな事件、身の回りで起きるなんて、せいぜいあって一回か、二回程ではないだろうか? だから、最近のこの近所の合い言葉は、物騒な世の中ですねえ、だった。
「まやちゃんも気をつけてね」白石は言う。「あんたは可愛いんじゃから、特にねえ」
「白石さんも、気をつけて下さいよ。どこに殺人犯がいたもんだか、分かったもんじゃないですよ」
「ああ、気をつけるよう。いやでもなあ、私には孫がいてねえ、その孫がもう心配で、心配で。あ、そうじゃ。用事を忘れておったよ」白石は、紫色の風呂敷から、小冊子を取り出した。
「今週の日曜日、孫の学校で運動会があってねえ。良かったら、見に来ておくれ」
「わあ、ありがとうございます」茶話矢は両手で小冊子を受け取る。表紙は、小学生らしき子供数人が、バトンを持って湾曲した白線の上を走っている絵があった。「白石さんのお孫さんって、お幾つでしたっけ?」
白石は、空を見上げ、少し考えてから言った。「十歳じゃな。小学四年生だよ」
「樫木くん、今日、なん日だったっけ?」
「六月一日です」と樫木。
「あ、白石さん」茶話矢は笑いながら言った。「これ、開催日が十七日だから、本番はもっと後よ。再来週かな。もう、せっかちさんなんですから」
「おっと、これはいけない」白石は、両手を挙げ、目を大きく開けた。「すまないねえ、この頃もの忘れが激しくてねえ」
「じゃあ、十七日は、開けておきますね」茶話矢はにっこりと笑った。
「もうそろそろ私は戻るよ」白石は、来た方向を向く。「お邪魔して悪かったのう。あ、樫木さんとやら」
「はいっ」
「まやちゃんを、よろしく頼んだぞ。もう、この子も、そろそろ結婚しないと、貰い手がいなくなってしまうからのう」
「もう、おばあちゃんたら、樫木くんに悪いわよっ」
「ほっほっほっ」
白石は、そう言うと、笑いながら、夕日を背にして去っていった。
樫木は心の中で呟いた。
白石さん、ありがとう。