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「要するに」三崎は腕組みをしながら言った。「全然分からん、という事だな」
「そうです、警部。要約すると、そうなります」
「人の言葉尻を取るんじゃない」三崎は、夕張の足を踏んづけた。
「ぐえっ」念の為記しておくと、この部屋に蛙はいない。
「第一発見者である、柳婦人、ええと、あと花屋の店員、えーと、あともう一人、少女だったか? 今、三人はどうしてる?」三崎は部屋を見渡しながら言った。
「花屋の店員は、今客間で休んでいます」夕張は手帳を見ながら答える。「無理もありません。こんな惨状を見たんですから。他の二人は、リビングにいるそうです。ん? 東の間だったっけかな?」
「東の間?」
「いえ、この館、部屋の呼び方が、なんか変わっていまして」
「呼び方だけじゃない」三崎は溜息をついた。「変わっていないところを探す方が、どちらかというと、難しい」
警察は、ものの十分程で到着した。ただ、三崎警部が到着したのは、第一陣が到着した、もう十分程後だった。現場に到着するまでに、事前知識は、部下の夕張から多少聞いていた。三崎は、今年で捜査課に配属されて、十五年程経つ。その前は、交通課だった。だが、交通課での、勤務は、ほんの二、三年程だった。現在、四十歳。彼の、人生という名の、マラソンは、とっくに折り返し地点をすぎていると思われる。そして、その三分の一は、殺人の捜査に当てられていたと言っても、あながち間違いではない。よって、数限りない、特異な遺体や、状況を多く見てきた。ある意味、スライドの様なもので、それは毎日変化していた。で、あるからして、彼は、大抵の遺体では驚かない。しかし、目の前のこれは、そんな彼から見ても、異常の一言だったし、今までの事件で文句なくナンバー・ワンに位置づけられる程の、奇怪なものだった。
「凄いな」三崎は呟いた。
目の前は、血をホースでまき散らしたかの様に、赤い血しぶきで染まっていた。壁に習字をした様なイメージだろうか? 真ん中にぶら下がっていた女性は、今は地面に寝っ転がっている。検死官が軽い検分している。青い制服を着た、眼鏡をかけた、痩せた男である。見た目は頼りないが、腕は良い。声は暗いが、説明の仕方が的確。酒の席では一緒になりたくないが、三崎は、今まで会った検死官の中で、その男を一番信用していた。
三崎は、現場は庭園と聞いていたが、確かに、花はあった。よって、庭園だ。だが、今は、花らしき赤い色をしたものがあった、という表記の方が正しい。同時に、今この空間は、庭園ではなく、花らしき赤い色をしたものが集まった倉庫、とでも表した方が、相応しいと感じた。部屋の大きさは、大体、感覚でいうところの、教室二個分ぐらいの広さ。探偵事務所一つ分。ロイヤルホテルの最上階。そのくらいの広さといえば分かりやすいだろうか? 家族だったら、四人は住めるな、少し狭いけど、と三崎は考える。花は、主に四つのゾーンに分かれて配置してあった。丁度、上から見ると、田んぼの田の字の様に見えるだろう。それぞれ、花の種類や、色が揃えられていたと推測されるが、ほとんどが赤く染まっていて、見えなかった。また、三崎には、違いがイマイチ判別できなかった。元来、彼には、花の違い等分かる機能等、装備されていなかった。
また、奥には、階段のついた岩場のオブジェがあった。ライオンの口から、水が流れており、その下で泉の様な小さい溜まりがあり、床に向かってちょろちょろと流れている。まるで、公園の様だ。事実、公園にこのオブジェがあっても、なんら驚きはないだろう。きっと、その階段に座って花を眺めるのだろう。壁には、ペンキで絵が描かれていた。扉がある壁は、サクラがふわり舞い乱れる、春の絵。右は、ヒマワリが高く咲き誇る、夏の絵。奥の、オブジェがある壁は、モミジが空に枯れ落ちる、秋の絵。左の壁は、サザンカが白く凍る、冬の絵。ただ、血で、どれもほとんど見えなくなってはいたが。
「あ、そうだ、三崎さん。実はですね。警察に、捜査協力をしたい、と言っている怪しい少女がいるのですが」夕張は、頬を掻きながら呟いた。
夕張は、三崎の部下である。三崎が、彼の担当になってから、もう二年だろうか。捜査課では、この程度の年月の、上司と部下の時間の経過は、決して長くはない。だが、一般社会と比べると、長い部類に属すだろう、と彼は思う。だが、今となっては、夕張がいない捜査は、三崎の中では、考えられないくらい、大切な存在となっていた。だが、言葉に出した事はない。そんな恥ずかしい事は、死んでも言えないからだ。
夕張は、基本的には、おっとりした性格なので、一見すると、刑事には向いていない。だが、その分、あまりある長所がある。まず、物怖じしない。そして、タフ。これは、刑事にとって、一番大切な要素だ。幾ら正義感があっても、頭が切れても、精神的に参ってしまっては、意味がない。三崎の周りでも、なん人の同期や後輩が辞めていったか。また、正味な話、捜査課は、体力勝負である。足で情報を稼ぐという、古い言葉を三崎は嫌いだが、それも、事実は事実。地味な事の繰り返し。これが、刑事の実態だ。だが、 やり甲斐は、その分でかい。ギブアンドテイク。彼の仕事に対する哲学の全ては、この一言に尽くされるだろう。
「捜査協力だと?」
「はい、確かにそう言っていたと、他の者から聞きました」
夕張は、黒い少し長い髪を、なびかしながら、首を縦に振った。今は、三崎とともに紺の、刑事特有の青い制服を着用している。顔は、しかも、背も、三崎より、十センチ程高い。百八十と、本人は言っていた。はっきりいって、容姿は整っている。いや、ずば抜けている、と言った方が、印象的には正しい。また、おおらかな性格もあり、職場の女性からの人気も高かった。羨ましい、自分も若い頃は、と、三崎は思い出のアルバムをパラパラめくる。思いの他、入っている写真がなかった。アルバムを閉じる。アルバムは、見たい思い出を振り返るもので、そんなものがなければ、閉じてしまえばいい。特に、彼は、女性関係に関してのページが、ほとんど空きスペースだった。
「少女って、この柳家の、娘さんか?」
「いえ、違う様です」夕張は、首を横に振る。「えーと、第一発見者の、中にいた、えーと、その少女です」
「よく分からんな。他になにか聞いているか?」
「は、はあ。あのですね、三崎さんに、自分の名前を言えば分かると、本人は、言っていたそうです」
「名前? ますます分からんな」
「はい」夕張は、間を空けて言った。「掌星座さんと仰るそうで」
「おい、ちょっと待て」三崎は顔をしかめながら言った。「それ、本当か?」
「え? ああ、はい」夕張は、少し俯きながら言った。すぐ、顔を上げ、三崎を見る。「ん? 三崎さん? 顔引きつってますけど?」
「あのお方はだな」
「私がどうかされましたか?」
星座は、扉の前で、モナリザの様に、微笑みながら立っていた。