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静海の家は江戸の流行り医者としては小さい方だろう。
殿中に立ち入ることのできる奥医者で、実際はもっと大きな屋敷に住んでいたとしてもおかしくはないだろうに、華美贅沢を好む人柄ではないため、家もこじんまりとした作りになっている。
それでも、甘斗たち四人が普通に生活できるくらいの広さは十二分にある。
人柄も腕も、大したものだと感心するしかない。
確かに張り切っていたことだけはあって、楽浪の作る食事は美味しかった。
魚河岸で仕入れてきた白魚を香ばしく焼き、煮物は程よく味が染みていて、歯ごたえよく仕上げてあった。白いご飯に豆腐入りの味噌汁、それに大量の小鉢。
見たこともないほど賑やかな食卓であった。これをどうやって予算内に収めたのかと、付いて行った甘斗も首を捻るばかりである。
どこかで花火が上がる音を遠くに聞きながらの食卓は、平和なものだった。
だが、甘斗の顔は晴れなかった。
「あ、甘斗。これ食べないの?」
「ちょ、なに人の分取ってるんですか!?」
人の皿から干物をかっさらった鈴代に怒鳴りつつ、疑問がぬぐえない。
――あの人は、一体何を考えてんだ?
静海家の庭の一角。隅には柘榴の樹があり、今は盛りの白い花が咲いていた。
その樹の下に、ぽつんと置かれた社があった。
朱鳥居に、よく手入れされている小さな祠。おそらく、この家の屋敷神の社だろう。
ただし、今そこにいるのはこの家の屋敷神などではない。
姿を探すまでもなく、小さな社の屋根に腰かけて空を見ていた。
甘斗は社の屋根に座っている楽浪に向けて大きく声を出した。
「メシ、持ってきたっすよ」
「おや坊ちゃん、こんばんは。いつも申し訳ありませんなぁ……む!?」
楽浪の気の抜けている声に、途端に力が入る。
甘斗が盆の上に載せているのは、木製の丸形の皿に足が付いた高杯という道具だ。
そこに、今はべっ甲色のタレがかかったみたらし団子が山のように置かれている。さきほど家の前を通りかかった棒手振りから、売れ残り分を安く買い取ったのだった。
すたっと軽々と降り立つと、楽浪は皿の上のみたらしを凝視した。口元に手を添え、さす指まで震えている。
「こ、これは団子の中でも至高のみたらし団子ではございませんか!? なんという贅沢! ああ、私のような不束者がこのような果報を受けてよろしいものかどうか……」
おろおろと戸惑っている楽浪に甘斗は冷たく告げた。
「いらないなら先生と輪廻さんが食べますけど。さっきも危うく取られそうになりましたから」
「それはもう、ありがたくいただきますとも! ゴチになりますとも!」
礼もそこそこに楽浪は面を上にずらし、皿の真ん中に置かれた団子を取った。よほど待ちかねていたのか、右手に三つ、左に二つとせわしなくがっついている。
まるで飢えた犬猫に餌をやるように思えて、甘斗は嘆息した。
「ただの団子じゃないですか」
「いえいえ、こういう時に大事なのは心持ち! 真摯な信仰心に他ならないのですよ! みたらしは元より、神聖な御饌に他なりませんし! 何よりも、もちもち団子にこの甘じょっぱさが堪らないじゃないですか!」
がつがつと団子をかじりながら、ぐっと拳を握る楽浪の姿には神聖さの欠片も感じられなかったが、それはともかく。
「どういうつもりなんすか?」
「ふぁい?」
団子を口いっぱいに頬張ったまま、楽浪は軽く首を傾げた。
夕方、家に帰る前のこと。
――明晩、物の怪の討伐を行うために付近の稲荷が本所に集まる。
甘斗は、ぴくりと狐面が動いたのを見た。
――貴様も来い。
そう初東風は言ったのだった。
「何で引き受けたんですか? 初東風さんの話。江戸の稲荷とは仲が悪いんでしょ? それって、単に利用されてるだけじゃないんですか?」
楽浪は団子を一気に飲み込んだ。
甘斗がどこで聞いたのかは分からないが、図星である。
楽浪は江戸の稲荷とは、怖がられるにせよ避けられるにせよ、折り合いが悪い。
神田の総代である初東風はまだ分け隔てない方だった。この社の本当の持ち主も今は姿を見せない。楽浪がここを仮所として使っているものが気に入らないからだ。
一瞬動きを止めた楽浪だが、ぽんと手を打つと言葉を紡いだ。
「ああ。そのことですか。いえね、私も一応は稲荷の端くれとして、こういう時くらいは是非とも江戸の人々を守るために尽力せねばと思いまして」
「ぜんっぜん説得力ないですから。ひとっつも誠意がないっす」
「あいや、ばれました? これは一本取られましたな」
と楽浪はわざとらしく軽く頭を小突いた。
その芝居がかったしぐさに、さらに甘斗は目を吊り上げた。
「ばれましたじゃないっすよ、なめてるんですか? 先生にも伝えないで」
甘斗は口を尖らせた。
今回の件は楽浪が主と仰いでいるはずの鈴代にすら何も言っていないのだ。だったら甘斗が伝えればいいのだが、当事者の楽浪が黙っているのだから、なんともやりにくい。
腹にすえかねている様子の甘斗を鎮めるように、楽浪は朗らかに笑った。
「まあまあ、物の怪のたった一匹や二匹、ヌシ様の手を煩わせるほどのことではございませんよ。ここんところの複雑な事情は、坊ちゃんはまだわからないかもしれませんがね」
「は。オレにはあんたのこと、一生わからないでしょうね」
「それでいいんですよ」
ぽんと投げられた言葉に、甘斗はきょとんとした。
「私たちは神、坊ちゃんたちは人間。所詮は相いれない者同士でございます。それならばいっそ、最初から理解されない方がありがたい」
「――なんすか、それ」
甘斗はむっとして、ついつい声を荒らげる。
理解されなくていいと言われて、自分でも驚くほどに胸が冷えた。
「もし明日帰って来なかったら、絶対オレは許しませんからね!」
と言い残して背を向け、甘斗は足早に去っていった。
静海家の庭を、沈黙と生ぬるい風ばかりが過ぎていく。
甘斗が家に入るまで、楽浪は何も言い返してはこなかった。