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甘斗が医者の鈴代に弟子入りをして数カ月。水無月も半ばを過ぎた頃。師の鈴代は今、江戸を回って往診をしているところである。
楽浪は、いつもは江戸から離れた家で留守番をしている。しかし、今回ばかりは江戸にまで付いてきている。
ことの始まりは、静海が家をしばらく空けると言ったことだった。
江戸での滞在先として部屋を貸してくれている静海は、鈴代と同じ場所で学んだという医者であり、殿中医としてたまに家を数日空ける。いつもは問題ないのだが、今回は静海の妻も実家に顔を見せなければならないとかで、まったくの留守居になると聞かされた。
そこで張り切ったのが楽浪であった。家の管理ならば屋敷神である自分に任せろと言い、他人様の家でこうして食事の準備にいそしんでいるのである。
甘斗は、屋敷神というのはどうせ嘘だろう――と思っていたが。
ふと気になって、甘斗は前をスキップしている楽浪に声をかけた。
「前から気になってたんですけど、なんで楽浪さんて飯作れるんですか? 自分で食べるわけでもないですよね」
「は? 何をおっしゃいますか。稲荷とは御食神の異名を取る食物の神でございます。食事の準備くらいできず、どうして稲荷と名乗れましょうか」
楽浪は、かえって不思議そうに聞き返してきた。
自分が神であると疑ってもいない様子であるし、実際に人間離れした不思議な力を使うところも見たことがある。本当に神なのか、それともただの変人か。
わからないから、今はまぁいいか、と甘斗は思っている。
「さて、飯に菜に魚も仕入れて仕込みは上々。後は、このさい夏の薄物用の布も買っちゃいましょうかねぇ。坊ちゃん、ご案内よろしく申し上げますよ」
「あー、はいはい。わかりましたよ、ったく。さっさと終わらせて帰りましょう」
神田は職人の町でもあるし、武士や庶民も多く住んでいる。だから、自然と色々な種類の店が軒を連ねいるのだ。規模としては日本橋近くの大通りには負けるが、活気だけでいえば同等だ。探せば布屋の一軒や二軒はあるだろう。
「いやはや、これでやっと坊ちゃんの夏着も作ることができますよ。ヌシ様と御相談して以来そろそろ作らねば、と思っておりましたが」
「……そ、そうすか」
嬉しそうに言う楽浪に背を向けて甘斗は足を速めた。
どれだけ変でも、こういうことをされると何も言えなくなる。
「あ、坊ちゃん、ちょいとお待ちを。前方不注意でございますよ」
「はぁ? 何言って――って、うわっ」
楽浪に呼び止められ、慌てて足を止める。小路から出てきた人影と危うくぶつかりそうになるところだったのだ。
とはいえ、その心配はいらなかったかもしれない。ぶつかったところで、相手はびくともしなかっただろうから。甘斗は怪訝に思い、相手の名を呼んだ。
「初東風さん?」
「…………」
若い男だった。背は低いが威圧感があり、端麗ではあるが温情の一片も持たぬような冷たい目、紺の着物の裾を後ろで端折り、その帯に挟んだ腰刀。橋を傷める原因になるため草履の多い江戸にあって、歯が高めの下駄をしている。
何より奇妙なのは、頭に楽浪と同じ狐の面を斜掛けしているところだろうか。
突然現れて驚いたが、甘斗にとっては顔見知りだった。
江戸の町を守護する稲荷神――その神使の初東風だ。
「おやおや、これは珍しいお顔が。お久しゅうございます、神田稲荷の総代どの」
「…………」
楽浪の揶揄するような声にも答えぬまま、初東風は腕を組んでこちらを見ている。出てきた小路の奥には小さな社があるばかりで、人の気配はなかったはずだ。まさか甘斗たちが通りかかるのを待っていたわけではないだろう。
黙ったままである初東風をまじまじと眺めて、楽浪がぽんと手を打った。
「ははぁ、これは何か訳ありの御様子ですか。しかし、私共も少々急ぎでございますゆえ。御用件がおありなら、私からヌシ様にお伝え申して差し上げますが、いかがです?」
その時表情のない初東風の顔に、一瞬だけ苦渋がかすめたような気がした。
神田の稲荷は、すっと白い指をあげた。
「――用があるのは貴様だ」
「は? ……私でございますか?」
楽浪はきょとんとしてつぶやいた。
路地裏を落陽が不吉なほどに赤く染め、沈みつつあった。