家族
エミリアと帰宅すると、セバスチャンさんが大慌てでこちらにやってきた。その様子を見て、エミリアがうんざりといった顔を作る。セバスチャンさんは、エミリアの姿を上から下まで確認した。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お怪我はございませんか」
「年の癖に俊敏だな。怪我などない」
「……ええと、そちらの野良ドラゴンは?」
私の肩に乗っている樹海ちゃんを見て、セバスチャンさんは顔を曇らせた。ペット不可のマンションに住んでいるのに、子供が野良猫(しかも仔猫)を拾ってきてしまった、そんな表情だ。
エミリアは鬼のような形相で一言「拾った」とだけ言った。それ以上なにか言ったら前歯を粉砕骨折させるぞ、という語尾を隠したその単語に、セバスチャンさんは「さようでございますか」と答える。こういう事態には慣れているらしい。
「明日の朝にはここを発つ」と宣言するエミリアの声に重ねるようにして、セバスチャンさんは深刻な声を出した。
「ダニエル様とアルバート様がお帰りになっております」
「そうか」
「そうか、ではございません。お嬢様を探しておられました。帰ってきたらすぐにこちらにくるようにと」
「……父さんとアルが? 面倒だな」
エミリアは口の端を噛みながらも、嫌だとは言わなかった。ダニエル様というのは恐らく、エミリアのお父さんで、この家の主だろう。アルバート様、は誰だろうか。
「ナシロは客室に戻ってろ」というエミリアの声に、またもやセバスチャンさんの声が重なる。
「ナシロ様もご一緒に、とのことでして」
エミリアは今度こそ、嫌だと言い張った。しかし、セバスチャンさんも譲らない。
――ダニエル様がどれだけご心配されていると思っていらっしゃるのですか。ここ一か月で睡眠時間が平均十五分も削れておられますし体重も二百グラムほど減っておられますし一日につく溜息の回数が三回も増えておられるうえに「エミリアたん」とお呼びになる回数が一日平均五十三回から八十四回にまで増えておられます。
……睡眠時間と体重と溜息に関しては単なる誤差だと思われる。それより、最後になんと言っていただろう。
「え、エミリアたん……」
「ナシロお前次にその呼び方をしたら奥歯がはじけ飛ぶと思え」
エミリアは早口で恐ろしいことを言って、セバスチャンさんを睨みつけた。『エミリアたん』は失言だったに違いない。セバスチャンさんも私も肩幅を小さくした。
エミリアは小さく息を吐いて、「仕方がない」と声を出した。
「父さんとアルはどこに?」
「応接の間でございます」
「分かった。ナシロと二人で行くから、バッチャンは職務に戻れ」
「いえ、わたくしめも一緒に」
「戻れと言っている」
エミリアがすごむと、またもやセバスチャンさんは肩幅を狭くした。それでは、と遠ざかるセバスチャンさんを見送ってから、エミリアは歩き出す。私は屋敷の内部を知らないので、エミリアについていくしかなかった。
赤い絨毯の敷かれた長い渡り廊下を歩く。日はとっくに沈んでいて、星が見え始めていた。
「……先に言っておく」
前を歩いていたエミリアが、低い声を出した。私ではなく樹海ちゃんが「きゅう」と返事をする。
「いまからあたしは、嘘をつくだろう。あたしが、『昨日と矛盾したこと』を言ったら、それは嘘だ。昨日話したことが事実であり、これから行われる会話には嘘が混ざる。それを覚えておけ。そして」
エミリアは扉の前で立ち止まり、こちらを向いた。
「あたしを信じろ」
私は無言で頷いた。エミリアの目は夜でも晴れ渡っていて、決して曇らない。だからそれは、本当の言葉なのだろうと思えた。
私の動作を確認し、エミリアが外開きの扉を開ける。ノックもなしで。
しかし次の瞬間、
「エミリアたああああああああああんっ!」
――奇声が上がった。中年男性の、ひっくり返った声。その声に押されたかのように、エミリアは即座に扉を閉めた。中からエミリアたんエミリアたんと叫ぶ声が聞こえてくる。
エミリアは私の方を見た。それはもう、恐ろしいまでの無表情で。
「……断り忘れていたが、うちの父は過保護で、頭のネジが緩んでいる。母が早くに死んだせいかもしれんが、とにかくうるさい。言い忘れていてすまなかった。驚いただろう。あれが通常運転なのだ、気にしないでくれ」
エミリアの棒読みの説明よりも、部屋の中から聞こえるエミリアたんコールに耳を奪われてしまった。半分説明を聞いていなかった私は半笑いで頷く。エミリアは深呼吸を二度して、再度扉を開いた。
そこは、荘厳という言葉がぴったりの広大な部屋だった。荘厳ではなく、きらびやかでもいい。
床には廊下と同様、美しい赤色の絨毯が敷かれていて、窓ガラスは縦長の長方形の上に半円を載せたような、いかにもお城の窓といった形をしている。ちなみにこの『お城っぽい窓』というのは私の偏見であり、この窓の形の正式名称は知らない。壁には抽象画が三枚飾られている。価値はさっぱり分からないけれど、恐らく高級品だろう。
部屋の中央には、アンティーク調のテーブルと椅子があった。白いテーブルクロスのかけられた丸テーブルを囲むように、椅子が四脚。椅子の欄干や脚は……言い方が悪いけれども、仏壇のように金で飾り付けられていた。
そしてそこに、二人の男性がいた。
一人は四十歳ほどの中年男性で、酷く興奮している。言われなくともこれがエミリアの父親であることは一目瞭然だった。髪色も似ている。
もう一人は、私と同い年か、あるいは少し下かもしれない男の子。詰襟の服を、ぴしっと着こなしている。エミリアとはまったく違う、青い髪が印象的だ。そしてこれまた失礼だけれども、エミリアとは似ても似つかないくらい『貴族らしい』佇まいだった。
逆に言ってしまうと、エミリアの父親はなんというか……面白い趣味をお持ちのようだ。かぼちゃパンツなんて生まれて初めて見た。オレンジと緑のストライプのそれは光沢があり、彼がエミリアの元へ駆け寄ってくる度にきらきらと光る。ひげは、古き良き泥棒のように口を丸く覆っていた。
「エミリアたん! ああよかった無事だったんだね!」
「他人の前でその呼び方をするのはやめろ」
エミリアは一蹴して、父親の求めるハグをも拒絶した。エミリアに接近した父親は、当然のように私の存在に気付く。
「おお、これがオークションで落としたという転移者か。すまんなエミリアた……エミリア。家の留守を頼んでしまって。しかもその間に転移者がこの世界に来るとは思ってもみなかったからパパはエミリアた……エミリアがちゃんと落札できるかどうか不安で不安で」
「もういい分かった、とりあえず座ろう。ナシロ、あたしの隣に座れ」
エミリアは、不安と笑いをこらえる私の手首を掴み、椅子に座らせた。そして空いていた椅子を無理やり引き寄せて、私の真横に腰掛ける。
青い髪の青年は、まじまじと私の方を見た。切れ長の目はエミリアに似ていて、やはり顔立ちも整っている。その瞳は青く、けれどエミリアのそれよりも濃い群青色だった。
しばらく無言を貫き通していた彼は、やがてふっと口角を上げた。そして、軽く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、アルバート・フロディーテです。以後、お見知りおきを」
「え? あ、おは、おはつにっ」
言い慣れないフレーズに苦戦する私を制するように、エミリアが溜息をついた。
「堅苦しい挨拶はいい。――ナシロ。こいつはあたしの弟で、この家の長男。今年、十五歳だ」
エミリアの説明に、青年は不平を漏らす。
「姉さん。挨拶だからこそ、しっかりすべきなのです。知らぬ者同士ならば尚更ですよ。なのに姉さんときたら、わたくしにナシロ様のことを紹介しようともせず――」
「アル、こいつがナシロだ」
「遅いです。……そうだナシロ様、わたくしのことはどうぞ気兼ねなく、」
変な略称がくるのか?
「アルバートと呼び捨てにしてください」
よかった、普通だ。
私は頷き、アルバートに言った。
「アルバートも、私のことを呼び捨てにしてください。じゃないと私の立場がないので。あと、私に敬語を使う必要もありません」
「あ、それは気にしないでください。わたくし、敬語じゃないとかえって落ち着かないのです。好きでやっているだけなので、どうぞお構いなく。それと、ナシロ様の方こそため口にしてください。年上の方に敬語を使われるとやはり、わたくしが落ち着かないのです」
一連のやり取りを聞いていたエミリアが、口を三角形にした。
「我が弟ながら、気持ちの悪い趣味だ」
エミリアとアルバートを足して二で割ったら、ちょうどよかったのかもしれない。
私たち三人が会話している間、ずっと背後で「エミリアたんエミリアたん」とぶつぶつ言っていたエミリアの父親は、そこにきてようやく
「あ、ぼくちゃんのことはパパって呼んでね! パパンでもいいよ!」
――ものすごく、この場にそぐわないことを言った。
ぼくちゃん、という言葉を聞いて、エミリアが父親……パパを睨む。パパは口を尖らせて、だってだってと言い訳した。それから、唯一あいていた椅子にちょこんと座る。
エミリアは既に疲れきった顔をしながらも、それで、と切り出した。
「例の話はうまくいったのか?」
「おかげさまで」
答えたのはアルバートだった。エミリアは笑う。
「さすがだな。まあ、最初から心配なぞしていなかったが。お前なら、なんでもうまくやるだろう。子供の頃からそうだったし、恐らくこれからもそうだ。まだまだ先は長いが、お前ならなんでも乗り越えられる」
エミリアの言葉に、アルバートは曖昧に笑った。余命半年のエミリアに対して、アルバートの余命は六十二年。私はなんとなく気まずくなる。パパの余命だって、三十二年あるのだ。パパとアルバートはいま、どんな気持ちなのだろう。
しんみりとした気分を打ち破ったのは、パパの言葉だった。
「いやあでもよかった、転移者が来てくれて。余命は四十二年と半年あるみたいだし。これなら、エミリアた……エミリアにパパの最期を看取ってもらえそうだね!」
無邪気な顔でそう言われて、私は絶句した。
エミリアがパパよりも長生きする。それはすなわち、私の『余命を移す』ということだ。
言葉を失う私に代わり、エミリアが微笑んだ。
「そうだな。父さんが死ぬ瞬間、耳元で『馬鹿者め』と囁くことはできそうだ」
エミリアはそう言いながら、私の手の上に自分の手のひらを重ねてきた。テーブルクロスに隠れて、私たちの手元は誰にも見えていないだろう。彼女は、私とは決して目を合わせようとはしない。私は、ここに来る直前にエミリアの言っていた言葉を思い出した。
『いまからあたしは、嘘をつくだろう。あたしが、『昨日と矛盾したこと』を言ったら、それは嘘だ。昨日話したことが事実であり、これから行われる会話には嘘が混ざる』
重ねられた細い指が、きゅっと私の手を掴む。
『あたしを信じろ』
「エミリアた……エミリア。余命はいつ移すつもりだい? 余命を移すのは、高名な魔導士しかできないだろう? なんなら今からでも魔導士をここに呼んで」
「いや、いい。あたしの方から魔導士の元へ向かおうかと思う」
「ええっ!?」
パパは椅子ごと後ろへ転んだ。コメディーのように。私たちが沈黙する中、先程から私の肩に乗りっぱなしだった樹海ちゃんが「きゅっ!」と鳴いた。もしかすれば笑ったのかもしれない。正直、私だって笑いたかった。だって、かぼちゃパンツから生えている足が、天に向かってV字を作っているのだ。笑うなという方が無理だろう。
パパは十秒ほどシンクロナイズドスイミング的なポーズをした後、いそいそと倒した椅子を元通りにし、そこに座りなおした。エミリアとアルバートは、何事もなかったかのようにそれを見ている。慣れているらしい。
パパはもはや半泣きで、弱々しく言った。
「どうしてそんなことを……。魔導士をここに呼んだ方が遥かに安全だし、無駄もないのに……」
「ナシロが、死ぬ前に異世界の景色を見てみたいと言っていてな。最後の情けだ」
「じゃあパパが、上等な馬と馬車を……」
「いやいい、公共の手段で行く。父さんの馬車は趣味が悪くて好かん」
どのような馬車なのかは分かりかねるけれど、かぼちゃパンツを見る限りそれなりの趣味なのだろう。アルバートも納得したように頷いている。パパはうなだれた。精神的ダメージを受けたに違いない。
「そんな……エミリアたんを恐ろしい目に遭わせるなんて」
「その呼び方はやめろ。あと、あたしは一通りなんでもできる。護身術も習得しているし、どうとでもなるだろう。……しかし、そうだな。では、『余命を移し』終わったら、その時は趣味の悪い馬車で迎えに来てもらおうか」
パパは花が――大きなヒマワリが咲いたくらいの勢いでぱっと笑った。もちろんだとも! と胸を叩き、激しくむせる。エミリアもアルバートもやはり、なんでもない顔でそれを見ていた。
「明日の朝にでもここを発とうと思う」とエミリアは宣言して私から手を離すと、いまだにむせているパパと、それを介抱するアルバートを置き去りにして歩き出した。私も一礼して、後に続く。
「転移者よ!」
パパが叫んで、私は振り向いた。
「――エミリアを頼む」
いままでの会話の中で、その声と表情だけは真剣だった。
私は頷く。そうするしか、なかった。
先を行くエミリアの背に、私は呼びかけた。けれど、彼女は特に何も言わなかった。
『あたしは、お前を、お前の世界に帰したいと思っている』
パパもアルバートも、エミリアの考えていることを知らない。エミリアの寿命が延びると信じ込んで、期待して、それを望んでいる。なのに、
「エミリアは本当にそれでいいの……?」
私の言葉に、エミリアがついに足を止めた。彼女がこちらを振り向くと、その動作に合わせるように、はちみつ色の毛先がさらさらと揺れる。
「あたしの人生だ。あたしの好きなようにする」
エミリアは「明日の午前中には発つから、荷物をまとめて準備しておけ」と付け加えて、自分の部屋へと戻っていった。
私は今日も客室で眠る。行儀よく私の肩に乗っている樹海ちゃんと共に客室へ行き、買ってもらったトランクに荷物をまとめた。前の世界から持ってきていたスクール鞄も、押し込んでみたらぎりぎり入った。旅の準備と言っても、それくらいしかすることがない。私はベッドに腰掛けた。
客室はホテルのようになっていて、お風呂もトイレも完備されている。お風呂に入って寝てしまおうかと思った矢先、扉がノックされた。
「はい?」
「夜分遅くに申し訳ありません、アルバートです」
心にすとんと落ちるような、綺麗なアルトだった。私はどぎまぎしながらも扉を開く。先刻と何一つ変わらない、つまりはぴしりとしたアルバートが、そこにいた。
アルバートはまゆ毛をハの字にして笑う。
「もう、お休みになるところでしたか?」
首を振ると、アルバートは微笑んだ。
「では、少しだけ庭を歩きませんか。我が家の庭を、夜にご覧になったことはありますか」
言われてみれば、見たことがない。昨日はすぐに寝てしまったし。私が再度首を振ると、アルバートは微笑んだ。
二人で、屋敷の外に出る。星の綺麗な夜だった。
アルバートは少し、硬い表情をしている。何か話があるのだろう。
エミリアはもう寝てしまっただろうか。頭の隅で、そう思った。