価値あるもの
大通りとは反対方向に歩き、細い路地を抜けると、小さな川とそれに沿った道があった。道は舗装されておらず、むき出しの土が細かな音を立てる。
エミリアは先程買ったクッキーやチョコを、私にも分けてくれた。二人でそれを食べながら、しばらく無言で歩く。看板商品になれるかもしれないとおばあさんが言っていた大きなクッキーは、確かにおいしかった。少し紅茶の味がしたので、説明を聞いてもピンとこなかった香辛料の中に、紅茶の何かが入っていたのかもしれない。
無言のエミリアが、何を考えているのかは分からなかった。なんでもないような表情でクッキーを食べている。この世界の住民にとっては、あの会話も普通なのだろうか。子供の頃から知り合いだったおばあさんがもうすぐ亡くなると分かっていても、なんともないのだろうか。――出会った時から、いつ別れが来るのか理解できていたから。
再びじわりと滲んだ景色の中に、私はそれを見つけた。そして、立ちすくんだ。
「なんだ?」
紙袋から新しいチョコレートを取り出しながら、エミリアが首を傾げた。私は、エミリアの向こうを指さす。
「あれ」
エミリアは私の指先にあるものを追った。それから、「あれがどうした」と首を傾げる。私は信じられない気持ちでいっぱいだった。
――満開の桜が、そこにあった。
川沿いに二本だけ植えられたそれは、葉が見当たらない。はらはらと花びらを散らしていて、それでもみすぼらしくはなかった。お花見するには最適の桜だ。
「あれ、桜?」
「そうだが。お前の世界にもあったのか」
「いま、六月だよね?」
「そうだが?」
エミリアはそれがどうした、と言わんばかりの顔をしている。これで、この世界の気温が日本の四月上旬並みだったなら、私もまだ納得できたかもしれない。けれどこの世界の六月は、日本の六月と同じ気温だった。転移してきた時の恰好のままで過ごしていても、寒いとも暑いとも思わない。
つまり、日本では桜なんてまず咲いていない気温だった。
「……この世界では、六月くらいに桜が咲くの?」
私が問いかけると、エミリアは首を傾げた。
「お前は何を言ってるんだ」
「何って、だって」
「桜なぞ、ほぼ年中咲いているだろう」
「え?」
私が目を見開くと、エミリアもまた驚愕したようだった。
「違うのか?」
「……日本では、大体三月の下旬から四月の上旬あたりに咲いて、夏は葉っぱだらけの木になって、秋から冬は葉っぱもない状態になるんだけど」
「桜に、葉っぱ?」
エミリアは気持ち悪そうにこちらを見る。そんな目で見られても、事実そうなのだから仕方ない。解せぬ、とエミリアは呟いた。
「ここでは、桜に葉などつかん」
「え、じゃあ」
「桜は年中咲いていて、三月の終わりから四月の頭にだけ、枯れ木のようになる。その時が見頃なのだ。枝の美しきシルエットを見ることができるからな。花の散った桜の木の下にシートを敷いて、宴会をする。それを枝見という」
なにその寂しい感じのする宴会。
私の世界では花見だったと教えると、エミリアは更に気持ち悪い表情を作った。桜の花を見て楽しいのか? と深刻な表情で言う。そりゃあ、年中咲いていたなら、桜の花を見ても楽しくもなんともないだろう。しかし、こちらからしてみれば、花も葉もない桜の木の下で宴会をしている方が相当不気味だった。
「私からすれば絶対に、咲いてる桜の方が綺麗だと思うんだけど。ねえ、あの桜ちょっと眺めていってもいい?」
「構わないが。……異世界の人間の価値観というものはよく分からん」
エミリアと私は桜の木の下に近づき、咲き誇ったそれを見上げた。私が知っている桜よりも、一回り大きいような気がする。日本なら、カメラを片手に多くの観光客が訪れそうなくらいに見事な桜だった。
エミリアは十五秒で桜に飽きたらしく、お菓子を食べ始めた。というか昨日から思ってたんですけど、エミリアって甘いものをよく食べますよね。なのにそのスタイルで、出るところだけ出てるってなに。
――この世界と私の世界では、価値観が違う。ならばこの世界では、足の長い人間よりも短い人間の方がスタイルがいいと思われていないのだろうか。考えてみたけれど、訊くのはやめておいた。色んな意味で心が折れそうだ。
私の気が済んだところで、再び歩き出した。相変わらず、私だけ早足で。どこに行くのか訊ねても、エミリアは「少しばかり寄り道をする」としか言わなかった。
そうして辿り着いたのは、フリーマーケットのような場所だった。川に沿って店舗が並んでいて、ちらほらと客が集まっている。それは屋台だったり、地面に直接シートを敷いた簡易なものだったりした。
「掘り出しものに巡り合うことが多くてな」
エミリアはそう言いながら、一店ずつ覗いていく。家にあった不用品を持ち寄ったのだろうと思える店から、ハンドメイドのアクセサリーを販売している店まであった。基本、なんでも持ち込んでいいらしい。
店を開きつつも簡易椅子に座って雑誌を読み、適当に時間を潰しているように見える人たちは、エミリアを見る度に頭を下げた。「掘り出し物に巡り合うこと多い」というエミリアの発言から察するに、彼女はここの常連なのだろう。恐らく、エミリアが公爵令嬢だということはここの人たちも知っているだろうけど、エミリアのことだ。「わざわざ立ち上がって挨拶したりするな」と言い聞かせているに違いない。現に、店主たちの表情は硬かった。
エミリアはいくつかの店で買い物をした。水筒(と、この世界で呼ぶのかは知らないけれど)や、キーホルダーを。キーホルダーは私用で、かわいいと言っただけなのに二秒後には買ってくれていた。桜色をしたトンボ玉を、「異世界の土産として持って帰れ」とエミリアは真顔で渡してくれた。
そうしていくつかの店を通り過ぎた、その一番奥に、それはあった。
その店は屋台でもブルーシートでもなく、湿気た新聞紙を広げただけの場所だった。新聞紙の上に乗っているのは、お菓子の包装紙、欠けた器、ヒビの入ったグラス、瓶の蓋など。すなわち、ゴミにしか見えないものばかりだ。
エミリアはその店で足を止めた。そのまましゃがみこみ、しげしげと商品を眺めるエミリアに気付いた店の主が、虚ろだった目を大きくする。
「え、あ、お、おじょうさま」
「立つな、深々と礼をするな、お嬢様と言うな。……見知らぬ顔だな」
エミリアは商品から、店主――少年の方に視線をあげた。脂肪という言葉を知らないのではないかと思えるくらいに痩せた彼は、首元が伸びきったTシャツと、短パンを着用している。十歳くらいに見えるけれど、本当はもう少し年上かもしれない。
エミリアはなんでもないように、少年に話しかけた。
「いつからここに店を?」
「え、えっと……三日前です」
「なるほど。ところで」
エミリアはガラクタのような商品を指さした。
「これはどうしたんだ?」
少年は困惑したようだった。黒く汚れてしまった頬を歪ませながら、視線を泳がせる。
「……あちこちから、集めてきました」
「あちこちというと、この街か?」
「いいえ。プロミラとか、ミニシとか……」
その言葉に、エミリアは驚いたようだった。
「どちらも、大人の脚でもここから丸二日はかかる。そこまで歩いて行ったのか?」
「はい。あの街は、ゴミ箱を漁っても変な目で見られないから……あっ」
少年はしまった、といった顔をする。つまりやっぱり、ここにあるのはすべてゴミらしい。
斜め下を向いたまま黙り込んでしまった少年に、けれどもエミリアは気遣う様子を見せない。彼女は「ふうん」とだけ呟いて、しばらく考えてから、
「少年。夢はなんだ」
唐突にそんなことを言った。少年はきょとんとする。
「ここに店を出しているくらいなのだから、金が必要なのだろう。その金で、何か買いたいものがあるのか」
「あ……」
少年はしばらく悩んでから、小さな声を出した。
「……家にお金がないから困ってて。それで」
「生活費の足しに?」
「それもあるんですけど……」
「他は?」
少年は俯いたままで、まるで地面に話しかけているようだった。それでも、絞り出すような声で続ける。
「……僕は、三人きょうだいの長男で。弟ふたりに、あの……チョコレートを、食べさせてあげたいって、……思ってて」
デクレッシェンドのごとく、少年の声は弱っていった。エミリアはふむ、と頷く。
「弟たちは、チョコが好きなのか」
「いいえ」
少年の即答に、エミリアは眉根を寄せた。
「嫌いなのに、食べさせたいのか?」
「いえ、あの…………いままで一度も食べたことないから、好きかどうかも分からなくて」
私は絶句した。少年は恥ずかしそうに、「僕も食べたことはないんですけど、おいしいって、聞いたから……」と付け加える。その話は嘘ではないのだろうと、彼の痩せ細った身体を見ながら思った。
私は彼の数字を見る。余命は二年。あまりにも短い。栄養失調かもしれないと、絶望的な気分の中で考えた。
お菓子屋さんでエミリアが買ったチョコレートを、分けてもらったことを思い出す。慌ててスカートのポケットを漁る私を止めるように、エミリアが「ところで」と声を出した。くすんだ瓶の蓋を、手に取る。
「これはいくらだ?」
「え……五十マクルです」
「ふむ。少年は知らないのだな」
エミリアは微笑みながら、薄汚れた瓶の蓋を手の中で転がした。
「この瓶だが。いまから百年前に製造が中止されたもので、いまでは瓶そのものに希少価値がついている。無論、その蓋にもだ」
「え……」
「五十マクルでは安すぎると言ってるんだ」
エミリアは無造作に紙幣を何枚か取り出して、枚数も数えずに少年に握らせた。おそらく、彼からすれば相当な大金だったのだろう。少年は呆然と、エミリアの顔を見ている。エミリアは立ち上がった。
「価値のあるものは、それ相応の値段で買いたい主義でな。このような貴重品を、五十マクルで買ったのでは後味が悪い。詐欺のような気がして好かん」
では、これはもらっていくぞ。エミリアはそう言って、瓶の蓋を握りしめたままさっさと歩きだした。私はそれに続く。少年は呆けたまま、エミリアの後ろ姿を眺めていた。
しばらく歩いたところに、置き忘れられたようなベンチがあった。木製のそれは、相当使い込まれているらしく角が丸く削れている。疲れたから休むと言って、エミリアはそこに腰掛けた。私もその隣に座る。
「……ねえ、エミリア」
「なんだ」
「その瓶の蓋。ものすごいお宝なの? 売ったら、どれくらいするの」
エミリアの手の中でころころと転がっているそれを眺めながら訊ねると、彼女は小さく首を振った。ベンチの向こうに見える川を見つめたまま、笑う。
「これは、瓶の蓋だ。それ以上でも以下でもない」
「え?」
「これ自体は、ただの蓋だ」
エミリアは平然とそう言って、ズボンのポケットにそれをしまった。私は訳が分からなくて、首を傾げる。
「嘘をついたの?」
「半分な」
エミリアは溜息をついた。
「確かに、これ自体には価値がない。しかし、あの少年はここからプロミラまで歩いて行ったという。――ナシロは知らないだろうが、ここからプロミラまでの道のりはかなり険しい。山道なんだが、道は舗装されていないし獣も出る。大人ですら避けて通る道だ」
私は少年の痩せた身体を思い出す。そんな道を、あの子が一人で歩いたのか。
「プロミラは確かに、それなりに栄えているし他人に干渉しない。……少年はきょうだいにチョコを食べさせるために、その道を行ったのだろう。そうして辿り着いたプロミラで、売れるかもしれないものを集めた。その行為自体に、価値があると思った。だから、それ相応の金を渡したんだ」
エミリアはそこまで言うと、私に目を向けた。その蒼穹は、かすかに揺れていた。
「――偽善だと思ったか」
エミリアは自虐するように笑った。
「昔、あの少年のように痩せ細った子供に、金を渡そうとしたことがある。その時、侮蔑のまなざしを向けられた。『ほどこしなんてほしくない』、そう言われてな。それ以来、先程のようにちょっとした嘘をつくようにした。価値のあるものをそれ相応の値段で買ったと、あたしは思っているが……この行為はやはり、偽善かもしれない」
私は首を振った。これでもしも、エミリアが恩着せがましくしたり、誰かの前で自分の名をひけらかしながらお金を渡していたら、それは偽善だと思ったかもしれない。けれどあの時、それを見ていたのは私だけだった。あれは名誉のための行為ではない。
それにこれは私の持論だけど、偽善がすべて悪いとは思っていない。例えば偽善で一億円の寄付をした芸能人がいたとしても、その一億円で助かる誰かがいるのは確かだ。「偽善なんて」と嗤って何もしない人間より、偽善でも何かをした方が、誰かのためになっているのではないかと思う。
エミリアの部屋を思い出した。ゴミのようなものが沢山飾ってあると思ったけれど、あれはこういう経緯で手に入れたものたちだったのだろう。エミリアは、ゴミと呼べるものを捨てずに取ってあるのだ。誰にも見られない場所で。
エミリアに何かを伝えたかった。けれど上手く言葉にできなくて、言いよどんでいるところに、
「お、おじょうさまっ……!」
先程の少年の声が聞こえた。急いで追いかけて来たらしく、息を切らしている。エミリアはひょい、と頭を少年の方へ傾けた。
「何か用か?」
「ぼ、僕は……」
少年はエミリアに貰った紙幣を握りしめたままだった。戸惑ったように、けれど力強く言う。
「僕には、あの瓶の蓋の価値が分かりません。頭がよくないから、あの瓶の蓋がどれだけ珍しいものだったのかも分からない。だから……もう少し、僕にでも分かるくらい、この紙幣の価値に見合うことをしたいです。なにか、お役に立てることはありませんか」
エミリアはしばらく無言を貫いて、それからふっと息を吐いた。その顔は、笑っていた。先ほどの自虐的な笑みではなく。
エミリアは頷き、少年の黒い顔をまっすぐに見た。
「分かった。それで貴様の気が済むのならば。そうだな……」
そうして少し考えてから、
「この近くで、桜の木が沢山ある場所を知っているか。十本以上あるとありがたい」
その言葉に、少年はまた戸惑ったようだった。
「桜、ですか。でもいまは、見頃じゃないですし」
「いや」
エミリアは私を一瞥し、微笑んだ。
「誰かにとっては、いまが見頃らしくてな」
少年が案内してくれたのは、川沿いの道から細い路地に入り、そこから五分ほど歩いたところにある広場だった。細い路地を通り抜けたそこは、まるで別世界のように淡いピンク色が一面を覆っていた。風が少し吹いただけで、花びらが雨のように惜しげもなく降ってくる。
私がきゃあきゃあと声をあげ、走り回る様子を少年はやっぱり不思議そうに見ていた。けれどそんな少年に、エミリアは「助かった」と笑いかけた。
「あのはしゃぎっぷりも、なかなか見れるものではないだろう。価値のあるものをふたつも貰えた。もう充分だ」
少年は深々と頭を下げ、エミリアに「だからそれはやめろ」とたしなめられてから、私たちの元を離れていった。川沿いの市場に戻ったのだろう。
エミリアは少年の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、チョコレートの包み紙を剥がした。それを見て、私は自分がしようとしていたことを思い出す。
「どうして、あの子にそのチョコレートをあげなかったの?」
ナッツ類の入ったチョコレートを頬張ったエミリアは、少し寂しそうに笑った。
「あたしに押し付けられた菓子よりも、あの少年が自分で稼ぎ、自分で選んだチョコレートの方が、よほどうまいだろう」
次の瞬間、強い風が吹き、大量の花びらが宙を舞った。
桜吹雪。
淡いピンク色の中に浮かぶエミリアの青い瞳は、一段と綺麗に見えた。