エミリア・フロディーテ
「くつろげ」
異世界の、見知らぬ豪邸の、見知らぬお嬢様の部屋でいきなりそんなことを言われて、くつろげるはずがない。
私はお嬢様の部屋の中を見回した。何畳分あるのだろう。少なくとも、私の部屋よりも広い。すなわち八畳はある。というよりも、八畳というのはこの部屋の隅っこくらいの広さなのではないだろうか。それほどに、お嬢様の部屋は広かった。
そんな部屋は正直に、はっきりと、オブラートに包まず言ってしまうのであれば、趣味がいいとは言えないもので溢れていた。かわいらしくもない、海外土産のオブジェのようなもの。片腕がちぎれて綿がはみ出ているうえ、目もひとつ取れかけているウサギのようなぬいぐるみ。どこからどう見てもゴミにしか見えない、表紙もないぐちゃぐちゃな本。
……異世界の女の子というのは、こういうのが好きなのだろうか。
私が部屋をじろじろと見ても、お嬢様は特に文句を言わなかった。部屋をじろじろ見るという行為は、くつろいでいるのだと解釈してくれたらしい。どこからどう見てもゴミにしか見えない石ころを眺めていると、扉がノックされた。
「お嬢様。お茶をお持ちいたしました」
「入れ」
入ってきたのはカムパネルラさんよりも十は年上だろう、日本では定年退職していそうなおじさまだった。けれども不思議とおっさん臭はせず、やはり気品のある雰囲気を漂わせている。眼鏡に金のチェーンがあるからだろうか。そんなおじさまの余命は二十二年だった。
おじさまはいかにも高そうな薄い陶器のティーポットと、それとおそろいのティーカップ、更にはそれらに似つかわしいお菓子を、部屋の中央にあるテーブルに並べた。色彩豊かで高級感溢れるお菓子は、私が知る限りマカロンだった。どう見ても、マカロンだ。
私の視線に気付いたおじさまは、ゆっくりと微笑んだ。
「初めまして。わたくし、執事のセバスチャンと申します。どうぞ気兼ねなく、バッチャンとお呼びくださいませ」
だから、略称おかしくないですか。
ツッコミを我慢している私をよそに、セバスチャンさんはお嬢様の顔を見た。お嬢様は眉間にしわを寄せて、つまりは鬱陶しそうにセバスチャンさんを睨んでいる。
「……お嬢様。余命の件ですが」
「茶を置いたら出ていけ。話の邪魔だ」
「しかし」
「あたしが買った命だ。あたしの好きなように使わせてもらう」
――あたしが買った命。その一言に怯えた自分がいた。
買われたのだ。私は。自分と同い年くらいのお嬢様に。というか、私を買ったのはこのお嬢様だったのか。お父様にねだって買ってもらったとか、そういう訳でもないらしい。
部屋を出ていくセバスチャンさんを見届けて、お嬢様は椅子に座り、
「お前も座れ」
命令形で、あいている椅子を指さした。とりあえず言われた通りに座ると、お嬢様が自らお茶を淹れてくれた。嗅いだことのない、いい香りがしてくる。ハーブティーか何かだろうか。……いやここは、私がお茶を淹れた方がよかったのかもしれない。この人はお嬢様で、私は買われた人間なのに。
お嬢様はそんなことを気にしていないのか、ずぞーっと音を立ててお茶を飲んだ。異世界ではそれが普通なのか、それともこのお嬢様がマナーにこだわらないのかは分かりかねる。
「エミリア」
お茶を飲み、一息ついてからお嬢様は言った。私が小首を傾げると、お嬢様は親指で自分のことを指さした。
「あたしの名だ。エミリア・フロディーテ。お嬢様と呼ばれるのは嫌いだ、エミリアと呼べ」
見事なまでの命令形である。私は頷くほかなかった。私を買ったこの人を、――執事ですらお嬢様と呼んでいるこの人を、呼び捨てにするのかと思いながら。
「お前は?」
エミリアは不満げに言った。
「あたしが名乗ったんだ。お前も名乗れ」
「あっ、か、香川なしろです」
「アカカ・ガワナ・シロ?」
「香川、なしろです!」
つっかえた部分まで名前にされてしまった。なんというミドルネーム。
エミリアはまたもや、眉間にしわを寄せた。
「カガワ、というのがファーストネームか?」
「なしろ、が名前です。ファーストネーム」
「ファミリーネームが先にくるのか? それはまた奇妙な……」
エミリアは眉間に縦じわを三本ほど寄せたまま、テーブルの中央にあったお菓子をひとつ手に取った。それからやはり不満げに、
「ナシロ。お前、敬語をやめろ。気持ち悪い」
そんな無茶ぶりをして、マカロンらしき物体をかじった。そして、それを私にすすめる。ピンク色のものを食べてみたけれど、それはやっぱりというかマカロンだった。イチゴというより、ミックスベリーのような味がする。
それからしばらく、沈黙が続いた。オークションで見た貴族ほど太っていない、むしろ痩せているエミリアは、沈黙の合間にマカロンをみっつ消費した。痩せているのに胸がやたらと大きい。同性とはいえ、そういうところはチェックしてしまう。
静寂を破ったのは、エミリアの方だった。自分の頭上を指さす。
「お前の世界では、寿命が見えていたか?」
私は無言で首を振った。寿命なんて誰も知らない。医者の言う余命だって、これほど的確に数値化されていない。
エミリアは少し驚いたような、奇妙なものを見るような顔をした。
「異世界では寿命が見えないという噂は本当だったのか。信じられん」
「こっちの世界では、みんな見えてる……の?」
「当然だ。見えない人間などいない。生まれた瞬間から、死ぬ時間が分かっている」
とてつもなく恐ろしい話だと思った。それはつまり、生まれた瞬間から命日が決まっているということだ。
エミリアは私の顔色を窺いながら、続けた。
「噂によると、寿命が見えない世界で育った人間は、寿命が見えることを怖いと思うらしいが……ナシロはどうなんだ?」
「怖い」
「即答か。信じられん。あたしからすれば、死ぬ時間が分からない方が恐ろしいのだが」
よっつめのマカロンを手に、エミリアは口元を歪ませた。私も、信じられない思いでエミリアの瞳を見ていた。透き通る空のような、青。
「寿命が見える方が絶対に怖いよ。しかもこんな、カウントダウンされて」
「そうか? ならば、寿命が見えないお前ら異世界の住民は、どうやって死に際の整理をするんだ。心の準備をすることもなく、いきなり死ぬのだろう? いつ死ぬのかも分からないということは、長寿か短命か、それすらも分からぬということだ。そちらの方が、よほど怖いと思うのだが」
エミリアは黄緑のマカロンを頬張り、こちらを見た。その表情は、まったく曇らない。
「……エミリアは病気なの?」
言ってしまってから、しまったと思う。すごく失礼な質問をしてしまった。けれど、成人になっているかどうかも怪しい彼女の余命が半年ということは、病気の可能性が高いのではないだろうか。
エミリアはしばらく呆けてから、吹きだした。マカロンの破片が若干こっちに飛んでくる。
「あたしが病気に見えるか?」
「でも……」
「あたしの余命か。何もこれは、病気を示している訳ではない。死因は不明だが半年後に死ぬ、ということだ。これから先、病気になるのかもしれない。誰かに殺されるのかもしれないし、馬に頭でも蹴られるのかもしれん。あるいはそうだな、――自殺でもするのかもな」
「……自分が自殺する可能性は、回避できないの?」
「回避できる数字に見えるか」
エミリアは指についたマカロンのくずを舐めながら笑った。
「これまで、あらゆる哲学者がこの数字にあらがおうと試みたそうだ。たとえば、数字がゼロになるその日は家にこもりできる限り動かないようにして、事故や殺人から身を守ろうとした。そのおかげで、哲学者の死因は自殺が圧倒的に多い。その場にいた人間によると、数字がゼロになる直前、取り憑かれたようにロープを首に巻き付けるそうだ」
「…………」
「つまり」
エミリアは私を、その上にある数字を見ながら囁いた。
「この数字から、我々は絶対に逃れられない。この数字がゼロになるまで、我々の命は絶対的に保証される。逆にこの数字がゼロになると、我々は確実に死ぬんだ」
ああでも、とエミリアは付け足した。
「転移者から余命を移せば、その運命にさえあらがえるようだが」
ちらり、とこちらを窺うその目は、色のせいか冷たく見えた。背筋に冷たいものが走る。
エミリアは椅子から腰を上げ、私の横に立った。テーブルに片手をついて、顔をゆっくりとこちらに近づけてくる。というか近い、近すぎる。あと十五センチでキスできる程度に近い。
そういえば、さっき言っていた。「あたしの好きなように使わせてもらう」と。もしかすれば私は、この人の寿命ぎりぎりまで色んな仕打ちをされて、それから殺されるのかもしれない。
メイド、ならまだいいほうだ。奴隷。半年、この世界で奴隷として生きることになるのだろうか。あるいはまさか、性的な……その、性的な意味の。
息を止める私に、エミリアは深刻な顔をした。
「――お前の世界では、挨拶にキスをする習慣でもあったか」
私は小さく首を振った。
「初対面の女とキスをする趣味でもあるのか」
私は小さく首を振った。
「女に興味があるのか?」
……今まで好きになった人は男の子ばかりだ。けれど、同性愛を否定している訳でもない。私は困惑しつつ、一度だけ首を横に振った。
途端、エミリアが息を吐いて頬を緩めた。そして、すっと顔を離す。
「ならば、拒絶することもちゃんと覚えろ。抵抗することもな。我々は数字にはあらがえないが、人間にはいくらでもあらがえる」
「え……」
「なんだ、あたしとキスでもしたかったのか?」
私は首を思いっきり横に振った。これが犬のしっぽなら、嬉しすぎる時の意思表示に見えるくらいに。
「――顔が真っ赤だぞ。女に興味はないくせに、変な奴め」
エミリアはくつくつと笑いながら、元の席に座る。私は呼吸を止めていたせいで酸欠になった脳に酸素を送るべく、大きく深呼吸した。そんな私に対し、彼女はなんでもない顔でハーブティーをすする。それから少し間をおいて、ティーカップをソーサーの上に置いた。
「……あたしはお前を買った。二百億で。お前の余命すべてだ」
私は頷いた。エミリアはそれを見届けてから、続ける。
「だが、いざという時、お前はあたしにあらがうことができる。まずこれを忘れるな。なんでもかんでも受け入れる人間を、あたしは求めていない。奴隷になれとも思っていない。お前はまず、ナシロとしての尊厳を絶対に失うな。いざという時は、あたしを殺せ」
「いやそんなつもりはないけど」
「殺せるとしても、半年先だけどな。数字がゼロにならない限り、あたしは絶対に死なない」
そろそろ誤解を解いておくべきか、とエミリアは腕を組んだ。
「ナシロ。あたしは、お前の余命――四十二年と六か月をもらおうとは思っていない」
私は口を半開きにして、エミリアを見た。間抜けな顔に拍車のかかる表情だな、とエミリアは悪態をつく。
「どういう、こと」
「どうもこうもない。あたしは最初から、『余命を移す』つもりは毛頭ないんだ」
「……延命したくて、私を買ったんじゃないの?」
「いや。――妙な言い方になるが、あたしは二百億で、お前の寿命を『半年分』買ったと思っている」
エミリアは半年分、というのを強調した。私は彼女の数字を見る。六か月。――半年。
彼女は私の視線の先に気づいているはずなのに、私の目を見ているようだった。
「先程言ったことを忘れるな。お前はあたしにあらがうことができる。すなわち、いまからあたしが提案することを『嫌だ』と思ったのならば、それを主張することができる。……お前の意見は力ずくで却下させてもらうが」
それってつまり、あらがえないってことですよね。
私は呆然と、エミリアの顔を見た。彼女の目にあるふたつの空は、微動だにしない。
エミリアは真剣な顔のままで、言った。
「ナシロ。あたしはお前を、元の世界に帰したいと思っている」
またもや口を開く私に、エミリアが眉根を寄せた。
「なんだ、帰りたくないのか?」
「帰りたいです」
「即答か。そして敬語はやめろ」
エミリアはものすごく嫌そうにそんなことを言い放って、それから難しい表情をした。
「ただし。お前を元の世界に帰すには、問題があるんだ」
「問題って?」
「転移者を帰す方法を、誰も知らないんだ」
コントだったら絶対にずっこけるタイミングだけれども、生死のかかっている私にとってそれは笑える話ではなかった。帰す方法を知らない? それってつまり、
「帰す方法がないんじゃ……」
「いや、あるだろう。あちらからこちらへ転移させる魔法があるのに、こちらからあちらへ転移させる方法がないとは考えにくい。何か、あるはずだ」
「あるはずって……エミリアも、分かってないの?」
「ああ、さっぱりだ。お前がここに転移してくる前からその方法を探しているが、これといったものは一切見つかっていない。魔導士も口をそろえて知らないと言う」
この時の私の落胆っぷりは酷かった。魂が抜けるかと思うくらいに落ちこんだ。
追い打ちをかけるように「なにせ、いままで転移してきた人間はすべて寿命を取られて死んでいるからな」とエミリア。昨日この世界に来た時点で魂はほとんど抜けていたけれど、更に抜けた。使い果たしたのか、さすがに涙は出なかった。
まあ落ち着け、とエミリアは微笑む。
「それでだな。あたしは残りの寿命――半年で、お前を帰す方法を探したいと思っている」
「どうやって」
「旅をする。もちろん、お前も一緒にな。少なくともこの街では、お前を帰す方法を見つけられなかった。ならば、外に出た方が可能性は高いだろう。というよりも、あたしが旅に出たいだけだ。いい加減、この屋敷と城下町だけを往復する生活には飽きた」
私を帰す方法を探す旅というよりかは、あなた様の願望じゃないですか。しかも、ノープランで。
それでも、殺されることを考えれば、旅に出る方が気分的には楽だった。エミリアの目を見る限り、私の余命には本当に興味がないらしい。
エミリアはいたく真剣に、私の目を見た。
「どうだ? 元の世界に帰るため、あたしと一緒に旅に出るというのは」
私は頷いた。拒否する理由なんてどこにもない。帰ることができるのなら、半年くらい我慢できる気さえした。というか、殺されるのを考えれば、半年の我慢なんて短い。あっという間だろう。
よかった、とエミリアは微笑んだ。私はひとつ気になって、エミリアに訊ねる。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
私の言葉に、エミリアは苦笑した。
「……あたしはな。今まで何もかも、人に『してもらって』育った。与えられたことは沢山ある。しかし、与えたことはない。そのまま死ぬのが、嫌だった」
余命半年。決して他人ごとではない「死ぬ」という単語を、けれども彼女はあっさりと使った。
「最後に、誰かのために生きたかった。あたしはな、誰かのために命を使いたいんだ。与えられてばかりではなく、与える立場になりたい。――お前に、未来を与えたい」
私を見据える蒼穹。そこに迷いはなかった。
「……この世界では昔から、転移者には未来がなかった。すぐに余命を取られるからだ。しかしあたしは取る側ではなく、与える側になりたい。この世界で『取られる』ことしかなかった転移者に、未来を与えたいんだ。――今まで色んなものをくれた家族や周囲の人間には、できる限りの恩返しをしてきた。だから最後は、違う人間にも何かを与えたい」
高尚なことを言ったが、とエミリアは笑った。
「本音を言うのならばただ単に、自由気ままに旅をしてみたかっただけだ。執事といると、肩がこるんでな。ナシロ、お前は今日からあたしの侍女ということにする。あくまでも肩書であり、あたしに仕える必要はない。だが、あたしの旅についてこい」
エミリアはすっと目を細める。そしてその目を、私の数字へと向けた。まるで、尊いものを見るかのような表情で。
「……ナシロ。お前の『余命』の四十二年は、要らない。ただ」
そこで言葉を切ってから、エミリアは真摯な態度で言いきった。
「半年という『時間』を、あたしにくれ」