あたたかな雨
私は、とてつもなく残酷なことをしたのかもしれなかった。
「なんで……」
信じられない。信じたくない。そんな顔をしたエミリアが、上半身を起こした。彼女はまだ、自分の数字を見ていない。けれど、私の数字が減っている意味をきっと理解したのだろう。いまにも叫び出しそうな顔をして、こちらを見ている。
「――――ごめん」
私は目を伏せた。エミリアは恐らく、これを望んでいなかったはずだから。
これは、私が勝手にしたことだ。彼女に確認もせずに。もしも確認したら、彼女が拒否するのは目に見えていたから。
私の一言でおおよそのことを把握したらしいエミリアは、その瞳を曇らせた。
「っ……カトレア!」
エミリアは叫びながら、ベッドから足を下ろした。立ち上がる彼女の手首を、私は強く引っ張る。こちらに向けられる青色に、私は首を振った。緩く笑って、カトレアに教えてもらったことを――エミリアにとっては最悪だろう事実を伝える。
「この魔法も、一方通行なんだって。私からエミリアに余命を『移す』ことはできても、エミリアから私に『戻す』ことは、できない」
私の数字は、増えない。
エミリアの瞳がどんどん揺らいでいく。それを直視できなくて、私はまた目を伏せた。
「――……嘘だ」
頭上から、冷たい雨のような言葉が降ってくる。その声には、期待も希望もなかった。楽しさも嬉しさも、ない。
あるのは、大きな絶望だけだった。
「……ごめん」
「カトレアがお前をだましただけだ。戻せるに決まってる」
「あの人が、そんな嘘をついてどうするの?」
「……仮に戻せないなら。それを知っていて、どうしてあいつは」
「私が頼んだの。カトレアは何も悪くない」
「――っ!」
掴んでいた手が振り払われ、どん、と肩を叩かれた。……二回、三回、四回。叩けば叩くほど、彼女の力は弱くなっていった。
「――なんで、なんで、なんで!」
それと反比例するように大きくなっていた声は、やがてその勢いをなくした。私の肩に拳を乗せ、俯いたままでエミリアは小さく吐き出す。
「……なんで、こんなことをしたんだ」
脚から力が抜けたように、彼女はそのままぺたりと床に座り込んだ。両手で顔を覆い、細い肩を震わせる。ちょうど朝日が入り込んでいる位置に彼女の髪があるせいで、金色の髪はこの場にそぐわないくらい、綺麗に輝いていた。
「ごめん」
私は何度、この言葉を使うことになるだろう。計算もできないことを考えながら、エミリアの隣に跪いた。彼女は俯いたまま、小さく首を振っている。
「エミリア。私は……」
私は、とても残酷なことをしたのかもしれなかった。
死に怯える時間を、一か月から二十一年に延ばしてしまったのかもしれない。
恐怖と戦う時間を、二十一年も与えてしまったのかもしれない。
『他人の余命を貰った』という考えが、彼女にとってどれだけ重いのかも分からなかった。
それでも、
「私は、エミリアが死ぬのが、怖かった……!」
彼女の数字の少なさが。一秒ずつ減っていく数字を見るのが。彼女が削れていくのが。いつか手を繋げなくなる日が来るのが。私は怖くてたまらなかった。
耐えきれなかったのはエミリアではなくて、私の方だったんだ。
ぱたた、と床に雫が落ちる。私は両目をこすった。
泣く権利なんてないくせに。エゴを押し付けただけのくせに。酷いことを、したくせに。
夜空から降る雨は、ただ天候が悪いだけだ。何の意味もない。
「……あたしが」
泣きじゃくりながら、エミリアが声を出した。
「あたしが、変なことを言ったから。弱音を吐いたから。だからお前」
「違う。私が勝手に決めたの」
「あたしのせいだ」
「……違う」
「お前に未来を与えたいと言いながら、あたしがっ……あたしがいなければ」
「違う!」
彼女の肩に両手をかけて、こちらを向かせる。ぐらぐらと揺れる青空を、私は見据えた。
「初めて会った時。エミリアは、与えられてばかりだって言ったよね。だから私に未来を与えたいって」
エミリアは頷く。二粒、雨が落ちた。
「――私はもう、与えられてたんだよ」
だって、そうだ。私はオークションに出された時、死を意識していた。覚悟はできていなかったけれど、そんな未来しか予想できていなかった。事実、そうだ。あのオークションは、私ではなく私の余命を出品されたようなものだった。十三億と言ったあのおじさんに落札されていたら、私の未来は変わっていた。
「あの時エミリアが私を引き取ってくれなかったら、私はもう息をしていない。他の人に買われていたら、私はあの日、確実に死んでたの。――ねえ。エミリアは最初から、私にくれてたんだよ。四十二年以上も」
「――ちが」
「違わない。私はもう貰ってた。あなたから、未来を」
屁理屈だと言われてもいい。それでも。
「だから、私はそれを少しでも返したかった。すっごくわがままな方法だけど」
それでも私は、彼女に死んで欲しくなかった。
「――……半分くらいしか、返せなかったけど」
私の言葉に、エミリアは顔を歪ませた。彼女の左腕が動いて、私はぶたれる覚悟をする。けれど、違った。
エミリアは、私の数字を掴もうとした。
頭上にあるそれを、何度も何度も掴もうとする。はっきりと見えていて、平等に減っていく、その数字を。
けれども彼女の手は、ただただ宙を掴んだ。
知っているはずなのに。この数字は絶対で、掴むことなんてできなくて、止めることもできなくて。
この世界で生きてきた彼女なら、そんなこと知っているはずなのに。
「……エミリア」
それでも彼女は掴もうとする。止めようとする。
「エミリア」
それでも、数字はひとつずつ減っていく。残酷に、平等に。
「エミリア」
無我夢中で動いていた彼女の手が、止まった。腕が下ろされ、口元がぐうっと歪む。歪んだ口で何か言いかけて、けれどそれは言葉にならなかった。言葉は悲痛な叫び声になって、私の耳をつんざく。
アルコールの力を頼っても取れなかった最後の一欠片が取れたのだろう。叫び声と共に、大粒の涙がこぼれ落ちていった。「酔った」と言い訳した時とは、比べものにならないくらいに。きっと、子供でも滅多としないような泣き方だった。
十八年。彼女が一人で耐えてきた時間が、濃縮されたような雨粒だった。
抱きしめようとしたら、思いきり拒絶された。エミリアは叫ぶのをやめて、腕を突っ張り私を拒否する。
「……幸せにならなきゃいけない、なんて義務のように思わないで」
拒否されたまま、私はエミリアに声をかけた。エミリアは俯いたまま、身体を大きく震わせている。彼女が嗚咽を漏らすたびに、涙が一粒ずつ床に落ちた。
「私の分も幸せにならなくちゃとか、毎日ずっと笑顔でいなくちゃとか、そんな苦しいこと考えないで。悲しい時や苦しい時は、泣いていいんだよ。誰かを頼っていいんだよ。――無理して笑うのも、泣くのを我慢するのも、とてもつらいことだから」
エミリアから小さな声が漏れて、腕の力が抜けた。ゆっくりと彼女の身体をこちらに寄せる。今度は、拒絶されなかった。支えを失った彼女の身体は、たやすく私の腕におさまる。力強く抱きしめてもまだ、彼女の身体は震え続けていた。あるいは、私も震えているのかもしれなかった。悲しみも苦しみもつらさも、伝染してしまうから。
「……でもね」
続きを言うべきか少し悩んだ。けれど言いたかった。私は、わがままだから。
「重いと思われるかもしれないけれど……できる限り、笑っていてほしいと思う。無理やりじゃなくて。心から笑える時間が少しでも多ければいいなって、そう思う。――好きな人にさ、不幸になってほしいなんて思わないよ」
少しだけ泣き止み始めていた彼女の身体がまた大きく揺れて、小さな悲鳴が空気を震わせた。私の肩のあたりは酷く濡れていて、けれどそれはとてもあたたかかった。
青空から降る雨は、どこまでも清らかで、とても優しい。
私はそれを知っていた。教えてもらったから。
誰よりも強く、けれどとても弱い、彼女に。
「……あのね、エミリア」
輝いている金色の髪を梳かすようにしながら、私は声を出した。
「エミリアは鏡を見てないから、気付いてないと思うけど。私の余命、エミリアより五分長いの。ちょうど五分。秒単位で『移せる』って教えてもらったから、五分ずれるように調整してもらったんだ」
「――……なぜだ?」
囁くような彼女の声は、がらがらに掠れていた。私は微笑む。
「手。繋ぐって約束したでしょ」
私の腕の中で、エミリアの身体がびくりと動く。
ここに来る直前、神様ではなく私に言ってくれた願いごと。
「もしもエミリアが私のことを要らなくなってさ、離ればなれになる時が来たとしても。エミリアが死ぬ前に、手を繋ぎにいくよ。眠る時みたいに。エミリアがちゃんと眠るまで、しっかり握りしめておく。……嫌だったりしたら、やめるけど」
「お前、馬鹿じゃないのか」
エミリアはようやく顔をあげた。寝起きでもなかなか見られないような、いままでで一番ぐしゃぐしゃの顔を。それでも、それすらも綺麗だと思えるから、彼女はずるいと思う。
「あたしが」
そこまで言って、少し言いよどんだ。けれど今度は、私の目をまっすぐに見て、言いきる。
「あたしが、お前のことを要らないと言う日が来ると思っているのか?」
半分だけ笑ったその顔は、けれどやっぱり泣いていた。目を閉じると、雨が降る。私は人差し指で彼女の涙を拭った。
「……分からないよ、そんなの」
「いや、分かりきってる。あたしには分かる」
「素敵な王子様が現れて、結婚するかもしれないじゃない」
「お前以上に素敵な奴なんか現れるか、馬鹿」
意表を突かれた。私は思わず、意味もないまばたきを繰り返す。
「……エミリア、女に興味があったの?」
「ない。挨拶にキスをする習慣も、初対面の女とキスをする趣味もない」
「え、じゃあ、いまのは何」
「……お前、本当に馬鹿じゃないのか」
エミリアが眉間にしわを寄せて、こちらを見る。
「手を繋ぐのもキスをするのも。ナシロじゃないと嫌だと言ってるんだ」
――そこまでストレートに言われるとは思っていなくて、やっぱり虚をつかれた気分だった。呆然とする私に、「やはり馬鹿だ」とエミリアは言葉を刺す。
「こういう時、どうすればいいかも分からないのか?」
「え?」
どういうこと、という言葉は続かなかった。唇を塞がれたから。彼女の唇で。
柔らかな唇はかすかに塩気があった。この前キスをした時も、同じ味だったろうか。必死だったせいなのか、覚えていない。
そっと唇を離したエミリアは、今日初めての笑顔を見せた。半分の笑顔でもなく、いつも見せてくれる自然な笑顔を。
「まさかの三度目だな。言いたいことはあるか」
「……いつもあれだけ甘いもの食べてるのに、涙はしょっぱかった」
「当たり前だ、馬鹿。あたしをなんだと思ってる」
エミリアが、ふっと息を吐いて笑う。笑っているのに、まだ雨はやんでいなかった。
私はそっと、彼女の頬に手を伸ばす。
数字には触れられなくても、その頬に触れることはできた。
数字を止めることはできなくても、涙を止めることはできるかもしれなかった。
無理やり泣きやめとは言わない。けれどやっぱり、笑ってほしい。思いっきり泣いた後は、思いっきり笑ってほしかった。
私の意図に気付いたのか、エミリアは私の手に自分の手を重ね、首を傾げた。
「……お前こそ、いざと言う時は言え」
「なにを?」
「素敵な男が現れた時だ。女には、興味ないんだろ?」
今度は私が、眉間にしわを寄せる番だった。
「エミリア、馬鹿なの?」
「お前に馬鹿と呼ばれる筋合いは」
ある。だから、その口を塞いでおいた。当然、手は使わずに。
私のしたことは、正しくない。最善でもない。
『あなたの願望は……多くの希望と、大きな絶望をもたらします』
エミリアを救えた、なんて単純な話ではなかった。私は、彼女を酷く傷つけた。怖がらせたかもしれない。私の数字が減っているのを見た時、彼女はきっと絶望したはずだ。
アルバートの望み通りにできた訳でもない。エミリアのパパの余命は三十二年あるから、『最期を看取ってもらいたい』という彼の願いを叶えることもできない。お嬢様をお願いしますと言っていたカムパネルラさんも、きっとこんな結末を望んではいなかっただろう。
私は、中途半端な道を選んだ。
唯一叶えることができるのは、『エミリアが死ぬ時に手を繋ぐこと』だけかもしれない。
この事実を知ったら、多くの人が悲しむのだろう。絶望するのだろう。
それでも。
選んだ未来に、『多くの希望』があることを、信じたかった。
大きな絶望より、ひとつでも多い希望があることを、信じたかった。
私には、選択肢がいくつかあった。
エミリアに余命をまったく移さず、彼女の最期を看取るか。
私の余命をすべて、彼女に移してしまうか。
彼女の方が長く生きるように調整して、余命を移すか。
同時に死ぬようにするか。
私の方が少しだけ長く生きるようにして、彼女の最期に付き添うか。
どれを選ぶのが正しくて、どれが最善だったのだろう。
『誰もが絶対的にしあわせになる道は、ありません』
その道を、私はやっぱり見つけられなかった。
そんなものがあったのかどうかも、分からなかった。
壁にもたれたまま、二人で手を繋ぐ。太陽が確実に高くなり始めていて、日の当たる位置が変わってきていた。――樹海ちゃんとカトレアも、きっともうすぐ帰ってくるだろう。
「……ねえ」
私が声を出すと、エミリアがこちらを向いた。
「これから、どうしようか」
アオキ・ガ・ハラ・ジュカイに行く。それ以降はノープランだった。
「お屋敷に帰る? それとも、もう少し旅を続ける? いっそ、このまま旅人になっちゃう?」
選択肢は山のようにあった。きっと、どの道にもつらいことは沢山あって、楽しいことも沢山あるのだろう。
エミリアはしばらく黙っていた。けれどやがて、薄く口を開く。
――その答えを聞いて、私はそっと微笑んだ。




