残酷な決断
死者の霊魂が集まる森。
足を踏みいれれば、二度と戻れない場所。
そんな場所に何千年も一人でいたカトレアは、ある時思った。
「言葉を使うのは、どういうものなのかと……。わたしは、生まれた時から一人でした。自分がどうやって生まれたのかも分かりません。気づけばここにいて、名を持っていました。――木や花には、感情があります。けれど、言葉を持っていません。わたしは誰かと話したことがなかったんです。知識として言葉を知っていて、けれど使ったことはなかった」
擦りきれたはずの『寂しい』という感情は大きくなった。それと反比例するように、『言葉』を忘れてしまいそうで怖くなった。
「この世界の人ではなく異世界の人なら、わたしと話してくれるかもしれないと思ったんです。当時、わたしは『森に潜む怪物』として、この世界の住人に恐れられていました。死者の霊魂を食べる化け物だと。……けれど、そんな噂も知らない異世界の人なら、わたしとお話してくれるかもしれないと、そう簡単に考えたんです」
そうして彼女は、この世界で初めて転移魔法を成功させた。
「この森に飛んできた人は、男の人でした。細くて、けれど力強い方。その方が、最初に言ったんです。『ここはジュカイか?』と」
「それって……」
私の言葉の続きを察して、カトレアは頷いた。
「彼は、ニッポンという世界にいたのだと言っていました。……ナシロさんと同じ場所でしょう」
「じゃあ、この森の名前も」
「――彼のいたニッポンの未来を、わたしが勝手に『見ました』。有名な森に、アオキガハラジュカイという名前がついていて……。それで、わたしもこの森をそう呼ぶことにしたんです。それがいつしか魔導士に伝わり、そこから世界中に広まっただけです。この森には昔、名前なんてありませんでした。強いて言うなら、死者の森です」
入ったら出られなくなる。自殺志願者の行く場所。アオキガハラジュカイ。
名前とイメージが一致しているから私たちは勝手に、こちらの世界の『アオキ・ガ・ハラ・ジュカイ』と、私の世界の『青木ヶ原樹海』が繋がっているのだと思いこんだ。それはある意味アタリで、ある意味ハズレだった。実際は両者ともただの森で、名前が一致していただけだ。
カトレアは昔を思い出したのか、少しだけ笑った。
「彼は、とても気さくな人でした。わたしのことを、怖いとも言わなかった。髪の色も目の色も耳の形も、まったく違うのに。ニッポンで経験した面白い話を沢山してくれて、いつも笑いが絶えませんでした。けれどある日、彼がぽつりと言ったんです。ニッポンはいまどうなっているのだろうか、と」
そこでカトレアは初めて、送還魔法を作っていないことに気付いた。
馬鹿だったんです、とカトレアは自嘲気味に言った。
「彼を元の世界に戻そうと、何度も試みました。けれど駄目なんです。元の世界に戻る魔法を考案して、その魔法を使った未来を確認する。……彼は、常に消滅していました。世界Aから世界Bに転移する時に起こった反応を戻すことが、どうしてもできなかったんです。わたしは、万能ではなかった。どれだけ魔法を使えても、わたしは神様ではないんです。そうしている間に、彼の数字はどんどん減っていきました。そして……」
カトレアは大きく息を吐いた。
「――そこからはイタチごっこでした。誰かがわたしの記憶を『盗み見て』、転移魔法を広めた。わたしは転移魔法を知る者たちから、その記憶を『盗み取る』作業を延々と続けました。けれどまた、誰かがわたしの記憶を『盗み見る』。盗みに長けた魔導士は、わたしが思っていた以上に狡猾だったんです。それを繰り返しているうちに、転移魔法や余命を移すという話は、一般人にまで広まってしまった。……わたしの力ではもう、どうしようもなくなってしまったんです」
新緑の瞳が、すっと横を見る。ひとつだけあいている、席。
「……わたしが。寂しいなんて思わなければよかったんです。転移魔法を考えなければよかった。わたしは、誰のことも考えていなかったんです。愚かでした。そして、いまも」
わたしには、あなたたちを救うことができません。
カトレアはそう言って、頭を深く下げた。
話し終える頃には、日はすっかり沈んでいた。ランプに明かりをともしながら、「今日はここで休んでいってください」とカトレアは言う。エミリアは首を振ったけれど、私が「泊まろう」と言うとようやく頷いた。これまで見たことがないくらいの、無表情で。
本来なら何も食べないはずのカトレアは、スープを用意してくれた。料理の仕方はどうやって覚えたのだろうかと思ったけれど、すぐに思い当たる。転移してきた男性が教えたのだろう。そのせいか、カトレアの料理はどこか和風だった。
「……そちらの世界では、炊いたコメを主食にしていると聞きました。同じ穀物なのに、主食がまったく違うんですね」
なんとなく肉じゃがのようになっているポトフを食べながら、カトレアが微笑む。
エミリアは、カトレアの料理を一口も食べようとしなかった。
食後、二階の部屋を使うようカトレアに言われ、私とエミリアは階段をのぼった。階段の先は、一つの部屋と直結していた。
ふたつある窓から月明りが差し込んでいて、けれどそれだけでは暗い。私は、自分のランタンに明かりをつけた。部屋の奥には、かつて使っていたのだろうベッドがふたつある。私たちが来るのを『見て』事前の干してあったのか、布団からは日向の匂いがした。
無表情だったエミリアは、ひとつのベッドに座った。ベッドの上に乗り、そのまま体育座りをする。私はもうひとつのベッドに腰掛けた。樹海ちゃんはカトレアと意気投合したのか、彼女の元を離れようとしない。
終始無言だったエミリアがようやく口を開いたのは、ベッドに座ってから十分ほど経った頃だった。
「……あたしは、諦めるつもりはない」
私はエミリアに目を向ける。彼女は前を見たまま、微動だにしなかった。
「カトレアが知らないだけで、何か方法があるかもしれない。少なくとも、元の世界に戻す魔法自体は存在しているんだ。お前の身体を元の世界に順応させる方法も、きっとあるはずだ」
「――エミリア」
「一か月以上ある」
エミリアは確かめるように言った。一か月以上ある。
まだ一か月ある。けれどそれは、あと一か月しかないとも言えた。
アオキ・ガ・ハラ・ジュカイ。人が滅多と訪れないような神聖な場所に来てもなお、頭上の数字は減り続けている。一秒が、一分が、一時間が。どれだけ早く通り過ぎていくのか、よく分かる数字だった。
エミリアは、自分に言い聞かせるように呟く。
「カトレアがすべてとは限らない。それは、あいつ本人が言ったことだ。あたしは諦めない」
それは、とても絶望的な言葉だった。
きっと本当は、エミリアも分かっている。カトレアは、神様のような存在だ。空気に触れただけでわかるくらいに。そんな彼女がすべてのことを試したうえで、『転移者を戻す方法はない』と結論付けた。
寂しいという気持ちを神様が抱くのかどうかは分からない。けれどだからこそ、彼女は誰よりも人間に近い神様だった。ただのエルフでもなく。
確かに、カトレアが絶対ではない。
けれど、彼女を超えるものはきっといないだろう。それこそ、神様しか。
「……エミリア、私は」
「明日、ここを発つ。次は、有力な魔導士を徹底的に当たろう。あたしは絶対に諦めない。――お前の未来を、削りたくない」
だが、もしも。エミリアは自分の爪先を見るようにして、呟いた。
「もしも駄目だったら。……その時は、お前とジュカイがフロディーテ家で生活できるよう手配しておく。お前を転売することだけは防がないと、…………」
エミリアは唇を噛んだ。いま、私の『所有者』はエミリアだ。もしも彼女が死んだら、私の所有者は空白になる。そうなると、再びオークションに出される可能性があるのだろう。
エミリアが心配しているのはどこまでも、私のことだった。
「ナシロ」
彼女は俯いたまま、私の名を呼ぶ。そこに滲む不安はどこからくるものなのだろうかと、少しだけ思った。
「なに?」
「そっちに行ってもいいか」
「……うん」
いつもより、月明かりが穏やかに感じられた。特別な場所だからなのか、私の主観なのか。太陽よりも月の方が冷たく見えるのに、優しいとも思えた。
私の隣にやってきたエミリアは、そっと横になった。先程とは逆に、私がベッドの上で体育座りをする形になる。
「……寝ないのか?」
「もうちょっと起きてる。樹海ちゃんも戻ってこないし」
「そうか」
エミリアは眠れるだろうか。彼女は口元まで布団にくるまり、私の手をそっと握ってきた。その手を握り返して、彼女が眠るまで待ち続ける。その不安が、恐怖が、焦りが。意識と共に、溶けるまで。
彼女の手がすとんと布団に落ちるのが、いつもの合図だった。今日も、そう。その時が来るまで、どれだけ待ったかは分からない。夜はすっかり更けていて、獣たちもその息を潜めているようだった。
ちらりとエミリアを見る。うなされている様子はなかった。規則正しい呼吸を繰り返している彼女が、月明かりのような優しい夢を見ていればいいのにと思う。
あいている手で、彼女の頭を撫でた。反応はない。それを確認して、私はそっとベッドから降りた。
――さいぜんのほうほうなんて、ないんですよ。
いつか、女の子に言われた言葉を思い出す。
――これから先、あなたがえらぶこうどうは、きっと正しいし、けれどもまちがえているでしょう。それでも……えらんでください。えらばなければいけないときが、きたのなら。
階段をおりると、食事の時に座っていた場所にカトレアはいた。樹海ちゃんを撫でていた彼女は、ふっと顔を上げる。そうして微笑む彼女を見て、私も微笑み返した。
カトレアはきっと、私がここに来るのを知っていた。
「……眠れませんでしたか」
けれど彼女は、それを言わない。私は頷いた。
「カトレアは、寝ないんですか」
「眠りを必要としないので。ただ、たまに眠ってみる時はあります。人といた時は、一緒に眠るようにしていました」
私も食事の時と同じ席に座り、カトレアと向かい合う。カトレアは私を見て微笑んだまま、
「ちょうどいいので、少し外を見てください」
窓の外を指さした。つられて、外を見る。
「――……綺麗」
外には、蛍のようなものが飛んでいた。月に向かって飛んでいるように見えるし、踊っているようにも見える。数えきれない光は、暗闇を照らすように宙を泳ぎ、消えていく。その小さな球体は、ホタルバナを彷彿させた。
見たことのない景色は、それでも不思議と怖いとは思わせなかった。
「この森に、死者の霊魂が集まると言われるゆえんです。実際は、ここにしか生えないきのこの胞子ですが」
カトレアは寂しそうに笑った。ふわふわと舞う胞子は時折窓に付着して、淡い光をこちらに向ける。
「この森に死者の魂が集まる、というのは嘘なんですか」
「仮に集まっているのだとしても、わたしには分かりません。死者の魂がここにいると分かっていたのなら。……わたしも、寂しいとは思わなかったかもしれませんね」
カトレアは窓の外の、それよりもずっと遠くを見ていた。
誰もいない場所にいる、カトレアにしか見えない誰かを、見ていた。
「……あなたなら、できるんですよね?」
私の言葉に、カトレアは窓の外からこちらへと視線を向けた。樹海ちゃんも、こちらを見る。
「私の考えていることが間違えているかどうかも、あなたなら分かりますか」
私の思考をカトレアが見抜いているのを前提に、話す。彼女はそれを望んでいないはずなのに、私の言葉に答えてくれた。
「正しいとは言いません。けれど、間違えているとも言いません。あなたの願望は……多くの希望と、大きな絶望をもたらします。それは、あなた自身も分かっているのでしょう?」
「……はい」
「その人のためを想ってしたことが、その人のためになるとは限りません。あなたがどの道を選んでも、これはつきまといます。……誰もが絶対的にしあわせになる道は、ありません」
私の表情に気付いた樹海ちゃんが、小さく鳴く。歌ったのか鳴いたのかは分からなかったけれど、「らんらんるぅ」という声だけは聞こえた。私は樹海ちゃんの頭を撫でる。樹海ちゃんは俯いたきり、それ以上何も言わなかった。
「……もしも私が『それ』を頼んだら、カトレアにも迷惑がかかります」
私の言葉に、カトレアはくすりと微笑んだ。
「気にしないでください。嫌われるのには慣れています。それにわたしは、あなたにも償うべきです」
もちろん、エミリアさんにも。カトレアはそう言って、私の目を捉えた。夜でも冬でも枯れることのないだろう、緑。
「あなたが望むのであれば、わたしがそれを叶えましょう。ただ……あなたは『正しく』はありません。わたしが言ったことを、どうか忘れないでください」
――多くの希望と、大きな絶望。その言葉に、私は頷いた。
カトレアは再び、窓の外を見た。
消えてしまいそうな、消えてしまいたいと思っているような顔で。
樹海の朝は、清々しい空気に包まれていた。汚染されていない空気のせいか、遠くの景色までよく見える。夜、あれほど飛んでいた胞子は見えなかった。
空は青く、雲ひとつない。冬の気配がする日差しは柔らかく、部屋の一部を照らしていた。
私はベッドに座り、エミリアの手を握りしめていた。エミリアはいつも、朝早くに起きる。私の方が早起きした回数は、数えるほどしかなかった。
今朝は、彼女が寝坊したのではない。私が一晩中、眠らなかった。
自分で決断しておいて、怖かったから。
朝の散歩に行くと言っていたカトレアと、彼女についていった樹海ちゃんが帰ってくる気配はない。きっと、私たちに気を使っているのだろう。私はカトレアにも悪いことをした。
私の決断は、正しくない。それは自分自身、よく分かっていた。
ん、と小さな声がして、エミリアが身じろぐ。ゆっくりと開かれた双眸はまず、握りしめられている自分の手を確認したようだった。
「おはよう、エミリア」
できる限り、いつも通りの声を出す。それでも少し震えてしまった。気付かれたかどうかは分からない程度に。
エミリアはぼんやりとした表情で、私の姿を確認する。
「――おは」
よう、とは続かなかった。
一気に覚醒したのか、両目を見開きこちらを見る。見ている先は、私の表情ではなくて。
ベッドから飛び起きることはなかった。私の手を握り返すことも、ない。
ただ愕然と、エミリアはそれを見つめていた。
「なん、で……」
彼女の言葉に、私は微笑む。
微笑みながら、エミリアの数字を見た。
『21y 1m 26d 12h 10m 34s』
――私は微笑む。
彼女の青い瞳に映っている数字を、私はたやすく思い浮かべることができた。
『21y 1m 26d 12h 15m 34s』
それは残酷なくらいに簡単で、単純で、明確な数字だった。




