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その空に未来を捧ぐ  作者: うわの空
第七章
29/33

アオキ・ガ・ハラ・ジュカイ

 馬車と景色が揺れる。

 樹海に近づくほど、少しずつ空気が冷たくなっている気がした。現に冷えている。十月なのに、馬車を引く馬の息は白かった。

 馬車の中が、そこまで急速に冷えるとは思えない。けれど何故か、私は気温の変化に気付いていた。エミリアも感じたのか、小さく身震いする。

 人工的な建物はなくなり、周囲はどんどんと自然に染まっていった。空気が冷えているのは、道が木で覆われ、影が多いせいかもしれない。

 あるいは、『死者の魂が集まる場所』という意識のせいなのかもしれなかった。


「……寒いな」


 エミリアが呟く。彼女の右手を見ると、手のひらを上に向けた状態で、椅子の上に置かれていた。分厚いコートを羽織っているのにその指は震えていて、それでもポケットに入れて暖を取ろうとしない。なんとなくその意味を悟って、彼女の手の上に自分の手をのせる。エミリアは、何も言わなかった。


「お姉さんたち、テントか何か持ってきてんのか?」


 馬車の御者が私たちに声をかける。「持っていない」と答えると、恰幅のいいおじさんは驚いたようだった。


「先に断っておくが、ジュカイ行きの馬車は一日一本だ。同様に、ジュカイから街に戻る馬車も一日一本。今夜、どうするつもりだ。ここいらには、宿泊施設もないぞ」


 何も考えていなかった。今まで幸運にも野宿を免れてきた私は、キャンプだとかテントだとか、そういう考えを一切持っていなかったのだ。エミリアはどう考えていたのだろう。

 おじさんは親切なのか商売上手なのか、「なんならテント貸すぜ。有料だけどな」と提案してきた。そして、付け加える。


「ただ、二人で寝るには狭いと思うぜ。二人で野宿するつもりなら、ふたつ貸すぞ」


 エミリアの顔を見る。彼女は前を向いたまま、私の方を見ようとはしない。そしてはっきりと、おじさんに言った。


「ひとつ、貸してくれ」



 お酒の街から樹海までは、馬車で四時間ほどかかった。いざ到着しても、そこから『カザアナ』まで更に距離があると言われ、結局私たちは五時間ほど馬車に揺られることになった。

 エミリアは最初こそ無言だったけれど、途中から話すようになった。私も比較的よく話した。話す内容は、どうでもいいことばかりだ。猫のどういうところが可愛いとか、好きなケーキの種類だとか。

 私はあえて、くだらない話ばかり振った。エミリアはそれを止めない。

 二人とも、いま向かっている場所については、一切言及しなかった。


 もしも樹海で、帰る方法が見つかったら。

 樹海ちゃんを肩に乗せるのは、今日が最後かもしれなかった。

 エミリアと馬車に乗るのは、これが最後かもしれなった。

 こうして、二人で話をするのも。


「……もしも、さ」


 避けていた話題を、私はあえて口にした。


「エミリアも一緒に日本に転移できる、とかだったらどうする?」


 エミリアは、ちらりと青い瞳をこちらに向ける。私の左手首を飾っている石と、同じ空色。


「……チョコの噴水は、見てみたいな。ケーキが食べ放題になるという店にも行ってみたい」

「葉っぱのついてる桜も見なくちゃね」

「道を自由に歩く、野良猫たちも気になるな」

「下着屋さんに行ったら、エミリアは倒れちゃうかもね」

「否定はしない」


 エミリアは薄く微笑む。


「……お前と一緒にニッポンに行くのも、悪くないな」


 けれど、一緒に行きたいとは言わなかった。

 私のポケットから頭だけを出していた樹海ちゃんが、きゅうと鳴く。それに気づいたエミリアが、樹海ちゃんに言い聞かせるようにした。


「ナシロがニッポンに帰ったら、あたしがお前と共に過ごそう。そして、あたしが」


 少し間をあけて、口を開く。


「あたしが死んだ後は、フロディーテ家に住むといい。口うるさい執事も多いが、悪い場所ではない。お前の好きな菓子も、毎日食べられる。おすすめは、アップルぐつぐつ凍り牛乳添えだ」


 エミリアが笑い、樹海ちゃんが「きゅん」と小さく鳴く。それは、嬉しそうな声ではなかった。



 御者のおじさんから折り畳み式のテントを貸してもらい、馬車を下りる。幅を取るテントは、樹海ちゃんが持ってくれた。おじさんは「明日またここを通るから、乗るのなら午後三時くらいにここに来な」とだけ言って、さっさと出発していった。私たちの事情を、一切詮索しようとしない。きっと、訳ありなのは分かっているのだろう。

 カザアナと書かれた木の看板はすっかり古ぼけている。その横にある看板は倒され、踏まれた形跡があった。倒された看板に書かれている文字を読む。



 数字がゼロになるまで希望は捨てるな

 数字がゼロになっても自分を捨てるな

 数字がゼロになる理由を自分で作るな

 数字がゼロになる瞬間をここで過ごす

 それでいいのか、よく考えてみよう。



 ……青木ヶ原樹海にも、自殺を呼び止める看板があるという噂は聞いていたけれど、こっちの世界でもあるのか。寿命が見えているからといって、自殺を推奨する世界ではないのだ。

 私がそれを見ていることに気付いたのか、背後からエミリアもその文字を覗いていた。


「…………」


 彼女はそれをしばらく無言で眺めたかと思うと、看板を持ち上げようと両手を伸ばした。けれど看板に触れる前に、手を止めた。一点を見つめたまま、動かなくなる。


「……エミリア?」


 彼女が覗き込んでいるのは、文字の書かれていない空白の部分だった。けれどよく見ると、ナイフか何か、鋭利なもので削ったような文字が書かれていた。



 生きたかったよ



 小さな文字は、その一言しか書いていなかった。

 エミリアは何も言わず、看板を持ち上げようともせず、私へと顔を向けた。


「行こう」


 笑っているはずなのに、その表情は無に等しかった。



 けもの道を広くしただけにも見える、人の手によって作られたのだろう道を歩く。周囲にあるのは枯れたような木々と、落ち葉と、木の根ばかりだ。全体的に色がなく、茶色ばかりが目立つ。実際は緑色も沢山あるのだけれど、何故かやたらとくすんで見えた。

 夏に来ればもっと、深い緑が見れたのかもしれない。けれど秋であるいま、森は呼吸の仕方を忘れているようだった。この世界に紅葉がないのか、それとも色のつく木がここにないのか、楽しんで歩けるような道ではない。ハイキングコースにしては、酷く寂しい場所だった。


「……お前、文才はあるか?」


 エミリアがふいにそんなことを言いだして、私は首を傾げた。


「どうして?」

「ニッポンに帰ったら、この世界のことを小説にすればいいと思ってな。きっと売れる」

「……リアリティあるファンタジーが書けるだろうね。あいにく、文才はないけど」

「書く時は、あたしのことはとびきりの美人にしておいてくれ」


 ――冗談だ、と笑うエミリアに、私は真顔で返す。


「そんな脚色しなくても、美人のくせに」


 エミリアは私を見て、かと思えば私の額を軽くつついた。


「……ニッポンに帰ったら、眼鏡を買うといい」

「視力は悪くないけど、私」

「いや、悪くなっている。この世界の影響かもしれん」


 眼鏡を買うんだぞ、とエミリアは念を押すように言う。私はそんな彼女に、「鏡を買ったら?」と返したかった。けれど、やめた。

 この世界で最初に鏡を見せられた時の、――数字を見た時の恐怖を、私は知っていた。そして、そんな私と共に過ごしてきた彼女も、その恐ろしさに気付いてしまっていた。

 その数字がいかに不公平で、平等で、親切で、残酷なのかを、知ってしまっていた。



 遊歩道として作られたのだろう道を歩いていると、ふつりとその道が途切れた。厳密に、ここが終わりですと書かれていたり、道が消失している訳ではない。けれど直感的に、この先には道がないと理解できた。この先に進んではいけない、ということも。

 エミリアも同じものを感じ取ったのだろう。彼女は私の目を見て、確認するように言った。


「考える単語は『カトレア』。会いたいと願え」

「うん」

「まっすぐに進めばいい」

「うん」


 そこまで言って、少し考えて。


「一人だけ支配人の元にたどり着いて、一人だけ迷子になったら洒落にならん」


 私に、右手を伸ばした。私は頷いて、左手を出す。

 黒い石と青い石が、寄り添った。



 道もない場所を、二人でひたすらまっすぐに歩く。まっすぐ、は主観だ。実際はきっと、直線を引くように歩けてはいない。その証拠に、私もエミリアもことあるごとにバランスを崩した。木の根や大きな石が、行く手を妨害するように足元にあるのだ。特に、私は運動音痴になっている。エミリアに半分引っ張られるようにして、森を歩いた。

 どれだけ歩いても、景色は劇的に変わったりしない。暗い色の木と葉と土が続くだけ。空は、木々に遮られていてよく見えない。死体を見つけるということはなかったけれど、変わったものを見つけることもなかった。


 カトレア、と考える。支配人と言われているものの名前なのか、それとも呪文なのかは分からない。カトレア。会いたい。会いたい。……誰にだろう、カトレアに? 支配人に?


 ――私が余計なことを考えているせいなのか、支配人に会えそうな気配はない。下手をすれば野宿になるかもしれないと思う。こんな場所で野宿になったら、と考えると恐ろしかった。野獣が出るかもしれない。死者の魂が集まるというのだから、幽霊に会う可能性だってある。

 もしもこのまま支配人にたどり着けなかったとして、私たちが『カザアナ』に戻れるかどうかも怪しかった。カザアナを出発してから二時間以上、歩いているはずだ。日は暮れ始め、周囲は一層暗くなっている。今から引き返すのも、もう遅いだろう。


「……すまない」


 エミリアが立ち止まり、私は顔を上げた。


「カトレア以外の……余計なことを考えていた。なかなか辿り着かないのは、あたしのせいかもしれん。何かを考えるのは、もうやめる」


 心底申し訳なさそうな彼女の顔に、私も頷いた。余計なことを考えていたのは、私も同じだった。カトレア。今はそれだけを考えなければならない。

 再び歩き出す。今度こそ、何も考えないようにして。

 カトレア、カトレア。会いたい。

 まるで『こっくりさん』でもやっているようだ、という意識をすぐに払いのけて、カトレアに専念する。そうして三十分ほど、無言で歩き続けた。頭をできる限り空っぽにして、二つの単語をただ繰り返す。

 カトレア、カトレア、会いたい、カトレア。


 ――カトレア、会いたい。


 ぱきん、と音がした。

 それはただ単に私が木の枝を踏んだからで、なんてことはない音だった。なのに、暗示から解けたような気がした。

 こちらを見ているエミリアも、同じような顔をしている。その後、二人で前を見て、


「……あ」


 同時に、声を漏らした。


 急に、開けた場所に出た。鬱蒼としていた森の中を、ほんの一部だけ開拓したような場所。けれどそれは、自然にできた土地のようだった。木々がそこだけを避けているように見える、丸く開いた土地。

 その中央に、家があった。一人で住むには少し広い家。けれど、三人だと狭いだろう家が。藁ぶきの屋根で出来た木造住宅は、日本のそれとはまた少し違っていた。三匹の子豚の誰かが作ったような、質素なつくり。けれど、煙突がちゃんとついていて、生活感はあった。

 家の周りには、色とりどりの花が咲き誇っている。今朝見たステンドグラスよりも、色鮮やかな花々。ついさっきまで歩いていた道には、一輪だって咲いていなかったのに。かすかに吹く風にあわせて、色が揺れた。

 教会を見た時、私は『神様のいる世界を、人間が精いっぱい表現したよう』だと思った。

 けれどここは本当に、神様が住んでいるのかもしれないと思える場所だった。空気が、風が、景色の色が。何もかもが、そして何かが、違う。


「……これ、か?」


 エミリアが口にした疑問文は、もはや確認に近かった。間違いない、という語尾がつくような疑問文。私は「多分」と不明瞭に答えて、けれども内心では確実にここだと意識していた。樹海ちゃんを確認する。折り畳み式テントを両手に持ち、ちたちたと飛んでいた樹海ちゃんは、ちゃんと私たちの後ろにいた。


「もう少し近くまで行ってみよう」


 エミリアが私の手を引っ張る。私はもたつきながら、後に続いた。何故か、近づくのが怖いと思えた。ここは神聖な場所だと、本能的に感じ取ったのかもしれない。

 木でできた扉の横に、小さな窓があった。無礼ながらも、そこから中を覗く。

 ――キッチン。テーブル。椅子。暖炉。

 物はあるけれど、人はいない。けれど物があるから、人が住んでいるのは安易に予想できた。

 もう一度、家の中を覗く。椅子は四脚。ここに住んでいるのは何人なのだろう。少なくとも家の大きさを見る限り、部屋数はそう多くない。


「――何か御用ですか?」


 背後から声をかけられて、私は飛び上がりそうになった。エミリアですら、その身体を大きく震わせた。けれど悲鳴を上げなかったのは、その声があまりにも綺麗で、儚げで、風のように流れていったからだ。変な話だけれど、背後から声をかけられたことよりも、その声の純粋さに驚いていた。

 そっと、声の方を向く。エミリアも私と同じタイミングで、後ろを向いた。

 花に囲まれるようにして立っていたのは、一人の女性だった。

 緑というには薄く、黄緑というには濃い色の髪。新緑のようなそれは胸のあたりまであり、毛先だけ緩いパーマがかかっている。髪と同じ色をした瞳は、まるでビー玉のようだった。人間の中にある負の感情をすべて取り払ったら、こんな色を出せるのかもしれない。そう思えるくらいに、その瞳は澄んでいた。

 肌は白く、全体的に線が細い。彼女の白いワンピースは飾り気がなく、けれど左手首に、細い金のブレスレットが巻かれていた。

 私やエミリアよりも、確実に年上だろうと予想できた。けれど、何歳なのか分からない。二十代後半くらいに見えるけれど、それ以上にも見えた。


 何故かは分からない。けれど私は、その人を見て泣きそうになった。不安や恐怖ではなく、安心や安定がそこにはあった。いま会ったばかりなのに、何年も前――生まれる前から知っていたような、なつかしい空気。すべてを、包み込むような。


「驚かせてしまったなら、ごめんなさい」


 その人は困ったように笑った。――いや、人ではないのだろう。

 彼女の耳は長く、そして尖っていた。何より、彼女の数字よめいは見えなかった。

 リザードマンが出てきたゲームに、そういう妖精がいたのを思い出す。これ程可憐だった覚えはないけれど。

 エミリアが思い出したように、声を出した。


「……お前が、ここの支配人か?」

「何故かそう呼ばれているのですが、わたしはこの森や、ここに来る霊魂を支配している覚えはございません。わたしは、この森に住み着いているただのエルフですよ。けれど、そうですね。人より少しだけ、物知りかもしれません」


 エルフは微笑み、「寒いですし、よければ中でお話しませんか?」と扉を開ける。何かは分からないけれど、家の中からふわりといい匂いがした。嫌味のないポプリのような。


「申し遅れました」


 エルフはひらりとこちらを向き、すっと頭を下げた。流れるような動作とともに、言葉を発する。


「カトレアと申します。人と接するのは百年ぶりですので、至らぬ点は多々あるかと思いますが――どうぞよろしくお願いいたします」


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