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その空に未来を捧ぐ  作者: うわの空
第六章
28/33

抑えこんでいた言葉

 恐怖や悲しみは伝染する。

 エミリアの変化は、私のせいかもしれないと思った。彼女は、何か月も私と一緒にいたのだ。異世界の住人だった私と共に、過ごした。――影響を受けない方がおかしいのかもしれない。


「……お前は、あと四十二年で死ぬ」


 呟くように、確認するように、エミリアは言った。私は「うん」と声に出して答える。彼女が私の肩に額をのせている限り、頷いても見えないだろう。


「何か月も前に、お前はそれを理解した。それでも……まだ死ぬのが怖いか」


 彼女の声が、少しずつその色を変える。それに気づきながらも、私は肯定した。

 四十二年後に死ぬ。まだまだ先の話だと笑われるかもしれない。けれど、その現実を突き付けられた時からいままでずっと、不安だった。

 数字はひとつずつ減る。一秒ずつ、馬鹿のように丁寧にカウントしてくれる。死ぬまで。数字が、ゼロになるまで。

 いつ来るか分からない死を恐れるのとはまた別の意味で、それはとても怖かった。

 私の肯定に、エミリアはふっと息を吐いた。笑ったのか、それとも違う意味だったのか。


「……ニッポンにいるのは、お前みたいな奴ばかりか?」


 それは分からなかった。寿命が見えることで、安心する人間もいるかもしれない。私は『数字』が怖いと思うけれど、私の意見が多数派だとは限らないだろう。

 エミリアは私の沈黙を肯定だと捉えたらしい。細く息を吐いて笑った。私の腕が、彼女の吐息で若干熱く、湿っぽくなる。


「――……だとしたら、無様な生き物だな」


 おかしそうに、エミリアは笑った。その肩が小刻みに震える。


「無様で、みっともなくて、恰好の付かない奴らだ。みじめにも程がある」


 おかしそうに笑うその声は、けれど楽しそうではなかった。

『それ』を嘲るようにエミリアは笑う。笑いながら、言葉を繋げた。


「みじめで、情けなくて、どうしようもない人間だな。そんな馬鹿、」


 不自然なところで、言葉が途切れた。

 彼女の唇を、私が塞いだからだ。私の唇で。

 死を恐れるのは無様で、みっともなくて、格好がつかない。みじめで、情けなくて、どうしようもないくらいに馬鹿で、そして。

 ――それ以上、言ってほしくなかった。それは決して、日本人や私を馬鹿にするなという意味ではなくて。


 自分自身を、その感情を、否定してほしくなかった。


 彼女の口を塞ぐのに、どうして手を使わなかったのだろうと、ぼんやり考えた。

 重ねた彼女の唇は驚くほどに震えていて、けれどそれはきっと私も同じなのだろう。むしろ震えているのは私の方で、それすらも彼女に伝播でんぱしたのかもしれなかった。

 ゆっくりと唇を離す。エミリアは驚いたような、呆けたような表情をしていた。まばたきをした拍子に、涙が一粒こぼれ落ちる。滲んだ青空に、私は微笑んだ。


「……酔った」


 この部屋で、四度目の言葉いいわけが使われる。四度目にそれを言ったのは、私だった。

 エミリアは口元に手を当て、今度こそ少しおかしそうに笑った。


「――まさか、最初で最後のキスが女相手だとは思っていなかった」

「最初で最後?」


 私が眉をひそめると、エミリアは「だって」と呟いた。二粒めの涙が落ちて、私は「だって」の続きを悟る。何故か悔しくなって、もう一度キスをした。今度はすぐに唇を離して、至近距離でその空を見る。


「……二回目。最後じゃなかったでしょ」


 馬鹿みたいな言い分だと、自分でも思った。エミリアは一瞬だけ情けない顔で笑って、それから両手で自分の口を塞いだ。閉じられた目から次々と涙があふれる。私は彼女の頭でも肩でも背中でもなく、その手に触れた。言葉を抑えこもうとしている、その両手に。

 自分の気持ちを否定して欲しくなかった。いままで我慢していたものを、すべて吐き出してほしい。せめて今夜だけでもいいから。いま、この瞬間だけでもいいから。


「……こわ、くないのに」


 口元から手を離し、エミリアはどうにか言葉を絞り出した。彼女の口からは聞いたこともないような、がたがたに揺れた声で。


「自分がいつ死ぬかなんて、分かってたからっ……怖くな、いのに、……っ」

「ゆっくりでいいから」


 悲しいくらいに震えている指を握りしめる。彼女は嗚咽を漏らした。


「いま、いまだってそうで、怖いと思ってるわけじゃないんだ。人間は、いつか絶対に死んで、それがいつなのか、ずっと前から知ってたからっ……人の死を悲しいとは思っても、自分の死を、恐れたことはなかった、のにっ……」


 呼吸をするのも苦しそうな中で、エミリアはようやくそれを教えてくれる。いままでずっと、恐らく誰にも、教えてくれなかったことを。


「――眠るのが、怖く、なって」

「うん」

「眠って、起きたら、何時間も数字が減っていて、それっ、……それを見たら、不安になるようになって、……おかしいんだ。こんなの、いままでなかったのに、なのに」

「……うん」


 子供のようにしゃくりあげるエミリアの手をさする。いま手を離したら、彼女はまた本音を抑えこんでしまう気がした。

 ぽたりぽたりと、私とエミリアの手の上に涙が落ちる。まるで、あたたかい雨のように。


「――母さんが死んだ時、もう泣かないと、決めていたんだ」


 いつか、アルバートが「泣いている姉さんを見たことがない」と言っていたのを思い出した。思わず、エミリアに訊ねる。


「それまでは、泣いてた?」

「……誰にも見えないように、してた、けど……」


 そこで一度、言葉が切れた。話せなくなったせいか、言葉の代わりに涙が次々とこぼれ落ちる。私は彼女の手をさするのをやめ、身体ごと抱き寄せた。細い身体はすっぽりと私の腕におさまって、抵抗しようとはしない。

 私の鎖骨に額を当てるようにして泣きじゃくっていたエミリアは、やがて吐息のような声を出した。


「――……母さん、を」

「うん?」

「母さんを不安にさせたり、困らせたく、なくて……母さんの前では、笑うようにしてたんだ」

「……うん」

「でも、本当は寂しくて、……おかしいよな。まだ死んでないのに、寂しいなんて」

「ううん」


 私が首を振ると、エミリアは大きく息を吐いた。


「母さんの前では笑って、夜、一人になった時に、母さんのことを考えて泣いていた。……母さんが死ぬ数か月前からは、毎晩のように泣いて、でもっ……」


 私に縋り付くようにして、エミリアは叫んだ。


「あたしが笑っても泣いても、母さんの数字は増えなかった……!」


 大きく震えるエミリアの肩を、強く抱きしめる。何故か、そうしないと彼女がバラバラに壊れてしまうような気がした。それが、怖かった。

 こうしている間ですら、数字は減り続ける。私の数字も、エミリアの数字も。この世界で生きている人間の数字は、残酷なくらい平等に減り続ける。止まることなく、確実に。

 だから、とエミリアは続けた。


「もう泣くのはやめようと思った。泣いても笑っても終わりが来るのなら、笑っていた方がいい。泣いても、数字は増えないから。泣くのは意味がないから、……そう言ってるそばから泣いてるあたしは、馬鹿だな」

「馬鹿じゃない」


 私はできる限りはっきりと、彼女に言った。


「人は、悲しい時は泣くんだよ。生産性のない行為かもしれないけれど、それはおかしくないよ。馬鹿じゃない。……悲しい時は、泣いていいんだよ」


 自覚はしたけれど、エミリアも気付いたのだろう。私の胸から顔を上げて、エミリアは目を見開いた。


「……どうして、ナシロが泣いてるんだ?」

「――なんでだろうね」


 私は微笑んだ。エミリアが私の頬に手を伸ばす。


「雨の降っている夜空は、なんと表現する?」


 一瞬だけ質問の意味が分からなくて、けれどすぐに理解した。晴れた空から降る雨は『狐の嫁入り』だと教えたことだろう。

 けれど、雨の降っている夜空はただの夜空だ。天候が悪いだけの。

 素直に「分からない」と答えると、エミリアは何故か笑った。それからまた少し、泣いた。



 同じ布団で眠るのはそこまで久しぶりではなくて、けれど身体を密着させて眠るのは久しぶりだった。私の腕におさまったエミリアは身じろぎ一つしない。名前を呼んでみると、「なんだ」とだけ返ってきた。泣き止んでいたけれど、酷い鼻声だった。


「……エミリアは、消えたいと思っていたの?」


 おじさんの言っていたことが引っかかって、率直に聞いた。しばらく沈黙が続いて、やがて彼女が小さな声を出す。


「思ったことは、ある」

「……それって、死にたいってこと?」

「いや。なんというか、忘れてほしかった。あたしが死んでも、悲しいと思ってほしくなかったんだ。誰かを泣かせたくなかった。だからいっそ、あたしの存在ごと消したかった。……答えになったか?」

「……うん」


 それでも私は絶対にあなたのことを忘れない、とは言わないでおいた。

 エミリアは数回、深い呼吸をしてから「言うべきではないが」と囁くように言った。


「なに?」

「……本当は、」


 言い淀み、私から目を逸らす。


「……いい。なんでもない」

「それ卑怯だよ、そこまで言っておいて。なに?」

「なんでもない。お前を困らせる」

「いいから」


 エミリアは少し悩んで、私の服を引っ張った。


「……本当は、ジュカイに近づくほど、怖くなっていた」


 それは、この世界では樹海が死者の魂が集まる場所だったり、自殺の名所だったりするからだろうか。訊くべきかどうかで悩んでいると、エミリアが口を開いた。


「お前を元の世界に戻す方法が見つからなかったら、と思うと不安だった。けれど……お前がこの世界からいなくなるのも、悲しかった」


 エミリアは布団を被るように下を向き、「忘れてくれ」と力のない声を出した。

 私は返事ができなかった。布団からわずかに覗いている、彼女の頭を撫でる。それはやっぱり、少しだけ震えていた。



 翌日。エミリアは酷かった。何が酷いかといえば、二日酔いが。

 嘔吐こそしなかったけれど、青白い顔でベッドに横たわり一ミリも動かない。口にする言葉は「あたまいたい」か「むり」のふたつだけだ。

 私は今度こそ、彼女を介抱することになった。二日酔いに効くという薬を買い求め(その薬にはやっぱりゴキブリという単語がついていた)、二日酔いにやさしい食べものを宿の人に作ってもらい、彼女が不安がる時はできる限りそばにいた。念のため、宿のバケツも借りておいた。使わなかったけれど。

 頭をおさえながらリゾットを食べているエミリアが、本日何度目か分からない「すまない」を口にした。今日中にこの街を出る予定だったのを、延期したからだ。


「いいって言ってるじゃない」

「しかし、早くニッポンに帰りたいだろう」


 エミリアは本当に申し訳なさそうに頭を下げ、その瞬間に訪れたらしい頭痛に顔を歪めた。額に手を当て、眉間にしわを寄せる。


「あたしは、文字通り一生分の酒を飲んだ。もう飲まない」

「控えた方がいいとは思うよ。量が半端なかったから」

「ああ。……あの」


 エミリアは顔を歪めたまま、モゴモゴと言葉を口内で転がした。


「もしかしたら……昨日、酔っぱらって、その……ナシロの前で醜態をさらしたかもしれんが……それは多分酔っぱらっていたからで、あれだ、あの……忘れてくれ。というか忘れろ」

「ああ、大丈夫」


 私は笑った。エミリアの唇を見ながら。


「私も酔ってたから、よく覚えてない」


 うそ、と心の中で言葉を転がした。



 ゴキブリなんとかという薬のおかげなのか、私の介抱のおかげなのか、二日酔いとはそういうものなのか。あれほど青白い顔をしていたエミリアは一日で元気を取り戻した。昨日は一日中ぐったりと横たわっていたのに、今朝はすっきりとした表情をしている。角砂糖を舐めている樹海ちゃんを指で撫でながら、私に青い瞳を向けた。


「午前中に出発すれば、午後には樹海に着くはずだ」

「……そう」


 確認する必要のないトランクの中身を何度も覗く私に気付いているのか、エミリアは右手を差し出してきた。ブレスレットにはめられた黒い石と、私の目があう。


「出発する前に、少し寄り道をしていかないか?」


 晴れた空に微笑み返して、私は彼女の手を取った。



 宿を出て十分ほど歩いた場所にあったのは、とても立派な教会だった。異世界にも宗教はあるのだと、少し感心する。この世界に来た時、軍服の男に「君の世界には、神様も存在しなかったのだろうか」と言われたのを思い出した。

 どの世界にも、神様という概念は存在しているのかもしれない。神様が実在しているのかは別として。

 エミリアが無断で、教会の扉を開く。その中を見て、私は声を漏らした。

 教会の中はほぼ一面、ステンドグラスで覆われていた。壮麗なそこは、まるで別世界のように見える。ステンドグラスから差し込む光で、白い床は色とりどりの花が咲いているかのように輝いていた。

 まるで、神様のいる世界を、人間が精いっぱい表現したような場所だと思った。

 エミリアがこちらを見る。彼女の顔もまた、輝いていた。


「ニッポンには、こういう場所はあったか?」

「長崎……っていうところがあるんだけど、そこにある教会に似てると思う。行ったことはないんだけど」


 教会の人には無断で、中に足を踏み入れる。日本のそれと同じく、木でできた長椅子はすべて前方に向けられていた。エミリアが座ろうと言って、私も隣に並ぶ。クッションも何もない椅子は、ひんやりとしていて硬かった。

 そのまま二人でしばらく、ステンドグラスを眺め続けた。少なくとも私はそれを見ていたけれど、エミリアが何を見ていたのかは分からない。やがて、彼女が息を吸う音が聞こえた。


「――早ければ今日、お前と別れることになる」


 繋ぎっぱなしだった彼女の手に、力が入る。私も握り返した。


「あたしは、お前をニッポンに帰したいと思っている。だから、帰る方法が見つかり次第、……お前は帰ってくれ」

「――エミリア、」

「ただ」


 エミリアは前を向いたまま、何かを言おうとした。けれど口を閉じて俯き、「最低なことを言うが」と前置きした。


「お願いがある。神様にではなく、お前に」

「……なに?」


 彼女はすっと、その瞳を神様ではなく私へと向けた。ステンドグラスで覆われた教会にいても、染まらない青色。

 けれどその青は、不安定に揺れていた。


「もしも。――もしも、あたしの数字がゼロになるまでの間に、帰る方法が見つからなかったら。その時はどうか……」


 あたしが死ぬ時、手を繋いでいてほしい。


 そう紡いだ唇も、声も、指先も。小さく震えていて。


「――……分かった」


 そう返す私の声も、彼女の手を握る私の指も、やっぱり小さく震えていた。


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