お酒と言い訳
空気の匂いが変化したことに気付いたのは、その街にたどり着く数分前だった。
日本ではあまり吸うことができないような澄んだ空気に、それは混ざる。私は眉をひそめた。
「……お赤飯みたいな匂いがする」
私の言葉を聞いたエミリアが、ふふっと鼻で笑った。
「正確には、モチゴメの匂いだな」
「……もち米、あったんだ。この世界に」
パン以外の主食を見ないこの世界で、コメという単語が出てきたのは意外だった。
「これから行くところ、どんな街なの? 何か、お祝いごとをしてるとか?」
がたごとと揺れる馬車の中、エミリアはにやりと笑った。
「酒の街だ」
そこは、もち米とぶどうとアルコールの匂いが入り混じった場所だった。馬の蹄から鳴る音は、土を踏む音から石を踏む音に変わる。ぱかり、ぱかり。私はこの音が好きだ。ただし、揺れる馬車のせいであまり聞こえないけれど。
街は、ほとんどが木骨組の家でできていた。赤や茶色の切妻屋根は傾斜がすごくて、間違えても屋根にはのぼれなさそうに見える。どうも、冬は雪が降る地方のようだ。まだ十月なのに、街はそれなりに冷え込んでいる。
馬車の窓から街を見た。『酒』もしくは『BAR』と書かれた店が圧倒的に多い。宿と書かれている建物ですら、一階が酒場になっていて、二階に宿泊施設があるようだった。
馬車から降りて、伸びをしていたエミリアが微笑んだ。
「この街の酒はうまいぞ」
その言葉に、私は首を傾げる。
「……エミリア、十八になったばっかりでしょ」
「そうだが」
「お酒、飲んでたの?」
「悪いか?」
「お酒は二十歳になってから、でしょ?」
私の言葉に、エミリアが眉根を寄せた。
「ニッポンでは、そうなっていたのか? こちらでは、十五歳から飲める」
そういえばこの世界では、貴族は十五歳で結婚すると言っていた。十五歳が、大体のボーダーラインになっているのかもしれない。エミリアは何故か、少し優越感に浸ったような顔をしてみせた。
「なんだお前。飲んだことがないのか?」
「……ない」
これは事実だった。そもそも私は、お菓子に入っているお酒の味自体が苦手だ。ラム酒をたっぷり使ったケーキだとか、そういったものはあまり食べられない。ラムレーズンも嫌いだ。それを伝えると、エミリアは「お子ちゃまだな」と鼻で笑った。なんだこの、微妙な悔しさは。
「じゃあ聞くけど。エミリアはどういうお酒を飲むの?」
これで、度数三パーセントのチューハイとかだったら笑ってやろう。そう思っていたのに、エミリアはなんでもない顔で答えた。
「ワインと、ショーチュー、ショーコーシュ、ウイスキー、……ビールも好きだな。カクテルとチューハイはジュースだ。ウメシュも子供用だな」
なにその、おっさん臭いラインナップ。それから、焼酎と紹興酒と梅酒がこの世界にあるのにも驚いた。本当に、変なところでリンクしている。
エミリアは「せっかくだし街を散歩しよう」と、私の左手を掴んで歩き出した。彼女の右手首にあるブレスレットと、私の左手首にあるブレスレットが当たって、かすかに音を立てる。
青い石と黒い石は、仲良く寄り添っていた。
街で売られているものは、驚くくらいに偏っていた。というのも、お酒に関するものばかりなのだ。雑貨屋を覗けば、ワインオープナーやワイングラス、ビールジョッキばかりが置かれている。食べものもやたらと塩分の高い、すなわちおつまみのようなものばかりだし、お菓子だってアルコールの使われているものばかりだ。エミリアはウイスキーボンボンやラムレーズンの入ったソフトクッキーを買いあさっているけれど、私は特に食べたいものがなかった。さきいかやシシャモを見ている私に、エミリアが言う。
「おっさん臭いチョイスだな」
その手には、チーカマが握られていた。
店を出てしばらく歩いていると、樹海ちゃんがきゅうきゅうと鳴きだした。お腹が減ったのだろう。けれど私は、お菓子を持ち合わせていなかった。街路にあったベンチに座り、お菓子を探す私を見て、エミリアはついさっき自分が買ったお菓子を取り出した。
「ドラゴンでも、これくらいなら食べられるだろう」
子供に飴をあげるおばちゃんのような手つきで、ウイスキーボンボンを樹海ちゃんに渡す。樹海ちゃんはエミリアにもらったそれの匂いを嗅いで、首を傾げ、慎重に一口かじり、
「んぎゅぶっ!」
一メートルほどの火を吹いた。
樹海ちゃんが私の肩に乗っていたこともあり、私の髪は若干焦げた。
近くを通りかかったおじさんが、びっくりした目を向ける。当然だ。あと三秒ずれていたら、おじさんが燃えていただろう。エミリアは何故か、そのおじさんに恭しく手を振った。
「ぎゅっ、んぎゅっ、ぎゅう! ぎゅふっ、ぎゅぶふっ!」
「……食べられないみたいだけど」
「おかしいな。それほど苦くないはずなのだが」
その後、エミリアが何をすすめても、樹海ちゃんは首を振るだけだった。
今日は一番いい宿をとろうと言いだしたのはエミリアで、私たちはこの街で一番高級な宿に入った。シングルベッドしかない部屋でも構わないと考えている彼女にしては珍しい主張だ。基本、彼女は寝ることさえできれば、場所に頓着しなかった。この前、動物用の小屋で眠ったのだってそう。普通に考えて、お嬢様はあんなの嫌がるだろう。
私たちの入った宿は他の宿と同様、一階がバーになっていて、二階に客室がある施設だった。バーでの食事も値が張る。お酒も高い。けれどエミリアは、ここに泊まると言い張った。たまにはいいだろう、と。
嘘つきの男の子がいた村からこの街まで結構な距離があったので、疲れたのかもしれない。私はそう考えながら、彼女の頭上を見た。
彼女の数字は、1になっていた。正確には、一か月と二十九日と数時間。だから、余命二か月だと言われればそうなのかもしれない。けれど左の数字は、1だった。
――もしかしたら具合が悪いのかもしれない。隠しているだけで。本当は病気で、進行していて、歩くのもつらい状態なのかもしれなかった。
と、思っていたのだけれども。
夕食の時、エミリアは上機嫌だった。いままでで一番、ご機嫌なんじゃないかと思えるくらいに。カウンター席に座り、あれこれと早口でまくしたてている。私は特別面白いことを言っていないのに、一人でけらけらと笑い始めたりもした。
それは恐らく、彼女の横に転がっているジョッキやグラスやボトルのせいだろう。赤ワイン二本と、ウイスキーと、芋焼酎と、ビールを頼んでいたことまでは覚えている。そのあと何を飲んでいたのかは、覚えきれていない。なんちゃらのロックとか、なんちゃらの水割りとか、なんちゃらのストレートを頼んでいた気がする。彼女が何杯飲んだのか、考えるだけで恐ろしかった。
私は申し訳程度にメニューにあった紅茶を飲み、お酒のシメに頼むのであろう麺類を注文し、エミリアを見守った。ここまでくると、見守るしかなかった。もうやめなよ、と何度か言ったけれども、エミリアは飲むのをやめない。樹海ちゃんはエミリアを見守りながら、紅茶用に置かれていた角砂糖をかじっていた。
「ナシロも飲めばいいのに」
酔っぱらった人間独特の、「不機嫌アピールをしているだけでそこまで不機嫌じゃない」顔をしながら、エミリアがお酒を注ぐ。私はちらりと、度数を確認した。三十二パーセント。飲んだことがないから何とも言えないけれど、多分高いのだと思う。お店の人に確認すると、「うちのビールで、五パーセントだね」と言われた。となると、三十二パーセントはやはり高い。
そんな会話をこれっぽっちも聞いていなかったらしいエミリアが、手をバタバタさせる。
「ナシロも飲めばいいのにー!」
半ばひっくり返った叫び声が店内に響く。手をバタバタさせたまま椅子から転げ落ちそうなエミリアを、私は慌てて制止した。
「私の国は、二十歳まで飲めないから!」
「こっちの世界にいるんだから、こっちに従え!」
「お酒、あんまり好きじゃないと思うからいい」
「好きかどうかなんて、飲まなきゃ分からんだろう!」
エミリアはそう言って、勝手にカシスオレンジを注文した。飲め飲めとエミリアが叫んでいる間に店員にこっそり、「ぜんぶオレンジジュースで作ってください」と頼む。渋いおじさん店員はウインクしてくれた。こういう客にも慣れているのだろう。
飲めない人間は、社会人になった時に周囲から飲めと言われる、という話は聞いていたけれど、まさか十六歳でそれを経験するとは思ってもみなかった。ついでに言うと、飲んだ人間に絡まれるのは親戚の集まりの時くらいだと思っていた。十八歳の美人に絡まれるなんて、誰が想像できただろう。男からしてみれば、ある意味おいしいシチュエーションだ。
「エミリア、本当にいい加減にしないと、変な人に襲われるからね!?」
「お前、あたしを襲うつもりか!」
「私のことを変な人扱いしないでくれる!?」
駄目だこの人酔ってる。完全に酔ってる。
私の目の前にそっと、カシスオレンジそっくりのオレンジジュースが置かれた。エミリアが飲め飲めうるさいので、一口飲む。ただのオレンジジュースだけれども、「やっぱりお酒は苦手」と言っておいた。すると、エミリアが口を尖らせた。
「しょーがない奴め。もったいないから、あたしが残りを飲んでやろう」
「え?」
エミリアは私から無理やりグラスを奪い、中身を一気飲みし、叫んだ。
「やっぱりカクテルはジュースだあっ!」
だってその中身、本当にジュースだもん。と、内心で付け加えた。
エミリアの飲酒はどんどんヒートアップした。飲み始めて二時間経った頃にバーの客としてやってきた中年男性とすっかり意気投合し、いまではぎゃあぎゃあと騒いでいる。高級バーが台無しだ。
お店の人に謝ると、「いつもこんな感じですよ」とさわやかな笑顔を返された。プロだ、接客のプロだ。
中年男性は気さくに話しかけてきた。私があまり話さないので、――というかエミリアが身を乗り出すようにして話しているので、おじさんとエミリアとで勝手に盛り上がっていく。安物っぽいジャンパーを羽織ったおじさんは、エミリアがお嬢様だということを知らないのか、酔っぱらっていて気づいていないのか、お嬢様に下ネタをばんばん振った。それにホームランを返すエミリアもエミリアだ。酔っぱらい怖い。
ひとしきり盛り上がったところで、おじさんは「ところでよお」と話題を変えた。
「嬢ちゃん、悩みごとでもあるのかあ?」
嬢ちゃん、は、私ではなくエミリアに向けられたものだった。先程まで下ネタを話していたのに、いきなり「悩みごとはあるか?」とはどういうことだろう。まだ下ネタが続いているのだろうか。
エミリアも訳が分からなかったらしく、「どういうことだ?」と返した。
「もしかしてよお、嬢ちゃん、ジュカイに行くつもりなんじゃねーかと思ってなあ」
言葉に詰まる私とエミリアを見て、顔を真っ赤にしたおじさんは「やっぱりかあ」と溜息をついた。
「ここはよお、ジュカイに一番近い街だろう。だからよ、ジュカイに行く人間が最後に通る場所でもあるんだ。んで、余命が短い奴に限って、ジュカイに行くって言いだすんだよな」
「……何故だ?」
「知らねえよ。でもなんか、あそこで行方不明になってる奴も多いだろう。多分、あの森に入って、そのまま死ぬのを選んだんだ。死ぬところを見せたくないんじゃねえか? 猫みたいによお」
そんで、そういう奴と何回か話したことがあるんだけどな、とおじさんは続けた。
「どいつもこいつも、死ぬ覚悟はとっくにできてんだよ。そりゃそーだよな。この『数字』は絶対だからよお。でも、ジュカイに行く奴は『消えたい』とか『いなくなりたい』とか言うんだ。死にたいじゃなくてな、自分のことを忘れてほしいとか言うんだぜ。俺にゃ、理解できねーんだが」
嬢ちゃんもそう思ってんのか。おじさんの質問に、エミリアは答えなかった。それを肯定だと捉えたのか否定だと思ったのか、おじさんは長い溜息をついた。
「悪いこたあ言わねえからよ、嬢ちゃん、数字がゼロになるまでこっちにいろよ。あんな森に行っても、なんもねーぞ。見渡す限り、枯れたような木しかねえ。あんな場所で死にたいと思うか? 俺はごめんだなあ。それよか、毎日こうやって酒飲んで過ごした方が、よっぽど有意義だと思わねえか」
しばらく黙っていたエミリアは、残っていたお酒を一気に飲み干した。オーダーストップを告げに来る店員に頷き、おじさんに目をやる。
「あいにく、ジュカイには用があって行くんだ。死にに行くわけではない」
その言葉を聞いたおじさんも、残っていたビールを飲み干した。それから、歯を見せてにかりとエミリアに笑いかける。煙草を吸っているのか、その歯は黄ばんでいた。
「嬢ちゃんがどう思ってるかは知らねえが、俺は嬢ちゃんと話したこと、忘れねえぞお」
「貴様、酔っぱらっているだろう。明日の朝には忘れている」
「んなことねーよ。こう見えて俺、記憶力は良いんだぜ。……フロディーテのお嬢様」
また縁があったら一緒に飲もうぜと言い残して、おじさんは出ていった。
飲食の会計は宿を出る時に一括でとのことなので、私はエミリアを担ぐようにして階段を上がった。いくら彼女が細身とはいえ、ぐったりとしている彼女と階段をのぼるのはきつい。息切れしながらも、引きずるようにしてエミリアを部屋に運んだ。
部屋は、この宿の中でもトップクラスのものだった。ダブルベッドかと思えるくらいに大きなベッドがふたつ。高級そうな絨毯の敷かれた床。気品ある装飾の施されたテーブルと椅子。ベッドサイドには、ガラス細工のようなランプがあった。照明器具というよりも、インテリアとして配置しているものだろう。
「エミリア、ほら、ベッドまでもうちょっとだからっ……!」
ほとんど動いていないエミリアを引きずる私は、傍から見れば相当怪しい人間だろう。樹海ちゃんはよほど眠かったらしく、テーブルの上に移動して丸まってしまった。手伝ってくれるつもりはないらしい。
向かって左側のベッドにエミリアを連れていく。すぐに横たわるかと思ったけれど、エミリアはベッドに大人しく座った。俯いたまま、私の服の袖をくっと引っ張る。
「え、なに?」
「……酔った」
その声は震えていて、私は内心で焦った。酔っぱらった人間を見たことはあっても、それを介抱したことはない。彼女は声だけでなく身体まで震えていて、私はますます狼狽した。
「は、吐きそうなの? それならトイレに……いや、お水もらってこようか?」
「――……酔った」
数秒前と同じ言葉をエミリアは落とす。私はそこでようやく気付いた。
酔った。その声はいつもと同じように澄んでいて、はっきりとしている。それでもその声が震えているのは、気分が悪いせいではないことに。
必要なのが、水でもバケツでもないことに。
私が隣に腰掛けると、エミリアは私の肩に額をのせた。
「――……酔った」
三度目のそれは、自分自身に言い訳をするような口調だった。




