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その空に未来を捧ぐ  作者: うわの空
第六章
26/33

嘘をつく子供

 夏は、その気怠さを虚しさに変え、風と共に流れていく。十月の空は夏の空よりも幾分高く、そして遠くなっていた。

 一日ごとに、人々の服の袖は長くなっていく。タンクトップやキャミソールは半袖になり、五分袖になり、七分袖になり、長袖になった。そのうち、薄い上着を着る人も出てきた。

 エミリアは、夏服を捨てることを一切ためらわなかった。荷物になるからの一言で済ませ、街の住民にお願いしてゴミに出してもらう。それは決して、彼女がお嬢様で、次の夏には新しいものを買えばいいと思っているからではなかった。

 私はエミリアの『数字』を見る。

 2になったその数字は、彼女にはもう二度と夏服が必要ないのだという事実をはっきりと告げていた。



「アオキ・ガ・ハラ・ジュカイに行くには、ここと、ここを経由する」


 エミリアが、揺れる馬車の中で地図を広げながら言う。彼女の右手首には、この前買ったばかりのブレスレットが巻かれている。私の左手首には、色違いのものがあった。以前買ってもらった腕時計は常にポケットの中で、私も懐中時計にすべきだったかなと少しだけ思っていた。

 地図を覗き込みながら、私は誰にともなく言う。


「どんな場所だろう」

「さあ。あたしも行ったことはない。ジュカイの手前にある街の方は有名だが、いまから行く場所はこれといったうわさを聞いたことがない。まあ、普通のところなのだろう」

「そう」

「……もうすぐだな」


 エミリアがぽつりと漏らした。それが「もうすぐ新しい場所に着く」なのか「もうすぐ樹海に着く」なのか、それとも「もうすぐお別れだな」なのかは分からなかった。



 到着したのは、なんてことはない街だった。いや、街と言うより、牧場のような場所だった。村、と言うべきだろうか。牛や馬や羊を飼っている家が多い。家は木造で、敷地は絵に描いたような木のレールフェンスで囲われている。道はもちろん舗装されておらず、土がむき出しの状態だった。牛や羊のいる場所は芝生だ。


「……宿はあるだろうか」


 エミリアの言葉に、「んめえー」と羊が鳴いた。エミリアは羊の方を見て、何故だか笑顔で手を振る。

 ヤギのチーズとか白パンという単語が似合いそうな場所だなあと周囲を見渡していると、道の向こうから十歳くらいの男の子が走ってきた。

 慌てて走ってきた男の子は、私とエミリアに向かって大声で叫んだ。


「大変だ、リザードマンが来た!」

「えっ!?」


 悪夢の再来だ。エミリアの身体に緊張が走る。私の肩で、樹海ちゃんが身構えるのが分かった。


「……ぷっ!」


 男の子は私たちの反応を見て笑ったかと思うと、横にあった柵をひょいっと軽く飛び越え、私を指さした。


「お前がリザードマンだよ、ばーか!!」

「えっ!?」


 だまされてやんのー! と言いながら、男の子は芝生の上を駆け抜けていく。――疾風のような速さだ。恐らくエミリアでも追いつけないだろう。

 しばらく黙って、男の子の背中を見ていたエミリアは、


「……ナシロがリザードマンならば、あたしは何だろうか」


 酷く深刻な顔つきでそんなことを言った。



 適当なところにあった家の扉を叩き、このあたりに宿はないかと訊ねる。宿らしいものはないけれど、使っていない小屋がひとつあるからそれを貸そうか? とおじさんは鍵を持ってきてくれた。ベッドはないからこれを持っていきな、と毛布を二枚貸してくれる。私たちはお礼を言って、借りた小屋へと向かった。

 それは、お世辞にも綺麗とは言えない小屋だった。豚か牛か馬がいたのだろうと、安易に予想できる場所だ。いまでは物置になっているのか、粗大ゴミになる寸前らしいボロボロの机や椅子があった。くら頭絡とうらくも置かれている。

 ひとまず眠れるスペースを作ってから、私たちは椅子に座った。小屋には照明がない。旅の前に買ってもらった小型ランタンが、ここにきてようやく役に立った。


「……腹が減ったな」


 宿はもちろん食事のできそうなところもなかったので、私たちは机の上にお菓子を広げた。樹海ちゃんが早速、ジャムつきのクッキーを取る。それと同時に、扉がノックされた。


「わしだけども。もしかして、食事してないんじゃないか? 鍋を持ってきたから、よかったら食べてくれ」


 持ってきてくれたのは、小屋を貸してくれたおじさんだった。親切な人はどこまでも親切だ。丁重にお礼を言って、鍋を受け取る。その時、戸口から大きな声が聞こえてきた。


「その鍋には毒が入ってるぞ! 毒スープだ!」


 私は声の方を見る。思った通り、そこには先程私のことをリザードマン扱いした男の子が立っていた。薄い茶色の髪と瞳が印象的な子だ。

 おじさんは振り向き、男の子に「こらっ」と叫んだ。


「人聞きの悪いことを言うんじゃない! いい加減に嘘をつくのをやめないと、お前もそのうちリザードマンに襲われるぞ!」

「このあたりにリザードマンなんているもんか! おじさんこそ嘘つき!」


 男の子は赤い舌をめいっぱい出して、「いーっ!」と言いながら走り去ってしまった。白髪の混ざり始めているおじさんが、その頭を掻く。


「すみませんね。あいつ、しょっちゅう嘘をつくんです。むしろ最近は嘘しかついていない。どうか気にしないでください。もちろん、鍋に毒なんて入ってませんよ。なんならわしが、毒見しましょうか」

「え、いえ」


 私が首を振ると、おじさんは苦笑した。エミリアは無表情で、おじさんに訊く。


「あの少年は何故、嘘を?」


 エミリアの質問に、おじさんは「さあ……」と首を振った。けれどそれから、


「あさって、あの子の母親が亡くなるんですが、それが関係しているのかもしれません。……一年程前から、嘘をつき始めたんですよ。誰かに構ってほしいのかもしれませんねえ」

「母親は、病気か?」


 エミリアの言葉に、おじさんは「ええ」と頷いた。エミリアは少し下を向く。青い瞳が、長いまつげに隠された。

 おじさんが出ていってからしばらくその調子だったエミリアは、やがてふっと顔を上げた。その顔は普段と同じで、けれどいつもよりも薄暗かった。頼りないランタンの明かりのせいかもしれない。


「勿体ないな。食べよう」


 樹海ちゃんが気を利かせて、スープを温め直してくれた。

 おじさんのくれた鍋には当然毒なんて入っていなくて、クリームシチューらしきそれはとてもおいしかった。



 翌日も、男の子の嘘は絶好調だった。朝から村中を走り回り、あれこれ吹聴している。


「伝説のドラゴンが来た!」

「おれの頭に猫耳が生えた!」

「ゴブリンがこの街をのっとりにきた!」

「お前いま、ぱんつ見えたぞ、黒だ!」


 ぱんつは私に対して使われた嘘だけれども、「黒」というのがはずれていたので嘘だとすぐに分かった。伝説のドラゴンという言葉に樹海ちゃんは何故か大きく反応したけれども、樹海ちゃんは残念ながら『手乗り火吹きドラゴン』だ。嘘なのはバレバレだった。樹海ちゃんは伝説のドラゴンと言われたのが嬉しかったのか、胸を張っている。確かに、樹海ちゃんは私にとっては伝説のドラゴンレベルなので、あながち嘘とは言えないかもしれない。

 男の子の嘘にすっかり慣れ始め、私が聞き流せるようになっても、エミリアは深刻な顔をしたままだった。小屋の壁にもたれかかり、彼の一挙一動をじっと見つめている。

 やがて男の子は、エミリアのそのまなざしに気付いた。


「なんだババア!」

「お前こそなんだ」

「おれはー……賢者だ!」

「じゃあ、あたしは?」

「…………ちくわぶっ!」


 吹いた。

 エミリアは「いいネーミングセンスだ」と頷き、それから何の前触れもなく、男の子の腕を掴んだ。腕を引っ張られた男の子の脚が、バタバタと宙を蹴る。


「何すんだよ、離せえ!」

「あたしたちは今日の昼過ぎに、ここを発つ。その前にお前の話を聞かせろ。お前が素直に話せば、すぐに終わる」

「うるせーぞ、ちくわぶのくせにっ!」

「いいから、ちくわぶに話を聞かせろ」


 エミリアはずるずると男の子を小屋に連れ込み、鍵までかけた。男の子を椅子に座らせ、自分は向かいに腰掛ける。私はとりあえず、エミリアの隣に座った。

 男の子は話そうとしなかった。不安定なランタンの光が、男の子の顔にゆらゆらと影を作る。誰も、何も言わない。エミリアは男の子の数字を確認し、溜息をついた。


「黙秘して十五分だ。時間が勿体ないと思わないか」

「お前らが出発するまで、何も言わない」

「そうか。では、あたしから勝手に話そう」


 エミリアは頬杖を突き、男の子の瞳を見つめた。逃がさないように。


「――現実から目を背けるのも大概にしろ、ガキ」


 一言目がそれで、私はぎょっとした。男の子も予想外だったらしく、呆けた顔をエミリアに向ける。エミリアは、表情を変えなかった。


「お前は、母親を見るのがつらいんじゃないか? 時間と共に弱っていく母親に寄り添うのが嫌なのだろう? 現実から逃げ出したいのだろう? だから嘘ばかりついて、非現実に足を踏み入れる。人の目を集めたいんじゃない、現実から目を背けたいんだ」


 男の子は何も言わない。お前はまだ小さいから、とエミリアは続けた。


「母親が死ぬことを頭で理解していても、受け入れていても、心の準備がまだできていないのだろう。だが、――だからこそ言っておく。母親との最後の時間を大切にしろ。でなければ、お前は後悔する時が来る。もっとできることがあったはずだと思う時が、必ず来る」


 男の子は俯いたまま、口を噤んでいる。エミリアはそれでも、男の子から目を逸らさなかった。


「いまのお前に、できることは少ない。だからこそ、その少ないことはやっておけ。嘘を言いながら走る時間があるのなら、母親とたわいのない話をした方がいい。花を買う金がないのなら、野に咲く花でいいんだ。できることをやっておけ。お前のためでもあるし、母親のためでもある」

「――……なんにも知らないくせに、えらそーに言うな」


 男の子が顔を上げ、エミリアを睨んだ。その瞳が若干濡れていることに、きっと全員が気付いていた。


「現実は嫌なことばっかりだ! 苦しいことばっかりだ! だから嘘をついて楽しむんだ、それの何が悪い! 嘘をついて少しでも楽しくなろうとして、……なのになんで怒られなきゃいけないんだよ!」

「…………」

「えらそーに言うな、なんにも知らないくせに! お前は! だってお前はっ……」


 エミリアの数字を見て、男の子は叫んだ。


「お前は、『置いていく側』の人間じゃないか!」


 ――時間が止まったような気がした。けれど、エミリアの数字も、男の子の数字も、止まらない。男の子の言葉も、止まらなかった。


「置いていかれる人間の気持ちなんて知らないくせに! えらそーに言うな、ちくわぶのくせにっ!」

「……ならお前は、大切な人間こどもを置いていかねばならない人間ははおやの気持ちが分かるんだな?」


 エミリアの言葉に、男の子は肩を震わせた。彼女の声は平坦で、けれど感情はちゃんとあった。


「あたしにそれだけ偉そうに言ったんだ。分かるんだな?」

「っ……そんなの、」

「分からないのなら、偉そうに言うな。そして、『置いていく側の人間』として、お前の母親の気持ちを代弁してやろう」


 エミリアは少しだけ、口角をあげた。


「――最後は、お前と一緒に過ごしたい。お前と話をしたい。お前の笑顔が、見たい」


 動かなくなった男の子から目を逸らし、エミリアは懐中時計を確認した。私の方を久しぶりに見て、立ち上がる。


「馬車が来る。行こう」


 それから男の子に、「大切な時間を二十五分も奪ってすまなかった」と謝った。

 男の子は、何も言わなかった。



 小屋の鍵と貸してもらった鍋をおじさんに返し、村の出口へと向かう。エミリアは何も言わなかった。私も何も言わずに歩く。

 彼女は、置いていかれることを経験した人間だ。そして、置いていく人間の気持ちも、知っている人間。

 そのうえで、最後の時を家族と過ごすのを選ばなかった人間だった。

 青い空で覆われた緑色の村を、二人で歩く。あと数歩で村の出口にたどり着く頃、


「ちくわぶっ!」


 背後から、男の子の声が聞こえた。私とエミリアは同時に振り返る。走ってきたのだろう、男の子の息は切れていた。「おれは……」と浅い呼吸を繰り返してから、男の子はエミリアを睨んだ。


「おれはお前が嫌いだ! おれのことを置いていく母ちゃんも嫌いだ! 大っ嫌いだ! あんな奴がいなくなっても寂しくないし、悲しくない! あいつがいなくなったって、なんとも思わない! 村の人間が、母ちゃんの葬式の準備してるのを見ても平気だ! 母ちゃんがどんどん痩せてく姿を見ても、ちっとも苦しくない! 明日の十五時二十三分に母ちゃんが死んでも、泣いたりしない! だっておれは、母ちゃんなんて嫌いだから! あんな奴、大っ嫌いだ!」


 勢いに任せてすべてを言い放った男の子は下を向き、


「――――……うそ」


 本心と涙を、落とした。

 エミリアはトランクを地面に置くと、ゆっくりと男の子に近づき、しゃがみ込んだ。男の子と同じ目線になって、言う。


「あと、一日ある」


 口を歪ませる男の子に、彼女は繰り返す。


「あと、一日ある」


 男の子が頷くのを見て、エミリアはそっと彼の頭を撫でた。


「分かったら、ちくわぶなんかと話してないで、行くべきところへ行け」


 男の子は大きく頷き走って行ったかと思うと、踵を返し、叫んだ。


「ちくわぶなんか、大っ嫌い!」

「あたしのことは嫌いになっても、ちくわぶのことは嫌いになるな」


 エミリアは目を細め、風のように走っていく男の子に手を振った。それから私の方を見て、くすりと笑う。


「なかなかの賢者だったな」


 行こうか、とトランクを持ち上げたエミリアはふと、青空に目をやった。


「どうしたの?」

「――雨が」

「え? こんな晴れてるのに、」


 嘘でしょ? と言おうとした私の頬にも、冷たい水滴が落ちてきた。エミリアと同じように、空を見上げる。細かな雨がさらさらと、周囲を包みこむように降り注いでいた。


「……珍しいな、晴れているのに雨が降るなんて」

「狐の嫁入りだね」

「キツネノヨメイリ? なんだそれは」


 エミリアは、空と同じ色の瞳をこちらに向ける。私も、その瞳を見た。


「晴れているのに雨が降ること。日本ではそう言うの」

「……晴れているのに雨が降ったら、誰かが嫁に行くのか?」

「そういう意味なのかな。私もよく知らないんだけど」


「ふうん」とエミリアは呟いて、再び空を見た。雨はまだ降っている。けれど、


「すぐにやみそうだね。虹、見えるかな」

「さあな。天候については詳しくない」

「料理についても詳しくないでしょ」

「――むしろ、知っていることの方が少ないな。あたしは」


 エミリアは前を向くと、すたすたと歩きだした。私は慌ててその背中を追う。

 しばらく歩いていると樹海ちゃんが後ろからきゅうきゅうと鳴き出して、私は振り返った。「あっ」と声を出し、前を歩いていたエミリアの腕を掴む。


「エミリア、虹!」


 私に腕を引っ張られたエミリアは、たたらを踏みながらも後ろを見た。薄くて短い虹は、それでも空を鮮やかに飾っている。


「……あの男の子も、見てるかな」

「見ているだろう」


 エミリアは即答した。


「母親と、見ている」


 エミリアの声には、少しの希望が滲んでいた。

 けれどその顔には、ほんの少しの絶望が混ざっていた。


 彼女の瞳がどんな青色をしているのか、私には見えなかった。


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