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その空に未来を捧ぐ  作者: うわの空
第四章
19/33

痛み

「……誰かが、余計な情報を吹き込んだようだな」


 エミリアは私から目を逸らし、溜息をついた。私はエミリアの向かいにあった椅子に腰掛ける。


「どうして言ってくれなかったの?」

「言ったら、お前が躊躇すると思ったからだ。アルが……弟が恐らくお前に、要らない話をしたのだろう? 出発する日の朝、お前とアルの様子がおかしかった」

「それは……」

「ナシロ。前にも話したが、あたしはもともと、旅がしたかった。屋敷から離れたかったんだ。お前がこの世界に来なかったとしても、あたしはきっとあの家を出ていた。……いまだってそうだ。旅をしているのは、あたしのためだ。お前を帰す方法を探したかったのもあたしのエゴだし、外に出たかったのも単なるあたしのエゴ。お前の気にすることではない」


 けれど、と思う。目的地がアオキ・ガ・ハラ・ジュカイになったのは、まぎれもなく私のせいだ。もしも私がいなければ、エミリアは適当なところで旅をやめて、最期を家で過ごしたかもしれない。そう伝えると、エミリアはふふっと笑った。


「ナシロは何か勘違いをしていないか? ――あたしはもとより、二度とあの家に戻る気はなかった」

「……え?」

「アルとの約束は、最初から反故にする気だったんだ」


 エミリアは首を傾けて微笑んだ。すっと細くなる蒼穹。


「たとえばもしも、あの洞窟でお前を送還することができていたとしても、あたしはこのまま旅を続けていただろう。死ぬ直前まで、――動けなくなるその瞬間までな」

「なんで……だって、アルバートもパパもあんなに」

「――アルには婚約者がいる。じきに結婚するだろう。新しい『家族』ができる。そうして、父さんは『父』から『おじいちゃん』になるのだろう。……あたしは」


 エミリアはそこで言葉を切った。そして、続きを言わなかった。顔を窓の外に向けて、黙り込む。私はエミリアの横顔を見つめた。

 寂しいのかもしれなかった。羨ましいのかもしれなかった。悲しいのかもしれなかった。悔しいのかもしれなかった。

 もしも私がエミリアの立場だったとして、将来を持っている人間を見て、何を思うのか。それすら、想像できなかった。

 ――あたしはあの場にいない方がいい。やがて、エミリアはそう結論を出した。それは家族のためなのか、エミリアのためなのか。分からなかった。


「……もしもここで、あたしが家に帰りたいと言いだしたら、お前はどうするつもりだったんだ?」


 エミリアはどこかおかしそうに、そんなことを言った。私は、我ながら情けないくらいに小さな声で答える。


「あの……。一人で樹海に行くよ」

「お前が一人で? 路銀はどうするつもりだ? こちらの世界の常識もよく知らないのに、一人でやっていくつもりか?」

「でも……」

「どちらにせよ、あたしはもう家に戻るつもりはない。アオキ・ガ・ハラ・ジュカイまで行くつもりだ。――お前が一人旅をすることになったとしても、目的地は同じだろう? それなら付き合え。二人の方が楽しい」


 嘘をついたことは謝る、とエミリアは軽く頭を下げた。


「出発前に駄々をこねられたら面倒だと思ってな。いまのように、『自分一人でジュカイに行く』と言いだす可能性も大いに考えられた。それが嫌だったから、ジュカイまでの道のりは片道三か月もかからないと――余命半年でも家に帰れると嘘をついたんだ。……本当は、お前が元の世界に戻るまで、あと四か月はかかると思う。すまない」

「そういう意味で言ったんじゃ……」

「すまなかった」


 エミリアはそれで話を終わらせてしまった。「ところで腹が減ったな」と、唐突に話題を変える。薬屋さんでクッキーを貰ったことを思い出し、彼女に渡した。エミリアは樹海ちゃんにもクッキーを一枚渡して、さくさくと食べ始める。


 アルバートの気持ちはどうなるの、と私は内心でエミリアに問いかけた。彼はエミリアのことを救いたがっていて、そのために庶民ですらない私に土下座までして、絶対にここに帰ってきてくださいと真剣に言った。

 ――もしかしたら、アルバートも分かっていたのかもしれない。エミリアが、二度と屋敷に帰るつもりなんてないことを。それでも彼はあえて言った。帰ってきてくださいと。

 この世界では、余命が分かっている。いつ死ぬのか、明確に。だからもしも失踪したとしても、『もしかしたら生きているかもしれない』『死んだかもしれない』という葛藤はない。この世界では、それだけははっきりとしている。消えた人間の生死に関して、絶望的な期待を抱くことは、ない。

 けれど、家族に看取られたいとか、そういう感情はないのだろうか。あるいは死に目にあいたいと思わないのだろうか。いや、少なくともアルバートは思っていただろう。パパだって、エミリアに最期を看てもらいたいと言っていた。

 エミリアは、猫のように死んでいくつもりなのだろうか。誰にも見られないよう、ひっそりと。顔見知りが一人もいないような場所で、あるいは森の中で。誰にも看取られずに死にたいと思っているのだろうか。


「ナシロ、食べないのか。あたしが全部食べるぞ」


 エミリアが私の顔を覗き込み、それからふっと息を吐いた。


「前々から思っていたが、お前の瞳は夜空のようだな。黒色なのはもちろん、その不安定さも含めて。曇ったり、星が輝いたりする。常に静かに揺れていて、安心できるのか不安になるのか分からない」


 エミリアは夜が苦手なのだろうか。私は苦笑した。


「……エミリアは青空だよね」

「瞳が青いからか」

「うん」


 自分の表現力の乏しさが前面に出た。青いから青空、などという安直な比喩表現を、けれどもエミリアは馬鹿にしたりはしない。そうか、と笑うだけだった。

 彼女は青空で、太陽と仲がいい。あらゆるものを照らす。晴れ渡っていて、安定しているようだけれど、それはきっと違うのだろうと私は心の中で呟いた。

 だって、空が青ければ青いほど、太陽が照らせば照らすほど、そこには大きな影ができるから。



「……そんなに酷いか」

「うん」


 茶色の瓶を片手に、私はエミリアの背中を見ていた。

 彼女の細い背中には、大きな切り傷が出来ている。いつか、図画工作の際にカッターで指先を切って泣きじゃくった自分が馬鹿だと思える程度に酷い。出血は止まっていたのに、ガーゼを剥がす時に刺激を与えてしまったのか、再び血が流れだしていた。

 白くてなめらかな背中に、そしてそこにある大きな傷に、私は緊張していた。ちなみにここは風呂場で、エミリアは上半身裸である。上半身裸で、私に背中を向けている状態だ。薬を『ぶっかけろ』と言われた以上、ベッドの上でやるわけにもいかないし、服を脱がないのもおかしい。


「……その薬」


 エミリアは珍しく、緊張した声を出した。


「マグナは滲みると言っていたが……薬屋の人間は何か言っていたか」

「…………」


 怖がっているのがひしひしと伝わってくる質問だった。薬屋の人間も滲みると言っていた、と伝えたほうがいいのだろうか。それで彼女の覚悟が決まるのか、それとも余計に怖がるのかは想像できなかった。


「……ちょっと滲みるって」


 あえて中間を選んで伝えると、エミリアは笑ったようだった。肩が小刻みに震える。


「ナシロ。お前、嘘をつく練習をしたらどうだ? ――滲みるんだな、分かった」


 エミリアは決意したような言葉を口にしたけれど、その声は悲しいくらいに平たかった。クラスでも群を抜いて内向的な生徒が、本読みをする時の口調をそのままトレースしたような。すなわち、ものすごく緊張した声。久しぶりに声を出したような、振り絞るような。

 しかし、躊躇し続けている訳にも行かない。私は意を決して、エミリアに言う。


「せーの! で、かけるから。あの……ごめん」

「何故謝る。この怪我は私のミスだ。お前が謝ることではない」


 エミリアは少しだけこちらを向いて笑った、ようだった。私は瓶を握りしめる。内心でもう一度「ごめん」と謝って、


「じゃあいくよ。……せ」

「あ、待て!」


 エミリアが、がばりとこちらを振り向いた。その表情は、内向的な生徒が教科書を音読したうえ、つっかえ読み間違え噛んでしまい、読めない単語で止まってしまったにもかかわらず、声が小さすぎて止まったことすら気付いてもらえなかった時のような、それはもう救いようのない顔をしていた。

 エミリアは「その……」と、もごもご呟いた。


「せーの、という合図だが。せー『の』の瞬間にかけるのか? それとも、せーの、を言いきってからかけるのか?」

「…………」


 どうしようすごく怖がっているのが分かる。


「……言いきって、かけるから」

「では、『せーの、ばしゃー!』だな?」

「うん。『せーの、ばしゃー!』ってするから」


 エミリアの口から「せーの、ばしゃー!」などという、賢くなさそうな言葉を聞くことになろうとは思ってもみなかった。彼女は前を向いて、やってくれと言う。私は今度こそ、息を吸った。


「じゃ、いくからね。……せーのっ!」


 ――次の瞬間、私は間違えて硫酸を買ったんじゃないかと思った。

 背中にかけたそれは、白い煙を上げた。じゅっ、と何かが溶ける音がする。実際に硫酸をかけたことがないから分からないけれど、ドラマなんかの演出で使うなら、こんな感じではないかと思えるほどだった。

 エミリアの身体は、はねた。薬をかけた瞬間に大きくはねて、それから耐えるように身体を小さくする。両手を口にあてたまま、悲鳴を上げることも唸ることもしない。見かねて、私は後ろから声をかけた。


「……痛いなら、我慢せずに大声あげてもいいんだよ」


 言ってみたけれど、エミリアは小さく首を振るだけだった。彼女のプライドなのか、私に気を使っているのか。エミリアは俯いたまま震え続けている。滲みるのは、薬をかけた一瞬だけではないらしい。

 不安になって、彼女の傷を見た。そして私は、目を見張った。

 開いていた傷口は、ぐじぐじと音を立てながら、目に見えて塞がり始めていた。信じられないスピードで。薬の効果は明白で、けれど滲みているのも明らかだった。


「……薬屋の人間は、何と言っていた」


 やがて落ち着いたらしいエミリアが、疲れきった声を出した。


「何って?」

「これで、一晩寝たら治ると言っていたか」

「…………」


 私は、残酷な事実を伝えなければならなかった。


「一日一回、『三日間』かければいいって」


 私の言葉に、エミリアはひきつった笑みを浮かべる。私もまた、ぎこちない笑顔を返した。



 エミリアの傷が治るまでこの街に滞在することにして、私は宿の人間に少なくともあと二泊はしたいと伝えに行った。突然の申し出にもかかわらず、宿の人は快諾してくれた。何日でも泊まってくれ、大歓迎だよと笑う。宿泊客が少なくて困ってたんだと、どうでもいい情報まで付け加えてくれた。

「これはサービスだ、持って行ってくれ」と渡されたりんごをみっつ持って、部屋に戻る。エミリアはベッドの上で、だらりとうつぶせになっていた。あと二日ほど、あおむけにはなれないだろう。

 エミリアの枕元には樹海ちゃんがちょこんと座り、励ますように歌っていた。私の帰りを確認して、「らんらんるぅ」というしめくくりで歌を終わらせる。部屋が一気に静かになった。

 うつぶせのまま、エミリアは私の方に目を向けた。長距離を走り終えた直後のような、虚ろな目を。まだ痛い? と訊いてみたけれど、かすかに首を振った。嘘だろうと思ったけれど、言わないでおく。彼女の視線の先にりんごがあるのに気づいて、私は差し出した。


「貰ったんだけど、食べる?」

「……ぐつぐつがいい」


 言葉の意味が分からなくて、首を傾げた。そのあと、コンポートのことをこの世界で「アップルぐつぐつ」と呼んでいたのを思い出す。「調理してもらおうか」と提案したけれど、エミリアは「今日は寝る」と首を振った。どっちなんだ。


「……ナシロ、ちょっとこっちに来い」


 何事かとエミリアのところまで行くと、ここに腰掛けろ、とベッドサイドを叩かれた。私はエミリアの腰の付近に座る。一人用のベッドがぎしりと悲鳴を上げた。

 エミリアは私の服の裾をきゅっと掴んだ。そして、霧散してしまいそうなほど細い声を出す。


「ナシロ。あたしは決意したぞ」

「……なにを」

「もう二度と、こんなヘマをしない……。絶対に怪我なんてしないぞ……絶対だ……」


 ――よほど痛かったのだろう。ここまで弱っているエミリアを初めて見た。アルバートも驚くかもしれない。

 エミリアは私の服を掴んだまま、枕に顔をうずめた。


「――……あたしが寝るまで、そこにいてくれ」


 枕に吸収されてしまいそうなほど小さな言葉は、それでも確実に私の鼓膜を震わせた。身体が弱ると、心も弱るとはよくいったものだ。私はうん、と小声で返事をした。

 直後、エミリアはすやすやと眠り始めた。私の服を握っていた指先から力が抜け、すとんと布団に手が落ちる。


 早すぎませんか。


 私は呆気にとられながら、それでもしばらくそこから離れなかった。

 叩かれた夜は寝やすいというのなら、叩いてしまった夜は寝にくい。私は今日だけで二度も、エミリアを責めるようなことをした。洞窟で、感情任せに怒鳴りつけたことを思い出す。もとはといえば、オーガに攻撃されたのは洞窟に入ったせいで、洞窟に入ったのは私のためだったのに。


「……ごめん」


 ようやくその一言を告げて、私は自分のベッドに潜り込んだ。



 薬屋のフクロウが言っていた通り、エミリアの傷は三日でよくなった。ただし、滲みるのだけは変わらなかったらしい。エミリアは最後まで、自身の身体をきつく抱きしめたまま耐え続けていた。

 傷自体は綺麗に塞がり、けれどやはり痕は残った。消えないかな、と呟く私にエミリアは笑う。


「いい。――どうせあと半年もない」


 この傷は、一生消えない。その『一生』があとどれだけ残されているのかはっきりと分かっているのが、悲しくて、怖かった。

 エミリアは思い出したように、「ところで」と私の膝を見た。


「お前の膝は治ったか?」


 ――嫌な予感しかしない。私は「治ったよ?」と冷や汗を流しながら笑った。エミリアは残りわずかになった茶色の瓶を持ち上げる。


「完治していないようなら、これを使うといい。よく効くぞ」

「いや……その薬、高いじゃない。いいよ私は」

「まあ、そう言うな。あと一回分しかないし、ちょうどいい」


 エミリアの笑顔が、意地悪く見えたのも初めてのような気がする。半分本気で心配してくれていて、半分はわざとだろう。


 そしてその日。


 ぱしゃりという水音が室内に、その一秒後に私の悲鳴が街中に、響き渡った。


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