魔導士の家
私が異世界に飛んだのは、六月の下旬。お菓子の街に滞在した期間が長かったこともあり、魔導士の住んでいる森にたどり着いた時には七月になっていた。
山を覆うようなセミの鳴き声は、日本のそれと同じだった。訊ねてみるとやはり、蝉という昆虫は長い間土にいて、外に出て来たら一週間で死んでしまうのだそうだ。街に猫がいたことも考えると、私のいた世界とこの世界では、生態系がまったく違うという訳ではないらしい。
「ここか」
馬車から降りたエミリアが私に確認する。私は頷いた。
針葉樹林に囲まれた掘っ立て小屋。なんだか、久しぶりに見たような気がする。あの日のことは鮮明に覚えているけれど、できればもう思い出したくない話でもあった。特にぱんつの一件とか。
今更気づいたけれど、ボロボロの木製扉には鉄でできたドアノッカーがついていた。ライオンの彫刻があしらわれている……ということはなく、ただ輪っかがついただけの簡易なものだ。エミリアはそれを使い、リズムよく扉を叩いた。
「――開いている」
中から聞こえた声は、酷くそっけなかった。私とエミリアは顔を見合わせて、扉を開く。ぎい、と軋む木の音がした。
窓のない室内は相変わらず薄暗く、最低限の明るさを保っている。頼りないランプを部屋の隅にひとつずつ、そして中央にひとつ設置しただけの部屋だ。
テーブルと椅子、本棚、使い古されたベッド。生きていくのに最低限必要なものだけが備えられたようなところに、彼はいた。部屋の中央にある椅子のひとつに、ぽつりと座っている。
相変わらずフードを目深に被った魔導士は、無表情でエミリアに目をやった。それから、ああ、と声を漏らす。
「あなたがエミリア・フロディーテ様ですね。話は聞いております。落札、おめでとうございます」
それから視線を私に移した。
「今日は、『これ』の余命を移しに?」
金色の瞳に怖気づくことなく、エミリアは声を出した。
「あたしに敬語を使うな。それから、次にこいつのことを『これ』と呼んだら、ただではおかない。こいつはナシロだ」
「……それは失礼。てっきりお嬢様は、敬語で話しかけられることに自分の地位を見出しているのかと思ってね」
魔導士は肩をすくめた。口調は変えても、その表情は変えない。
椅子の背もたれに体重をかけ、魔導士は腕を組んだようだった。ローブなので腕を組んでいるのは見えないが、恐らく組んだのだと思う。
「それじゃ、あんたみたいなお嬢様が、こんなボロ屋敷になんの御用だ?」
「お前に聞きたいことがある」
「……答えられるかどうかは、内容によるな」
魔導士は溜息をついて、「とりあえず、こっちにくれば?」と家の中央にエミリアを案内した。きっと、エミリアだけを案内したのだと思う。けれどエミリアは、迷うことなく私の手を引っ張った。
「――それで、聞きたいことって?」
魔導士は、丁寧にもコーヒーを淹れてくれた。エミリアが砂糖とミルクを要求すると、「ない」と一言だけ返ってきた。エミリアは、ブラックを飲めるのだろうか。
出してもらったコーヒーに口をつけず、エミリアは魔導士を睨んだ。
「マグナと言ったな」
「正確にはマグナ・グロリエだ」
マグナの訂正を無視して、エミリアは続けた。
「百年ぶりに転移魔法を成功させた、高名なお前に訊きたい。――こいつを、元の世界に戻す方法は?」
コーヒーを飲もうとしていたマグナは、カップに口を付けたまま、金色の瞳をあげた。こうして見ると、少し猫目のようだ。そして恐らく、若い。私たちと大して変わりないかもしれない。
マグナは一口も飲まずにカップを机に置き、へえ、と呟いた。
「変わり者のお嬢様だとは聞いていたが、なるほど」
「あたしからすれば、お前も充分に変わっている」
「というと?」
「ナシロの寿命を移す魔法を、お前は使えるのだろう? なのに、自分の寿命を延ばそうとはしなかった。転移魔法が成功すると同時に、オークションに売り飛ばしたそうだな。――大金を手にしたはずなのに、いまだにこの家に住んでいるのも納得いかない」
なるほどねえ、とマグナは再度声を漏らした。
「変わり者だが、思った以上に現実主義なのかもな。……俺は、『太く短く』主義でね。必要以上に長生きしたいとは思わない。それと、豪邸やらには興味がない。自分の好きなものにしか金は使わないんだ」
一体、どこにお金を使っているのだろうか。私の顔を見たマグナが、ふふんと笑った。
「金があれば、自分好みの女すら買えるからな。どんなプレイにでも応じてくれる」
「……最っ低!」
心の底から本音が出た。エミリアは気分を害した様子もなく、そうか、と流す。聞こえなかったふりだとか、その場を紛らわそうとする行為ではなく、ただ本当に「そうか」としか思わなかったようだ。エミリアはコーヒーをすすり、そこでようやく不快な顔をした。それはマグナのセリフに対してではなく、コーヒーの苦さによるものだった。
「ところで」
不規則に揺れるランプの光を反射させたエミリアの瞳が、マグナをまっすぐに見つめた。
「フードを脱いでくれないか。お前の目を見て話したいのだが」
ここで初めて、マグナは表情を変えた。威嚇する犬のような顔で、エミリアを睨みつける。
「嫌だね」
「室内でフードを被る必要もないだろう。しかもこんな、夏に」
「お嬢様には関係のない話だ」
「そうか」
エミリアはおもむろに立ち上がり、向かいに座っていたマグナに手を伸ばした。てめえ、とマグナが身をそらそうとする前に、フードを掴んで後ろに引っ張る。
不服な顔をしているマグナに、「これでいい」とエミリアは笑った。
私は、マグナの顔と頭を交互に見た。
氷のような印象を抱かせるマグナの顔は、学校にいればそれなりにモテそうだと思えた。ただし、ツンデレからデレを抜いたような表情をしているので、クラスで浮きそうな男子だとも思う。年齢は十六歳から十九歳くらいだろうか。肌は綺麗で、にきびのひとつもない。
髪は、透けるような銀色をしていた。ランプの光を反射してオレンジに染まっているけれど、白でも灰色でもないことは分かる。フードを被っていたせいか、それとも柔らかそうな髪質のせいかは知らないけれど、毛先はあちこちに跳ねていた。
それよりも、耳。彼の耳は人間のそれではなかった。
見まごうことなく、それは猫耳だった。
髪と同じ銀色の耳は、若干後ろを向いていた。猫が怒った時のように。
……ポーカーフェイスなのに、耳に感情が表れるのか。私は金の瞳でも銀の髪でもなく、後ろを向いた猫耳をただただ眺めた。
「だから嫌だと言ったんだ」
私の顔を見ながら、マグナは鬱陶しそうに頭を掻いた。見られてしまったものを、再度隠すつもりはないらしい。
何の断りもなくフードを脱がせたエミリアは着席し、私に顔を向けた。
「ナシロは知らないのだな。超がつくほど有力な魔導士には、猫耳がはえるのだ。高貴な形だろう。あたしも初めて見た」
日本の一部で、そういう耳を装着したメイドが喫茶をしていたりすることを知ったら、この二人はどういう反応をするだろう。気になったけれど、言わないことにした。
エミリアは「それで」と話を続けた。
「マグナ。貴様は本当に、こいつを元の世界に戻す方法を知らないのだな?」
「知らないね」
マグナはうんざりしたような顔をした。
「そもそも、転移者を元の世界に戻すと言いだした奴がいない。前例がないんだ。需要のない魔法なんて、受け継がれない」
「……受け継がれないということは、現存する魔導士たちが知らないだけで、過去には送還魔法が存在していた可能性はあるのだな?」
「可能性はな。ただし、どの書にもそれは記されていない。この世界の魔導士はまず知らないはずだ」
エミリアは腕を組み、しばらく考えてから
「アオキ・ガ・ハラ・ジュカイについて、魔導士が知っていることは?」
「死者の霊魂が集まる森だろう」
「それ以外は?」
「……極秘情報だな。ここから先は別料金がいる」
相変わらずのがめつさに、私は白目をむきそうになった。どんだけお金が欲しいんだよこの猫耳魔導士。
けれどエミリアはためらうこともなく、紙幣数枚をマグナに渡した。マグナは紙幣の枚数を数えて、ふふんと笑った。
「それじゃ、続きを話そうか。――あの森には、入り口がいくつかある。知ってるか」
「ああ」
「その中のひとつ、『カザアナ』から森に入り、道なりに進め。しばらくは遊歩道があるが、数百メートルで途切れる。道が途切れたら、『カトレア』という単語を頭に浮かべながらまっすぐに進め。まっすぐだ」
マグナの言葉に、エミリアは訝しげな表情をした。
「道しるべもないのに、まっすぐ歩けるのか?」
「実際は、木の根に足を取られて右に左にと蛇行するだろう。だが、あくまでも主観でまっすぐに歩け。そして絶対に『カトレア』という単語を思い浮かべろ。会いたいと願え。そうすれば、やがて会える」
「……誰と会えるんだ?」
エミリアの質問に、マグナは口角を上げた。
「ジュカイの支配人と言われている奴だ。死者の魂を鎮めるために、何千年もそこにいると言われている。この話が本当ならば、ヒトではないだろう。だが、何千年も生きているのなら、もしかすれば『消滅した魔法』の存在も知っているかもしれない」
マグナはここでようやく自分の分のコーヒーをすすった。……もしかしたら、猫舌なのかもしれない。
カップを置いて一息つくと、マグナは試すような目でエミリアを見た。
「それと。そいつを元の世界に戻す方法に関係しているかどうかは分からないが、ちょっと変わった噂なら知っている。聞きたいか?」
エミリアはすぐさま、テーブルの上に紙幣を追加した。「物分かりが良くて助かるよ」とマグナは笑う。この男、本当にがめつい。
エミリアから受け取った紙幣の束をローブの中に突っ込んで、マグナは話を続けた。
「この森を北にまっすぐ行ったところに、洞窟がある。知っているか?」
「いや」
「見ればすぐに分かるはずだ。森の奥深くにあるわけでもないからな。そしてそこに……何かが封印されているという噂だ」
「何か、とは?」
「誰も知らないから『何か』なんだ。俺だって知らない。……封印した人間は、宝箱に『それ』を入れて、自分の『ペットの首輪』にその宝箱の鍵を取り付けた。そして、洞窟にそのペットを置いてきたらしい。宝箱を見張る、番犬としてな」
「ペットか……。それが何なのかも、分からないのだな?」
「ああ。毎年数名、あの洞窟に行ったきり行方不明になっている。数字がある限り死んではいないだろうが、無事に帰ってきた者もいない」
なにかのゲームの設定でありそう、と私は内心で突っ込んだ。エミリアは解せないな、と呟く。
「何故、その宝箱の鍵を捨てなかったのだろうか。封印するくらいなら、鍵も捨てればいいのに」
「さあ?」
エミリアの素直な疑問にマグナは肩をすくめ、コーヒーを飲み干した。
「ま、洞窟に行くならくれぐれもお気をつけて。俺は同行する気なんてないから」
「……決断が早いな。金でも解決できなさそうだ」
「さすがの俺も、金より自分の方が大切なんでね。戦闘に長けてもいないし」
私は思わず、口を挟んだ。
「あなた、一応魔導士なんでしょ? 炎を操ったりとかできるんじゃないの? 攻撃呪文とかないの?」
室内が静寂に包まれた。かと思えば、マグナはもちろんエミリアまで笑い始める。私は何か、おかしなことを言っただろうか。
「ナシロ。お前は何か勘違いしていないか。魔導士は一般的に、物干しざおで空を飛ぶ程度しかできない」
「……えっ」
空を飛ぶ程度しかできない。物干しざおで空を飛ぶ。どっちに突っ込めばいいのだろう。
更に、エミリアは付け加えた。
「普通の魔導士は空を飛ぶだけ。そこから何かに特化すれば、猫耳がはえるくらいの優秀な魔導士になれる。ただしそれでも、自分が専門としている魔法しか詠唱できない。炎に関する魔法を極めたのなら、使える魔法は炎に関するものだけ。極めたのが回復魔法ならば、その魔導士は回復専門だ」
エミリアの説明に、マグナは「そうそう」と頷く。
「俺の場合、『異世界から人間を転移させる魔法』と『余命を移す魔法』のみを極めた。だから、転移魔法しか使えない。お前の世界の言語と、こちらの世界の言語を繋げている『通訳魔法』は、転移魔法のおまけみたいなもんだ。――ということで後はせいぜい、物干しざおで空を飛ぶ程度しかできないな。冒険する仲間に、俺は向いてないだろう」
マグナはくつくつと笑った。魔法がある世界なのに、ここまで不便さを感じるのはなぜだろうか。
エミリアは私に目をやって、深刻な顔をしたかと思えば、マグナに言った。
「なにか、武器になりそうなものを貸してもらえないか」
私はぎょっとして、思わずエミリアの服の裾を引っ張った。
「ちょ、洞窟に入るつもり?」
「お前を元の世界に戻す手掛かりがあるかもしれない」
「この変態魔導士の作り話かもしれないのに!?」
「金の絡んだ取引で、嘘はつかないなあ」
マグナがのんびりと横槍を入れる。私はマグナを睨んだ。ただでさえ、こいつに召喚され、オークションに出された恨みがあるのだ。信頼はできない。
エミリアは私の目を見て、安心させるように笑った。
「ナシロ。お前はここにいろ。洞窟には、あたし一人で行くから」
「いや、でも……」
魔導士と、この家で二人きりというのも嫌だ。
「言っておくけど、この森には猛獣が結構いるから。洞窟の前で女が一人、いい子で待ってるのも危ないと思うな。余命が四十二年あるから死にはしないだろうけど、すんごく痛い目には遭うかもよ」
またもやマグナが口を挟んでくる。やたらとニヤニヤしながら。他人事だと思いやがって、この野郎。
結局私は薪割り用の斧を、エミリアは鉈を借り(これまたレンタル料が発生した)、二人で森の中を歩きだした。せいぜい頑張ってねー、とマグナが間延びした声を出す。人を一人召喚し、命の危機にまで晒しておいて、あの態度はないと思う。
いつも通り私の肩に乗っかっている樹海ちゃんが「きゅう」と鳴く。危ないから魔導士の家で待っているようにと何度も説得したけれど、首を横に振るばかりで、結局連れてきてしまった。こんなに小さな身体なのだ。襲われたりしたら、ひとたまりもないだろう。
「樹海ちゃん、私から離れちゃ駄目だよ。肩から落ちないようにね」
樹海ちゃんは私の言葉に「きゅっ!」と鳴き、私の髪の毛を数本掴んだ。
方位磁石を頼りに、妙に曲がったり折れたりしている木々の間を縫うように歩く。まだ午前中で、今日は天気も良かったはずなのに、森の中は薄暗かった。緑と、湿気た土の匂いがあたりを覆っている。今のところ、野生動物に襲われることはなかった。
「……封印されたお宝って、なんだと思う?」
訊ねると、前を歩いていたエミリアは私の方を振り返った。それからいたずらっぽく笑う。
「お前を元の世界に戻す方法の記された、伝説の魔術書なんかだったらいい。もしもそうでなければ、チーズケーキが入っているとありがたいな」
「……万が一にもチーズケーキが入ってたら、発酵してるんじゃないの」
「食べごたえがありそうだ」
恐らくは半分本気でそう言って、エミリアは前を指さした。
「あれだな」
私はエミリアの背中越しに、洞窟の入り口を見た。
切り立つ緑色の岩に、誰かが作ったのかと思えるくらいに綺麗な穴が開いている。岩が緑色なのはコケやツタのせいで、それがまた不気味さを醸し出していた。人を寄せ付けまいとしているその外見はあっという間に、私の中で心霊スポットとして認定された。
そんな穴に向かって、エミリアはすたすた歩きだす。私は意味もなく両手で斧を握りしめながらエミリアを見上げた。私よりも若干背の高い彼女は、涼しい顔をしている。
「エミリア」
呼ぶと、青の瞳がこちらを向いた。
「あの……怖くないの?」
「正直に言うならば、怖い。――あたしは、怖いと笑ってしまうたちでな。先程から笑いが止まらん。ふふっ」
エミリアは笑った。けれど、それだけだった。エミリアは無言で私の頭に手を置き、犬のようにわしゃわしゃと撫でまわす。
「行くぞ」
私から手を離して、彼女が前を歩きだす。
私は乱れた髪を整えながら、そして頭にかすかに残っているエミリアの手のあたたかさを感じながら、その後に続いた。




