本の街
お菓子の街から魔導士の家までは、馬車で約三日かかるとのことだった。直進すればもう少し早く着けるのだけれど、私たちが本の街へ行くために迂回したせいだ。
本の街は、街のすべてがドームのように覆われていた。街に入るには手続きが必要で、エミリアはそこでも例のクレジットカードを使用した。身分証明書にもなっているらしい。
馬車ごと門をくぐると、そこは本で溢れていた。街の外壁だと思っていたドームは、本棚だったのだ。その圧倒的な資料の多さに、私は目眩を起こしかけた。本棚は螺旋状になっていて、それと並ぶように螺旋階段がある。つまり、自力で階段を昇れと。上の本を取りに行くにはどれだけの労力が必要なのだろうかと私は考えた。それだけでまた目眩がしそうだった。
そんな『本棚ドーム』の中に街はしっかりと存在していて、宿はもちろん食事処も市場もある。しかしなぜ、本屋まであるのだろうか。これだけ本に囲まれているのに、その中に本屋を作る必要があるのか私は理解に苦しんだ。けれど、これについてはエミリアが説明してくれた。
「外壁に設置されている本はすべて貸し出し用だ。自分用の本が欲しければ、本屋で本を買え、ということだろう」
なるほど。
私とエミリアはひとまず宿を確保して(今度はちゃんとツインにした)、アオキ・ガ・ハラ・ジュカイに関する資料を探し始めた。しかし、資料の量が半端ない。結局は街の人に聞いて、高さ十メートルのあたりに樹海に関する資料があることが判明した。
エミリアは私の様子に気付いたのか、それとも私が足を引っ張ると思ったのか、涼しい顔で言った。
「あたしは資料を探してくるから、お前は適当に、好きな本でも見てろ。本を借りたい時は、街の中央にある受付に行け。返却期限は一週間だ」
すたすたと歩いていくエミリアを見送って、私は下の階にある本を覗くことにした。
下の階は、低年齢向けの本が多かった。絵本や童話なんかがずらりと並んでいる。その中のひとつに、私は『ヤンデルとグレテル』を見つけた。本棚から引き抜いて、中を読んでみる。
「あったぜ。あれが、おかしのいえだ」
グレテルが、たばこをふかしながら言いました。ヤンデルはめそめそと泣いています。
「まじょがかわいそうだよう……」
「うっせえぞ!」
グレテルはそう言って、たばこをじめんにおとし、ふみつぶしました。それから、じめんにつばをはきました。そして、つばをはいたついでに、言いました。
「わるいことしたやつが、いけないんだ! あいつはわるいやつだ!」
こういうのを、『おまえが言うな』といいます。
ヤンデルとグレテルは、おかしのいえにちかづきました。いいにおいがします。
これ食べられるんじゃないか? とグレテルが言いました。ヤンデルはそのことばにつられて、食べはじめました。
「このスポンジケーキ、バナナミルク味だ! バナナもミルクも、『うつ』にいいんだよ! トリプトファンだよ! このグミはぶどう味! ぶどうにはGABAがふくまれているんだ! ストレスが加わるとコルチゾールというホルモンが、」
ヤンデルはここぞとばかりに、うつうつとした『ちしき』をひろうしました。グレテルはそれをむしして、チョコやキャンディを食べていました。
するとやがて、チョコレートでできたドアがひらきました。
「だれだい? わたしのいえを食べているやつ……あっ」
つぎのしゅんかん、まじょはグレテルのジャーマンスープレックスをくらい、きぜつしてしまいました。
「せなかを見せた、おまえがわるい」
グレテルはそう言いましたが、まじょはグレテルにせなかを見せておらず、つまりはいかにしてグレテルがジャーマンスープレックスをひろうしたのか、それはヤンデルにすらわかりませんでした。
ヤンデルとグレテルはまじょのいえで、なにふじゆうなく、くらしました。グレテルはまじょをこきつかいました。ヤンデルはせまいばしょがおちつくからと、みずから『ろうごく』にとじこもり、まじょがもってくるゴージャスなりょうりをたべているうちにブクブクとふとりました。
やがておかしのいえがくさりはじめ、ふしゅうをはっするようになったため、ヤンデルとグレテルはおかしのいえを出ていくことにしました。くちふうじに、まじょはかまどにいれておきました。こういうのを、『しにんにくちなし』と言います。
まじょのいえにあったおたからを持てるだけ持って、ヤンデルとグレテルは次のまじょのもとへとむかうのでした。
つづく。
――異世界ギャップこわい。
私はヤンデルとグレテルを元の位置に戻し、何も見なかったことにした。これ、何歳対象の物語になってるんだろう。しかも「つづく」ってなんだ。
童話のコーナーから離れ、しばらく歩いていると、気になる本を発見した。
『子供でも使える魔法』
タイトルからして異世界だ。私は中を開いた。目次の前に、このような文章があった。
魔法を使うのに必要なのは、信じる心。
信じることができれば、あなたも魔法使いになれる!
人間はみんな、魔力(※魔法を使うちから)を持っています。
まずは、自分の魔力を信じましょう。
そうすれば、あなたの魔力はよりいっそう強くなります。
自分を信じて、この本にある呪文を唱えてみましょう。
あなたも、魔法使いになれるはずです。
呪文を唱えても何も起こらなければ、それは信じる力が、魔力が足りないのです。
自分を信じて! 自信を持って! 呪文を唱えましょう。
これであなたも、魔法使い!
「…………」
人間みんな魔力を持っているということは、異世界から来た私でも持っているのだろうか。目次を見ると、『火の章』『水の章』『草の章』『風の章』などがある。
「…………」
私はその本を抱えたまま、街の中央へ向かった。ご機嫌らしい樹海ちゃんが、私の肩で「らんらんるぅ」と歌っていた。
夕方、宿の前でエミリアと合流した。エミリアはこれといって収穫はなかったと言いつつも、大量の本を抱えている。すべて、アオキ・ガ・ハラ・ジュカイに関するものだろう。
私が本を小脇に挟んでいるのを見て、エミリアは覗き込もうとした。
「なにか面白そうなものでもあったか」
「えっ!? ううん、ちょっと気になるのがあっただけで!」
どうせなら、エミリアには秘密で特訓し、目の前で魔法を使って驚かせてやりたい。
私は適当にごまかして、宿の近くにあったご飯屋さんに入った。野菜たっぷりのスープと、焼きたてパン、それからピカタのようなものを注文する。というか、エミリアが注文した。樹海ちゃんはテーブルの上で、大人しく座っている。
基本、この世界の料理の味付けは日本に似ていた。私はどれを食べてもまずいと思わなかったし、変な味だとも思わなかった。今回の料理も、そう。スープの具にぶどうが入っていること以外は普通だった。これはあれだろうか。酢豚にパイナップルとか、ポテトサラダにりんごとか、そういう類のものだろうか。エミリアは何も言わなかったので、やはりこの世界では普通なのだろう。
エミリアは食事をしながら、アオキ・ガ・ハラ・ジュカイについて分かったことをいろいろと教えてくれた。
この世界では、哲学者が自殺するのによく使っていること。余命の少なくなった人間は、吸い込まれるようにそこへ行ってしまうこと。その森には死者の魂が集まっていること。その魂を慰める、『ジュカイの支配人』がいること。
死者の魂が集まっていそうなのは、日本の青木ヶ原樹海も同じだと思った。正直、あそこは観光名所というよりも自殺の名所というイメージが強い。歩いて数十メートルで、死体を発見してしまうという噂すらある。支配人がいるのかどうかは知らないけれど。
「……話すのに夢中になりすぎた。パンが冷めてしまったな」
ナンのように平らなパンをかじりながらエミリアがそう言うと、私の左肘近くに座っていた樹海ちゃんがすっくと立ちあがった。そのまま二足歩行でとてとてと、エミリアの元へと向かう。
「お。すまないな」
エミリアがパンを樹海ちゃんの方に差し出すと、樹海ちゃんはそれに向かってふうっと息を吐いた。いや、厳密には息を吐いたのではない。
火を吹いた。
炎とまでは言わない。ただ、ライターよりも強い火力だった。ぼーっと音を出して、パンの表面を焼く。パンは香ばしい匂いを発し、綺麗な焼き目がついた。
私はスプーンにぶどうの実をのせたまま、唖然としてその様子を見ていた。エミリアは、煙草を吸う時に火を分けてもらったおじさんのような態度で、再度「すまないな」と言う。どこまでも平然と、普通の態度で。
火を吐き終えた樹海ちゃんは「んきゅ!」と鳴き、とてとてと私の元へと戻ってくる。え、待って。
「樹海ちゃん、炎タイプなの!?」
炎タイプ。RPGみたいなことを口走ってしまったけれども、エミリアは気にする風でもなく頷いた。
「言い忘れていた。ジュカイは『手乗り火吹きドラゴン』だ」
とてとてとおぼつかない足取りで戻ってきた樹海ちゃんは、私の方を見上げると目を細めた。若干胸を張っている。褒めて、ということだろうか。人差し指の腹で頭を撫でてやると、ご機嫌になったのか歌い始めた。「ら」と「る」と「ん」で構成され、時折「らんらんるぅ」が混ざる歌を。
ドラゴンが炎を吐く(あるいは吹く)のは私も予想できる。しかし、全長十センチ、ピンク色の樹海ちゃんが火を吹くとまでは予想していなかった。
ドラゴンの生態に関する本を借りてくればよかったと思いつつ、エミリアに質問することにした。
「えーっと。火吹きドラゴンのほかには、どういうドラゴンが?」
「風を操る『疾風ドラゴン』と、雷を操る『雷ドラゴン』がいる。こちらも、伝説になっている大型のものと、野良になっている手乗りタイプがいるな」
「……見分け方は?」
「ツノがはえていなければ、疾風ドラゴン。目が金色ならば雷ドラゴンだ」
「……伝説のドラゴンと、手乗りドラゴンの違いは?」
「伝説の火吹きドラゴンは大地を焼く。疾風ドラゴンは竜巻を起こし、雷ドラゴンは雷を落とす。これが手乗りの場合、火吹きはジュカイ程度の火力しか持たない。疾風ドラゴンはそよ風を起こす程度で、まあ夏には役立つ。雷ドラゴンは、人を気絶させる程度の電力しか発しないが、護身としては心強いかもしれん」
「……手乗りはどの子も、樹海ちゃんくらいの大きさで?」
「ああ」
「だけど飛ぶんだよね?」
「そうだな」
「食べものは」
「どのドラゴンも、甘味しか食わん」
ドラゴンに関する本を、むしろ買ってしまいたい。
私が話を聞いている間も、樹海ちゃんはしっぽを揺らしながら歌い続けていた。
宿に戻り、お風呂に入る。エミリアは最初の一件で懲りたのか、『突撃! ナシロの入浴シーン』をしてくることはなかった。髪と身体を洗い、洗面器風呂に入っていた樹海ちゃんが満足するのを待って、お風呂から上がる。
部屋に戻ると、エミリアは真剣な顔をして資料を読んでいた。エミリアは正面から見ても綺麗だけれど、横顔だと尚更クールな感じがする。実際にクールなのかどうかは別として。
「エミリア、お風呂あいたよ」
「ああ」
エミリアがお風呂に行ったのを確認し、私は借りてきた本を開いた。『子供でも使える魔法』。子供でも使えるのだ、私に使えないはずがない。
ぺらりと、目次の先を開く。最初は火の魔法。これが使えたら、私は樹海ちゃんと一緒にサーカスでもやれるかもしれない。どれどれ。『呪文その一。うまく詠唱出来たら、指先からマッチ程度の火を出せるようになる』。おお。
呪文その一を、私はまず内心で読んだ。
【なまむぎ なまごめ なまたまご】
……おかしい、なんでこんなに既視感があるのだろう。
呪文の下には『口に出して、心を込めて、自分を信じて読みましょう』とある。
「……なまむぎ、なまごめ、なまたまご」
何も起きない。
もうちょっと早口で言った方がいいのだろうか。
「なまむぎなまごめなまたまご」
声が小さい?
「なまむぎなまごめなまたまご!」
自分を信じて!
「なまむぎなまごめなまたまごっ!」
心を込めて!!
「なまむぎなまごめなまなまこぉっ!!」
噛まないように!!
「なまむぎなまごめなまたまごおおおおおおっ!!」
……何も起こらない。樹海ちゃんが、くああ、とあくびをした。
もしかしたら私は、『火の魔法』は向いていないのかもしれない。そうかもしれない。
気を取り直して『水の魔法』その一を詠唱することにする。うまくいけば、コップの水が増えるらしい。私は水を入れたコップを自分の前に置き、呪文を詠唱した。
「……あおまきがみ、あかまきがみ、きまきがみ」
増えない。
「あおまきがみあかまきがみきまきがみ!」
水の表面は微動だにしない。
「青巻紙赤巻紙、きまきまきぃっ!!」
噛んだ。
どれだけ心込めても自分を信じても、魔法のひとつも起こらない。おかしい。噛んだのは仕方ないとしても、これほどまでに心を込めて詠唱しているのに、どうしてひとつも反応しないのだろう。
――まさか。
私は選ばれし存在で、一番難しい呪文しか発動しないとか?
『上級者の魔法』までページをすっ飛ばす。火の魔法、上級。これができれば、伝説の火吹きドラゴンと対峙できるレベルとある。多分、よほど強力な魔法なのだろう。私は呪文を見た。
可逆反応の逆 不可逆反応
不可逆反応の逆 可逆反応
可逆反応も不可逆反応も化学反応
子供のためだろう、ひらがなでも書かれていた。
かぎゃくはんのうのぎゃく ふかぎゃくはんのう
ふかぎゃくはんのうのぎゃく かぎゃくはんのう
かぎゃくはんのうもふかぎゃくはんのうも かがくはんのう
「……可逆反応の逆不可逆反応、ふきゃっ」
樹海ちゃんがこちらを見ている。
「可逆反応の逆不可逆反応、不可逆反応の逆ぎゃくっ」
樹海ちゃんがこちらを見ている。
「可逆反応の逆不可逆反応、ふきゃきゃっ」
樹海ちゃんが、きゅうと鳴く。
「可逆反応の逆不可逆反応、不可逆反応の逆可逆反応、可逆反応みょっ」
樹海ちゃんが首を傾げる。
「っ……可逆反応の逆不可逆反応、不可逆反応の逆かぎゃぎゃっ!」
「さっきから一人で何を言っているんだ?」
頭上からエミリアの声がして、私は悲鳴を上げた。いつの間にかお風呂から上がったらしいエミリアは、私の読んでいた魔法の本を覗き込む。それから「ああ」と頷いた。
「ゆっくりでいいから、心を込めて読め。そして、その呪文を一度でも唱えられたら、本のカバーを外してみろ」
あたしは先に寝る、とエミリアはさっさと布団に入ってしまった。前から思っていたけれど、エミリアは朝型だ。夜に弱い。
樹海ちゃんも丸まって眠りだしたので、私は小声でゆっくりと、それでも心を込めて呟いた。
「可逆反応の逆不可逆反応、不可逆反応の逆可逆反応、可逆反応も不可逆反応も化学反応」
何も起こらない。言われた通り、本のカバーを外した。
心を込めて呪文を詠唱してしまった少年少女へ
この本に書かれている魔法はすべて嘘っぱちです。
心を込めて読んでも何も起こりませんよっ!
もしも必死に読んじゃったなら、君は騙されやすい子だ!
詐欺師に騙されないよう、気を付けよう!
追伸
心を込めて呪文を詠唱してしまった、十五歳以上の人へ
あなたの将来が、心配です。
まさかとは思いますが、最初の簡単な呪文で何も起こらなかった時、『自分は最強の呪文だけを唱えられる特別な人間かもしれない』などと考えたりはしなかったでしょうか。
もしもそうなら、現実と向き合いましょう。
あなたはこの本に騙されるくらい、凡人です。
あなたはこの本に騙されるくらい、お馬鹿です。
あなたが現実世界で生きていけるよう、祈っております。
著者より。
――本を床にたたきつけたい衝動にかられたのは、これが初めてだった。




