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「こーんちはぁ。ここってバイト募集してたりしますぅ?」

 黒っぽいニットシャツにスキニーパンツ、明るい茶系のチェスターコートというコーディネートのユッチは、どこぞの大学生といういでたちだ。

「申し訳ないね、お兄さん。ウチは民間企業じゃないんだよ」

 ユッチの正面に立つのは白衣の中年男性。小肥りで二重顎、眠たげな瞼をしているが、人当たりのよい笑顔を浮かべている。この研究所には他にもアルバイト希望者が訪ねてくることがあるのか、応対に手慣れた印象だ。

「こんなにでっかい建物だから、よく勘違いされるんだけどね」

 視線で背後の建物を示す。鉄筋コンクリートのがっしりとした建物だ。敷地といい建物の高さといい、隣接する民間車検工場が掘っ立て小屋に見えてしまうほどの偉容を誇る。正面出入口には、そこらの工場とは一線を画すデザインの門扉を構えていて、扉に表示された名前は『エターナル・チルドレン』と読めた。

「材料工学の博士が私費で立ち上げた研究所なんだよ。人を雇う予定はないんで、悪いけど他をあたってよ」

「はぁ。そーですかぁ。ああでもこのまま帰っても暇だからなぁ。俺、柴表(しばおもて)工業大学で材料工学を専攻してるんすよ。ご迷惑ならいいんすけど、もしよかったら見学させてもらえないっすかねぇ」

 口調そのものはあくまでも軽く、しかし動作はそれなりに生真面目に。そんな器用な話し方をするユッチに対し、白衣の中年男性はペースを乱されたのか、どう扱うか迷ってしまっているようだ。

「んー。所長がいないからなぁ。ま、いっか。僕の予定は午後からだから、ほんの少しでよければ中を見せてあげるよ」

「ほんとっすか! 嬉しいっす!」

「まあ、君の専攻分野と重なる部分はないと思うけどね」

 何せ所長の趣味だし、今んとこ実益につながることのない特殊なものばかりだから——などと、ユッチに聞かせるつもりのなさそうな小声で呟く。

「あ、俺、都築(つづき)浩三(こうぞう)っす。これ名刺っす」

 名刺は実際に柴表工業大学に在学中の、監視機構日本支部メンバーのものだ。

「申し遅れたね。私はここの主任研究員——、ああ、主任と言っても私設研究所だから偉くもなんともないんだけど。名前は寒波(さむなみ)雪空(ゆきあき)。よろしく」

 手渡された名刺によると、中年男性は帝都大学助教授にして工学博士であるようだ。


 三十分後。

 ユッチの瞳はきらきらと光を放っていた。

「マジすげえっすよ! ナノマシンで構成された多目的スーツって、もろ特撮ヒーローじゃないっすかあ!」

「斥力場の発生を任意にオン・オフできれば、現在の機動隊が使っているライオット・シールドに取って代わるんじゃないかってね。大真面目に研究しているけれど、国も警察も取り合ってくれないよ。まあ、理論だけでもきちっと固めてから話を持ってこいってことなんだけどね」

「まだ時間いいっすか! 他にはどんなのが!?」

「ちょっと毛色の違うので言えば、それこそまだ存在さえも解明されていないアストラル界にまつわる研究もあるね。この世界は物質で構成されるマテリアル界と、精神で構成されるアストラル界があるという考え方。その二つを繋ぐエーテル界にアクセスすることで、物質としての体裁を保ったままアストラル界を通り抜けることができるんじゃないか、という研究」

「おー! で、その研究の目的はどこに設定されているんすか?」

「時間の概念がない、あるいは時間の定義がマテリアル界と全く違うアストラル界を経由することができれば、いわゆる瞬間移動が実現するんじゃないか、というね」

「瞬間移動! ロマンっすよ!」

 苦笑する寒波博士は、しかしユッチの反応にまんざらでもない様子となっている。

「いやあ。所長のエラクレオ・クスタ博士は日本のアニメや特撮にインスパイアされたらしくってね。嘘か本当か知らないけど、巨大ロボットだって大真面目に研究するようなことを言ってたよ」

「ホントっすか! じゃ、今度はそのクスタ博士がお暇なときにでも遊びに来たいっす! あ、もちろんお邪魔になんなければ、っすけどね」

「じゃ、軽く所長に話だけでもしてみるね。連絡先はさっき貰った名刺の番号でいいよね?」

「はいっす!」

 だだっ広い研究所はいくつもの小部屋に分かれており、見渡せる範囲はそう多くない。

 だが、ユッチには魔法を使うまでもなくわかる。この施設は、魔法を無効化、もしくは妨害するための対策が幾重にも施されている。

 ギファールにある遊撃班の訓練施設で感じる、魔法士にとって肌を刺すような耐魔法装甲と同じ臭いが、建物内の至る所から漂ってくるのだ。

(シシナ。もろ、ビンゴくさいぜここ)

(そうね。こんな堂々と……。疑う気にもならなかったんでしょうね、日本支部も)

 ユッチは興奮した演技を続けつつ、研究所の中を眺め回す一方で冷静にシシナと会話をしていた。

(ただまあ、もうこの建物にはユウジ先輩は近寄らないだろうし、真っ正面から突っ込んでも何にも出ないだろうけどな)

 事前の下調べにより、鈴木裕而がエターナル・チルドレン訪問の痕跡をしっかりと消していることを確認した。それどころか、骨折したとかで、現在ギファール側の病院に入院中だと言うのだ。

 その情報を信じる者はユッチ班にはいない。むしろユッチ自身、もと監視機構の先輩に対する疑惑が真っ黒に近い色にまで染まった、と感じている。

(地道な捜査は必要だけど、あたしたちの目的はガスタフ・ラモーンズ。ここは佐々木支部長に依頼して、監視を続けてもらいましょう。何か出ればそれに越したことはないのだし)

(ああ、そちらの手配は頼むぜ)

 その後も寒波博士としばらく言葉を交わし、大袈裟なリアクションをとりつつ、実現の可能性が薄い次回訪問の約束を交わすのだった。




「さて。どう思った?」

 研究所から充分に離れてから、ミュウと合流したユッチは開口一番そう聞いた。

「そうっすね。世捨て人のような外国人博士による荒唐無稽な研究に、日本人研究者がノリでつきあっているって感じっすかね。表向きはそんな緩い感じだけど、裏には一握りのホンモノが隠れていて、実益を生み出すための研究をしている、ってとこかなーと」

「ちょっと思ったんだが。ホントにその喋り方でないといけなかったのか、俺。普段の言葉遣いでも中に入れてもらえたような気がしてならんのだが」

 その言葉に対し、応じようとするミュウの笑みは少しひきつっているように見える。

「な、何言ってんすか。真面目な学生さんなら研究員さんの方が遠慮して、やんわりと追い返していたに決まってますって。俺みたいな喋り方だからこそ入れてもらえたんですってば」

 現在のミュウは、今日のためにここ数日間ユッチへ『喋り方』指導をしてきた癖で、崩れた丁寧語っぽい喋り方となっている。

 半目のユッチは、しかし諦めたように呟く。

「んー。そういうことにしておくか。演技にしても、慣れない喋り方は恥ずかしいし、いつボロが出るかと冷や汗もんだったんだぜ」

「いやー、軽くチャラい感じのユッチ先輩、眼福っした! あざます!」

「……それが本音か」

「いいからいいから。昼っすよ! メシ行きましょ、メシ!」

 こころなしか肩を落とすユッチと腕を組み、ミュウは元気に彼を引っ張っていく。


 その直後、研究所から出かけてゆく寒波博士が誰と会うかなど、ユッチは全く気にも留めていないのだった。


 * * * * *


 とあるマンションの一室。

 独り暮らしの男の部屋から、女の甘やかな喘ぎ声が漏れていた。

 安物と思しき木製のベッドが軋み、時折獣の咆吼もかくやという男女の叫びが混じる。

 やがて静寂が訪れた時、外はすっかり真夜中となっていた。

 寝静まったかに思われたが、寝息は聞こえてこない。暫しの沈黙の後、部屋に電気が灯った。

 ベッド上に半身を起こしているのは中年男。小肥りで二重顎、眠たげな目をした、あまり覇気の感じられない人物だ。寒波博士である。

 その横に、布団に身を包んで横たわったままの黒髪ショートの女の姿がある。年の頃は二十代後半、男を誘う妖艶な笑みと女豹の眼光が同居した、剣呑な雰囲気を纏っている。

「ねえ、この間の話の続きを聞きたいわ」

 女がベッドに横たわったまま声をかけた。甘ったるく絡みつく話し方だ。

「いいとも。何だって聞いてくれ」

 寒波は相好を崩し、女を見下ろして言う。

「我々エターナル・チルドレンは、ある技術をフェアリーテイルに売った。とてもいいお金になったよ」

 言葉の内容と寒波の態度との間には大きな隔たりがある。

 喩えるならば、その態度と声は行動の成果を母親に自慢する幼子のそれだ。知性を放棄して幼児退行しきっているわけではないだけに、比類のない痛々しさだ。

 ただ少なくとも、寒波の様子からは悪事に手を染めているという自覚など、微塵も感じられないのだった。

「実際のところ、稀に人間の世界に迷い込むIMはいても、凶暴化する個体なんてそんなに多くなかったんだ。迷い込んだIMを飼い慣らすだけでなく、意のままに凶暴化させる技術。僕が手がけたプロジェクトなんだぜ。お客様(フェアリーテイル)には本当に喜んでもらえたよ」

 女は表情を変えぬまま、ごく小さく息を吐いた。

 凶暴化IMは社会に混乱を巻き起こす。『お客様』はそれを暗殺や破壊行為に利用したり、騒ぎの影で別の犯罪行為を行ったりしている。

 頭では判っているつもりかも知れないが、この男の関心は研究そのものにしか向いていないようだ。

「さすがだわ。もっと聞かせて、あなたのお話」

 女は男の胸に手を置き、なまめかしく撫でさすっている。

「う、うん……。い、今は、凶暴化IMに対抗できるのは魔法士だけだ。そこで、僕たちはパワードスーツを開発している」

「パワードスーツ?」

 上目遣いに聞き返す女に対し、「おふぅ……」などと気色の悪い吐息を漏らしつつ、寒波は自慢げに話を続ける。

「まだ名前は決まってないんだけどね。仮に対IM高機動騎兵とか、AIMトルーパーとかって研究所内では呼んでいるよ。非魔法士でもIMを撃退できる特殊兵装を装備した、全高十七メートルほどの人型メカなんだ」

「……おっきいのね」

「そうそう。でもその筐体にバブルバリアジェネレーターを内蔵するんだぜ。僕が開発した超小型ジェネレーター。そいつで装甲の内側へのIMの攻撃も侵入も完全シャットアウトするんだ」

「すごいわね。バブルバリアジェネレーターって、とっても大きくて重いんでしょ。あたしが知ってる限り、全長百メートルを超える航虚艦だからこそ、なんとか積み込めるって。発生するエネルギーも天文学的で、実数空間に換算したら数百キロだか数千キロだか、とんでもない広範囲に影響を及ぼすんだって。理論的に小型化は無理だって話じゃなかったかしら」

「ルーシーは物知りだ。だからこそ、研究者の僕とこうして楽しくお話できるんだよね」

 微笑とともに細めた目で見返され、寒波は嬉しそうに声のトーンを高める。

「非の打ち所がない女性だ。才色兼備とは君のためにある言葉だと思うね、僕は」

 女——ルーシーとしては嘲笑であり、見下した視線である。気の毒なことに骨の髄まで蕩けきった男にとっては、彼女のどんな笑みもどんな眼差しも、快感中枢を刺激する麻薬と化しているようだった。

「この僕が常識を覆したんだ。バリアの効果範囲限定に成功し、ジェネレーターの小型軽量化を実現したんだよ。艦載機のように母艦のジェネレーターの力を借りることなく、メカ本体に内蔵し、その本体のみを薄膜で覆うイメージだね。こうしないとパイロットは溝の向こう——本物の虚数空間に墜ちて、戻って来られなくなっちゃう」

「あら、まるで実際に戻って来ない人がいるみたいな言い方ね」

「実験に失敗はつきものだ。数十人に及ぶテストパイロットたちには気の毒だが、相応の報酬は払っているし、本人たちも危険を承知で参加していたんだ。彼らのおかげで貴重な実験データが得られたので、有効に活用させてもらっているよ」

 ふうん、と喉を鳴らすような声をたて、ルーシーは寒波の頭に手を添えた。頬ずりするように彼の胸元に顔を埋めると、蕩けきった笑顔はいよいよだらしなく崩れてゆく。

「ねえ、トルーパーだっけ? それ、リモートコントロールでは動かないの?」

「薄膜とは言えバブルバリア越しになるからね。超空間通信の技術を利用しても酷いタイムラグが発生するよ。今のところ、パイロットが乗り込んで操縦する兵器として開発している。そのかわりと言っては何だが」

 蕩けきっていた寒波の目に、少しだけ強い光が宿った。

「その薄膜、こちらの想定を上回る効果があるようでね。戦闘機動によってコクピットにかかるはずの物理的な衝撃が驚くほど軽減されるのさ。だから、ある程度慣性を無視した無理な機動にも対応できる。半永久的に飛び続けるのは無理だけど、百メートルくらい一気にジャンプして、そのまま着地してもパイロットにはほとんど負荷がかからない。ああそうだ、トルーパーの開発責任者はこの僕だからね、設計図を持ってるぞ」

 自慢げに言う彼に、ルーシーは正面から目を合わせて見せた。

「あら。思った通り、あなたって偉い人だったのね」

「わはは、それほどでもないさ。まあ、オリジナルの設計データはまだ僕しか持ってないんだけどね。ベッド脇のストゥールに置いてあるディスクに入ってる。あとで見せてあげるよ」

「ふうん、あたしが見てもわかんないだろうけど、なんだか楽しみ。……それで、そのトルーパーとやらもフェアリーテイルに売るの?」

「まさか」

 そう返しつつ、彼はルーシーの髪を撫でた。

「それじゃバランスが悪いし、儲け幅も少なくなる。これを買ってもらうのは監視機構。戦い合ってる双方に売りつけるのが商売の基本だよ」

「あなた商人だっけ。研究者よね」

「まあそう言わないでくれ。研究者にも先立つ物は必要さ。お誂え向きの販売ルートがあるのだから、活用しない手はないだろ?」

「監視機構への販売ルート?」

「最近になって彼らに取り入った、フォーテクス社を通じてね。うちの研究所(ラボ)に、そこの社員が何度も足を運んだよ」

 ルーシーは切なげに吐息をもらした。

「ねーえ。お話ばかりじゃ飽きちゃうわ」

「……お。お、おう。そ、そうだな」

 男は、女の上に覆い被さった。

「どんなことでも、君の望むままに。僕のルーシー」

 異音。布を引き裂く音に似ているが、やや湿った音が混じり——寒波が呻く。


「…………ぐっ。な」

 何故、と言いたげに目と口を大きく開くと、口の端から血を滴らせ、ベッドの上に俯せた。


 わずかな沈黙の後、ルーシーが身を起こす。

「うふ。見つけちゃったのよ」

 その腹を突き抜け、背から飛び出しているのは女の腕。

「まさか枕に隠していたとはね。それを先に教えてくれれば手間が省けたのに。よっぽどあたしと寝たかったのね。でもお生憎様、欲しい物は手に入れたわ」

 彼女の掌には黒い玉が乗っていた。

「エボネルド・クリスタル。あなたが言う、バブルバリア小型化に必要な『核』よね。SクラスIMを何体も倒して、ようやく生成できる特別な石。これさえあればあなたに用はないのよ。うふふ」

 男を仰向けに転がし、腕を抜く。湿った音とともに赤黒い液体が腹から溢れ出し、シーツを濡らした。

 ルーシーはベッドから降りた。

「ああ。殺し方はもっと考えるべきだったかしら。これじゃ『研究に行き詰まって自殺した中年男』って設定は無理だわね。まあ、ゴラゾがなんとかするでしょ。……そんなことよりシャワー浴びなきゃね」

 赤黒い液体を滴らせる自分の腕を見下ろしたルーシーは嫣然と微笑み、バスルームに入っていった。


 薄い曇りガラス一枚を隔て、シャワーの音が室内に満ちる。

 集合住宅の場合、水の音は直下の階にはとても大きく響く。入浴には著しく不向きな時間帯であるが、ルーシーにはそれを気にする様子が全くないようだ。

 やがてシャワーが止まり、再び部屋に姿を現したルーシー。洗いたての黒髪にはフェイスタオルを巻き、体にはバスタオルを巻いている。露わな両腿の水滴が部屋の灯りを反射して光り、膝を伝い足首へと流れ落ちる。派手なメイクを落とした彼女はどちらかといえば大人しく平凡な顔立ちをしており、見ようによってはメイクをしているよりもさらに湯上がりの艶めかしさを演出している。

 広い部屋ではない。ベッド上に横たわる中年男の死体は当然のごとく彼女の視界に入っているはずなのだが、その表情には一切感情の揺らぎが現れていない。

 髪にドライヤーをあてようとしたのか、彼女が洗面台の鏡に向かい合った、まさにその瞬間。

 鏡の表面が波打つように揺らぎ、ルーシーは思わず瞬きをする。

「あぁら。こんばんはぁ」

 異状を呈する鏡が元に戻ったと見るや、ルーシーのすぐ背後に三十歳前後の男が立っていた。彼女は振り返ることなく、鏡に映る男に話しかける。

 男は声をいくぶん低めに抑えつつ、落ち着いた調子で話し始めた。

「油断も隙もないな。そいつは我々フォーテクスが売約済みだ。……まあ、交渉次第ではいくつかの選択肢もあるかも知れんがな」

 ルーシーの両手首は腰の後ろで縛られていた。それもドライヤーのコードで、かなりきつめに。

「あら、意外と話のわかる人みたいね。ところであなた、緊縛プレイ好きなの? あたし濡れちゃう」

「ふむ。トルーパーのプロトタイプが完成するまでは、いかなる理由があろうとあの男を研究所に缶詰にしておくべきだったな」

 彼女の言葉を受け流し、男はベッドの上で事切れた中年男に視線を投げる。刹那の沈黙を挟み、独り言のように呟く。

「それにしても、色仕掛けひとつで堕ちるとは。人が増えれば綻びも大きくなる。組織の隅々にまで目を配るのは難しいな」

「ねえ、あたし待ちくたびれちゃう。交渉はぁ?」

「そうだな、こうしているうちに面倒になってきた」

 瞳に剣呑な光を宿し、男はルーシーの細い喉を掴んだ。その手に力を込める寸前、男の掌が動きを止める。

「ねえどうしたのぉ。殺す前にあたしの身体を愉しもうとでも思ってるのかしら。うふふ、遠慮はいらないわよ」

 男の手がゆっくりと下がり、ルーシーの胸元をバスタオルの上からまさぐる。やがて、その指先がバスタオルの境目から胸の谷間へと伸びていき——

「っ————!」

 その手が再び動きを止める。

「ああん、ここで焦らすの? ねぇ早くぅ」

 男が手を止めた理由はルーシーも承知している。

 わざとらしいルーシーの声を完璧に意識からシャットアウトしているのであろう男の目は、鏡を——彼自身の背後を睨みつけていた。

 ルーシーの正面にある鏡が再び異状を呈している。先ほどと全く同じように波を打って揺らぎ、鏡が本来映すべき部屋の様子が曖昧になってしまった。

「ほう、ガスタフ・ラモーンズか。空間転移とは恐れ入った。監視機構にいた時は使えなかったはずだが」

「その名は捨てた。今はゴラゾだ。……あの頃は隠していたのさ、ユージ・スズキ」

 男——ユージの背後から応えを返してきたのは、低く野太い声。鏡の異状が収まった時、そこには禿頭の大男が姿を現していた。

「では、ゴラゾ。こちらは一応、人質をとった形となっているが。交渉を——」

「無用だ」


 それ以上は問答の応酬もなく、そして逡巡と呼ぶべき間さえもなく。

 唐突に、異音が響く。

 湿り気を帯びた、布を裂く音が。


「が……はっ」


 突如としてそそり立つ黒い刀身の刃物。それはユージの背後斜め下から彼の背に突き刺され、その切っ先は彼の胸を突き破っていた。そう、まるで胸から生えた角ででもあるかのように。

「イマジナリー・ソード。虚数物質でできた刀だ」

「ごぶっ」

 咳き込むユージの口から零れる赤黒い液体がルーシーの背を汚す。とっくに彼女から手を離していたユージは、いまだ二本の足で立ってはいる。しかし、上体を仰け反らせて白目を剥いていた。大きく開いた口は最早意味のある言葉を紡ぐことをせず、その端から血と泡を滴らせている。

「やぁん、またぁ? もう一度シャワー浴びなきゃ」

 背を鏡に向け、首だけで振り向いたルーシーが甘ったるい声の調子を崩すことなく不満を述べる。

 その正面に立ち、彼女の剥き出しの細い両肩を掴んだゴラゾが低い声で告げた。

「そんな暇はない。ユージという男は、ロズィスと張り合うほどの化け物だ。真に止めを刺したければ、Sクラスでも連れて来なければ無理だろう。ところで、エボネルド・クリスタルはどこだ」

「うふっ。あるわよぉ、ちゃんとここに」

 ルーシーは後ろ手に縛られた姿勢のまま、バスタオルを押し上げる双丘をゴラゾに差し出すように突き出してみせる。

「あん」

 ゴラゾは何の躊躇いもなくそこに手を挿し込み、黒石を取り出した。

「よし。そろそろ咬ませ犬の立場を卒業させてもらおう」

 ゴラゾが言い終える前にどこからともなく光の粒子が出現した。蛍の群れを思わせる複数の粒子だ。それらは、この期に及んでも膝を折らず立ち続けるユージの周囲に集まり、見る見るうちにその身体を包み込む。

「うっそ、本当に死んでない——」

 最後まで甘ったるい声の調子を崩さぬルーシーだったが、その声は途切れるようにかき消えた。

 空間が渦を巻き、彼女ごとゴラゾの姿が消え去ったのだ。

 後に残されたユージの体はいよいよ強く発光した。まるで自らが光源であるかのように。

 膨れあがった光芒が部屋中を満たす。

 次の瞬間、真夜中の静寂(しじま)を引き裂く轟音とともに——部屋が爆発した。

 荒れ狂う猛火。

 爆風は窓ガラスを突き破り、玄関扉さえも吹き飛ばす。

 紅蓮の炎は中年男の部屋だけを完膚無きまでに蹂躙しつくすと、消防車の到着を待たずして鎮火の兆しを見せ始めた。

「まあいい。誰がトルーパーを使おうと、実戦データはとれるしデモンストレーションの役も果たす。クリスタルの予備もあればオリジナルの設計図のバックアップもあるのだからな」

 もはや燃えかすしか残っていない惨状の中、ルーシーに殺された部屋の主だけがただひとり、静かに炭と化すのだった。

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